20 / 50
第8章 揺れる声
揺れる声Ⅱ
しおりを挟む
リュシアンとは会えない日々が続く。私からセリスにリュシアンの私室を訪ねても良かったのだけれど、それは違う気がしたのだ。心を開きかけたあの笑顔を見られたからこそ、離れがたい。また眩しい笑顔を私に向けてくれないかと、窓から見える澄んだ青空に想う。
更に三日が過ぎていった。今日は趣向を変えてコーヒーを入れてもらった。頭をすっきりさせて、小説を読み漁りたかったのだ。砂糖とミルクを入れて、マドラーでかき混ぜる。白が渦巻くコーヒーは、まるで私の頭の中のようだ。
先日読破した『悪魔の囁き』は、私が思い描いた大団円で幕を閉じた。神を信じていなかった女性が、最後は自分を救ってくれた男性に心を開き、悪魔の誘惑を絶つ。色とりどりの野花の中で迎えた彼女の結婚式は、それは見事なものだった。世界中から祝福され、永遠の愛を誓う――私の恋は純粋な始まりではなかったけれど、やはり憧れてしまう。
ふと顔を上げてみると、窓の外を青い小さな何かが過った気がする。そんなことがない。今の私は繁栄をもたらすどころか、次期国王の心を沈ませてしまっているのだから。
頭を軽く横に振り、窓の外を眺めてみる。ほら、青い鳥なんてどこにもいない。
「エレナ嬢、久しぶりに外の空気を吸ってみてはどうです?」
傍に控えていたセリスが遠慮がちに口を開く。
「外ね……」
完全に読書の気分だったのだ。あまり気乗りせず、「うーん」と唸ってみる。
「少しは気分転換になると思いますよ。重苦しい城の空気ばかり吸っていては、気が滅入ってしまいます」
その理屈には納得出来る。行動は制限されていないとはいえ、自由と呼ぶにはあまりにも窮屈だ。
「薔薇庭園にでも行ってみようかな」
可憐な花を愛で、新鮮な空気を吸って、甘い香りを嗅ごう。あそこに行けば、リュシアンの笑顔も鮮明に思い出せる。
まだ熱いコーヒーを一気に飲み干し、ソファーから立ち上がった。思い立ったが吉日とも言うではないか。直感のまま行動してみよう。
「セリス、ありがとう」
「とんでもございません」
セリスは微笑み、薔薇庭園へと歩み始めた私を見送ってくれた。
道中は騎士にしか会わなかった。騎士たちは私が王太子妃候補だと知っているため、固い顔で礼をする。慣れとは恐ろしいもので、それを何とも思わなくなっていた。
リュシアンがいるだろうか。淡い期待とちょっとの不安を抱きながら薔薇庭園を覗く。しかし、誰もいないようだ。肩を落とし、湿度の高い空気を思い切り吸い込んだ。
ピンクの薔薇、黄色の薔薇、オレンジの薔薇や赤い薔薇、黒い薔薇まで、広々とした空間に私が一番美しいのだと言わんばかりに咲き誇っている。昨日降った雨だろうか。雫を湛えている薔薇もあった。その雫が日光を反射させ、宝石のように輝いている。むせ返るような蜜の香りが漂う中をゆっくりと歩く。
しばらく薔薇を眺めて、一株の深紅の薔薇の前で足を止めた。リュシアンと初めて二人きりになった日のことを思い出す。彼はこんなことを言っていた。
『この薔薇はオリヴィア。エレナと改名しても良いほどに貴女に似ている』
そして、隣に咲く薄紫の薔薇に目を向ける。
『貴女の心はスイートムーン。こちらによく似ています』
リュシアンがしたように、スイートムーンへと手を伸ばす。花びらに触れると、雫が手の平まで流れてきた。冷たくて気持ちいい。
「……エレナ?」
突然聞こえた声に、肩を震わせる。その勢いで薔薇の棘が指先に刺さってしまった。まさか、思いを馳せていた本人が登場するなんて。痛みなんて、ちっとも感じない。
振り向いてみれば、柔らかな表情で佇むリュシアンの姿があった。頬が自然と淡い熱を持つ。
どんな風に声をかければ良いのだろう。混乱してしまい、上手く言葉が出てこない。ドレスを握り締める私に、リュシアンは瞳を潤ませる。
「良かった、エレナ。貴女がここを去らなくて」
安心したように声を震わせるので、私の方こそ泣きたい気持ちになってしまった。
「私はリュシアン殿下を傷付けました。追い出されても仕方がないと思っています」
本音を言えば、絶対にここを去りたくなんてない。でも、それを押し通せば、ただの私の悪足掻きになってしまう。
覚悟を持ってじっとリュシアンを見詰めると、彼は小さく首を振った。
「エレナ、少し触れても良いですか?」
その言葉が不意打ちのように心に響く。小さく頷くと、リュシアンは私の元へとやって来た。私の両手を取り、ほっと息を吐く。
「本当にエレナが去ってしまうのではないかと怖かったのです。こうして手を取れて、凄く安心しました」
手を取るのに許可は要らないと、口から出そうになった。言いかけてやめた。リュシアンにとって手を取るということは、相手を敬い、尊重し、存在を認める行為なのだろう。あまりにも慎ましやかで、繊細ではないか。まるでリュシアンの心そのものだ。
「私を咎めないのですか?」
「今回のことで、エレナを咎めることはありません。その必要なんてありません」
優柔不断と言われたリュシアンはどこへ行ったのだろう。そう思わせるほどに、リュシアンの声には力が籠っていた。
更に三日が過ぎていった。今日は趣向を変えてコーヒーを入れてもらった。頭をすっきりさせて、小説を読み漁りたかったのだ。砂糖とミルクを入れて、マドラーでかき混ぜる。白が渦巻くコーヒーは、まるで私の頭の中のようだ。
先日読破した『悪魔の囁き』は、私が思い描いた大団円で幕を閉じた。神を信じていなかった女性が、最後は自分を救ってくれた男性に心を開き、悪魔の誘惑を絶つ。色とりどりの野花の中で迎えた彼女の結婚式は、それは見事なものだった。世界中から祝福され、永遠の愛を誓う――私の恋は純粋な始まりではなかったけれど、やはり憧れてしまう。
ふと顔を上げてみると、窓の外を青い小さな何かが過った気がする。そんなことがない。今の私は繁栄をもたらすどころか、次期国王の心を沈ませてしまっているのだから。
頭を軽く横に振り、窓の外を眺めてみる。ほら、青い鳥なんてどこにもいない。
「エレナ嬢、久しぶりに外の空気を吸ってみてはどうです?」
傍に控えていたセリスが遠慮がちに口を開く。
「外ね……」
完全に読書の気分だったのだ。あまり気乗りせず、「うーん」と唸ってみる。
「少しは気分転換になると思いますよ。重苦しい城の空気ばかり吸っていては、気が滅入ってしまいます」
その理屈には納得出来る。行動は制限されていないとはいえ、自由と呼ぶにはあまりにも窮屈だ。
「薔薇庭園にでも行ってみようかな」
可憐な花を愛で、新鮮な空気を吸って、甘い香りを嗅ごう。あそこに行けば、リュシアンの笑顔も鮮明に思い出せる。
まだ熱いコーヒーを一気に飲み干し、ソファーから立ち上がった。思い立ったが吉日とも言うではないか。直感のまま行動してみよう。
「セリス、ありがとう」
「とんでもございません」
セリスは微笑み、薔薇庭園へと歩み始めた私を見送ってくれた。
道中は騎士にしか会わなかった。騎士たちは私が王太子妃候補だと知っているため、固い顔で礼をする。慣れとは恐ろしいもので、それを何とも思わなくなっていた。
リュシアンがいるだろうか。淡い期待とちょっとの不安を抱きながら薔薇庭園を覗く。しかし、誰もいないようだ。肩を落とし、湿度の高い空気を思い切り吸い込んだ。
ピンクの薔薇、黄色の薔薇、オレンジの薔薇や赤い薔薇、黒い薔薇まで、広々とした空間に私が一番美しいのだと言わんばかりに咲き誇っている。昨日降った雨だろうか。雫を湛えている薔薇もあった。その雫が日光を反射させ、宝石のように輝いている。むせ返るような蜜の香りが漂う中をゆっくりと歩く。
しばらく薔薇を眺めて、一株の深紅の薔薇の前で足を止めた。リュシアンと初めて二人きりになった日のことを思い出す。彼はこんなことを言っていた。
『この薔薇はオリヴィア。エレナと改名しても良いほどに貴女に似ている』
そして、隣に咲く薄紫の薔薇に目を向ける。
『貴女の心はスイートムーン。こちらによく似ています』
リュシアンがしたように、スイートムーンへと手を伸ばす。花びらに触れると、雫が手の平まで流れてきた。冷たくて気持ちいい。
「……エレナ?」
突然聞こえた声に、肩を震わせる。その勢いで薔薇の棘が指先に刺さってしまった。まさか、思いを馳せていた本人が登場するなんて。痛みなんて、ちっとも感じない。
振り向いてみれば、柔らかな表情で佇むリュシアンの姿があった。頬が自然と淡い熱を持つ。
どんな風に声をかければ良いのだろう。混乱してしまい、上手く言葉が出てこない。ドレスを握り締める私に、リュシアンは瞳を潤ませる。
「良かった、エレナ。貴女がここを去らなくて」
安心したように声を震わせるので、私の方こそ泣きたい気持ちになってしまった。
「私はリュシアン殿下を傷付けました。追い出されても仕方がないと思っています」
本音を言えば、絶対にここを去りたくなんてない。でも、それを押し通せば、ただの私の悪足掻きになってしまう。
覚悟を持ってじっとリュシアンを見詰めると、彼は小さく首を振った。
「エレナ、少し触れても良いですか?」
その言葉が不意打ちのように心に響く。小さく頷くと、リュシアンは私の元へとやって来た。私の両手を取り、ほっと息を吐く。
「本当にエレナが去ってしまうのではないかと怖かったのです。こうして手を取れて、凄く安心しました」
手を取るのに許可は要らないと、口から出そうになった。言いかけてやめた。リュシアンにとって手を取るということは、相手を敬い、尊重し、存在を認める行為なのだろう。あまりにも慎ましやかで、繊細ではないか。まるでリュシアンの心そのものだ。
「私を咎めないのですか?」
「今回のことで、エレナを咎めることはありません。その必要なんてありません」
優柔不断と言われたリュシアンはどこへ行ったのだろう。そう思わせるほどに、リュシアンの声には力が籠っていた。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
あなたへの愛を捨てた日
柴田はつみ
恋愛
公爵夫人エステルは、冷徹な夫レオニスを心から愛していた。彼の好みを調べ、帰宅を待ちわび、献身的に尽くす毎日。
しかし、ある夜会の回廊で、エステルは残酷な真実を知る。
レオニスが、未亡人クラリスの手を取り囁いていたのだ。
「君のような(自立した)女性が、私の隣にいるべきだった」
エステルは悟る。自分の愛は彼にとって「重荷」であり、自分という人間は彼にとって「不足」だったのだと。その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて砕け散る。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
月夜に散る白百合は、君を想う
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。
彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。
しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる