21 / 50
第8章 揺れる声
揺れる声Ⅲ
しおりを挟む
空色の瞳が私の手元から僅かに移動する。
「エレナ、手に怪我を?」
「えっ?」
私も視線を落としてみると、ピンクのドレスには小さな赤が滲んでいた。
そういえば、先ほど怪我をしてしまっている。思い出すと、脈打つような鋭い痛みが伴う。
「薔薇の棘を刺してしまったようです」
「いけない。すぐに手当てをしましょう」
リュシアンは僅かに表情を強張らせ、私の手を引き始めた。薔薇庭園を抜け、廊下へと出る。一瞬で凛とした空気に変わった。
「どこへ行くのです?」
「私の部屋です。そこでしたら、ゆっくりお話も出来ますし」
微笑むと、リュシアンは私の知らない道を進む。初めてのリュシアンの私室だ。どんな部屋なのだろうと期待を膨らませる一方で、緊張もしてしまう。家族以外の男性の部屋に入ったことがないのだ。無理もないだろう。
二階への階段を上り、何度も十字の廊下を曲がる。この入り組みようでは、すぐに迷子になってしまうだろう。
ようやく突き当りに到達し、リュシアンが足を止めた。
「ここです。開けますよ」
優しい囁き声に、小さく頷く。
リュシアンの手で開けられた扉の奥に広がるのは、空色の調度品とカーペットの置かれた白い部屋だった。私が滞在している居室の三倍はあろうかというほどの広さだ。天井のシャンデリアも豪華絢爛で、流石は王太子の私室といったところだろう。
リュシアンに続いて、部屋に見惚れながら中へと入る。
「どうぞ、ここに座ってください」
リュシアンがソファーを指し示すので、おとなしく従った。それを見届けると、リュシアンはクローゼットへと向かう。何かを取り出すとこちらにやって来て、対角のソファーに腰を下ろす。隣に座れなくて気落ちしたのは秘密だ。
「怪我したところを見せてください」
痛むのは右手の人差し指だ。恐る恐る手を差し出すと、リュシアンの微笑みが揺らいだ。
「思ったよりも深そうだ。痛かったら言ってくださいね」
リュシアンは持ってきた木箱からガーゼと包帯を取り出すと、器用に指に巻いていく。まるで、いつもそうしているかのように。
「侍女には頼まないのですか?」
「ええ。一番信用出来るのは自分自身ですから」
その返答に、胸に鈍痛が残る。この人の心の傷はどこまで深いのだろう。私が軽々しく語るのもおこがましい。
「エレナ、そんな顔をしないでください。可愛らしい顔が台無しですよ」
「ですが……」
「これは私だけが背負うべき問題ですから」
重みのある言葉とは裏腹に、リュシアンはにこっと目を細める。しかし、その表情はいつもよりも固いように思われた。
どうやら気のせいではなかったらしい。
「でも、エレナにこれだけは伝えておきたくて。怪我の手当ては口実だと思ってください」
手当てを終えた私の片手をぎゅっと握り、僅かに視線を落とす。
「父上は近々行動を起こします」
「どんな?」
「母上の奪還です」
思いもよらない言葉に、強い衝撃を受ける。王妃の奪還がリュシアンにとってどれほど大事で、どれほど危険かは理解出来るつもりだ。奪還が失敗でもすれば、リュシアンは精神的に立ち直れないかもしれない。それ以上に、王太子としての立場も危うくなるだろう。
「私としては、今のままでいる方が不安なのです。家族の命が赤の他人に握られている訳ですから」
「それでも、私はリュシアン殿下が心配です」
「ありがとうございます。やはり、エレナは優しいですね」
自分の優しさを棚に上げて、私を褒めるなんて。リュシアンはずるいと思う。
「私に話して良かったのですか? 私は身の上も明かしていませんのに」
「大体見当はついていますよ。それに、エレナは私の敵になるような人ではないと、私の心が言っています」
本当に見当がついているのだろうか。もしそうならば、私を王太子妃選考会から追い出していそうなものだけれど――。
もしや、祖父が冤罪だということに気付いているのだろうか。ううん、それは私の考え過ぎだろう。
「信用しすぎも良くないですよ?」
「心得ておきます」
リュシアンは星の光のように、明るくささやかな笑顔を私に向けてくれた。
「敵対貴族なら、今のエレナのように心穏やかではいられません。エレナが情報を外部に漏らすことはないでしょう」
逆に言ってしまえば、情報が洩れれば、発信源は私ということになる。私は勿論、漏らすつもりは毛頭ない。リュシアンの言葉には信頼と警戒の両方の意味があったのだろうか。
私は試されているかもしれない。僅かに緊張感を持ち始める。
「リュシアン殿下も大湖の島へ行かれるのですか?」
「ええ。行く予定です」
「どうか、お気をつけて」
絶対に無事に帰ってきて欲しい。空色の瞳をじっと見つめると、リュシアンは大きく頷いてくれた。
今は作戦が無事に成功することを祈るのみだ。
「ここで怪しまれる訳にはいきません。一度、解散しましょう。エレナはこれからはどこに?」
「薔薇庭園で気分転換が出来たので、次は図書室に行こうかと」
「私が思っている以上に、本が大好きなのですね」
リュシアンは「ふふっ」と笑い、私の手を取ったまま立ち上がる。
「また、図書室へ会いに行っても良いですか?」
「お待ちしております」
リュシアンに会えるなら、読書を中断されても構わない。大きく頷くと、二人で小さく笑い合う。これからも、こんな風に幸せな時間が続くように願わずにはいられなかった。
「エレナ、手に怪我を?」
「えっ?」
私も視線を落としてみると、ピンクのドレスには小さな赤が滲んでいた。
そういえば、先ほど怪我をしてしまっている。思い出すと、脈打つような鋭い痛みが伴う。
「薔薇の棘を刺してしまったようです」
「いけない。すぐに手当てをしましょう」
リュシアンは僅かに表情を強張らせ、私の手を引き始めた。薔薇庭園を抜け、廊下へと出る。一瞬で凛とした空気に変わった。
「どこへ行くのです?」
「私の部屋です。そこでしたら、ゆっくりお話も出来ますし」
微笑むと、リュシアンは私の知らない道を進む。初めてのリュシアンの私室だ。どんな部屋なのだろうと期待を膨らませる一方で、緊張もしてしまう。家族以外の男性の部屋に入ったことがないのだ。無理もないだろう。
二階への階段を上り、何度も十字の廊下を曲がる。この入り組みようでは、すぐに迷子になってしまうだろう。
ようやく突き当りに到達し、リュシアンが足を止めた。
「ここです。開けますよ」
優しい囁き声に、小さく頷く。
リュシアンの手で開けられた扉の奥に広がるのは、空色の調度品とカーペットの置かれた白い部屋だった。私が滞在している居室の三倍はあろうかというほどの広さだ。天井のシャンデリアも豪華絢爛で、流石は王太子の私室といったところだろう。
リュシアンに続いて、部屋に見惚れながら中へと入る。
「どうぞ、ここに座ってください」
リュシアンがソファーを指し示すので、おとなしく従った。それを見届けると、リュシアンはクローゼットへと向かう。何かを取り出すとこちらにやって来て、対角のソファーに腰を下ろす。隣に座れなくて気落ちしたのは秘密だ。
「怪我したところを見せてください」
痛むのは右手の人差し指だ。恐る恐る手を差し出すと、リュシアンの微笑みが揺らいだ。
「思ったよりも深そうだ。痛かったら言ってくださいね」
リュシアンは持ってきた木箱からガーゼと包帯を取り出すと、器用に指に巻いていく。まるで、いつもそうしているかのように。
「侍女には頼まないのですか?」
「ええ。一番信用出来るのは自分自身ですから」
その返答に、胸に鈍痛が残る。この人の心の傷はどこまで深いのだろう。私が軽々しく語るのもおこがましい。
「エレナ、そんな顔をしないでください。可愛らしい顔が台無しですよ」
「ですが……」
「これは私だけが背負うべき問題ですから」
重みのある言葉とは裏腹に、リュシアンはにこっと目を細める。しかし、その表情はいつもよりも固いように思われた。
どうやら気のせいではなかったらしい。
「でも、エレナにこれだけは伝えておきたくて。怪我の手当ては口実だと思ってください」
手当てを終えた私の片手をぎゅっと握り、僅かに視線を落とす。
「父上は近々行動を起こします」
「どんな?」
「母上の奪還です」
思いもよらない言葉に、強い衝撃を受ける。王妃の奪還がリュシアンにとってどれほど大事で、どれほど危険かは理解出来るつもりだ。奪還が失敗でもすれば、リュシアンは精神的に立ち直れないかもしれない。それ以上に、王太子としての立場も危うくなるだろう。
「私としては、今のままでいる方が不安なのです。家族の命が赤の他人に握られている訳ですから」
「それでも、私はリュシアン殿下が心配です」
「ありがとうございます。やはり、エレナは優しいですね」
自分の優しさを棚に上げて、私を褒めるなんて。リュシアンはずるいと思う。
「私に話して良かったのですか? 私は身の上も明かしていませんのに」
「大体見当はついていますよ。それに、エレナは私の敵になるような人ではないと、私の心が言っています」
本当に見当がついているのだろうか。もしそうならば、私を王太子妃選考会から追い出していそうなものだけれど――。
もしや、祖父が冤罪だということに気付いているのだろうか。ううん、それは私の考え過ぎだろう。
「信用しすぎも良くないですよ?」
「心得ておきます」
リュシアンは星の光のように、明るくささやかな笑顔を私に向けてくれた。
「敵対貴族なら、今のエレナのように心穏やかではいられません。エレナが情報を外部に漏らすことはないでしょう」
逆に言ってしまえば、情報が洩れれば、発信源は私ということになる。私は勿論、漏らすつもりは毛頭ない。リュシアンの言葉には信頼と警戒の両方の意味があったのだろうか。
私は試されているかもしれない。僅かに緊張感を持ち始める。
「リュシアン殿下も大湖の島へ行かれるのですか?」
「ええ。行く予定です」
「どうか、お気をつけて」
絶対に無事に帰ってきて欲しい。空色の瞳をじっと見つめると、リュシアンは大きく頷いてくれた。
今は作戦が無事に成功することを祈るのみだ。
「ここで怪しまれる訳にはいきません。一度、解散しましょう。エレナはこれからはどこに?」
「薔薇庭園で気分転換が出来たので、次は図書室に行こうかと」
「私が思っている以上に、本が大好きなのですね」
リュシアンは「ふふっ」と笑い、私の手を取ったまま立ち上がる。
「また、図書室へ会いに行っても良いですか?」
「お待ちしております」
リュシアンに会えるなら、読書を中断されても構わない。大きく頷くと、二人で小さく笑い合う。これからも、こんな風に幸せな時間が続くように願わずにはいられなかった。
0
あなたにおすすめの小説
白詰草は一途に恋を秘め、朝露に濡れる
瀬月 ゆな
恋愛
ロゼリエッタは三歳年上の婚約者クロードに恋をしている。
だけど、その恋は決して叶わないものだと知っていた。
異性に対する愛情じゃないのだとしても、妹のような存在に対する感情なのだとしても、いつかは結婚して幸せな家庭を築ける。それだけを心の支えにしていたある日、クロードから一方的に婚約の解消を告げられてしまう。
失意に沈むロゼリエッタに、クロードが隣国で行方知れずになったと兄が告げる。
けれど賓客として訪れた隣国の王太子に付き従う仮面の騎士は過去も姿形も捨てて、別人として振る舞うクロードだった。
愛していると言えなかった騎士と、愛してくれているのか聞けなかった令嬢の、すれ違う初恋の物語。
他サイト様でも公開しております。
イラスト 灰梅 由雪(https://twitter.com/haiumeyoshiyuki)様
行動あるのみです!
棗
恋愛
※一部タイトル修正しました。
シェリ・オーンジュ公爵令嬢は、長年の婚約者レーヴが想いを寄せる名高い【聖女】と結ばれる為に身を引く決意をする。
自身の我儘のせいで好きでもない相手と婚約させられていたレーヴの為と思った行動。
これが実は勘違いだと、シェリは知らない。
望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで
越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。
国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。
孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。
ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――?
(……私の体が、勝手に動いている!?)
「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」
死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?
――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!
人質王女の恋
小ろく
恋愛
先の戦争で傷を負った王女ミシェルは顔に大きな痣が残ってしまい、ベールで隠し人目から隠れて過ごしていた。
数年後、隣国の裏切りで亡国の危機が訪れる。
それを救ったのは、今まで国交のなかった強大国ヒューブレイン。
両国の国交正常化まで、ミシェルを人質としてヒューブレインで預かることになる。
聡明で清楚なミシェルに、国王アスランは惹かれていく。ミシェルも誠実で美しいアスランに惹かれていくが、顔の痣がアスランへの想いを止める。
傷を持つ王女と一途な国王の恋の話。
【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。
君に何度でも恋をする
明日葉
恋愛
いろいろ訳ありの花音は、大好きな彼から別れを告げられる。別れを告げられた後でわかった現実に、花音は非常識とは思いつつ、かつて一度だけあったことのある翔に依頼をした。
「仕事の依頼です。個人的な依頼を受けるのかは分かりませんが、婚約者を演じてくれませんか」
「ふりなんて言わず、本当に婚約してもいいけど?」
そう答えた翔の真意が分からないまま、婚約者の演技が始まる。騙す相手は、花音の家族。期間は、残り少ない時間を生きている花音の祖父が生きている間。
恋詠花
舘野寧依
恋愛
アイシャは大国トゥルティエールの王妹で可憐な姫君。だが兄王にただならぬ憎しみを向けられて、王宮で非常に肩身の狭い思いをしていた。
そんな折、兄王から小国ハーメイの王に嫁げと命じられたアイシャはおとなしくそれに従う。しかし、そんな彼女を待っていたのは、手つかずのお飾りの王妃という屈辱的な仕打ちだった。それは彼女の出自にも関係していて……?
──これは後の世で吟遊詩人に詠われる二人の王と一人の姫君の恋物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる