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余りもの②
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外壁に黒い線がところどころ入っている二階建てアパートの前で浩太は止まった。顔を上に向けると光が目に入り、くしゃみを二度続けた。右手で太陽を覆いながら二階の一番手前の部屋を指の隙間から覗き見る。その部屋には電気がついていた。浩太は唾を飲み、背筋を伸ばした。
太陽を受けながら外壁の横についている階段を上り、右手に最初に見えるドア前で止まった。ドアを開いた瞬間、浩太はテレビの音と前田の笑い声を耳にし「おはようございます」と呼びかけた。前田はテレビを見たまま「おう」としゃがれた声で答えた。
「あれ前田さん、来てたんですね。なんか酒臭いですよ」
「いいじゃねえか。今日は仕事ないんだから」
「関係ないですよ。酒臭いですって」
「おいおい、ペット禁止は聞いたことあるけど、ここのアパート酒禁止なのかよ」
「違いますけど」
会話を交わしながら、浩太は履いていたスニーカーを脱ぎ、リュックを床に置いた。前田は床に寝そべりながら部屋の角に置いてあるテレビを見ている。テレビは床に直接置かれており座って見るには見づらいためか、前田は床に寝そべっている。
「前田さん、何か飲み物飲みます?」
浩太は冷蔵庫の前でしゃがんだ。
「あ、ごめん浩太。緑茶飲んじゃった」
「別にいいですけど。あれ? 何ですかこれ。もうほとんどないじゃないですか」
「元からなかったよ」
「噓でしょ、前田さん」
「本当だよ」
「信じられないですね。本当ですかね。前田さん、後で何かおごってくださいね」
「はいはいはい」
浩太は緑茶を冷蔵庫から取り出した。ペットボトルに残っている緑茶をすべてコップに出し、空になったペットボトルを流しの中に置いた。そして、ジーンズのどこにもインしていないネルシャツを脱ぎながらキッチンから離れる。床に山になっている生乾きの服の中から白いシャツを手に取り着替える。浩太はジーンズもボクサーパンツも脱ぎ、その山の中から脱いだパンツと同じ柄のものを取り出し、履いた。続いてカーキ色のチノパンも探し出して履くと、再びキッチンに戻って緑茶のペットボトルを手に取る。
水でペットボトルの中を洗って蓋を取り、ペットボトル本体は流しの中に置いた。ペットボトルの蓋を床に置かれたビニール袋に入れる。
浩太は前田のガラガラという笑い声を聞きながらトイレに向かう。トイレに入ると、臭いわけではないが浩太は自分以外のにおいを感じながらドアを閉め、鍵をかけた。
三年ほど前、客の数一桁の地下ライブ劇場のトイレにある洗面台の淵を両手で握り少し前かがみになりうなだれていたとき、近寄ってきた前田からも今と同じにおいがしたことを浩太は思い出していた。その日、ネタの途中でどうしてもネタの続きを思い出せなくて、浩太は何も言わず舞台袖に下がってしまった。客席に一人で礼をして舞台を降りてきた相方の幸助に「ハハハ、ごめん」と言ったが、幸助はただ舌打ちをして無視して歩いていった。浩太は恥ずかしさと情けなさを感じ落ちこんでいたが、トイレで出会った前田に食事へと誘われた。連れて行かれたお店には幸助や他のお笑い芸人も数人いて、そこで浩太はネタを飛ばしたことを終始いじられた。それを契機に劇場の先輩たちの中に溶けこむことができた。幸助との仲も険悪にならずに済んだ。
浩太は用を足し、トイレットペーパーを巻き取ったが、そこでトイレットぺーパーがなくなった。浩太は最初に巻き取った分だけで何とかお尻を拭ききると、床に置かれていた新しいトイレットペーパーを取りつけた。
前田の「浩太、メシ行くか。お腹空いてるだろ」というしゃがれた声がトイレの外から聞こえてきた。浩太はズボンを上げ、水を流し、手を洗い、手が乾かぬうちにドアを開けた。前田は変わらず寝ころびながらテレビを見ていた。
「何食べる?」と前田が聞く。浩太は「何でもいいですよ」と答えた。「おいおい。後輩は自分が食べたいものを好きなだけ食べるもんなんだよ。後輩は先輩の前で美味しそうにメシを食うことで後輩らしくいられるってもんなんだから」と前田は言い、ダボダボのズボンを上にあげながら起き上がった。
前田はドアを出て、浩太の様子を見ることなく階段を下りていく。浩太はしゃがみ、玄関にある靴箱の横開きの扉を開け、上から二段目に置かれている鍵を手に取った。ドアを出て、鍵をかける。
前田を追いかけながら「前田さん。ちょっと待ってくださいよ」と声をかけた。前田が「遅いよ。もう舌がフライドポテトの舌になっちまってるんだから」と言い終わったころ、浩太は手すりを持ちながら階段を下りはじめていた。浩太は階段の下で待ち受ける前田の濃い顔に向かっていく。階段の下で再び顔を合わせると、二人は互いに口角を上げながら言いあう。
「浩太。そういえばそろそろ合鍵くれよ。合鍵があればドアポストに手を入れる必要もないのに。誰かに見られたら不法侵入しようとしてる奴だと思われるだろ」
「さすがにまだ合鍵は怖いですよ。前田さんのこと、そこまで信用してませんから。うちに来たければ泥棒に間違われるリスクを背負ってください」
「おいおい浩太、寂しいこと言うなよ。もう長い付き合いじゃねえか。いいだろ」
「まだ三年の付き合いですよ」
二人は歩きながら会話を続ける。
「それに前田さん、彼女と同棲してるんじゃなかったんですか」「いろいろあんだよ。こんなに仲いいのに、浩太さんよ、合鍵くださいよ」
「前田さんもしかしてメンヘラですか」
「うっせえ」
「そもそも前田さんよく同棲なんてできますね。僕は同棲なんて絶対無理です。女の人を家にあげるのも無理ですよ」
「なんだっけ。マッチングアプリで知り合った人にお金盗られたんだっけ」
「そうですよ。もうあんなことは絶対嫌です」
「シャワー浴びてる間に逃げられたのはキツイよな。やれもしなかったんだろ」
「そうですよ、ハハハ。もうこの話するのやめましょう」
「俺もアプリでいいところまではいくんだけどなあ、ホテルだとお金がかかるのがなあ。ネットカフェだとついてこない人もいるからなあ」
「前田さん、ネットカフェをそういう使い方しないでください」
踏切のカンカンという警報音が鳴っている。二人は立ち止まり、黄色と黒色の縞模様の棒が下りてくるのを見る。浩太は電車の音がするほうを見ているが、前田は目の前にある地面と平行になった棒に視点を合わせている。
電車が過ぎると、風が二人の胸を突いた。警報音が静かになり棒が上がると浩太は歩きだし、前田もそれに続く。前方からの車を避けるように右端ギリギリを二人は縦になって歩く。踏切を抜けると二人は再び横並びになった。住宅街を通る間、二人は無言だった。
開けた通りに出ると、消え入るような声で「三年前の今頃は踏切に飛び込もうと思ってたな」と前田が呟いた。浩太は「前田さんもそんなネガティブなこと思うんですね」と前田と同じ声量で返した。
「俺をどんなやつだと思ってんだよ。今はまだちょっと頑張ろうと思えてるけど、三年前はコンビ仲も最悪だったし」
「そんなこと言わないでくださいよ。夢がないじゃないですか。まあ、僕のところもコンビ仲、良くはないですけど」
前田は「俺たちは芸人選んだ時点で夢なんぞないんだ。地獄行きが決まってるようなもんなんだよ。芸人なんて九十九パーセントの人は売れないんだから、それはもうほとんど地獄行きが決定づけられたもんだろ」と息継ぎせず、声をだんだん大きくしながら浩太に言葉をぶつけていく。
「俺たちなんてライブに出れば出るほど赤字だろ。交通費も出ないし、チケットは自分たちで買い取って手売りしないといけないし。バイトで稼いだ金を劇場に行ってはバラまいてる。何やってんだか傍から見たらよくわかんねえだろ。売れねえ売れねえ。何をやっても人気が出ねえ。生まれた時代が悪かったのかなあ」
「まあ、変な仕事ですよね」
「こんな仕事辞めたほうが幸せかもしれないってしょっちゅう思う」
「でも辞めてないじゃないですか」
二人は住宅街のどこともいえない空間を眺めながら話した。前田は大きな声のまま「ガハハ、そうだな。辞めようと思ったら、ちょうど良くすげーウケちゃうんだよな。それでまた辞められなくなる。辞めたほうが幸せだって早く気づけたらラッキーなのに。気づけてないから芸人を続けてる」と言う。息つく暇もなく「芸人なんていかに早く辞めて人生やり直せるかだろ。辞めなければ辞めないほど、どんどん辞められなくなっていく。未練が身体にたまっていって、どんどん離れにくくなっていく気がする。ずっと赤字なんだけどなあ。気づけないんだよなあ」と続ける。
二人の耳にはカンカンという踏切の音が背中から再び聞こえてくる。前田が踏切の音を打ち消すように「よーし、今日もドリンクバーを極限まで楽しむぞ」とさらに大声を出した。
二人は住宅街を抜けたところにあるファミレスに入り、店員が来る前にスムーズに左奥のボックス席に腰を掛け、座ってすぐ前田はトイレに席を立った。店員が水を運んでくると、浩太はフライドポテトと二人分のドリンクバーを頼んだ。浩太はすぐさまドリンクバーでリンゴジュースと緑茶を入れて両手に持ち、席に戻った。リンゴジュースを前田の座っていた席に置き、その向かいに腰を下ろし緑茶を置く。それから浩太はどこか自分の身体に違和感があるのか、首を傾げながら自分の体を触り始めた。浩太の手が足首に到達したころで前田が戻ってきた。浩太は「やばいです、前田さん。靴下履き忘れました」と伝えると、前田は「は。んなことどうだっていいだろ」と突き放した。
「いや、先週ネットカフェのバイトに行くときも靴下履き忘れたんですよ。いやあ、家に出るときは毎回確認しようと思ってたんですけどね」
「靴下履き忘れることくらいあるだろ」
「落ち込みますよ」
「そういう普通のことができないから俺らは芸人になってるんだ。いいか浩太、それが個性なんだから」
「靴下履き忘れることのどこが個性なんですか。僕は靴下履きたい人間なんですから」
「いやいや、失敗も何もかも個性になるのが芸人ってもんよ」と前田はメニュー表を見ながら呟いた。浩太が「あ、注文ですか? もうフライドポテト頼んじゃいました」と前田に微笑む。
「おおありがと。ていうか浩太、緑茶好きだな」
「カフェインが入ってるんで。眠くなりたくないんですよ」
前田が軽く笑みを浮かべながら「ふつう逆じゃねえか。眠れないほうが辛いだろ」と言うと、浩太はふくれっ面で少し顎をしゃくれさせながら「いや、寝たらそのまま起きずに死んじゃいそうで怖いんですよ。だから一生寝たくないんです」と言った。
「怖いこと言うなよ。寝ても死にゃせんよ。浩太、カフェイン中毒なんじゃねえか」
「パチンコ中毒の人に言われたくないですよ」
「うるせえ。俺はそういう気質なだけだって。子どものころからUFOキャッチャーとか金を使って、果たして取れるかどうか分からないものに挑戦するゾクゾクが好きだっただけ」
店員が二人に近寄ってきて、丸いかごに入ったフライドポテトの山を置いた。前田はテーブルの端にあるケチャップをフライドポテトにかけだした。浩太はそれを見て「いつも思ってたんですけど、なんで全部にかけちゃうんですか。僕、塩味でも食べたいですよ」と言うと、前田は「いやフライドポテトと言えばケチャップだろ。俺が払うんだから俺の好きな味でいいだろ」と譲らなかった。「それを言われたら。まあケチャップがかかってない下のを掘って食べるんでいいですよ」と浩太はまたもやふくれっ面になった。
肩につかないくらいの長さの黒髪の女性が一人でファミレスに入ってきた。女性は店員に誘導され、浩太と前田の左斜め前のテーブル席に座った。前田が女性の存在を確認し「今日も来たぞ、あのお姉ちゃん」と小声になり、 「ちょっと服はダサいけどそれがまたいいんだよな」と続けた。浩太が「ダサいほうがいい性癖って何なんですか」と聞く。前田曰く「オシャレすぎると緊張しちゃう」らしい。
女性はくすんだオレンジ色のチノパンに水色のワイシャツを着ており、シャツを前の部分だけチノパンに入れていた。彼女は店員に注文するときに右手でメニュー表の文字を指さしていくが、そのときに鈍い青色のビーズのようなものが付いたブレスレットも右手の動きとともに揺れ動いていた。
前田は女性の姿を覗き見ながら「あのお姉ちゃん、また沢山頼んでるよ。あんな細いのに。それに比べて浩太は食べないなあ」と言う。
「そうですね。このフライドポテトだけで僕は十分です」
「おごっても食費がかからない後輩ではあるけど、先輩としてはもうちょっと食べてほしいもんだけどな。余ったら結局、俺が食ってるもんな」
「食べられないもんはしょうがないでしょ。前田さん、金がないのにおごりたいってどういう神経ですか」
「いいじゃねえか。勝手におごらせろよ」
前田はそう言うとドリンクバーにリンゴジュースのお代わりを注ぎに行った。浩太はむず痒そうに靴下の履かれていない足首のあたりを触り、溜息をつく。緑茶の入ったコップを持ちながら飲まずに前田が帰ってくるのを待つ。
リンゴジュース二杯を両手に持った前田が「あのお姉ちゃんはドリンクバー頼まないよな。よく水だけで我慢できるな」と小声で囁いた。
「あんまり見てると不審に思われますよ。将来のためにもほどほどにした方がいいですって」
「いやむしろ俺の存在を彼女にインプットしておいたほうがいざというときにそれが効力を発揮する可能性もあるだろ」
「じゃあ声かけちゃえばいいじゃないですか。今日声かけましょうよ。ナンパする勇気もない人間が芸人なんてできないですって」
二人は自然と、次第に声を大きくしていた。
前田が「おいおい浩太、ファミレスでぷんすかするな。現実に引き戻されちまう」と言うと、「人ひとりに声をかけられないんじゃ、ひな壇の一番後ろから前に出て行って笑いなんて取れないですよ」と浩太が吹っかける。前田は目を垂らせながら「ひな壇でのテレビ収録なんか今の俺には縁のないことだよ。賞レースもどうせ二回戦以上は行けないし。一回戦はかろうじて受かるからそれでなんとか自分は芸人だって言えてるようなもんだよ。惰性だよ」と言うと、リンゴジュースを二杯続けて一気飲みした。コップから滴り落ちる一滴も残さないように前田は口を開けてリンゴジュースを受ける。前田はまたもやドリンクバーに向かい、浩太はケチャップがかかっていないフライドポテトを探し、見つけては食べていく。左前の女性のテーブルにはステーキにカルボナーラ、マルゲリータがテーブルに所狭しと置かれていった。
前田はドリンクバーから戻ると、ノートと万年筆をリュックから取り出し、肘をテーブルにつきながら悩み始めた。浩太は黙って緑茶をちょびちょび飲みながら時折フライドポテトを食べる。しばらくすると両耳にイヤホンをはめてスマホで動画を見始める。前田は変わらぬ姿勢で、まだ一言もノートに書いていない。
左前の大食いの女性のテーブルからはすでに料理は消えていて、イチゴのパフェのみが置かれていた。前田が「浩太、浩太。おい」と何度か話しかけると、浩太は「はい?」と右のイヤホンだけ外した。
「お前、間が悪いよ」
「聞こえなかったんですよ。しょうがないじゃないですか」
「漫才は間なんだから。何を言うかよりも間の方が大事なんだから、普段から気を付けておけよ」
「なんですか?」
「思い切って時事ネタもやってみようかなって思っててな。最近の若者が何やってるのか、ぜひとも浩太さんに聞きたいと思って」
「僕を最近の若者のサンプルにするのは危険ですよ。うーん、なんでしょうね。ユーチューバーじゃないですか」
前田は「ユーチューバー? やっぱりそんなに人気なのか」と怒り声で聞いた。浩太は「そりゃ人気でしょう。芸人よりも今はユーチューバーですよ」と答える。前田は「今時のいわゆるユーチューバーはただ金をかけただけの雑なドッキリとかやってみた系とか、商品紹介とか数十年前にテレビがやってたことの焼き直しだろ」と声を荒げ、息を吸うとすぐさま「淘汰されたものがいま単純に物珍しく扱われただけで、いずれはユーチューブの世界でもどうせ淘汰されてって結局は今のテレビみたいなものしか残らないだろ」と続けた。浩太が「小難しいことはわかんないです。まあ僕もユーチューバーはそんなに面白いと思わないですけど」と言うと、前田はノートに「ユーチューバー」とだけ書いた。浩太が「あとはスマホで素人でもいろいろ撮っちゃいますよね」と言うと、前田は「確かに。勝手にスマホで楽屋の様子を撮る芸人もいるしな」と言った。
前田はかごの中に残ったケチャップまみれのフライドポテトをすべて右手で鷲掴みにして口に運んで飲みこみ、ナプキンで手を拭いた。前田は腕時計に目をやり「あ、もうバイトの時間だ」と呟いた。浩太はスマホを見ながら「介護ですか」と聞くと、前田は「ああ」と言い伝票を手にして立ち上がると、レジのほうへ向かった。浩太が前田に追いついたころ、前田はすでに会計を済ませて出口の自動ドアを開けていた。
「ごちそうさまです」
「おお。あー、パチンコやりてえ。パチンコやればもっとおごれるぞ」
「本当ですか? じゃあバイトしないでずっとパチンコやっててくださいよ」
「ガハハ。そうするわ、パチンコは裏切らないからなあ」
浩太は一人でアパートに帰った。部屋に着くと、スマホをコンセントに繋ぐ。一%だった充電が少しずつ増えていった。
太陽を受けながら外壁の横についている階段を上り、右手に最初に見えるドア前で止まった。ドアを開いた瞬間、浩太はテレビの音と前田の笑い声を耳にし「おはようございます」と呼びかけた。前田はテレビを見たまま「おう」としゃがれた声で答えた。
「あれ前田さん、来てたんですね。なんか酒臭いですよ」
「いいじゃねえか。今日は仕事ないんだから」
「関係ないですよ。酒臭いですって」
「おいおい、ペット禁止は聞いたことあるけど、ここのアパート酒禁止なのかよ」
「違いますけど」
会話を交わしながら、浩太は履いていたスニーカーを脱ぎ、リュックを床に置いた。前田は床に寝そべりながら部屋の角に置いてあるテレビを見ている。テレビは床に直接置かれており座って見るには見づらいためか、前田は床に寝そべっている。
「前田さん、何か飲み物飲みます?」
浩太は冷蔵庫の前でしゃがんだ。
「あ、ごめん浩太。緑茶飲んじゃった」
「別にいいですけど。あれ? 何ですかこれ。もうほとんどないじゃないですか」
「元からなかったよ」
「噓でしょ、前田さん」
「本当だよ」
「信じられないですね。本当ですかね。前田さん、後で何かおごってくださいね」
「はいはいはい」
浩太は緑茶を冷蔵庫から取り出した。ペットボトルに残っている緑茶をすべてコップに出し、空になったペットボトルを流しの中に置いた。そして、ジーンズのどこにもインしていないネルシャツを脱ぎながらキッチンから離れる。床に山になっている生乾きの服の中から白いシャツを手に取り着替える。浩太はジーンズもボクサーパンツも脱ぎ、その山の中から脱いだパンツと同じ柄のものを取り出し、履いた。続いてカーキ色のチノパンも探し出して履くと、再びキッチンに戻って緑茶のペットボトルを手に取る。
水でペットボトルの中を洗って蓋を取り、ペットボトル本体は流しの中に置いた。ペットボトルの蓋を床に置かれたビニール袋に入れる。
浩太は前田のガラガラという笑い声を聞きながらトイレに向かう。トイレに入ると、臭いわけではないが浩太は自分以外のにおいを感じながらドアを閉め、鍵をかけた。
三年ほど前、客の数一桁の地下ライブ劇場のトイレにある洗面台の淵を両手で握り少し前かがみになりうなだれていたとき、近寄ってきた前田からも今と同じにおいがしたことを浩太は思い出していた。その日、ネタの途中でどうしてもネタの続きを思い出せなくて、浩太は何も言わず舞台袖に下がってしまった。客席に一人で礼をして舞台を降りてきた相方の幸助に「ハハハ、ごめん」と言ったが、幸助はただ舌打ちをして無視して歩いていった。浩太は恥ずかしさと情けなさを感じ落ちこんでいたが、トイレで出会った前田に食事へと誘われた。連れて行かれたお店には幸助や他のお笑い芸人も数人いて、そこで浩太はネタを飛ばしたことを終始いじられた。それを契機に劇場の先輩たちの中に溶けこむことができた。幸助との仲も険悪にならずに済んだ。
浩太は用を足し、トイレットペーパーを巻き取ったが、そこでトイレットぺーパーがなくなった。浩太は最初に巻き取った分だけで何とかお尻を拭ききると、床に置かれていた新しいトイレットペーパーを取りつけた。
前田の「浩太、メシ行くか。お腹空いてるだろ」というしゃがれた声がトイレの外から聞こえてきた。浩太はズボンを上げ、水を流し、手を洗い、手が乾かぬうちにドアを開けた。前田は変わらず寝ころびながらテレビを見ていた。
「何食べる?」と前田が聞く。浩太は「何でもいいですよ」と答えた。「おいおい。後輩は自分が食べたいものを好きなだけ食べるもんなんだよ。後輩は先輩の前で美味しそうにメシを食うことで後輩らしくいられるってもんなんだから」と前田は言い、ダボダボのズボンを上にあげながら起き上がった。
前田はドアを出て、浩太の様子を見ることなく階段を下りていく。浩太はしゃがみ、玄関にある靴箱の横開きの扉を開け、上から二段目に置かれている鍵を手に取った。ドアを出て、鍵をかける。
前田を追いかけながら「前田さん。ちょっと待ってくださいよ」と声をかけた。前田が「遅いよ。もう舌がフライドポテトの舌になっちまってるんだから」と言い終わったころ、浩太は手すりを持ちながら階段を下りはじめていた。浩太は階段の下で待ち受ける前田の濃い顔に向かっていく。階段の下で再び顔を合わせると、二人は互いに口角を上げながら言いあう。
「浩太。そういえばそろそろ合鍵くれよ。合鍵があればドアポストに手を入れる必要もないのに。誰かに見られたら不法侵入しようとしてる奴だと思われるだろ」
「さすがにまだ合鍵は怖いですよ。前田さんのこと、そこまで信用してませんから。うちに来たければ泥棒に間違われるリスクを背負ってください」
「おいおい浩太、寂しいこと言うなよ。もう長い付き合いじゃねえか。いいだろ」
「まだ三年の付き合いですよ」
二人は歩きながら会話を続ける。
「それに前田さん、彼女と同棲してるんじゃなかったんですか」「いろいろあんだよ。こんなに仲いいのに、浩太さんよ、合鍵くださいよ」
「前田さんもしかしてメンヘラですか」
「うっせえ」
「そもそも前田さんよく同棲なんてできますね。僕は同棲なんて絶対無理です。女の人を家にあげるのも無理ですよ」
「なんだっけ。マッチングアプリで知り合った人にお金盗られたんだっけ」
「そうですよ。もうあんなことは絶対嫌です」
「シャワー浴びてる間に逃げられたのはキツイよな。やれもしなかったんだろ」
「そうですよ、ハハハ。もうこの話するのやめましょう」
「俺もアプリでいいところまではいくんだけどなあ、ホテルだとお金がかかるのがなあ。ネットカフェだとついてこない人もいるからなあ」
「前田さん、ネットカフェをそういう使い方しないでください」
踏切のカンカンという警報音が鳴っている。二人は立ち止まり、黄色と黒色の縞模様の棒が下りてくるのを見る。浩太は電車の音がするほうを見ているが、前田は目の前にある地面と平行になった棒に視点を合わせている。
電車が過ぎると、風が二人の胸を突いた。警報音が静かになり棒が上がると浩太は歩きだし、前田もそれに続く。前方からの車を避けるように右端ギリギリを二人は縦になって歩く。踏切を抜けると二人は再び横並びになった。住宅街を通る間、二人は無言だった。
開けた通りに出ると、消え入るような声で「三年前の今頃は踏切に飛び込もうと思ってたな」と前田が呟いた。浩太は「前田さんもそんなネガティブなこと思うんですね」と前田と同じ声量で返した。
「俺をどんなやつだと思ってんだよ。今はまだちょっと頑張ろうと思えてるけど、三年前はコンビ仲も最悪だったし」
「そんなこと言わないでくださいよ。夢がないじゃないですか。まあ、僕のところもコンビ仲、良くはないですけど」
前田は「俺たちは芸人選んだ時点で夢なんぞないんだ。地獄行きが決まってるようなもんなんだよ。芸人なんて九十九パーセントの人は売れないんだから、それはもうほとんど地獄行きが決定づけられたもんだろ」と息継ぎせず、声をだんだん大きくしながら浩太に言葉をぶつけていく。
「俺たちなんてライブに出れば出るほど赤字だろ。交通費も出ないし、チケットは自分たちで買い取って手売りしないといけないし。バイトで稼いだ金を劇場に行ってはバラまいてる。何やってんだか傍から見たらよくわかんねえだろ。売れねえ売れねえ。何をやっても人気が出ねえ。生まれた時代が悪かったのかなあ」
「まあ、変な仕事ですよね」
「こんな仕事辞めたほうが幸せかもしれないってしょっちゅう思う」
「でも辞めてないじゃないですか」
二人は住宅街のどこともいえない空間を眺めながら話した。前田は大きな声のまま「ガハハ、そうだな。辞めようと思ったら、ちょうど良くすげーウケちゃうんだよな。それでまた辞められなくなる。辞めたほうが幸せだって早く気づけたらラッキーなのに。気づけてないから芸人を続けてる」と言う。息つく暇もなく「芸人なんていかに早く辞めて人生やり直せるかだろ。辞めなければ辞めないほど、どんどん辞められなくなっていく。未練が身体にたまっていって、どんどん離れにくくなっていく気がする。ずっと赤字なんだけどなあ。気づけないんだよなあ」と続ける。
二人の耳にはカンカンという踏切の音が背中から再び聞こえてくる。前田が踏切の音を打ち消すように「よーし、今日もドリンクバーを極限まで楽しむぞ」とさらに大声を出した。
二人は住宅街を抜けたところにあるファミレスに入り、店員が来る前にスムーズに左奥のボックス席に腰を掛け、座ってすぐ前田はトイレに席を立った。店員が水を運んでくると、浩太はフライドポテトと二人分のドリンクバーを頼んだ。浩太はすぐさまドリンクバーでリンゴジュースと緑茶を入れて両手に持ち、席に戻った。リンゴジュースを前田の座っていた席に置き、その向かいに腰を下ろし緑茶を置く。それから浩太はどこか自分の身体に違和感があるのか、首を傾げながら自分の体を触り始めた。浩太の手が足首に到達したころで前田が戻ってきた。浩太は「やばいです、前田さん。靴下履き忘れました」と伝えると、前田は「は。んなことどうだっていいだろ」と突き放した。
「いや、先週ネットカフェのバイトに行くときも靴下履き忘れたんですよ。いやあ、家に出るときは毎回確認しようと思ってたんですけどね」
「靴下履き忘れることくらいあるだろ」
「落ち込みますよ」
「そういう普通のことができないから俺らは芸人になってるんだ。いいか浩太、それが個性なんだから」
「靴下履き忘れることのどこが個性なんですか。僕は靴下履きたい人間なんですから」
「いやいや、失敗も何もかも個性になるのが芸人ってもんよ」と前田はメニュー表を見ながら呟いた。浩太が「あ、注文ですか? もうフライドポテト頼んじゃいました」と前田に微笑む。
「おおありがと。ていうか浩太、緑茶好きだな」
「カフェインが入ってるんで。眠くなりたくないんですよ」
前田が軽く笑みを浮かべながら「ふつう逆じゃねえか。眠れないほうが辛いだろ」と言うと、浩太はふくれっ面で少し顎をしゃくれさせながら「いや、寝たらそのまま起きずに死んじゃいそうで怖いんですよ。だから一生寝たくないんです」と言った。
「怖いこと言うなよ。寝ても死にゃせんよ。浩太、カフェイン中毒なんじゃねえか」
「パチンコ中毒の人に言われたくないですよ」
「うるせえ。俺はそういう気質なだけだって。子どものころからUFOキャッチャーとか金を使って、果たして取れるかどうか分からないものに挑戦するゾクゾクが好きだっただけ」
店員が二人に近寄ってきて、丸いかごに入ったフライドポテトの山を置いた。前田はテーブルの端にあるケチャップをフライドポテトにかけだした。浩太はそれを見て「いつも思ってたんですけど、なんで全部にかけちゃうんですか。僕、塩味でも食べたいですよ」と言うと、前田は「いやフライドポテトと言えばケチャップだろ。俺が払うんだから俺の好きな味でいいだろ」と譲らなかった。「それを言われたら。まあケチャップがかかってない下のを掘って食べるんでいいですよ」と浩太はまたもやふくれっ面になった。
肩につかないくらいの長さの黒髪の女性が一人でファミレスに入ってきた。女性は店員に誘導され、浩太と前田の左斜め前のテーブル席に座った。前田が女性の存在を確認し「今日も来たぞ、あのお姉ちゃん」と小声になり、 「ちょっと服はダサいけどそれがまたいいんだよな」と続けた。浩太が「ダサいほうがいい性癖って何なんですか」と聞く。前田曰く「オシャレすぎると緊張しちゃう」らしい。
女性はくすんだオレンジ色のチノパンに水色のワイシャツを着ており、シャツを前の部分だけチノパンに入れていた。彼女は店員に注文するときに右手でメニュー表の文字を指さしていくが、そのときに鈍い青色のビーズのようなものが付いたブレスレットも右手の動きとともに揺れ動いていた。
前田は女性の姿を覗き見ながら「あのお姉ちゃん、また沢山頼んでるよ。あんな細いのに。それに比べて浩太は食べないなあ」と言う。
「そうですね。このフライドポテトだけで僕は十分です」
「おごっても食費がかからない後輩ではあるけど、先輩としてはもうちょっと食べてほしいもんだけどな。余ったら結局、俺が食ってるもんな」
「食べられないもんはしょうがないでしょ。前田さん、金がないのにおごりたいってどういう神経ですか」
「いいじゃねえか。勝手におごらせろよ」
前田はそう言うとドリンクバーにリンゴジュースのお代わりを注ぎに行った。浩太はむず痒そうに靴下の履かれていない足首のあたりを触り、溜息をつく。緑茶の入ったコップを持ちながら飲まずに前田が帰ってくるのを待つ。
リンゴジュース二杯を両手に持った前田が「あのお姉ちゃんはドリンクバー頼まないよな。よく水だけで我慢できるな」と小声で囁いた。
「あんまり見てると不審に思われますよ。将来のためにもほどほどにした方がいいですって」
「いやむしろ俺の存在を彼女にインプットしておいたほうがいざというときにそれが効力を発揮する可能性もあるだろ」
「じゃあ声かけちゃえばいいじゃないですか。今日声かけましょうよ。ナンパする勇気もない人間が芸人なんてできないですって」
二人は自然と、次第に声を大きくしていた。
前田が「おいおい浩太、ファミレスでぷんすかするな。現実に引き戻されちまう」と言うと、「人ひとりに声をかけられないんじゃ、ひな壇の一番後ろから前に出て行って笑いなんて取れないですよ」と浩太が吹っかける。前田は目を垂らせながら「ひな壇でのテレビ収録なんか今の俺には縁のないことだよ。賞レースもどうせ二回戦以上は行けないし。一回戦はかろうじて受かるからそれでなんとか自分は芸人だって言えてるようなもんだよ。惰性だよ」と言うと、リンゴジュースを二杯続けて一気飲みした。コップから滴り落ちる一滴も残さないように前田は口を開けてリンゴジュースを受ける。前田はまたもやドリンクバーに向かい、浩太はケチャップがかかっていないフライドポテトを探し、見つけては食べていく。左前の女性のテーブルにはステーキにカルボナーラ、マルゲリータがテーブルに所狭しと置かれていった。
前田はドリンクバーから戻ると、ノートと万年筆をリュックから取り出し、肘をテーブルにつきながら悩み始めた。浩太は黙って緑茶をちょびちょび飲みながら時折フライドポテトを食べる。しばらくすると両耳にイヤホンをはめてスマホで動画を見始める。前田は変わらぬ姿勢で、まだ一言もノートに書いていない。
左前の大食いの女性のテーブルからはすでに料理は消えていて、イチゴのパフェのみが置かれていた。前田が「浩太、浩太。おい」と何度か話しかけると、浩太は「はい?」と右のイヤホンだけ外した。
「お前、間が悪いよ」
「聞こえなかったんですよ。しょうがないじゃないですか」
「漫才は間なんだから。何を言うかよりも間の方が大事なんだから、普段から気を付けておけよ」
「なんですか?」
「思い切って時事ネタもやってみようかなって思っててな。最近の若者が何やってるのか、ぜひとも浩太さんに聞きたいと思って」
「僕を最近の若者のサンプルにするのは危険ですよ。うーん、なんでしょうね。ユーチューバーじゃないですか」
前田は「ユーチューバー? やっぱりそんなに人気なのか」と怒り声で聞いた。浩太は「そりゃ人気でしょう。芸人よりも今はユーチューバーですよ」と答える。前田は「今時のいわゆるユーチューバーはただ金をかけただけの雑なドッキリとかやってみた系とか、商品紹介とか数十年前にテレビがやってたことの焼き直しだろ」と声を荒げ、息を吸うとすぐさま「淘汰されたものがいま単純に物珍しく扱われただけで、いずれはユーチューブの世界でもどうせ淘汰されてって結局は今のテレビみたいなものしか残らないだろ」と続けた。浩太が「小難しいことはわかんないです。まあ僕もユーチューバーはそんなに面白いと思わないですけど」と言うと、前田はノートに「ユーチューバー」とだけ書いた。浩太が「あとはスマホで素人でもいろいろ撮っちゃいますよね」と言うと、前田は「確かに。勝手にスマホで楽屋の様子を撮る芸人もいるしな」と言った。
前田はかごの中に残ったケチャップまみれのフライドポテトをすべて右手で鷲掴みにして口に運んで飲みこみ、ナプキンで手を拭いた。前田は腕時計に目をやり「あ、もうバイトの時間だ」と呟いた。浩太はスマホを見ながら「介護ですか」と聞くと、前田は「ああ」と言い伝票を手にして立ち上がると、レジのほうへ向かった。浩太が前田に追いついたころ、前田はすでに会計を済ませて出口の自動ドアを開けていた。
「ごちそうさまです」
「おお。あー、パチンコやりてえ。パチンコやればもっとおごれるぞ」
「本当ですか? じゃあバイトしないでずっとパチンコやっててくださいよ」
「ガハハ。そうするわ、パチンコは裏切らないからなあ」
浩太は一人でアパートに帰った。部屋に着くと、スマホをコンセントに繋ぐ。一%だった充電が少しずつ増えていった。
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