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56.忘れられたもの
「くぅ……っ!」
神官長は憤然と言い返そうとしたものの、その口からは何の言葉も出てこなかった。取り巻き神官たちも、ただ悔しそうにヴィクターを睨みつけるばかり。
そんな彼らを横目に、私はぎゅっとヴィクターの手にしがみつく。
(わかったなら、さっさと帰って。私は絶対、あなたたちに付いて行ったりしないから!)
月の聖堂には、自分の行きたいときに行く。
というか、本当は今すぐ聖堂に行ってルーナさんを問い詰めたい。どうしてこんなにも早く、神託を下してしまったの?と。
だけどこの様子だと、ヴィクターのところに帰してもらえなくなってしまうかも。それだけは絶対にゴメンだった。
「――神官長様。シーナ・ルー様は、ヴィクター殿下と離れるのを嫌がっておいでです。ひとまず今日は日を改めませんか?」
「何だと!?」
キースさんの取りなしに、神官長は即座に眉を跳ね上げた。
しかし、キースさんは引かずにじっと彼を見る。そのまっすぐな視線に、神官長はわずかにたじろいだ。
「では、月の聖獣様を無理に引っ立てるとでも? それこそ不遜ではありませんか。我ら全員に天罰が下ったとておかしくないでしょう」
「う……っ」
顔色を悪くする神官長に、キースさんは淡々と言葉を重ねる。
「シーナ・ルー様とヴィクター殿下には、わたしから重々お頼みしてみましょう。……まあ、受け入れていただけたとしても、シーナ・ルー様がヴィクター殿下なしに聖堂に来てくださるとは思えませんけども。殿下の付き添いは必須でしょうねぇ」
ため息をつき、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
神官長の顔がますます白くなる。
神官長はうろうろと視線を泳がせ、すがるように私を見た。しかしもちろん、私はすげなく顔を背ける。
「ぱぇぱぁ、ぱうぅ~っ!」
(ヴィクターからは、絶対に離れない!)
必死になりすぎて震え出した私を、ヴィクターが優しく撫でてくれる。それでやっと、私の体から力が抜けていく。
「……わ、わかった」
ややあって、神官長がようやく白旗を上げた。
渋々といった様子で、申し訳程度にヴィクターに向かって頭を下げる。そうして、すぐに私へと視線を戻した。
「シーナ・ルー様。本来であれば月の巫女に選ばれし尊き娘は、神託の下されたその日より聖堂で過ごす決まりとなっております。毎夜ルーナ様に祈りを捧げ、『月の舞』を神官より習い覚え、儀式の日に備えるのです」
「…………」
「き、今日のところはいったん退出いたします。けれどどうか、月の巫女としての御役目を果たされますよう。月の巫女の聖なる舞いは、世界に平和と調和をもたらすと伝えられております。栄えし魔獣の力は衰え、長きに渡る平安が約束されるのです」
(……へ?)
神官長の言葉に違和感を覚え、私は目を丸くする。
……世界に平和と調和?
長きに渡る平安を約束する?
それってちょっと、おかしくないか。
(魔素について、一言も触れてない……?)
混乱しながらも、いや別に変でもないのか、とすぐに思い直した。
だってこの世界の人々は、魔素のことも魔法の存在も知らないのだから。魔素が浄化されれば魔獣の勢力は弱まるし、世界が平和になるというのは決して間違ってはいない。
――間違ってはいない、のだけれど。
(……やっぱり、変。かも……)
じっとうつむき、耳を垂らして考え込む。
そもそもどうして、この世界の人々は魔法のことを知らないのだろう。
魔素があれば魔法が使える。剣だけで魔獣と戦おうとするから苦労するのであって、魔法が使えれば戦闘はグンと楽になるんじゃないか。この間のミミズ魔獣だって、炎の魔法があったからこそ倒せたというのに。
(ルーナさんは、何て言っていたっけ……)
確か、かつては人間が魔法を使える時代もあったと話していたはず。
けれど今の人々は、それを忘れてしまったのだとも言っていた。魔法という概念は人々の記憶から、一切の痕跡すら残さずに消えてしまった、と。
ルーナさんの寂しげな姿を思い出す。
――忘れたままでいるべきなのよ。人の使う魔法は攻撃的で、たやすく争いを生んでしまうから
(あれは……、どういう意味だったんだろう……)
ぼんやりと思い悩むうち、いつの間にやら食堂は静けさを取り戻していた。
ヴィクターに抱かれた私を、キースさんが気遣わしげに覗き込む。
「シーナ・ルー様?」
「シーナ。神官共はもう出ていったぞ」
ヴィクターにつんと顎をくすぐられた。
私は我に返って、きょとんと二人を見比べる。
「ぱぅ?」
「……疲れたか。今日は俺だけ出勤して、お前は屋敷で休んでいても構わない」
淡々と確かめられ、大慌てで首を横に振った。ダメダメ! ヴィクターから離れたりして、万が一神官たちに攫われちゃったら大変だもん!
離れるものかとぎゅううと必死でヴィクターにしがみつけば、くくっと押し殺した笑い声が降ってきた。「わかった」と大きな手で包みこまれる。
「わたしもお供いたしますよ、ヴィクター殿下。説得しますと神官長様に申し出た手前、すぐに聖堂に戻るわけにも参りませんし」
せっかくですから今日は休暇と思って、一日かけてのんびり説得させていただきましょう。
そう澄まし顔で告げたキースさんも後ろを付いてくる。
朝からの騒動のせいで、屋敷を出るのがすっかり遅くなってしまった。大急ぎで馬車に乗り込んで、騎士団本部へと急ぐ私たちであった。
神官長は憤然と言い返そうとしたものの、その口からは何の言葉も出てこなかった。取り巻き神官たちも、ただ悔しそうにヴィクターを睨みつけるばかり。
そんな彼らを横目に、私はぎゅっとヴィクターの手にしがみつく。
(わかったなら、さっさと帰って。私は絶対、あなたたちに付いて行ったりしないから!)
月の聖堂には、自分の行きたいときに行く。
というか、本当は今すぐ聖堂に行ってルーナさんを問い詰めたい。どうしてこんなにも早く、神託を下してしまったの?と。
だけどこの様子だと、ヴィクターのところに帰してもらえなくなってしまうかも。それだけは絶対にゴメンだった。
「――神官長様。シーナ・ルー様は、ヴィクター殿下と離れるのを嫌がっておいでです。ひとまず今日は日を改めませんか?」
「何だと!?」
キースさんの取りなしに、神官長は即座に眉を跳ね上げた。
しかし、キースさんは引かずにじっと彼を見る。そのまっすぐな視線に、神官長はわずかにたじろいだ。
「では、月の聖獣様を無理に引っ立てるとでも? それこそ不遜ではありませんか。我ら全員に天罰が下ったとておかしくないでしょう」
「う……っ」
顔色を悪くする神官長に、キースさんは淡々と言葉を重ねる。
「シーナ・ルー様とヴィクター殿下には、わたしから重々お頼みしてみましょう。……まあ、受け入れていただけたとしても、シーナ・ルー様がヴィクター殿下なしに聖堂に来てくださるとは思えませんけども。殿下の付き添いは必須でしょうねぇ」
ため息をつき、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
神官長の顔がますます白くなる。
神官長はうろうろと視線を泳がせ、すがるように私を見た。しかしもちろん、私はすげなく顔を背ける。
「ぱぇぱぁ、ぱうぅ~っ!」
(ヴィクターからは、絶対に離れない!)
必死になりすぎて震え出した私を、ヴィクターが優しく撫でてくれる。それでやっと、私の体から力が抜けていく。
「……わ、わかった」
ややあって、神官長がようやく白旗を上げた。
渋々といった様子で、申し訳程度にヴィクターに向かって頭を下げる。そうして、すぐに私へと視線を戻した。
「シーナ・ルー様。本来であれば月の巫女に選ばれし尊き娘は、神託の下されたその日より聖堂で過ごす決まりとなっております。毎夜ルーナ様に祈りを捧げ、『月の舞』を神官より習い覚え、儀式の日に備えるのです」
「…………」
「き、今日のところはいったん退出いたします。けれどどうか、月の巫女としての御役目を果たされますよう。月の巫女の聖なる舞いは、世界に平和と調和をもたらすと伝えられております。栄えし魔獣の力は衰え、長きに渡る平安が約束されるのです」
(……へ?)
神官長の言葉に違和感を覚え、私は目を丸くする。
……世界に平和と調和?
長きに渡る平安を約束する?
それってちょっと、おかしくないか。
(魔素について、一言も触れてない……?)
混乱しながらも、いや別に変でもないのか、とすぐに思い直した。
だってこの世界の人々は、魔素のことも魔法の存在も知らないのだから。魔素が浄化されれば魔獣の勢力は弱まるし、世界が平和になるというのは決して間違ってはいない。
――間違ってはいない、のだけれど。
(……やっぱり、変。かも……)
じっとうつむき、耳を垂らして考え込む。
そもそもどうして、この世界の人々は魔法のことを知らないのだろう。
魔素があれば魔法が使える。剣だけで魔獣と戦おうとするから苦労するのであって、魔法が使えれば戦闘はグンと楽になるんじゃないか。この間のミミズ魔獣だって、炎の魔法があったからこそ倒せたというのに。
(ルーナさんは、何て言っていたっけ……)
確か、かつては人間が魔法を使える時代もあったと話していたはず。
けれど今の人々は、それを忘れてしまったのだとも言っていた。魔法という概念は人々の記憶から、一切の痕跡すら残さずに消えてしまった、と。
ルーナさんの寂しげな姿を思い出す。
――忘れたままでいるべきなのよ。人の使う魔法は攻撃的で、たやすく争いを生んでしまうから
(あれは……、どういう意味だったんだろう……)
ぼんやりと思い悩むうち、いつの間にやら食堂は静けさを取り戻していた。
ヴィクターに抱かれた私を、キースさんが気遣わしげに覗き込む。
「シーナ・ルー様?」
「シーナ。神官共はもう出ていったぞ」
ヴィクターにつんと顎をくすぐられた。
私は我に返って、きょとんと二人を見比べる。
「ぱぅ?」
「……疲れたか。今日は俺だけ出勤して、お前は屋敷で休んでいても構わない」
淡々と確かめられ、大慌てで首を横に振った。ダメダメ! ヴィクターから離れたりして、万が一神官たちに攫われちゃったら大変だもん!
離れるものかとぎゅううと必死でヴィクターにしがみつけば、くくっと押し殺した笑い声が降ってきた。「わかった」と大きな手で包みこまれる。
「わたしもお供いたしますよ、ヴィクター殿下。説得しますと神官長様に申し出た手前、すぐに聖堂に戻るわけにも参りませんし」
せっかくですから今日は休暇と思って、一日かけてのんびり説得させていただきましょう。
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