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一.蒼穹に兆す
溶かす
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その日は、夜になるまでが特別長く感じられた。ようやく太陽がその身を隠し、月を女神が掲げる頃。
皇帝の訪いを告げる鈴の音。それをどれほど心待ちにしていたか。
「ヒューゴ。待たせた」
エレヴィスはいつだって、ヒューゴに優しく呼びかける。寝台の上に移動して、彼が指を鳴らせば部屋の灯りは消えてしまう。共に眠るということは無防備な姿を晒すということで、その意味がどれほど重いかよくしっている。
けれどもヒューゴにはひとつ疑問があった。
「エレヴィス様、ひとつ伺ってもよいですか」
薄絹の緞帳だけを下ろした空間で、エレヴィスの金髪がきらきらと光っている。それをじっと見つめて、ヒューゴは唇を湿した。
「ああ。どうした?」
「───エレヴィス様は、おれを抱かないのですか」
かつて、まだ己の髪が白かった頃、同じことを聞いたときとは違う。エレヴィスの瞳にあるのは冷たさではない。ただ、穏やかな色合いだけ。
「おまえのことが大切だよ、ヒューゴ。もしかしたら傷つけてしまうかもしれないと思うと、な」
いや、と彼は笑った。そこに微かな自嘲を滲ませている。
「自己満足かもしれないが」
「そんなことは、決して……」
「ヒューゴ。こちらを見て」
きん、と目が合った。身体の奥に震えが走る。言葉の端に残してしまった不安を消し飛ばすように。
「いいこだ」
「ん……エレヴィスさま、ッ」
「ああ。おまえに不安があるのなら、それを言言ってみなさい」
唇に彼の手が触れた。そこから伝わるかすかな熱に目眩がする。
「ほんとうに、おれは何もしなくていいのですか。このまま……あなたに何も返さないままで」
ふふ、とエレヴィスが笑った気配がした。そっと褒美のように頭を撫でられる。ぞくぞくと背筋に興奮が走って。
「教えてくれてありがとう、ヒューゴ。いいこだ。……おまえに答えを返すなら───まず第一に、番、月というのは秘するものだよ。それが皇帝のものとなれば尚更だ。第二に、太陽は、番に何でも与えたくなる性分だ」
褒められている。膝を屈しているわけでもないのに、欲求が満たされている。うれしい、と脳裏に声が木霊した。
彼の腕が背に回って、わずかな隙も許さないとばかりに抱き寄せられる。穏やかな蜂蜜色の瞳の奥、青い光がちらちらと瞬いているのが分かって、心臓の鼓動がさらに速くなる。
「そして最後に───私は、すでに充分返してもらっているよ」
彼はそう言って笑うのだ。
なら、と不安の陰がさす。存在していること、そこに飾られていること、それだけがうつくしい、貴石のようなものであればいいのか。
そう問うことができればよかった。
「ヒューゴ。おまえがそんなに不安に思うなら、そうだな」
彼の大きな手が項に触れた感覚。鳥肌が立って、けれどそれは不快を示すものではなかった。エレヴィスはそのまま、かすかに抑えつけるように力を込めて──それが決して、傷つけるためのものではないことを知っていた。
「エレヴィス、さま」
かすかに漏れてしまった言葉の先を奪うように。
彼の唇が、己の唇と重なる。今までの啄むような、愛おしむような、触れるだけのそれではなく。一気に心臓が高鳴った。だって、それは自分でも分かるくらいの愛情表現だったから。
なかば成り行きで開いてしまった唇の、その合間から彼の舌が滑り込んでくる。ぴちゃ、と立つ水音にどうしようもなく興奮している。エレヴィスの唾液に混ざる魔力が、ヒューゴのそれと混ざり合っているのさえ知覚できた。
息が苦しい。
「ン、ふ、ッ……!」
思わず甘やかな、吐息とも声ともつかぬものが漏れてしまう。けれど唇を離せない。彼から渡される魔力は甘やかで、もはや毒に近かった。酒を飲んだことはほとんどないけれど、酩酊というのはこんな感覚だろうか。
脳髄が蕩けて、何も考えられなくなる。
まずい、と警鐘を鳴らす本能に従って、自由な手でエレヴィスの胸を叩く。もう何だって好きになってしまいそうで、その触れた胸板の厚みさえ。
「ッは……」
ようやっと彼は唇を離してくれた。そこにあとを引く銀色。つう、と自分の口の端を唾液が垂れていくのがわかる。
「こういうのも悪くはないだろう?」
エレヴィスは笑う。キスという行為も、何もかも、エレヴィスから与えられるものしか自分は知らない。だからこれが異常なのかも正常なのかもわからない。願わくば、これからも知ることがなければいい。
ただそこに込められた愛が嬉しかった。もうやめてほしいと思ったとき、彼はすぐにそれを汲んでくれた。
全身を震わせて、ヒューゴは息を吐く。
「はい、エレヴィスさま」
「ああ。大好きだ、私の番。世界でいちばん愛している」
今度こそ、おやすみ。そう囁いて、エレヴィスの手がヒューゴの視界を覆った。暗転する。抱きしめられている感覚だけが残って。
「おやすみなさい、エレヴィス様」
手探りで、きゅ、と彼の衣の胸元をつかむ。魔力を交換した──もとは一つの、同じエレヴィスのものだけれど──からか、ひどく疲れたような眠気がある。
吸い込まれるように、ヒューゴは目を閉ざした。
皇帝の訪いを告げる鈴の音。それをどれほど心待ちにしていたか。
「ヒューゴ。待たせた」
エレヴィスはいつだって、ヒューゴに優しく呼びかける。寝台の上に移動して、彼が指を鳴らせば部屋の灯りは消えてしまう。共に眠るということは無防備な姿を晒すということで、その意味がどれほど重いかよくしっている。
けれどもヒューゴにはひとつ疑問があった。
「エレヴィス様、ひとつ伺ってもよいですか」
薄絹の緞帳だけを下ろした空間で、エレヴィスの金髪がきらきらと光っている。それをじっと見つめて、ヒューゴは唇を湿した。
「ああ。どうした?」
「───エレヴィス様は、おれを抱かないのですか」
かつて、まだ己の髪が白かった頃、同じことを聞いたときとは違う。エレヴィスの瞳にあるのは冷たさではない。ただ、穏やかな色合いだけ。
「おまえのことが大切だよ、ヒューゴ。もしかしたら傷つけてしまうかもしれないと思うと、な」
いや、と彼は笑った。そこに微かな自嘲を滲ませている。
「自己満足かもしれないが」
「そんなことは、決して……」
「ヒューゴ。こちらを見て」
きん、と目が合った。身体の奥に震えが走る。言葉の端に残してしまった不安を消し飛ばすように。
「いいこだ」
「ん……エレヴィスさま、ッ」
「ああ。おまえに不安があるのなら、それを言言ってみなさい」
唇に彼の手が触れた。そこから伝わるかすかな熱に目眩がする。
「ほんとうに、おれは何もしなくていいのですか。このまま……あなたに何も返さないままで」
ふふ、とエレヴィスが笑った気配がした。そっと褒美のように頭を撫でられる。ぞくぞくと背筋に興奮が走って。
「教えてくれてありがとう、ヒューゴ。いいこだ。……おまえに答えを返すなら───まず第一に、番、月というのは秘するものだよ。それが皇帝のものとなれば尚更だ。第二に、太陽は、番に何でも与えたくなる性分だ」
褒められている。膝を屈しているわけでもないのに、欲求が満たされている。うれしい、と脳裏に声が木霊した。
彼の腕が背に回って、わずかな隙も許さないとばかりに抱き寄せられる。穏やかな蜂蜜色の瞳の奥、青い光がちらちらと瞬いているのが分かって、心臓の鼓動がさらに速くなる。
「そして最後に───私は、すでに充分返してもらっているよ」
彼はそう言って笑うのだ。
なら、と不安の陰がさす。存在していること、そこに飾られていること、それだけがうつくしい、貴石のようなものであればいいのか。
そう問うことができればよかった。
「ヒューゴ。おまえがそんなに不安に思うなら、そうだな」
彼の大きな手が項に触れた感覚。鳥肌が立って、けれどそれは不快を示すものではなかった。エレヴィスはそのまま、かすかに抑えつけるように力を込めて──それが決して、傷つけるためのものではないことを知っていた。
「エレヴィス、さま」
かすかに漏れてしまった言葉の先を奪うように。
彼の唇が、己の唇と重なる。今までの啄むような、愛おしむような、触れるだけのそれではなく。一気に心臓が高鳴った。だって、それは自分でも分かるくらいの愛情表現だったから。
なかば成り行きで開いてしまった唇の、その合間から彼の舌が滑り込んでくる。ぴちゃ、と立つ水音にどうしようもなく興奮している。エレヴィスの唾液に混ざる魔力が、ヒューゴのそれと混ざり合っているのさえ知覚できた。
息が苦しい。
「ン、ふ、ッ……!」
思わず甘やかな、吐息とも声ともつかぬものが漏れてしまう。けれど唇を離せない。彼から渡される魔力は甘やかで、もはや毒に近かった。酒を飲んだことはほとんどないけれど、酩酊というのはこんな感覚だろうか。
脳髄が蕩けて、何も考えられなくなる。
まずい、と警鐘を鳴らす本能に従って、自由な手でエレヴィスの胸を叩く。もう何だって好きになってしまいそうで、その触れた胸板の厚みさえ。
「ッは……」
ようやっと彼は唇を離してくれた。そこにあとを引く銀色。つう、と自分の口の端を唾液が垂れていくのがわかる。
「こういうのも悪くはないだろう?」
エレヴィスは笑う。キスという行為も、何もかも、エレヴィスから与えられるものしか自分は知らない。だからこれが異常なのかも正常なのかもわからない。願わくば、これからも知ることがなければいい。
ただそこに込められた愛が嬉しかった。もうやめてほしいと思ったとき、彼はすぐにそれを汲んでくれた。
全身を震わせて、ヒューゴは息を吐く。
「はい、エレヴィスさま」
「ああ。大好きだ、私の番。世界でいちばん愛している」
今度こそ、おやすみ。そう囁いて、エレヴィスの手がヒューゴの視界を覆った。暗転する。抱きしめられている感覚だけが残って。
「おやすみなさい、エレヴィス様」
手探りで、きゅ、と彼の衣の胸元をつかむ。魔力を交換した──もとは一つの、同じエレヴィスのものだけれど──からか、ひどく疲れたような眠気がある。
吸い込まれるように、ヒューゴは目を閉ざした。
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