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幽霊じゃねえよ
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彼女のハンカチは、深い海の色だった。そして魚の模様が散りばめられていた。
マキタさんは落としたハンカチをそのままにして、すたすた歩き続け、そして自分の住むマンションの中に消えた。ハンカチを拾い、僕はどうして良いかわからなかった。
僕が住む地方都市に、最近、暑いこの季節にふさわしい噂話があった。
夕方、ゆらゆら揺れるかげろうのような女の幽霊がいつのまにか自分の前を歩いている。ついて行くと、ふっと消えてしまう…SNSで誰かが言い始め、「ああ、それ聞いたことある」と誰かが同調し、そしていろいろな人々が「拡散」していた。「わたし見たよ」という人間まで現れた。
そして今日、定時で上がった僕は右手のカバンを重いなと思いつつ、いつもの道を歩く。そしてそのホラーな噂話を思い出す。最近の目撃談は、そういえばこの近所だったのだ。
7月のはじまり、日はまだ長く、空は明るい。
昼間より多少色が薄くなったような青空からは、「さっきお風呂入ったよ。そろそろ寝ようかな」という雰囲気を感じた。
しかし寝てしまうのはちょっともったいないよね、などと布団にごろごろしながらテレビをつけて片手でスマートフォンをいじり、生産性のかけらもない時間を過ごしているように見えた。
そんなだらだらした世界に、幽霊など出番はなさそうに思えた。
何メートルか前には、白いスカートを履いて長い髪を弾ませながらマキタさんが歩いている。肩にかけた大きめの薄いピンク色のバッグの口付近には、さきほどスーパーのインストアベーカリーで買った、いま流行りのスイーツのマリトッツォが入った紙袋のはしっこが見える。
道には、マキタさんの他に誰もいない。車も通ってなかった。
マキタさんは会社の同僚の女性だ。でも僕はあまり話しをしたことはない。彼女を真正面から見たこともほとんどない。業務上、会話をするときは胸のあたりを見ている。彼女はいつもゆっくりと品よく話をする。僕が少しあわてていても、にこっと笑ってくれる。
僕はマキタさんが他の人と話すときの、少し高めのゆっくりとした可愛い声を聞けるだけで幸せだった。
今日、彼女が履いている白いスカートは、先々週の日曜日にデパートで買ったばかりのものだ。足元までの長さのスカートだが、かなり軽そうに見える。彼女が進むと、まるで船が穏やかな海を優雅に進んでいるようだと思った。僕は、自分がその上を飛ぶカモメになっている姿を想像した。
彼女のスカートが揺れている、彼女の長い髪も揺れている。首も左右に揺れている。
あれ?
さらに、両腕がそろって大きく左に盆踊りをするかのように振り上げられる。そして次は右に振り上げられる。カバンもマリトッツォの袋も一緒に。
揺れている。
いやこれ、揺れすぎじゃない?
そしてついに体全体が頭のてっぺんを軸にして振り子のように左右に振れ始めた。
「なんだ?」
僕がつぶやいたあと、さらに彼女の振れが左右にはげしくなって、いやこれマキタさん宙に浮いてるよ、横になるまで、角度90度まで振れてるって、と、誰かに言いたくなった。でも僕の口からはうめき声みたいなものしか出ない。
するとぽんっというなんとも軽い音がして、マキタさんは消えていた。
「なんだ?」
僕もう一度言ったあとに、ちょうどマキタさんが消えたあたりから深い青色の布がふわふわと宙を舞っているのが見えた。
そして、その布はゆっくりと空気を泳ぐように、僕の前に落ちてくる。僕は左手でそれを受け止めた。
ハンカチだった。
あれ、このハンカチ、見たことある。
「よおよお、おまえさんよお」と声がした。
「ひえっ、どういうこと」
僕は左手でそのハンカチの端っこをつまんだ。まるで殺人事件の証拠品で被害者の血がついているんです、と言われたかのようなつまみかただと思った。
その甲高い声はハンカチから出ていた。
僕につままれたハンカチの真ん中あたりが、グーでパンチされたかのようにへこんだりもどったりしながら声を出していた。
「彼女はやめとけって」
ハンカチは言った。
間違いなく、ハンカチが言った。
僕は現実を認めざるをえなかった。そして、ハンカチが言った意味を考えた。
「彼女って、マキタさんのこと?」
と、僕はおそるおそる尋ねた。
「そ、マキタさんのこと」
「君、マキタさんじゃないの?」
「見りゃわかるだろ。俺はハンカチだよ」
ハンカチはそういう言い方で自己紹介をした。
「俺はマキタさんのフリをしていたんだよ」
僕の頭の中はジュース用に上から握られ搾り取られたみたいに、何もなくなっていた。そして、やっと言葉を思いついた。
「やめとけって、なに?」
「わかってるだろ?なあ、おまえ、ほんとにさあ」
ハンカチがだらん、と力をぬいた。なんだか呆れられてるように感じた。
そしてハンカチは気を取り直したように、また真ん中あたりがへこんだりもどったりしはじめた。
「おまえさあ、マキタさんの後をつけたりしただろ?」
「うっ…」
「帰り道でもないくせに、この道を通ってマキタさんがスーパーで買い物してるのも覗いて、先々週の日曜日にデパートで買い物してるのも覗いてただろ?」
僕はついに何も言えなくなった。
その通りだった。
別についていって何かしたいわけじゃなかったんだ。ただ、見ていたかった。マキタさんを遠くからでも、見ていたかった。
見続けるうちに、彼女が振り返って「あなたに気づいていたわ。いつも見ていてくれてありがとう」とにっこり笑ってくれたらいいなと思っていたんだ。
「おまえと彼女、冗談ひとつ言い合ったこともないくせになあ」
ハンカチは容赦ないことを言ったあとで、布のへこみが少しばかり弱くなった。それと同時に、声が少しばかり小さくなった。
「マキタさんってさあ、あの日曜の夜に恋人とデートしたんだぜ?」
「知ってるよ。彼女が恋人と待ち合わせして、二人が会ったところでもう僕は家に帰ったけど」
「そのあと、マキタさんは恋人を振ったんだぜ?そいつ、1年くらい前か、マキタさんに俺をプレゼントした相手なんだけどな。そのとき、こっそり俺に向かってマキタさんは言ったんだ"もう少し大人っぽいハンカチが良かったな"って。…悪かったな。で…で、振った理由なんだけどな、その恋人が会社をクビになったって告白したからなんだよ。もう贅沢なデートはできないって思ったんだろ。すがる恋人にマキタさんすごいこと言ったぜ?あなたには5円玉ほどの価値もないってさ」
僕の心臓に、さきほどから細いひび割れが数多くできていた。
「5円玉って結構価値があると思うんだけどな」
ハンカチはため息まじりに言った。
「さて、その週の木曜日だったか、マキタさんは、持ち歩いているこの俺のことを思い出したんだよ。あいつからのプレゼントだったってな。日曜にすがりつかれてムカムカしたことを思い出して、そうして俺をぽいっと路上に捨てたんだよ」
「捨てた」
と、僕つぶやくように言った。
「それをお前は"落とした"と思ったわけだ。純粋なやつだよな」
ハンカチの言葉には、皮肉の響きがあった。
「そして、おまえは俺を拾い、しばらく眺めて」
ハンカチがすうっと息を吸い込む音がしたあとで、
「もう一回道に捨てたよな。なにやってんだよ。拾ったら届けろよ」
「声が大きいよ」
「大きくもなるさ、二度も捨てられたんだよこっちは」
「悪かったよ」
と僕は謝った。
本当に申し訳ないと思った。
あのときのハンカチは、砂がついていて、確かにかわいそうだった。
「いや、まあ。うん」と、ハンカチの声は静かになった。
しゃべるときのへこみも、浅く、そして柔らかくなっていた。
「俺もいつまでも腹を立てたり落ち込んでいても仕方ないと思ってな、風まかせで旅をすることにしたんだ」
「たび?」
「おう、旅よ。自分じゃうまく動けないから、風に乗せてもらうのさ。最初はうまくいかなかったが、だんだん風にのるコツも覚えてきてな。ときどき、自分の体を引っ張ったり折ったりして、人間に化ける練習もするようになった。人間に化けられるようになっておけば、何かと便利だしな。でも青い人間なんて珍しいから、太陽の当たり方を工夫して。ほら。光があたれば色がちょっと変わるだろ?いろいろな色の髪とか服の人間になるようにしたんだ。さっきなんか、完璧マキタさんに見えただろ?」
「確かに」
と、僕はうなずいた。「すごいよ」
「ま、生きてゆくためにはなんでもしなくちゃな。俺は生きてゆくって決めたんだからな」
ハンカチのつまんでいない部分がぴん、と伸びた。まるで胸を張っているようだった。
たぶん、ハンカチの"練習"の姿が街の人に目撃されていたのだろう。そして幽霊話になっていった。
「でもなんで、僕の前に現れたの?」
と僕は聞いた。
「この街を出る前に、言っときたかったんだよ」
「捨てて本当に悪かったよ」
と、僕はもう一度謝った。
「まあ、それはいいよ。それにおまえ、捨てる前に俺についた砂つぶ払ってくれたしな。なんかおまえのことがかわいそうになってさ。おまえも、人の後ろなんてつけてないで、何もない道を自由に歩けよ。誰かの背中見てると、まわりの景色楽しめないんじゃねえの」
「ハンカチさんは、いま、楽しい?自由になって」
と、僕は聞いた。
「おう、楽しいぜ」
それを聞いて、僕は何度かうなずいた。
「そっか、よかった」
僕は右手のバッグの感触を確かめた。そしてハンカチをつまんでいた左手の指をすこしゆるめてから言った。
「マキタさんが"気の強い"人だったこと、なんとなく気づいてたよ。お店の店員さんに対する態度とか見てたら」
「そうか」
「悪い人じゃないよ、たぶん、強い人を求めているんだよ。自分にすがりついてなんてこない、どんなことにも負けない人をさ」
「そうかもな」
ハンカチの下の端が右にくるっとまわり、またもとに戻った。
僕は目に力をいれて、
「でも、言ってくれてありがとう」
と、言った。
「おう、いいってことよ。じゃあな」と、ハンカチは僕の手から離れ、青い体をひるがえし宙を舞った。
風がふき、ハンカチはそれに乗り、あっという間に3階建マンションの上を飛び、そして消えていった。
僕はしばらくハンカチの姿が消えた空を眺めていたが、
「さよなら、ハンカチさん」
そしてひとつ息をふうっとはいて、もとの道に視線を戻した。
通行人は、今も誰もいなかった。
僕は一歩、足を踏み出す。
マキタさんは落としたハンカチをそのままにして、すたすた歩き続け、そして自分の住むマンションの中に消えた。ハンカチを拾い、僕はどうして良いかわからなかった。
僕が住む地方都市に、最近、暑いこの季節にふさわしい噂話があった。
夕方、ゆらゆら揺れるかげろうのような女の幽霊がいつのまにか自分の前を歩いている。ついて行くと、ふっと消えてしまう…SNSで誰かが言い始め、「ああ、それ聞いたことある」と誰かが同調し、そしていろいろな人々が「拡散」していた。「わたし見たよ」という人間まで現れた。
そして今日、定時で上がった僕は右手のカバンを重いなと思いつつ、いつもの道を歩く。そしてそのホラーな噂話を思い出す。最近の目撃談は、そういえばこの近所だったのだ。
7月のはじまり、日はまだ長く、空は明るい。
昼間より多少色が薄くなったような青空からは、「さっきお風呂入ったよ。そろそろ寝ようかな」という雰囲気を感じた。
しかし寝てしまうのはちょっともったいないよね、などと布団にごろごろしながらテレビをつけて片手でスマートフォンをいじり、生産性のかけらもない時間を過ごしているように見えた。
そんなだらだらした世界に、幽霊など出番はなさそうに思えた。
何メートルか前には、白いスカートを履いて長い髪を弾ませながらマキタさんが歩いている。肩にかけた大きめの薄いピンク色のバッグの口付近には、さきほどスーパーのインストアベーカリーで買った、いま流行りのスイーツのマリトッツォが入った紙袋のはしっこが見える。
道には、マキタさんの他に誰もいない。車も通ってなかった。
マキタさんは会社の同僚の女性だ。でも僕はあまり話しをしたことはない。彼女を真正面から見たこともほとんどない。業務上、会話をするときは胸のあたりを見ている。彼女はいつもゆっくりと品よく話をする。僕が少しあわてていても、にこっと笑ってくれる。
僕はマキタさんが他の人と話すときの、少し高めのゆっくりとした可愛い声を聞けるだけで幸せだった。
今日、彼女が履いている白いスカートは、先々週の日曜日にデパートで買ったばかりのものだ。足元までの長さのスカートだが、かなり軽そうに見える。彼女が進むと、まるで船が穏やかな海を優雅に進んでいるようだと思った。僕は、自分がその上を飛ぶカモメになっている姿を想像した。
彼女のスカートが揺れている、彼女の長い髪も揺れている。首も左右に揺れている。
あれ?
さらに、両腕がそろって大きく左に盆踊りをするかのように振り上げられる。そして次は右に振り上げられる。カバンもマリトッツォの袋も一緒に。
揺れている。
いやこれ、揺れすぎじゃない?
そしてついに体全体が頭のてっぺんを軸にして振り子のように左右に振れ始めた。
「なんだ?」
僕がつぶやいたあと、さらに彼女の振れが左右にはげしくなって、いやこれマキタさん宙に浮いてるよ、横になるまで、角度90度まで振れてるって、と、誰かに言いたくなった。でも僕の口からはうめき声みたいなものしか出ない。
するとぽんっというなんとも軽い音がして、マキタさんは消えていた。
「なんだ?」
僕もう一度言ったあとに、ちょうどマキタさんが消えたあたりから深い青色の布がふわふわと宙を舞っているのが見えた。
そして、その布はゆっくりと空気を泳ぐように、僕の前に落ちてくる。僕は左手でそれを受け止めた。
ハンカチだった。
あれ、このハンカチ、見たことある。
「よおよお、おまえさんよお」と声がした。
「ひえっ、どういうこと」
僕は左手でそのハンカチの端っこをつまんだ。まるで殺人事件の証拠品で被害者の血がついているんです、と言われたかのようなつまみかただと思った。
その甲高い声はハンカチから出ていた。
僕につままれたハンカチの真ん中あたりが、グーでパンチされたかのようにへこんだりもどったりしながら声を出していた。
「彼女はやめとけって」
ハンカチは言った。
間違いなく、ハンカチが言った。
僕は現実を認めざるをえなかった。そして、ハンカチが言った意味を考えた。
「彼女って、マキタさんのこと?」
と、僕はおそるおそる尋ねた。
「そ、マキタさんのこと」
「君、マキタさんじゃないの?」
「見りゃわかるだろ。俺はハンカチだよ」
ハンカチはそういう言い方で自己紹介をした。
「俺はマキタさんのフリをしていたんだよ」
僕の頭の中はジュース用に上から握られ搾り取られたみたいに、何もなくなっていた。そして、やっと言葉を思いついた。
「やめとけって、なに?」
「わかってるだろ?なあ、おまえ、ほんとにさあ」
ハンカチがだらん、と力をぬいた。なんだか呆れられてるように感じた。
そしてハンカチは気を取り直したように、また真ん中あたりがへこんだりもどったりしはじめた。
「おまえさあ、マキタさんの後をつけたりしただろ?」
「うっ…」
「帰り道でもないくせに、この道を通ってマキタさんがスーパーで買い物してるのも覗いて、先々週の日曜日にデパートで買い物してるのも覗いてただろ?」
僕はついに何も言えなくなった。
その通りだった。
別についていって何かしたいわけじゃなかったんだ。ただ、見ていたかった。マキタさんを遠くからでも、見ていたかった。
見続けるうちに、彼女が振り返って「あなたに気づいていたわ。いつも見ていてくれてありがとう」とにっこり笑ってくれたらいいなと思っていたんだ。
「おまえと彼女、冗談ひとつ言い合ったこともないくせになあ」
ハンカチは容赦ないことを言ったあとで、布のへこみが少しばかり弱くなった。それと同時に、声が少しばかり小さくなった。
「マキタさんってさあ、あの日曜の夜に恋人とデートしたんだぜ?」
「知ってるよ。彼女が恋人と待ち合わせして、二人が会ったところでもう僕は家に帰ったけど」
「そのあと、マキタさんは恋人を振ったんだぜ?そいつ、1年くらい前か、マキタさんに俺をプレゼントした相手なんだけどな。そのとき、こっそり俺に向かってマキタさんは言ったんだ"もう少し大人っぽいハンカチが良かったな"って。…悪かったな。で…で、振った理由なんだけどな、その恋人が会社をクビになったって告白したからなんだよ。もう贅沢なデートはできないって思ったんだろ。すがる恋人にマキタさんすごいこと言ったぜ?あなたには5円玉ほどの価値もないってさ」
僕の心臓に、さきほどから細いひび割れが数多くできていた。
「5円玉って結構価値があると思うんだけどな」
ハンカチはため息まじりに言った。
「さて、その週の木曜日だったか、マキタさんは、持ち歩いているこの俺のことを思い出したんだよ。あいつからのプレゼントだったってな。日曜にすがりつかれてムカムカしたことを思い出して、そうして俺をぽいっと路上に捨てたんだよ」
「捨てた」
と、僕つぶやくように言った。
「それをお前は"落とした"と思ったわけだ。純粋なやつだよな」
ハンカチの言葉には、皮肉の響きがあった。
「そして、おまえは俺を拾い、しばらく眺めて」
ハンカチがすうっと息を吸い込む音がしたあとで、
「もう一回道に捨てたよな。なにやってんだよ。拾ったら届けろよ」
「声が大きいよ」
「大きくもなるさ、二度も捨てられたんだよこっちは」
「悪かったよ」
と僕は謝った。
本当に申し訳ないと思った。
あのときのハンカチは、砂がついていて、確かにかわいそうだった。
「いや、まあ。うん」と、ハンカチの声は静かになった。
しゃべるときのへこみも、浅く、そして柔らかくなっていた。
「俺もいつまでも腹を立てたり落ち込んでいても仕方ないと思ってな、風まかせで旅をすることにしたんだ」
「たび?」
「おう、旅よ。自分じゃうまく動けないから、風に乗せてもらうのさ。最初はうまくいかなかったが、だんだん風にのるコツも覚えてきてな。ときどき、自分の体を引っ張ったり折ったりして、人間に化ける練習もするようになった。人間に化けられるようになっておけば、何かと便利だしな。でも青い人間なんて珍しいから、太陽の当たり方を工夫して。ほら。光があたれば色がちょっと変わるだろ?いろいろな色の髪とか服の人間になるようにしたんだ。さっきなんか、完璧マキタさんに見えただろ?」
「確かに」
と、僕はうなずいた。「すごいよ」
「ま、生きてゆくためにはなんでもしなくちゃな。俺は生きてゆくって決めたんだからな」
ハンカチのつまんでいない部分がぴん、と伸びた。まるで胸を張っているようだった。
たぶん、ハンカチの"練習"の姿が街の人に目撃されていたのだろう。そして幽霊話になっていった。
「でもなんで、僕の前に現れたの?」
と僕は聞いた。
「この街を出る前に、言っときたかったんだよ」
「捨てて本当に悪かったよ」
と、僕はもう一度謝った。
「まあ、それはいいよ。それにおまえ、捨てる前に俺についた砂つぶ払ってくれたしな。なんかおまえのことがかわいそうになってさ。おまえも、人の後ろなんてつけてないで、何もない道を自由に歩けよ。誰かの背中見てると、まわりの景色楽しめないんじゃねえの」
「ハンカチさんは、いま、楽しい?自由になって」
と、僕は聞いた。
「おう、楽しいぜ」
それを聞いて、僕は何度かうなずいた。
「そっか、よかった」
僕は右手のバッグの感触を確かめた。そしてハンカチをつまんでいた左手の指をすこしゆるめてから言った。
「マキタさんが"気の強い"人だったこと、なんとなく気づいてたよ。お店の店員さんに対する態度とか見てたら」
「そうか」
「悪い人じゃないよ、たぶん、強い人を求めているんだよ。自分にすがりついてなんてこない、どんなことにも負けない人をさ」
「そうかもな」
ハンカチの下の端が右にくるっとまわり、またもとに戻った。
僕は目に力をいれて、
「でも、言ってくれてありがとう」
と、言った。
「おう、いいってことよ。じゃあな」と、ハンカチは僕の手から離れ、青い体をひるがえし宙を舞った。
風がふき、ハンカチはそれに乗り、あっという間に3階建マンションの上を飛び、そして消えていった。
僕はしばらくハンカチの姿が消えた空を眺めていたが、
「さよなら、ハンカチさん」
そしてひとつ息をふうっとはいて、もとの道に視線を戻した。
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僕は一歩、足を踏み出す。
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