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第5話
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カメコは大きな丸眼鏡をしていて、長い髪を後ろでひとつに束ねていた。ジーンズを履いて、この時期にしては少し厚めの大きめな上着を着ていた。
リクの青い光にひっそりと浮かび上がる彼女の姿は、マサは自分の記憶から飛び出てきたのではないかと思った。
あの高校の、あの夕暮れの時も同じ眼鏡、同じ髪型。そして同じ声。
本当は違うかもしれない。本当はあの時のカメコの髪型も眼鏡も声も違った。でも今のカメコの姿が、薄らぼんやりとしたマサの記憶の中に入り込み混ざり全てが滲んで溶けてゆく。今のカメコが記憶のカメコなのだ。
「ヤマハシさんは変わらない」
とマサは言った。カメコは笑って首をふった。
「スズキ君もね、すぐにわかった」
「俺はしわが増えた」
「わたしも」とカメコはまた笑った。青い光がゆらゆら揺れて、カメコの笑顔もまた揺れた。
「暗いっていいね。みんな見えない」
とカメコは言った。彼女の笑みは、昔とは少し違うのではないかとマサは思った。前は怯えを隠そうとするような笑みだった、今の笑みは、優しくて穏やかで、そして遠くにある失ったものを確認するような笑顔だった。
カメコは、さて、というような顔をして座るマサたちを見た。
「こっち座りなよ」とリクがマサの隣の場所を開けた。カメコはマサとリクの間に足を伸ばして座った。厚い上着を、うまく尻の下になるようにしていた。
「汚れるんじゃない?」とマサは言った。
「いいのよ、これは汚れても」
とカメコは答えた。そして
「ねえ、スズキ君ってB社のスズキさん?電話の声でそうじゃないかなとずっと思っていたの」
マサは「そう、B社のスズキさん」と答えた。「じゃあヤマハシさんはC社のよく電話に出てくれるヤマハシさん?」
「そうだよ」とカメコは言った。
「口の軽い営業がいるだろう」
「それあの人のこと?」とカメコはマサと交流会でしゃべった男性の名前を口にした。
「そう、その人のこと」
カメコは笑った。
そして、カメコはその口の軽い営業社員の口の軽いエピソードをひとつ話した。
これはマサもリクも笑った。
外で、かなり大きめのトラックが通る音がした。それは世界の外の音だ。
「わたし、覚えていることがある」とカメコが言った。
「高校の時の、あの夕暮れのこと。今でも何度も思い出す」
マサは外の音に耳をすませた。人は誰も通ってなさそうだなと思った。
「俺も覚えているよ。俺も何度も思い出す」とマサは言った。
それは、マサが高校3年の6月だった。体育祭が終わった頃。そろそろ本当に受験という部屋に入って鍵をかけなければならないころだった。
マサの母親が東京に帰ったという話はどこからか漏れていて、マサといちばん気の合わないクラスの男子生徒も知っていた。こいつにだけはバレたくなかったが、他の人が知りこいつだけ知らないという都合の良いことは起こらないよな。
マサはもともと、その男子生徒に興味はなかった。いたよなそんな人、というくらいの認識だった。
だから、なぜそこまで嫌われたのかわからないけれど、いつのまにか嫌われていた。
マサは中学生のときとは違い、きちんとまわりとうまくやっていこうと努力して、それなりに友人と呼べる人間もできた。
心にも思ってないことを言って、人を褒めることもできるようになった。
とは言え、そういう自分があまり好きではなかった。だから、カメコにも腹を立てることが多かったのかもしれないとマサは思った。でも、人は褒められたりにっこり笑われると嬉しいのだというのともわかった。だから、嘘でも人を喜ばせるのも、それほど悪いことではないのだ、そうマサは思うようになっていた。
しかし、どうやっても嫌われる人間もいるものだ。そいつは面と向かってマサを悪くは言わなかったが、悪口を言っているのは知っていたし、何を考えてるかわからない、本当は自分たちを馬鹿にしてるとかなんとか。金持ちの息子だから、貧しい人を馬鹿にしているとか。マサはいちいち相手にするのもアホらしいと思い、何も言わなかったが。
だがその日は何が気に入らなかったのか、彼は休み時間にわざわざマサの席までやって来て、クラス中に聞こえる声で直接言ってきたのだ。
「おまえ、母親に捨てられたんだな」
「捨てられてないよ」とマサは言い返した。
「つまらない返し方ですね」とその男子生徒は微笑んだ。
まあ確かにいまの返答はつまらなかったよな、そこはマサも納得するところだった。
でも、いくらなんでも酷すぎるよな、あいつがぎゃふんという返答はなんだっただろうとずっと考え、結果、マサはその日はどの授業でも文章がただのひもにしか見えなかった。勘弁してほしいとマサは思った。
後ろ頭から背中、腰にかけて地面に減り込みそうなほど重く、マサはさっさと家に帰りたかったが、その日に限り教師に少々面倒な頼まれごとをされ、やっと終わったことを報告し帰路につき、しばらく歩いた後で忘れ物を思い出した。
夕暮れだった。オレンジ色のこの上なく大きな夕陽が学校全体を照らしている。もうそろそろ部活も廊下は夕陽が当たらなくて奇妙に薄暗かった。どこかでピアノの音が聞こえた。ふた組だけ女子生徒とすれ違った。
教室に戻ると、忘れ物は机の中にあった。マサはほっとしてカバンに入れる。
ばあちゃんのくれたお守りだった。
マサは窓側の席を見た。昼間に言いがかりをつけてきた男子生徒の机だった。
彼は運動部で、まだ部活の活動中だった。
机の上には、彼の英語の教科書とノートが乱暴に放り出されていた。マサはそれをしばらく見ていた。なんでそんなものを机の上に放り出しているのかさっぱりわからなかったが、これを窓から放り投げたら、さぞかしすっきりするだろうなと思い、その自分の考えのつまらなさを自分で殴っていた。
そして、人の気配に気づく。
教室の入り口にカメコが立っていた。
「何をしているの?」
彼女は聞いた。それは、とても緊張感があって、硬くて、マサを責めるようでいて、マサを守るような声色だった。
「あれは、貴方を責めるために言ったことじゃないの」
と隣に座るカメコは言った。「ただ、わからなかったの。貴方がいる場所が、わたしがいる場所が。わたしは確かその日自習室で勉強をしていて、そろそろ帰ろうと思っていたの。でも単純に忘れ物をして教室に戻ってきて」
カメコは自分の髪の毛を指でいじった。
「廊下は電気がついていなかったわね。あの頃、放課後は電気つかなかったんだっけ?覚えてないな。でも暗かったら危ないよね。日が沈んだらつけるものだったのかな。とにかく廊下はすでに薄暗かった。教室の前の積み重なったロッカーは、体を折り曲げた人たちが重なっているようにも見えた」
カメコは首を傾げた。
「廊下がまるで洞窟の中のようだった。見知らぬ洞窟に紛れ込んで、ただただ、奥に行くしかないの」
マサの教室は、オレンジ色と、朱色と、紫色と、そして闇に覆われていた。窓側は夕陽の生み出すオレンジ色のはずだった。だがそのオレンジ色は、ほんとうのところは廊下側から迫ってくる闇が生み出したものだった。夕陽は闇が生み出すものだった。
闇がオレンジ色を吐き出していた。
ひといき、またひといき、闇は昼の間も闇だ。昼の間に溜まった息を今最後に吐き出している。それが、このケバケバしい、そして悲鳴のような大きなオレンジ色であり、朱色であり、紫色は、もう息をすることができない干からびた肉体のかけらだった。
どうしてただの夕暮れにそんなことを思ったのだろう。でもマサの耳に誰かがそう囁いたのだ。
昼の間に誰かを酷く憎む者が、この教室の中にずっといたのだ。それはこの教室の生徒たちの心の奥底の悲鳴だったのかもしれない。教師たちの悲鳴だったのかもしれない。あるいは、マサたちをまったく知らない誰かたちの悲鳴だったのかもしれない。
マサは自分も何かを吐き出さねばと思った。今ここしかない。吐き出すのはここしかないのだ。
マサには、父の姿が見えた。祖母の姿が見えた。三人であの大きな庭のある家で暮らしていた。幸せで満ち足りていて、祖母の蒸したおやつのあんまんは美味しく、父親を待ってぺこぺこになったお腹に入れる夕食は美味しく、二人にお休みを言って眠ると、夢は何も見ずに深い場所で眠ることができた。
そこには、母の姿も弟の姿もなかった。そのふたりは、マサに届かない場所にいてほしかった。
闇が吐き出すオレンジ色の中に、マサの安らかな眠りはあった。
「窓側はすごいオレンジ色だったわね。そして場所によっては朱色だったり紫になったりしていた。天井には、そうね、天井の蛍光灯はついてないの。うっすらこげ茶みたいなシミがあって、その上に青く光る点々が走っているのが見えた。その点は、ああ、このリクの光みたい。スズキ君はオレンジ色だったわよ、ものすごく。この上なく。冬の糖度の高いみかんよりもオレンジ色だったよ」
マサはそれを聞いて笑った。「それはすごく甘そうだ」
「ビタミンが多そうね」とカメコは言った。
「そしてわたしはそのオレンジは、きっと昼に地下で何かを呪いながら眠る夜の闇が、溜めてためて吐き出したものだと思ったの」
同じことを感じていたことに、マサは驚いた。でもその通りだと思った。
「きっとあそこの夜は、あの人たちと…あの学校で笑っている人たちと住む世界が違うの。笑っている人たちは、わたしたちを押さえつけているの。わたしはずっと話したかった。そしてスズキ君も同じだと思った。スズキ君も夜の闇も、みんな話したいの、そして話したら、それはお互いが受け入れる。そういうルールなの。それしかないの。それはみんなのお腹の中で腐っていくものかもしれないけれど」
「多分、俺は君の話を聞いたよ」
と、マサはつぶやいた。
「わたしは姉が大嫌いだということ、そして母が大好きだということ。うちは父親がいなかったけど、母が働いて娘ふたりを国立大なら卒業できるお金は貯めた。姉は高校一年生の時からアルバイトをし、自分の学費の足しにした。わたしはしなかった。母はその分をわたしの学費に回してくれたの。姉はきっとわたしが嫌いだっただろう。だからわたしも嫌いになってやった」
カメコはしばらく黙り、「嫌いだったの」と繰り返した。
マサは見えていた。
あの時、教室の入り口のカメコが吐き出したものを。
母親とカメコが仲良く暮らし、姉は罰を受けていた。姉は結婚しようと言った男に騙され、若い女性の負け、この世の全てを呪ってそのひとりぼっちの部屋に警察が入ってきて逮捕され、そんな中、カメコは安らかに夢を見ずに眠ることができたのだ。
それはカメコのただの夢だ。そんな現実あるわけない。でもそれは、カメコの腹の中で、生まれ、育って、憎むものだった。
カメコは「ごめんなさい」と言った。
青い光に包まれて、記憶の中と同じ声と髪型で。
「わたしはひどいことを思って、それを吐き出してしまったの。どうしてかわからないけれど、あの空間の呪いだと思う。あの教室にきっと恨みを残したものがいて、それは夜の中に潜んでいて、それがきっとわたしたちに影響を与えたのだと思う」
「悪霊みたいなもの?」
「そうかもしれない」
それは、誰かの悲鳴だったのだとマサは思った。
「俺は君の吐き出したものを見たよ。でも俺も吐き出した。君が見たかどうかはわからなかったけれど」
「見たわ。見てしまったの。ごめんなさい」
カメコの声は低かった。「でも貴方は酷くないわ。全然酷くない。貴方は、救われてほしいなと思ったよ」
「俺もそうだ」
あの日、教室が完全に暗くなってしまったあと、マサはどうやって帰ったか覚えてない。だが気づいたらマサは道の上にいて、薄暗い街灯の中を歩いていた。どこからかカレーの匂いがした。
もうすぐ家だ。
俺はカメコと会話したのか?
マサは覚えていなかった。
いや、会話なんてしなかったのだろう。俺たちはあのまま、互いの闇を腹の中に吸い込み、そして目を閉じただけだ。
あの時俺たちが目を覚まし、何か話せていたら、少し何かは変わっただろうか。カメコはカメコの呪いから解き放たれただろうか。
「ねえ僕が今感想を言っていい?」
とリクが会話に入ってきた。
「どうぞ」とマサは言った。
「君たちのおかげで、今、みかんが食べたい」
カメコがクスッと笑った。マサも笑った。
「リクと会ったのは3月のはじめかな」とカメコは言った。「まだ厚いオーバーを着ていた。もちろんわたしが」
「だって僕は着る必要がないからね」とリクは言った。
「わたしは一緒に暮らしていた母親が死んでお葬式を出して、遠くで暮らしていた姉から”その家はもう売ることになったから、貴方は5月中に出て行って”という連絡がきた」
「なんだって?」マサは聞いた。
「わたしは姉から家を追い出されることになったの。わたしは法律にはすごく疎くて、母の死後、姉が全てやってくれていて任せていたらこうなった」
「その、売ることはヤマハシさんは了承してたの?」
「してるわけない」
「そうだろうね」
「そう。でもわたしにはもはやどうすることもできなくなっていた。姉は、母に甘えていたわたしをひどい目に合わせることが正義だと信じていた。それだけ」
カメコは淡々と言った。
「もう3ヶ月後には自分の家にはいられないんだと、わたしは足を置く地面さえない。そう思って会社帰りに通るこのビルの前を通った時、何かに呼ばれたようにここに入ろうと思ったんだ。でも呼んだのはビルではなかったわね。呼んだのはわたしの中に潜むもの。姉の意思だったと思う。姉は電話に自分の意思を乗せていた。このビルはちょうど良い廃墟だっただけ。多分てっぺんから飛び降りれば…なんてね。そして階段の踊り場で、リクが”やめといた方がいいよ。飛び降りたって良いことは多分ない。君は誰かの体を乗っ取ることができるほど強くはない。そこら辺は君のお姉さんと違うな。君のお姉さんは、多分、君の体さえ乗っ取ることができる。半分そうなってるし。ねえ僕の話聞いてみる?”」
「そして、カメコは僕のひどい話を聞かされた」とリクは言った。
「本当にひどい話だったな」とカメコは言った。「どうしてリクがそんなひどい目にあわなきゃいけなかったんだろう」
リクは言った。「僕も思ったよ。どうしてカメコはそんなひどい目にあわなきゃいけなかったんだろうってね。そういう存在って、くじ引きみたいなものなのかな。五百人にひとりくらいでさ。”あなたはひどい目にあいます。誰かはあなたをひどい目にあわせないと、生きていけないんですよ。その誰かのために、あなたはひどい目にあってください”っていう、くじびき」
マサは「みかん食べたいな」とぼそっと言った。
リクは「まったくだね」とうなずいた。
カメコが「そうね」と言った。
マサは「ヤマハシさんは、もう、死ぬ気持ちはないんだよね?」と確認した。
カメコはうなずいた。「あれからここに何度か来て、リクと話してからね。よし、リクの分まで生きるとかそんな気合いの入った気持ちになったわけじゃないよ。ただ、もうちょっと歩いてみようと思っただけ。わたしは家を出てボロアパートへ移る。それを味わってみようと思っただけ。いつかまた、どこかでリクと話すために」
「僕は消えるよ」とリクは言う。
「そうね」とカメコは言った。カメコの指が自分の髪に触れようとして、そしてふいに下りて行った。「それでもどこかで話せると思うよ、どこかで、わたしたちは」彼女は上を向く、何もない、蛍光灯の外された跡だけ残る天井を見て。「わたしはもう覚えていなくて、母と住んでいた家も、ひとりのボロアパートのことも、忘れて。わたしは動物園に住んでるってことになっていて、自分のことを出来の悪いラクダか何かだと思っているかもしれないけれど、それでもね」
「じゃあ、して。動物園の話。いつか」
と、リクは言った。
「うん」
と、カメコはうなずいた。
マサは目を閉じた。青い光は目の隅だけに存在するような感じがした。このまま眠ってしまうだろうか。眠るのかもしれない。
「マサ、カメコ、そろそろここから出て行きなよ」とリクの静かな声がした。
リクの青い光にひっそりと浮かび上がる彼女の姿は、マサは自分の記憶から飛び出てきたのではないかと思った。
あの高校の、あの夕暮れの時も同じ眼鏡、同じ髪型。そして同じ声。
本当は違うかもしれない。本当はあの時のカメコの髪型も眼鏡も声も違った。でも今のカメコの姿が、薄らぼんやりとしたマサの記憶の中に入り込み混ざり全てが滲んで溶けてゆく。今のカメコが記憶のカメコなのだ。
「ヤマハシさんは変わらない」
とマサは言った。カメコは笑って首をふった。
「スズキ君もね、すぐにわかった」
「俺はしわが増えた」
「わたしも」とカメコはまた笑った。青い光がゆらゆら揺れて、カメコの笑顔もまた揺れた。
「暗いっていいね。みんな見えない」
とカメコは言った。彼女の笑みは、昔とは少し違うのではないかとマサは思った。前は怯えを隠そうとするような笑みだった、今の笑みは、優しくて穏やかで、そして遠くにある失ったものを確認するような笑顔だった。
カメコは、さて、というような顔をして座るマサたちを見た。
「こっち座りなよ」とリクがマサの隣の場所を開けた。カメコはマサとリクの間に足を伸ばして座った。厚い上着を、うまく尻の下になるようにしていた。
「汚れるんじゃない?」とマサは言った。
「いいのよ、これは汚れても」
とカメコは答えた。そして
「ねえ、スズキ君ってB社のスズキさん?電話の声でそうじゃないかなとずっと思っていたの」
マサは「そう、B社のスズキさん」と答えた。「じゃあヤマハシさんはC社のよく電話に出てくれるヤマハシさん?」
「そうだよ」とカメコは言った。
「口の軽い営業がいるだろう」
「それあの人のこと?」とカメコはマサと交流会でしゃべった男性の名前を口にした。
「そう、その人のこと」
カメコは笑った。
そして、カメコはその口の軽い営業社員の口の軽いエピソードをひとつ話した。
これはマサもリクも笑った。
外で、かなり大きめのトラックが通る音がした。それは世界の外の音だ。
「わたし、覚えていることがある」とカメコが言った。
「高校の時の、あの夕暮れのこと。今でも何度も思い出す」
マサは外の音に耳をすませた。人は誰も通ってなさそうだなと思った。
「俺も覚えているよ。俺も何度も思い出す」とマサは言った。
それは、マサが高校3年の6月だった。体育祭が終わった頃。そろそろ本当に受験という部屋に入って鍵をかけなければならないころだった。
マサの母親が東京に帰ったという話はどこからか漏れていて、マサといちばん気の合わないクラスの男子生徒も知っていた。こいつにだけはバレたくなかったが、他の人が知りこいつだけ知らないという都合の良いことは起こらないよな。
マサはもともと、その男子生徒に興味はなかった。いたよなそんな人、というくらいの認識だった。
だから、なぜそこまで嫌われたのかわからないけれど、いつのまにか嫌われていた。
マサは中学生のときとは違い、きちんとまわりとうまくやっていこうと努力して、それなりに友人と呼べる人間もできた。
心にも思ってないことを言って、人を褒めることもできるようになった。
とは言え、そういう自分があまり好きではなかった。だから、カメコにも腹を立てることが多かったのかもしれないとマサは思った。でも、人は褒められたりにっこり笑われると嬉しいのだというのともわかった。だから、嘘でも人を喜ばせるのも、それほど悪いことではないのだ、そうマサは思うようになっていた。
しかし、どうやっても嫌われる人間もいるものだ。そいつは面と向かってマサを悪くは言わなかったが、悪口を言っているのは知っていたし、何を考えてるかわからない、本当は自分たちを馬鹿にしてるとかなんとか。金持ちの息子だから、貧しい人を馬鹿にしているとか。マサはいちいち相手にするのもアホらしいと思い、何も言わなかったが。
だがその日は何が気に入らなかったのか、彼は休み時間にわざわざマサの席までやって来て、クラス中に聞こえる声で直接言ってきたのだ。
「おまえ、母親に捨てられたんだな」
「捨てられてないよ」とマサは言い返した。
「つまらない返し方ですね」とその男子生徒は微笑んだ。
まあ確かにいまの返答はつまらなかったよな、そこはマサも納得するところだった。
でも、いくらなんでも酷すぎるよな、あいつがぎゃふんという返答はなんだっただろうとずっと考え、結果、マサはその日はどの授業でも文章がただのひもにしか見えなかった。勘弁してほしいとマサは思った。
後ろ頭から背中、腰にかけて地面に減り込みそうなほど重く、マサはさっさと家に帰りたかったが、その日に限り教師に少々面倒な頼まれごとをされ、やっと終わったことを報告し帰路につき、しばらく歩いた後で忘れ物を思い出した。
夕暮れだった。オレンジ色のこの上なく大きな夕陽が学校全体を照らしている。もうそろそろ部活も廊下は夕陽が当たらなくて奇妙に薄暗かった。どこかでピアノの音が聞こえた。ふた組だけ女子生徒とすれ違った。
教室に戻ると、忘れ物は机の中にあった。マサはほっとしてカバンに入れる。
ばあちゃんのくれたお守りだった。
マサは窓側の席を見た。昼間に言いがかりをつけてきた男子生徒の机だった。
彼は運動部で、まだ部活の活動中だった。
机の上には、彼の英語の教科書とノートが乱暴に放り出されていた。マサはそれをしばらく見ていた。なんでそんなものを机の上に放り出しているのかさっぱりわからなかったが、これを窓から放り投げたら、さぞかしすっきりするだろうなと思い、その自分の考えのつまらなさを自分で殴っていた。
そして、人の気配に気づく。
教室の入り口にカメコが立っていた。
「何をしているの?」
彼女は聞いた。それは、とても緊張感があって、硬くて、マサを責めるようでいて、マサを守るような声色だった。
「あれは、貴方を責めるために言ったことじゃないの」
と隣に座るカメコは言った。「ただ、わからなかったの。貴方がいる場所が、わたしがいる場所が。わたしは確かその日自習室で勉強をしていて、そろそろ帰ろうと思っていたの。でも単純に忘れ物をして教室に戻ってきて」
カメコは自分の髪の毛を指でいじった。
「廊下は電気がついていなかったわね。あの頃、放課後は電気つかなかったんだっけ?覚えてないな。でも暗かったら危ないよね。日が沈んだらつけるものだったのかな。とにかく廊下はすでに薄暗かった。教室の前の積み重なったロッカーは、体を折り曲げた人たちが重なっているようにも見えた」
カメコは首を傾げた。
「廊下がまるで洞窟の中のようだった。見知らぬ洞窟に紛れ込んで、ただただ、奥に行くしかないの」
マサの教室は、オレンジ色と、朱色と、紫色と、そして闇に覆われていた。窓側は夕陽の生み出すオレンジ色のはずだった。だがそのオレンジ色は、ほんとうのところは廊下側から迫ってくる闇が生み出したものだった。夕陽は闇が生み出すものだった。
闇がオレンジ色を吐き出していた。
ひといき、またひといき、闇は昼の間も闇だ。昼の間に溜まった息を今最後に吐き出している。それが、このケバケバしい、そして悲鳴のような大きなオレンジ色であり、朱色であり、紫色は、もう息をすることができない干からびた肉体のかけらだった。
どうしてただの夕暮れにそんなことを思ったのだろう。でもマサの耳に誰かがそう囁いたのだ。
昼の間に誰かを酷く憎む者が、この教室の中にずっといたのだ。それはこの教室の生徒たちの心の奥底の悲鳴だったのかもしれない。教師たちの悲鳴だったのかもしれない。あるいは、マサたちをまったく知らない誰かたちの悲鳴だったのかもしれない。
マサは自分も何かを吐き出さねばと思った。今ここしかない。吐き出すのはここしかないのだ。
マサには、父の姿が見えた。祖母の姿が見えた。三人であの大きな庭のある家で暮らしていた。幸せで満ち足りていて、祖母の蒸したおやつのあんまんは美味しく、父親を待ってぺこぺこになったお腹に入れる夕食は美味しく、二人にお休みを言って眠ると、夢は何も見ずに深い場所で眠ることができた。
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闇が吐き出すオレンジ色の中に、マサの安らかな眠りはあった。
「窓側はすごいオレンジ色だったわね。そして場所によっては朱色だったり紫になったりしていた。天井には、そうね、天井の蛍光灯はついてないの。うっすらこげ茶みたいなシミがあって、その上に青く光る点々が走っているのが見えた。その点は、ああ、このリクの光みたい。スズキ君はオレンジ色だったわよ、ものすごく。この上なく。冬の糖度の高いみかんよりもオレンジ色だったよ」
マサはそれを聞いて笑った。「それはすごく甘そうだ」
「ビタミンが多そうね」とカメコは言った。
「そしてわたしはそのオレンジは、きっと昼に地下で何かを呪いながら眠る夜の闇が、溜めてためて吐き出したものだと思ったの」
同じことを感じていたことに、マサは驚いた。でもその通りだと思った。
「きっとあそこの夜は、あの人たちと…あの学校で笑っている人たちと住む世界が違うの。笑っている人たちは、わたしたちを押さえつけているの。わたしはずっと話したかった。そしてスズキ君も同じだと思った。スズキ君も夜の闇も、みんな話したいの、そして話したら、それはお互いが受け入れる。そういうルールなの。それしかないの。それはみんなのお腹の中で腐っていくものかもしれないけれど」
「多分、俺は君の話を聞いたよ」
と、マサはつぶやいた。
「わたしは姉が大嫌いだということ、そして母が大好きだということ。うちは父親がいなかったけど、母が働いて娘ふたりを国立大なら卒業できるお金は貯めた。姉は高校一年生の時からアルバイトをし、自分の学費の足しにした。わたしはしなかった。母はその分をわたしの学費に回してくれたの。姉はきっとわたしが嫌いだっただろう。だからわたしも嫌いになってやった」
カメコはしばらく黙り、「嫌いだったの」と繰り返した。
マサは見えていた。
あの時、教室の入り口のカメコが吐き出したものを。
母親とカメコが仲良く暮らし、姉は罰を受けていた。姉は結婚しようと言った男に騙され、若い女性の負け、この世の全てを呪ってそのひとりぼっちの部屋に警察が入ってきて逮捕され、そんな中、カメコは安らかに夢を見ずに眠ることができたのだ。
それはカメコのただの夢だ。そんな現実あるわけない。でもそれは、カメコの腹の中で、生まれ、育って、憎むものだった。
カメコは「ごめんなさい」と言った。
青い光に包まれて、記憶の中と同じ声と髪型で。
「わたしはひどいことを思って、それを吐き出してしまったの。どうしてかわからないけれど、あの空間の呪いだと思う。あの教室にきっと恨みを残したものがいて、それは夜の中に潜んでいて、それがきっとわたしたちに影響を与えたのだと思う」
「悪霊みたいなもの?」
「そうかもしれない」
それは、誰かの悲鳴だったのだとマサは思った。
「俺は君の吐き出したものを見たよ。でも俺も吐き出した。君が見たかどうかはわからなかったけれど」
「見たわ。見てしまったの。ごめんなさい」
カメコの声は低かった。「でも貴方は酷くないわ。全然酷くない。貴方は、救われてほしいなと思ったよ」
「俺もそうだ」
あの日、教室が完全に暗くなってしまったあと、マサはどうやって帰ったか覚えてない。だが気づいたらマサは道の上にいて、薄暗い街灯の中を歩いていた。どこからかカレーの匂いがした。
もうすぐ家だ。
俺はカメコと会話したのか?
マサは覚えていなかった。
いや、会話なんてしなかったのだろう。俺たちはあのまま、互いの闇を腹の中に吸い込み、そして目を閉じただけだ。
あの時俺たちが目を覚まし、何か話せていたら、少し何かは変わっただろうか。カメコはカメコの呪いから解き放たれただろうか。
「ねえ僕が今感想を言っていい?」
とリクが会話に入ってきた。
「どうぞ」とマサは言った。
「君たちのおかげで、今、みかんが食べたい」
カメコがクスッと笑った。マサも笑った。
「リクと会ったのは3月のはじめかな」とカメコは言った。「まだ厚いオーバーを着ていた。もちろんわたしが」
「だって僕は着る必要がないからね」とリクは言った。
「わたしは一緒に暮らしていた母親が死んでお葬式を出して、遠くで暮らしていた姉から”その家はもう売ることになったから、貴方は5月中に出て行って”という連絡がきた」
「なんだって?」マサは聞いた。
「わたしは姉から家を追い出されることになったの。わたしは法律にはすごく疎くて、母の死後、姉が全てやってくれていて任せていたらこうなった」
「その、売ることはヤマハシさんは了承してたの?」
「してるわけない」
「そうだろうね」
「そう。でもわたしにはもはやどうすることもできなくなっていた。姉は、母に甘えていたわたしをひどい目に合わせることが正義だと信じていた。それだけ」
カメコは淡々と言った。
「もう3ヶ月後には自分の家にはいられないんだと、わたしは足を置く地面さえない。そう思って会社帰りに通るこのビルの前を通った時、何かに呼ばれたようにここに入ろうと思ったんだ。でも呼んだのはビルではなかったわね。呼んだのはわたしの中に潜むもの。姉の意思だったと思う。姉は電話に自分の意思を乗せていた。このビルはちょうど良い廃墟だっただけ。多分てっぺんから飛び降りれば…なんてね。そして階段の踊り場で、リクが”やめといた方がいいよ。飛び降りたって良いことは多分ない。君は誰かの体を乗っ取ることができるほど強くはない。そこら辺は君のお姉さんと違うな。君のお姉さんは、多分、君の体さえ乗っ取ることができる。半分そうなってるし。ねえ僕の話聞いてみる?”」
「そして、カメコは僕のひどい話を聞かされた」とリクは言った。
「本当にひどい話だったな」とカメコは言った。「どうしてリクがそんなひどい目にあわなきゃいけなかったんだろう」
リクは言った。「僕も思ったよ。どうしてカメコはそんなひどい目にあわなきゃいけなかったんだろうってね。そういう存在って、くじ引きみたいなものなのかな。五百人にひとりくらいでさ。”あなたはひどい目にあいます。誰かはあなたをひどい目にあわせないと、生きていけないんですよ。その誰かのために、あなたはひどい目にあってください”っていう、くじびき」
マサは「みかん食べたいな」とぼそっと言った。
リクは「まったくだね」とうなずいた。
カメコが「そうね」と言った。
マサは「ヤマハシさんは、もう、死ぬ気持ちはないんだよね?」と確認した。
カメコはうなずいた。「あれからここに何度か来て、リクと話してからね。よし、リクの分まで生きるとかそんな気合いの入った気持ちになったわけじゃないよ。ただ、もうちょっと歩いてみようと思っただけ。わたしは家を出てボロアパートへ移る。それを味わってみようと思っただけ。いつかまた、どこかでリクと話すために」
「僕は消えるよ」とリクは言う。
「そうね」とカメコは言った。カメコの指が自分の髪に触れようとして、そしてふいに下りて行った。「それでもどこかで話せると思うよ、どこかで、わたしたちは」彼女は上を向く、何もない、蛍光灯の外された跡だけ残る天井を見て。「わたしはもう覚えていなくて、母と住んでいた家も、ひとりのボロアパートのことも、忘れて。わたしは動物園に住んでるってことになっていて、自分のことを出来の悪いラクダか何かだと思っているかもしれないけれど、それでもね」
「じゃあ、して。動物園の話。いつか」
と、リクは言った。
「うん」
と、カメコはうなずいた。
マサは目を閉じた。青い光は目の隅だけに存在するような感じがした。このまま眠ってしまうだろうか。眠るのかもしれない。
「マサ、カメコ、そろそろここから出て行きなよ」とリクの静かな声がした。
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