オドゥールは君のなか

えいぬ

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オドゥールは君のなか2

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「お客さん」から放たれた、予想していない変化球に対応出来ず、一瞬ともとれる間が空いとしまった。
 しかしながら、諒は宙を漂う意識を自身の元に手早く引き戻す。大丈夫、顔には出ていないはずだ。
 当の「お客さん」は、ガラス玉のような眼を笑顔に弛わせ、諒にニコニコと笑顔を向けている。先程のくしゃりとした笑顔ではないが、人柄を現すような、眩しい笑顔。
  諒は手繰り寄せた意識と共に、少しだけ考えを巡らせる。恐らくは知り合い、それも俺が街を離れる前からの。

 元来、物静かで落ち着いた性質の諒は、広い交友関係はもっていない。それは街を離れる前も、再度戻ってきた今でも変わりはない。
 そうなると、この「お客さん」が誰なのか、予測には難しくない。が、ここで諒の抱える少しの問題が、その予測を確信づける隔たりとなった。

 諒は、人の顔を覚えることを非常に苦手としていた。顔を覚えようにも、時間がかかる上、折角覚えた顔でも、年月が経過し会わない日々が続くと、記憶が霞みかかってしまい、ぼんやりとした、色褪せたフィルムのような記憶になっていくのだ。

 ただ1点の記憶を除いては。

 諒は予測を確信づける為にも、その特別な「1点」の情報を入手する必要があった。
 幸い、今後後輩となりうる「お客さん」は俺のことを知っているわけだし、多少の無礼には目を瞑ってくれるだろう。最悪、変な「先輩」と思われるだけで、大して痛手ではない。問題ではあるが、今後のフォローとすれば良い。
  「えーっと……ちょっとだけ失礼しますね」
 一通りの思考を終え、諒は一言、猫人の彼にそう伝えると、やや前屈み──猫人との間隔を詰めるように、諒は顔を彼に近付けた。猫人の彼は、その行動は気にも留めていないかのような表情だが、秋色付いた稲穂のような尻尾は、微かにピクリと反応している。
 それを傍目に、スンッと鼻を鳴らした諒は、猫人の彼から懐かしい、甘い匂いが鼻腔を刺激した。今の季節には余り嗅ぐことのない、秋の匂い。
 ふと、半年前──諒が丁度、この街に戻ってきた頃に考えていた事を思い出した。懐かしい、甘い匂いとぼんやりとした記憶の顔。

「……もしかして、キョウくん か?」
 諒は少しばかり眼を見開くと、半ば無意識に、猫人の彼にそう伝えた。稲穂のような尻彼の尾が、ゆらりと揺れている。
 「会いに来たよ、諒ちゃん!」
 クシャりとした眩しい笑顔と共に、鼻腔に拡がった懐かしい匂いは諒の色褪せたフィルムを彩色し、色鮮やかな記憶として呼び起こさせてくれた。

「えへ!変らないね、諒ちゃんは~」
 猫人の彼の人は、笑顔で、嫌みなく、寧ろ本当に懐かしがっているようで。
 
 それは諒にとっても嬉しい反応であり。
 しかしながら、ほんの少しの申し訳なさがチクリとした。

──

 昔からそうだった。
 長らく共に過ごした人の顔ですら、忘れてしまう。いや、記憶のピースが意図せず欠けてしまうというか。
 興味がないから忘れてしまうのだろうと思われてしまうが、実際は大切な人の顔ですら、記憶の中の深い深い階層に沈んでしまい、自力では思い出すことも困難である。
 幼少期に亡くなった祖父も、とてもよく面倒をみてくれ、可愛がってくれた。それなのに、写真がなければ顔も思い出せないのだ。滅多に顔をあわせない叔父や従妹の顔ですらも、手放しでは顔も思い出せない。
 嫌いではないし、むしろ好ましく思う人達のことを忘れてしまうのは、思い詰めるほどではないものの、なかなかに心苦しく感じてしまう。
 普段の生活や、日々のスケジュールを忘れてしまうことはない為、恐らくは病でもなく、個人差の範疇なのだろうとは思う。
 それでも。だからこそ。

 辛うじて残る記憶のフィルムは、楽しかった日々の場面と、──匂い。
 
 先祖返りの一種だろうか、諒は直近家系に連なる犬人の中でも、特に鼻が利くらしく、匂いだけは記憶が薄れず、諒の中に留まり続ける。
 物理的な匂いをはじめ、人の雰囲気……俗にいうフェロモンに近しいものも無意識に感じ取れているようで、人に関わる記憶は、それを要とし、紐づけていた。
 匂いがあれば思い出せるが、逆にいえばそうでしかない。日常生活に大きな支障はないが、少しばかりの不便とモヤモヤを伴うものであった。
 だから、半ば諦めていたのに。諦めきれていたのに。

 諒にとって、キョウとの再会はとても心を弾ませるとともに、それとは別の何かが、水墨を垂らした半紙の如ごとく、じわりと心に広がるものでもあった。

──

 久々の再会ともあり、少しばかり会話に華を咲かせたく思いつつも、諒はまだバイト勤務中である。
 諒は懐かしい気持ちを抑えて、とりあえず当たり障りのない会話と、キョウからの注文を受け付け、通常勤務に戻ることにした。
 猫人の彼、キョウもそこは察したようで、爽やかな笑顔に少しの陰りを見せつつも、がんばってねと諒を見送った。なんにせよ、今後は一緒に働くことになるのだ、話す機会には困らないであろう。
 それでも、一緒に働くことになる後輩が、昔の幼馴染で、とても仲の良かったキョウなのだ。こんな形で再会できるとは思ってもみなかった。諒はパタパタと、白い毛並みの尻尾を揺らした。
 
 キョウからの注文は、ダージリン・ティーに、ショコラムース。
 紅茶をいれるのは諒の担当である。お湯を沸かしつつ、片手間にポットとカップにお湯を注ぎ温める。茶葉をティースプーンにすくうと、華やかな香りが、諒の手元を漂流し、拡散していく。
 温めたポットに茶葉を入れ、お湯を注ぎ、蒸らす。
 勤務して半年ほどだが、慣れた手つきで諒は紅茶準備を進めていく。右半身には視線を感じながら。少しばかり背中が汗ばむ。
 
 10分程の後、窓から差し込む暖かな日差しと共に、いれたてのダージリン・ティーの香りに包まれ、ショコラムースを頬張るキョウの姿が、柔らかな昼下がりを彩る。
 諒は穏やかなその光景を目端に捉えつつ、少しばかりの申し訳なさを込めて、おまけのクッキーをこっそりソーサーに忍ばせたことを思い返し、尻尾を微かに揺らした。

 ……
 
 数十分後の会計時に、花を咲かせたかのような笑顔と共に、おまけのお礼と、諒のシフトスケジュールを聞かれたことは、想像に難しくないことであった。
 ソファー席の残り香と共に、懐かしく、甘い香りは、無邪気に諒の心に残り続けていた。
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