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1巻
1-2
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馬を無事に引き渡したローゼリアが救護舎に戻ると、マーガレットはまだ眠っていた。
「ロベルト様はどちらに?」
「馬車の御者から直接話を聞いてくるとのことです」
看護師が答えて、数分後にロベルトは戻ってきた。
「リア、さっきは本当に助かったよ。ありがとう。こっちも終わったよ」
「おかえりなさいませ。私にも詳細をお聞かせください」
部屋を変えて、ロベルトは語り始めた。
事の始まりは今日の夕方、学園でパーティが開かれたそうだ。
長期休暇の前に生徒たちで楽しもう、といった趣旨のパーティで、マーガレットも招待を受けたらしい。
「御者が、マーガレットの友人からの手紙を持っていたよ」
ロベルトが広げた手紙には、ローゼリアも見覚えのある伯爵家のサインが書かれていた。
貴族は、わざと綴りを変えたり文字に癖をつけたりした、他人には真似できないサインを持っていて、蝋印などが用意できない緊急時に使用する。手紙に書かれていたのはそのサインである。
「マーガレットの同級生だ。何度も手紙をくれている子だから間違いないと思う」
「ええ、私も見せてもらったことがありますわ」
その手紙は、こう始まっていた。
〝オズワルド王太子殿下が、マーガレット様に婚約破棄を言い渡しました〟
◇◆◇
時は少し戻り数刻前、舞台は学園に移る。
「マーガレット! 貴様のような家柄しか取り柄のない醜悪で浅ましい女にはほとほと愛想が尽きた! 今まで散々貴様の顔を立ててやったというのに、私の愛するエンジェラを陥れるなど許せん! 貴様との婚約は破棄だ!」
それは、学園で行われたパーティで突然始まった茶番だった。
三ヶ月前に特別編入をしてきた男爵令嬢、エンジェラ・ルーバーに対して、マーガレットが持ち物を隠した、悪口を流した、池に落とした、ドレスを切り裂いた……などなどと怒鳴るのは、マーガレットの婚約者にしてミーマニ王国王太子殿下、オズワルドだ。
彼の周りには騎士団長の息子や宰相の息子など、十数人の見目麗しい男子生徒たちが集まっており、オズワルドの腕にしがみつく愛くるしい少女、エンジェラを守るように囲んでいた。
「マーガレット様、ごめんなさい!! エンジェラが悪いんです……マーガレット様は誰にも言うなって……ぐすっ」
「君は悪くないよエンジェラ!」
「怖かったね、もう大丈夫だよ!」
わらわらとエンジェラにたかる周りの男たちは、さながら砂糖菓子に集まる蟻のようだ。
そんな蟻たちを、パーティに参加していた生徒たちは冷ややかな目で眺めている。
マーガレットとオズワルドの不仲は、学園に所属する生徒たちはもちろん、この国の貴族なら誰もが知る事実だ。
オズワルドの実母は第二側妃であり、伯爵家の出身である。
本来は王太子になれるはずがなかったオズワルドの立場を強めるために、王国建国時から続く名家であり、多くの姫君が嫁いでいったフィベルト公爵家の血を取り込もうという魂胆で決められた、完全な政略結婚。
王の勅命であるにもかかわらず、オズワルドはマーガレットに対して誰もが眉をひそめるような扱いをしてきた。
婚約してから一度として贈り物をしたこともなく、パーティでは仏頂面でファーストダンスを踊ると、役目は果たしたとばかりにほかの女性たちを侍らせ、飲んで食べて騒ぐばかり。
パーティに招かれた客人たちの対応はすべてマーガレットに丸投げ。
マーガレットは挨拶や親交のダンスに加え、気まぐれに癇癪を起こすオズワルドを諫め、ほうぼうへ謝罪に回る。彼女がオズワルドとともに訪れたパーティでは一口の水すら口にできない、ということは珍しくなかった。そんな姿を、多くの貴族たちが目の当たりにしている。
そして今、下位貴族の娘の腰を抱きながら、彼女にたかる蟻のごとき男たちとともに根拠のない言いがかりの罪状を高らかに読み上げるオズワルドの姿は、醜悪そのものだった。
オズワルドの喚き、エンジェラのすすり泣き、蟻男たちの怒声、すべてがただの騒音となり、生徒たちの心は冷たく凪いでいく。
その空気を感じ取ったのか、オズワルドは唾を飛ばしてさらに怒鳴り散らす。
マーガレットはそんな様子を哀れむように見ていた。
「婚約破棄と申されましたが、オズワルド様に私たちの婚約を取り消す権限はございません。そちらのエンジェラ嬢と仲良くなさりたいなら、どうぞお好きになさればよろしいかと存じます。しかし、お忙しい陛下と王妃様を困らせるような間違いだけは起こされませんように……王太子殿下?」
淡々と、無の表情で告げるマーガレットは冷静だった。
もう慣れてしまったのだ。婚約破棄という言葉も、下位貴族を侍らせている婚約者の姿にも。
心に波風すら立たなかった。
彼女の頭には、この後の生徒たちへの対応と教師たちへの報告、王城への報告書をまとめてから第三者に証言をもらって国王に進言など、この後やるべき仕事をどのようにさばいていけば長期休暇を削らずに済むかという事務的な考えしかなかった。
怒りも悲しみも、嫉妬心も羞恥心もなく、淡々とした思考。
そんな態度と周囲からの冷たい視線に耐えられなくなったのか、頭に血が上ったオズワルドはマーガレットの胸倉を掴み、美しいかんばせを思い切り殴りつけた。
「い、痛い! 指がぁ!!」
しかし、痛みに悶えたのはオズワルドのほうだった。
突然殴られても、マーガレットは声を上げなかった。だが衝撃で、身につけていたイヤリングが外れてオズワルドの足下に転がった。
それまで崩れなかった表情に焦りを浮かべ、マーガレットがそれを拾おうとしたのを見逃さなかったのが、エンジェラだ。
「オズワルド様!! 大丈夫ですか!?」
彼女はオズワルドを心配して駆け寄るふりをして、イヤリングを思い切り踏みつけた。
「あっ……!」
バキバキッという不吉な音に、マーガレットは大きく目を見開いた。
「きゃああっ! マーガレット様ごめんなさい! 謝りますからそんなに睨まないでくださいませ!」
エンジェラの甲高い声に、オズワルドはマーガレットに非難の目を向けた。
「オズワルド様! マーガレット様のイヤリングを壊してしまいましたぁ~睨んでます~」
「ふん、イヤリング一つで心の狭い女だな!」
オズワルドはエンジェラを抱きながら、初めて見るマーガレットの絶望の表情に恍惚を覚えた。
新しい玩具を与えられた子どものような笑みを浮かべて、粉々になったイヤリングを呆然と見つめるマーガレットに近づく。
「もう一つもよこせ!」
「い、いやです! これはお母様の形見……これだけは……!!」
「うるさい! 私に逆らうか公爵家風情が!!」
マーガレットは残ったイヤリングを耳から外し、両手のなかに固く握り締めた。
しかしオズワルドが目配せすると、男たちが嬉々としてマーガレットを取り囲み、腕や髪を引っ張り、背中を蹴り飛ばした。
マーガレットは亀のように丸くなりイヤリングを守ろうとしたが、男たちからの攻撃はどんどん激しくなり、無理やり立たされて突き飛ばされ、腕を踏みつけられて、ついにイヤリングはマーガレットの手のひらからこぼれた。
それをオズワルドは、男たちに押さえつけられたマーガレットの目の前で何度も踏みつぶし、原形がわからなくなるほどに粉々にした。
それを唖然として見つめることしかできない、ボロボロになったマーガレットを見て、オズワルドは満足したのか取り巻きを引き連れてパーティ会場を後にしていった。
醜悪な笑い声がホールに響き、そのあまりにもおぞましい光景に、生徒たちは凍りついたように立ち尽くす。
これがいずれ一国の王として君臨する男のやることなのか?
皆の顔に恐れと不安が浮かぶなか、パーティホールに数人の男女が駆け込んできた。
マーガレットの友人であり、王族に連なる上位貴族の家系、もしくは王家に仕える、発言力の強い親を持つ生徒たちだ。
パーティホールは、学園に数か所存在する。
オズワルドとエンジェラの取り巻きたちの策で、彼らへの招待状には違うホールが開催場所として記されていた。
全員同じ封筒を使われていたため、わざわざ互いに場所を確認することもしなかったのだ。
まさか、マーガレットを孤立させるためだけにそんなことをするなんて、誰が想像できるだろうか?
そしてオズワルドの作り上げた茶番の観客として招かれた生徒は、下位貴族の娘や家の後継者から外れた良家の次男や三男など、立場の弱い者ばかりだった。
暴力を振るわれるマーガレットを、ただ傍観することしかできなかった彼らを責めるのは難しい。
あそこで一言でもオズワルドの意に沿わない発言をしていたら、明日にはその者の家名は消えていたとしてもおかしくないのだ。
マーガレットの友人たちが初めからパーティに参加していれば、オズワルドの愚行を余さず記録し、国王と重鎮たちに報告が回っていたことだろう。
しかし、彼らは別のホールに誘導された。
事件の後、その場に居合わせた生徒たちから事の一部始終とオズワルドたちの言動の証言をできる限り収集したが、証言だけではあまりにも弱すぎる。
パーティの招待状についても、手違いだと言われればそれ以上の言及は難しい。
上位貴族の子女といえども一介の学生に過ぎず、未成年の彼らにできることは残っていない。
しかし、彼らの思いは一つに固まった。
オズワルドをこのまま王にしてはならない。
そして、マーガレットにこれ以上の我慢を強いることは、彼女の身に危険をもたらすことになるだろう、と。
マーガレットの身に起きたことの顛末が綴られた長い手紙は、インクが滲み、ひどい悪筆だった。
よく知った賢い少女の手紙からは想像もつかない、荒々しい怒りに満ちた文字だった。
「傷の記録を残せば王太子たちの犯行の証拠になります。逆に治ってしまえば証明が難しくなるし、マーガレット様が目覚めたら事を大きくしないように黙っていてほしいと言うだろうから、証拠と一緒に本人を帰します。手当てもせず付き添いもなく、傷ついたマーガレット様を馬車に乗せたことは私の独断ですので、処罰は私に……とのことだ」
「確かにこの怪我なら、一週間もあれば目立たなくなってしまうわね」
国王夫妻は今、隣国へ外交に出かけている。おそらく婚約破棄はオズワルドの独断だろう。
国王が帰ってきたら、事件が丸ごとなかったことにされる可能性は高い。
封筒には、ハンカチに包まれたイヤリングの欠片も入っていた。
原形を留めていなかったが、瑠璃色の珊瑚の欠片は間違いなく、マーガレットの母親、マリアの形見のイヤリングだった。
ロベルトとマーガレットの実母、マリアはマーガレットがまだ幼い頃に亡くなった。
マーガレットに残された記憶は、マリアがとても優しい母親で、幼き日の自分は母が大好きだったというだけのおぼろげなもの。
だからこそ、自分に託されたイヤリングは、マーガレットにとって母親の存在を確かなものにしてくれる何よりの宝だった。
それを取り上げられ、踏みにじられた。
どんなに悲しかっただろう。
どんなに無念だっただろう。
「うふふ、うふふふふ」
「リア、僕も同じ気持ちだよ」
「ええ、ロベルト様。うふふふふ」
ローゼリアの唇からは嗤いが溢れて止まらない。
国のために、自分のすべてを捧げて尽くしてきた少女への横暴は、届いてはいけないところに届いてしまったのだ。
――殴ったんだから、殴られても文句は言えないわよね? お馬鹿様。
ロベルトは、すぐさま学園にマーガレットの療養休暇を申し出る手紙をしたためた。
本来ならすでに卒業に必要な単位をすべて取得しているため、申請を出さなくても休めるのだが、マーガレットが学園に戻れないほど体調を崩しているという証明書は、後々の裁判で役に立つだろう。
そのための手紙なのだ。
そしてマーガレットが眠っている間に、傷の記録は一つ残さず取ることができた。
ドレスに残っていた足跡に、王都に一軒しかない靴屋のオーダーメイド品にのみ刻まれるマークが見られたため、サイズを測ればその足跡の主はすぐに特定された。
そこから芋づる式に、オズワルドと彼から滴る甘い蜜にたかる蟲たちの情報を得ることもできた。
そしてローゼリアは、マーガレットが寮に残してきた荷物を取りに行くという名目で学園に向かうことにした。
情報を目視することはとても重要なのだ。
「いいのかいリア? おそらくあまり楽しい母校見学にはならないよ」
「ええ。けれどロベルト様がマーガレットの兄なのは、あのお馬鹿様も知っていますからね。私が行くほうが、向こうも先手を取りにくいでしょう?」
できることなら学園の詳しい内情が知りたい。きちんと事実と状況を把握しなければ、効果的な攻撃方法は見えないのだから。
目を覚ましてからこの数日、マーガレットは空元気に振る舞っているようだった。
ロベルトが事情を知っていることを伏せて、学園で何があったのかと尋ねたところ、マーガレットは「オズワルド様から婚約破棄を言い渡されましたの……あの方のわがままを止められなかったのが悔しいですわ。私のお役目なのに」とだけ告げた。
怪我に関しては転んだ、イヤリングは転んだ拍子に壊してしまったとしか話さず、いつもと変わらず明るい様子を装っている。
おそらく、本当のことを話せばロベルトやローゼリアが激怒して、王太子だろうが学園だろうが叩き潰すために立ち上がると勘づいているのだ。
しかし、相手は腐っても王族。家を巻き込んではならないと、いざとなれば自分一人が罪を被れるようにと、事実を話そうとしないのだ。
――ごめんなさいね、マーガレット。貴女の気持ちは受け取れないわ。私もロベルト様も、可愛いマーガレットをここまで侮辱されて黙っていられるほど、大人しい人間ではないのよ。
「リア、頼んだよ。マーガレットのことは任せておいて」
「ええ、せっかくだから思い切り遊ばせてあげて。今まで王妃教育が忙しくてそんな時間、なかったんだもの」
たくさんの時間をあのお馬鹿様の妻となるために費やしてきたマーガレット。
たくさんたくさん努力してきたマーガレット。
「さてさて、お馬鹿様たちにご挨拶に参りましょうか」
ローゼリアはころころと、ころころと嗤う。
◇◆◇
ローゼリアは学園へ向かう馬車に揺られながら、ぼんやりと外を眺めていた。
馬車に描かれている家紋はフィベルト公爵家ではなく、彼女の生家であるドラニクス侯爵家のもの。
フィベルト家が動いていることを学園に悟られないほうが、下手に取り繕われなくていいだろうと思い、家から馬車を借りたのだ。
窓を流れる景色を眺めながら、ローゼリアは大きなため息をついた。
なぜこんなことになってしまったのか、と。
事の始まりは十二年前までさかのぼる。
当時、ロベルトとローゼリアは八歳。マーガレットは四歳。
まだ五歳だったあのお馬鹿様ことオズワルド王太子殿下は、元々第四王子だった。おまけに第二側妃の息子であり、母親の生家は伯爵家。
侯爵家生まれの正妃は二人の男児に恵まれ、隣国の元第二王女である第一側妃にも男児が一人生まれた。
オズワルドが王太子になれる可能性は限りなく低かったのだ。
あの恐ろしい流行り病さえなければ。
十二年前、このミーマニ王国に広がった流行り病でたくさんの国民が亡くなった。
病には特効薬が存在したが、その特効薬の要となる薬草はミーマニ王国の気候では育ちにくく、ほとんどを他国からの輸入に頼っていた。
不幸は続き、その薬草がどの国でも不作だったのだ。
ただでさえ他国から買いつければ割高になるのに、不作ならなおさらだ。
国全体に行き渡るほどの量を仕入れるとなると、病が終息しても国内が貧困に喘ぐことになるのは誰の目にも明らかだった。
そのため、病の特効薬が存在することは民に秘匿され、王族と有力な貴族が優先的に薬を支給された。
その後、貴族が自分の治める領地から人間を選別して薬を分け与える手筈となっていたが、それに反対する女性がいた。
ロベルトとマーガレットの実母、マリア・フィベルト公爵夫人であった。
「恐れながら、国王陛下は国内に争いの火種を放り込むおつもりですか? この病に苦しむ民が何人か、それにより親や子どもを亡くした民が何人かご存じでして? そんななかで突然病を克服した人間が現れれば、怒りの矛先を向けられるのは彼ら自身でございます。陛下におかれましては、命を救う薬を、人柱を作る毒に変えるおつもりですの?」
もちろん、問題はそれだけではない。
一度特効薬の存在を秘匿してしまった以上、薬の材料が足りないから大量生産ができないという事実を告げたところで民は信じるわけがない。
今もどこかに薬が大量に隠されているのかもしれない、と考えるのは当然のこと。
命の危機に立たされた人間の前では、権力など紙でできた壁のように脆くなるのだ。
貴族たちの屋敷や蔵に潜り込み、使用人たちを攫って薬のありかを聞き出そうと乱暴を働く。それ以外にも、貴族に不満を持った平民による暴動の危険はいくらでもある。
さらに恐ろしいのは、それにより再び病が広がる可能性があるということ。
一度薬を飲めばもう安心だと貴族たちは高を括っているが、病にかからなくなるわけではないのだ。むしろ、さらに恐ろしい病に発展した例は多く存在する。
「これらはすべて、憶測でも女の戯言でもございません。世界中に多数の実例が存在する、回避できる未来ですわ。国は人により成り立つものであり、国の病は薬で治るものではございません。そのことをゆめゆめお忘れなきよう」
その場に居合わせた国の重鎮や王族たちは、そこまで言われてもマリアを嘲笑って相手にしなかった。
何が起ころうとも自分たちには関係ないことだ、と考えていたのだろう。
マリアは支給された特効薬に関する書物を集めた。そしてその特効薬と、隣国で育てられている植物の蜜を混ぜると、即効性は薄れるものの症状が和らぐということ、その蜜を毎日一匙ずつ飲み続ければ、その間は病の進行を止められるという情報を得た。
マリアはその情報を王族にもほかの貴族にも惜しみなく共有したが、そんな手間のかかることをする必要はないと皆はせせら笑った。
それでもマリアはこの方法で、支給されたわずかな量の特効薬から、領民全員に行き渡る量の薬を確保することに成功した。子どもや赤ん坊には少ない量を継続して飲ませることで、症状を緩和させ、その子の親たちにも心の余裕を作ることができた。
ほかの貴族たちは、マリアを子どもに薬を満足に与えない悪女と罵ったが、マリアは気にも留めず蜜を使った薬を携えて領民たちの家を一軒ずつ回り、必要な分を与えて症状を記録し、手を握り、声をかけ、食べ物や毛布も支給した。
その方法はドラニクス侯爵領も取り入れ、二つの領地で物資などを支援し合ったおかげで、領民の死亡率は他領の一割にも満たなかった。
一方で、限られた領民にだけ薬を支給していた領地は、マリアが危惧していた事態が次々に起こり、病に苦しむ民たちが暴動を起こし、貴族の屋敷に火を放つという事件にまで発展した。
暴徒と化した民たちには武装した騎士すら近づかなかった。
すべてを失った人間がどれだけ恐ろしいかを一番理解していたのが、戦場を知る彼らだからだ。
そして少しずつ、マリアの意見と蜜による緩和策に対する見方も変わっていき、貴族たちは群がるようにマリアに教えを乞うた。
フィベルト領とドラニクス領では、ほとんどの民が病を克服していたこともあり、マリアは自領のことは信頼できる人間に任せて他領にも足を運ぶようになった。蜜と薬の配合の仕方や、飲み込めないほど疲弊している患者への対応など、必要な治療法を詳しく教えた。
貴族の多くは、患者に触れることすら忌避したが、民のなかにはマリアを手伝いたいと熱心に治療活動に取り組む者も少しずつ増えていった。
病に苦しむ民が減るにつれて、貴族たちも「女風情」と馬鹿にしていたことを忘れ、マリアを聖女、天使だと崇めた。
そして一年。マリアは病の終息を見届け、静かに亡くなった。
その死因は病によるものではなく、過労だった。
治療を施した後も寝ずに経過を記録し、少しでも多くの情報を取る。そんな生活を続けてきたがゆえのことだった。
蜜による治療法は効果が実証されてきたとはいえ、民たちの心は不安に満ちていた。
一人でも多くの民を救い、効果を実感させることで不安を取り除いていかなければ、この治療法を広めることはできない。
国はすでに何人生き残るか、その枠に誰を入れるかという政策で動いていた。それではダメなのだ。
死は悲しみを生む。悲しみは広がり、時に憎しみへ変わる。それは国を呑み込み、どんな薬も効かない病となるのだ。
その憎悪という病に呑まれた国に待つのは、ひと欠片の希望すら残らない滅亡。
数多の先人たちが、その恐ろしさを記録し、二度と繰り返されないよう未来を願ってきた。
マリアはそれを知っていたからこそ、命を削っても民を救ったのだ。
そして眠るように、息を引き取った。
自分の死を最後に、病による悲劇が幕を下ろすことを祈り、眠ったのだ。
マリアの死は美談として国中を駆け巡った。
国はどこにいってもマリアへの称賛と、彼女の死を惜しむ声に溢れた。マリア・フィベルトについて綴られた書物は飛ぶように売れ、吟遊詩人は次々と詩を作り、子どもたちがわらべ歌にして口ずさんだ。
それに焦ったのが王家の者たちだった。
国民たちの支持はフィベルト公爵家とマリアに大きく傾き、逆に特効薬の存在を秘匿して身内で独占し、安全な城内で悠々と過ごしていた王族に対する不満は大きかった。
自分たちへの支持をなんとか持ちなおそうと国王が提案したのが、学園の卒業を間近に控えた王太子に炊き出しや配給を行わせることだった。
当時は病の脅威こそ取り除けたものの、田畑の多くは手が足りず荒れ果て、作物もほとんど育っていない状況だった。
そこでパンや温かいスープを王太子が手ずから施すことで、国民たちからの好感度を稼ごうと考えたのだ。
当時の王太子だった第一王子は賛成し、第二王子も手伝い、張り切って配給に勤しんだ。
配給は好評だったが、ここで再び悲劇が起こった。
第一王子と第二王子が突然、血を吐いて倒れ、そのまま儚くなったのだ。
原因は、なんと病の特効薬だった。
二人は病が流行り始めた頃に薬を飲んでいた。実際にかかったわけではないが、予防になるだろうと考えたのだ。
そして配給を始める前にも、念のためにもう一度薬を飲んだ。それがいけなかったのだ。
実は特効薬に使われている薬草は、毒薬としても使われる。薬と毒は表裏一体とはよく言ったもので、服用する量や頻度でその効能は大きく変わる。特効薬は一度服薬したら、発病しない限り二年間は時間をおかなければ飲んではならないものだったのだ。
かつて流行り病が蔓延した国のほとんどは滅んでいたために、薬に関する情報は知られていないことが多く、薬そのものが希少であるせいで、発病していない者が短期間に二度も薬を飲んだ事例もなかった。
病にかかってから薬を飲んだのであれば、摂取した薬は本来の役割を果たすために効果を発揮し、毒となる成分も消えていく。しかし王子たちは発病もしていないのに二度も薬を飲んだため、薬に含まれる毒の成分が体内で致死量を超えてしまったのである。
原因がわかっても、即位を間近に控えた王太子と第二王子が同時に亡くなった事実は変わらない。
王家に残された王子は二人となった。
当時まだ十歳だった第三王子が立太子され、王太子教育が始まった。
しかし、第三王子を次期国王にすることには反対する貴族が多かった。
第三王子の母は側妃であり、彼女は隣国から嫁いできた王女だ。
隣国はつい十数年前まで何度も戦争を続けてきた国であり、側妃が嫁いできたのは和平条約の証としての政略的なものだった。
戦争で家族や恋人を失った者は多く、和平を結んだとはいえ、いまだにお互いの傷は癒えていない。
「ロベルト様はどちらに?」
「馬車の御者から直接話を聞いてくるとのことです」
看護師が答えて、数分後にロベルトは戻ってきた。
「リア、さっきは本当に助かったよ。ありがとう。こっちも終わったよ」
「おかえりなさいませ。私にも詳細をお聞かせください」
部屋を変えて、ロベルトは語り始めた。
事の始まりは今日の夕方、学園でパーティが開かれたそうだ。
長期休暇の前に生徒たちで楽しもう、といった趣旨のパーティで、マーガレットも招待を受けたらしい。
「御者が、マーガレットの友人からの手紙を持っていたよ」
ロベルトが広げた手紙には、ローゼリアも見覚えのある伯爵家のサインが書かれていた。
貴族は、わざと綴りを変えたり文字に癖をつけたりした、他人には真似できないサインを持っていて、蝋印などが用意できない緊急時に使用する。手紙に書かれていたのはそのサインである。
「マーガレットの同級生だ。何度も手紙をくれている子だから間違いないと思う」
「ええ、私も見せてもらったことがありますわ」
その手紙は、こう始まっていた。
〝オズワルド王太子殿下が、マーガレット様に婚約破棄を言い渡しました〟
◇◆◇
時は少し戻り数刻前、舞台は学園に移る。
「マーガレット! 貴様のような家柄しか取り柄のない醜悪で浅ましい女にはほとほと愛想が尽きた! 今まで散々貴様の顔を立ててやったというのに、私の愛するエンジェラを陥れるなど許せん! 貴様との婚約は破棄だ!」
それは、学園で行われたパーティで突然始まった茶番だった。
三ヶ月前に特別編入をしてきた男爵令嬢、エンジェラ・ルーバーに対して、マーガレットが持ち物を隠した、悪口を流した、池に落とした、ドレスを切り裂いた……などなどと怒鳴るのは、マーガレットの婚約者にしてミーマニ王国王太子殿下、オズワルドだ。
彼の周りには騎士団長の息子や宰相の息子など、十数人の見目麗しい男子生徒たちが集まっており、オズワルドの腕にしがみつく愛くるしい少女、エンジェラを守るように囲んでいた。
「マーガレット様、ごめんなさい!! エンジェラが悪いんです……マーガレット様は誰にも言うなって……ぐすっ」
「君は悪くないよエンジェラ!」
「怖かったね、もう大丈夫だよ!」
わらわらとエンジェラにたかる周りの男たちは、さながら砂糖菓子に集まる蟻のようだ。
そんな蟻たちを、パーティに参加していた生徒たちは冷ややかな目で眺めている。
マーガレットとオズワルドの不仲は、学園に所属する生徒たちはもちろん、この国の貴族なら誰もが知る事実だ。
オズワルドの実母は第二側妃であり、伯爵家の出身である。
本来は王太子になれるはずがなかったオズワルドの立場を強めるために、王国建国時から続く名家であり、多くの姫君が嫁いでいったフィベルト公爵家の血を取り込もうという魂胆で決められた、完全な政略結婚。
王の勅命であるにもかかわらず、オズワルドはマーガレットに対して誰もが眉をひそめるような扱いをしてきた。
婚約してから一度として贈り物をしたこともなく、パーティでは仏頂面でファーストダンスを踊ると、役目は果たしたとばかりにほかの女性たちを侍らせ、飲んで食べて騒ぐばかり。
パーティに招かれた客人たちの対応はすべてマーガレットに丸投げ。
マーガレットは挨拶や親交のダンスに加え、気まぐれに癇癪を起こすオズワルドを諫め、ほうぼうへ謝罪に回る。彼女がオズワルドとともに訪れたパーティでは一口の水すら口にできない、ということは珍しくなかった。そんな姿を、多くの貴族たちが目の当たりにしている。
そして今、下位貴族の娘の腰を抱きながら、彼女にたかる蟻のごとき男たちとともに根拠のない言いがかりの罪状を高らかに読み上げるオズワルドの姿は、醜悪そのものだった。
オズワルドの喚き、エンジェラのすすり泣き、蟻男たちの怒声、すべてがただの騒音となり、生徒たちの心は冷たく凪いでいく。
その空気を感じ取ったのか、オズワルドは唾を飛ばしてさらに怒鳴り散らす。
マーガレットはそんな様子を哀れむように見ていた。
「婚約破棄と申されましたが、オズワルド様に私たちの婚約を取り消す権限はございません。そちらのエンジェラ嬢と仲良くなさりたいなら、どうぞお好きになさればよろしいかと存じます。しかし、お忙しい陛下と王妃様を困らせるような間違いだけは起こされませんように……王太子殿下?」
淡々と、無の表情で告げるマーガレットは冷静だった。
もう慣れてしまったのだ。婚約破棄という言葉も、下位貴族を侍らせている婚約者の姿にも。
心に波風すら立たなかった。
彼女の頭には、この後の生徒たちへの対応と教師たちへの報告、王城への報告書をまとめてから第三者に証言をもらって国王に進言など、この後やるべき仕事をどのようにさばいていけば長期休暇を削らずに済むかという事務的な考えしかなかった。
怒りも悲しみも、嫉妬心も羞恥心もなく、淡々とした思考。
そんな態度と周囲からの冷たい視線に耐えられなくなったのか、頭に血が上ったオズワルドはマーガレットの胸倉を掴み、美しいかんばせを思い切り殴りつけた。
「い、痛い! 指がぁ!!」
しかし、痛みに悶えたのはオズワルドのほうだった。
突然殴られても、マーガレットは声を上げなかった。だが衝撃で、身につけていたイヤリングが外れてオズワルドの足下に転がった。
それまで崩れなかった表情に焦りを浮かべ、マーガレットがそれを拾おうとしたのを見逃さなかったのが、エンジェラだ。
「オズワルド様!! 大丈夫ですか!?」
彼女はオズワルドを心配して駆け寄るふりをして、イヤリングを思い切り踏みつけた。
「あっ……!」
バキバキッという不吉な音に、マーガレットは大きく目を見開いた。
「きゃああっ! マーガレット様ごめんなさい! 謝りますからそんなに睨まないでくださいませ!」
エンジェラの甲高い声に、オズワルドはマーガレットに非難の目を向けた。
「オズワルド様! マーガレット様のイヤリングを壊してしまいましたぁ~睨んでます~」
「ふん、イヤリング一つで心の狭い女だな!」
オズワルドはエンジェラを抱きながら、初めて見るマーガレットの絶望の表情に恍惚を覚えた。
新しい玩具を与えられた子どものような笑みを浮かべて、粉々になったイヤリングを呆然と見つめるマーガレットに近づく。
「もう一つもよこせ!」
「い、いやです! これはお母様の形見……これだけは……!!」
「うるさい! 私に逆らうか公爵家風情が!!」
マーガレットは残ったイヤリングを耳から外し、両手のなかに固く握り締めた。
しかしオズワルドが目配せすると、男たちが嬉々としてマーガレットを取り囲み、腕や髪を引っ張り、背中を蹴り飛ばした。
マーガレットは亀のように丸くなりイヤリングを守ろうとしたが、男たちからの攻撃はどんどん激しくなり、無理やり立たされて突き飛ばされ、腕を踏みつけられて、ついにイヤリングはマーガレットの手のひらからこぼれた。
それをオズワルドは、男たちに押さえつけられたマーガレットの目の前で何度も踏みつぶし、原形がわからなくなるほどに粉々にした。
それを唖然として見つめることしかできない、ボロボロになったマーガレットを見て、オズワルドは満足したのか取り巻きを引き連れてパーティ会場を後にしていった。
醜悪な笑い声がホールに響き、そのあまりにもおぞましい光景に、生徒たちは凍りついたように立ち尽くす。
これがいずれ一国の王として君臨する男のやることなのか?
皆の顔に恐れと不安が浮かぶなか、パーティホールに数人の男女が駆け込んできた。
マーガレットの友人であり、王族に連なる上位貴族の家系、もしくは王家に仕える、発言力の強い親を持つ生徒たちだ。
パーティホールは、学園に数か所存在する。
オズワルドとエンジェラの取り巻きたちの策で、彼らへの招待状には違うホールが開催場所として記されていた。
全員同じ封筒を使われていたため、わざわざ互いに場所を確認することもしなかったのだ。
まさか、マーガレットを孤立させるためだけにそんなことをするなんて、誰が想像できるだろうか?
そしてオズワルドの作り上げた茶番の観客として招かれた生徒は、下位貴族の娘や家の後継者から外れた良家の次男や三男など、立場の弱い者ばかりだった。
暴力を振るわれるマーガレットを、ただ傍観することしかできなかった彼らを責めるのは難しい。
あそこで一言でもオズワルドの意に沿わない発言をしていたら、明日にはその者の家名は消えていたとしてもおかしくないのだ。
マーガレットの友人たちが初めからパーティに参加していれば、オズワルドの愚行を余さず記録し、国王と重鎮たちに報告が回っていたことだろう。
しかし、彼らは別のホールに誘導された。
事件の後、その場に居合わせた生徒たちから事の一部始終とオズワルドたちの言動の証言をできる限り収集したが、証言だけではあまりにも弱すぎる。
パーティの招待状についても、手違いだと言われればそれ以上の言及は難しい。
上位貴族の子女といえども一介の学生に過ぎず、未成年の彼らにできることは残っていない。
しかし、彼らの思いは一つに固まった。
オズワルドをこのまま王にしてはならない。
そして、マーガレットにこれ以上の我慢を強いることは、彼女の身に危険をもたらすことになるだろう、と。
マーガレットの身に起きたことの顛末が綴られた長い手紙は、インクが滲み、ひどい悪筆だった。
よく知った賢い少女の手紙からは想像もつかない、荒々しい怒りに満ちた文字だった。
「傷の記録を残せば王太子たちの犯行の証拠になります。逆に治ってしまえば証明が難しくなるし、マーガレット様が目覚めたら事を大きくしないように黙っていてほしいと言うだろうから、証拠と一緒に本人を帰します。手当てもせず付き添いもなく、傷ついたマーガレット様を馬車に乗せたことは私の独断ですので、処罰は私に……とのことだ」
「確かにこの怪我なら、一週間もあれば目立たなくなってしまうわね」
国王夫妻は今、隣国へ外交に出かけている。おそらく婚約破棄はオズワルドの独断だろう。
国王が帰ってきたら、事件が丸ごとなかったことにされる可能性は高い。
封筒には、ハンカチに包まれたイヤリングの欠片も入っていた。
原形を留めていなかったが、瑠璃色の珊瑚の欠片は間違いなく、マーガレットの母親、マリアの形見のイヤリングだった。
ロベルトとマーガレットの実母、マリアはマーガレットがまだ幼い頃に亡くなった。
マーガレットに残された記憶は、マリアがとても優しい母親で、幼き日の自分は母が大好きだったというだけのおぼろげなもの。
だからこそ、自分に託されたイヤリングは、マーガレットにとって母親の存在を確かなものにしてくれる何よりの宝だった。
それを取り上げられ、踏みにじられた。
どんなに悲しかっただろう。
どんなに無念だっただろう。
「うふふ、うふふふふ」
「リア、僕も同じ気持ちだよ」
「ええ、ロベルト様。うふふふふ」
ローゼリアの唇からは嗤いが溢れて止まらない。
国のために、自分のすべてを捧げて尽くしてきた少女への横暴は、届いてはいけないところに届いてしまったのだ。
――殴ったんだから、殴られても文句は言えないわよね? お馬鹿様。
ロベルトは、すぐさま学園にマーガレットの療養休暇を申し出る手紙をしたためた。
本来ならすでに卒業に必要な単位をすべて取得しているため、申請を出さなくても休めるのだが、マーガレットが学園に戻れないほど体調を崩しているという証明書は、後々の裁判で役に立つだろう。
そのための手紙なのだ。
そしてマーガレットが眠っている間に、傷の記録は一つ残さず取ることができた。
ドレスに残っていた足跡に、王都に一軒しかない靴屋のオーダーメイド品にのみ刻まれるマークが見られたため、サイズを測ればその足跡の主はすぐに特定された。
そこから芋づる式に、オズワルドと彼から滴る甘い蜜にたかる蟲たちの情報を得ることもできた。
そしてローゼリアは、マーガレットが寮に残してきた荷物を取りに行くという名目で学園に向かうことにした。
情報を目視することはとても重要なのだ。
「いいのかいリア? おそらくあまり楽しい母校見学にはならないよ」
「ええ。けれどロベルト様がマーガレットの兄なのは、あのお馬鹿様も知っていますからね。私が行くほうが、向こうも先手を取りにくいでしょう?」
できることなら学園の詳しい内情が知りたい。きちんと事実と状況を把握しなければ、効果的な攻撃方法は見えないのだから。
目を覚ましてからこの数日、マーガレットは空元気に振る舞っているようだった。
ロベルトが事情を知っていることを伏せて、学園で何があったのかと尋ねたところ、マーガレットは「オズワルド様から婚約破棄を言い渡されましたの……あの方のわがままを止められなかったのが悔しいですわ。私のお役目なのに」とだけ告げた。
怪我に関しては転んだ、イヤリングは転んだ拍子に壊してしまったとしか話さず、いつもと変わらず明るい様子を装っている。
おそらく、本当のことを話せばロベルトやローゼリアが激怒して、王太子だろうが学園だろうが叩き潰すために立ち上がると勘づいているのだ。
しかし、相手は腐っても王族。家を巻き込んではならないと、いざとなれば自分一人が罪を被れるようにと、事実を話そうとしないのだ。
――ごめんなさいね、マーガレット。貴女の気持ちは受け取れないわ。私もロベルト様も、可愛いマーガレットをここまで侮辱されて黙っていられるほど、大人しい人間ではないのよ。
「リア、頼んだよ。マーガレットのことは任せておいて」
「ええ、せっかくだから思い切り遊ばせてあげて。今まで王妃教育が忙しくてそんな時間、なかったんだもの」
たくさんの時間をあのお馬鹿様の妻となるために費やしてきたマーガレット。
たくさんたくさん努力してきたマーガレット。
「さてさて、お馬鹿様たちにご挨拶に参りましょうか」
ローゼリアはころころと、ころころと嗤う。
◇◆◇
ローゼリアは学園へ向かう馬車に揺られながら、ぼんやりと外を眺めていた。
馬車に描かれている家紋はフィベルト公爵家ではなく、彼女の生家であるドラニクス侯爵家のもの。
フィベルト家が動いていることを学園に悟られないほうが、下手に取り繕われなくていいだろうと思い、家から馬車を借りたのだ。
窓を流れる景色を眺めながら、ローゼリアは大きなため息をついた。
なぜこんなことになってしまったのか、と。
事の始まりは十二年前までさかのぼる。
当時、ロベルトとローゼリアは八歳。マーガレットは四歳。
まだ五歳だったあのお馬鹿様ことオズワルド王太子殿下は、元々第四王子だった。おまけに第二側妃の息子であり、母親の生家は伯爵家。
侯爵家生まれの正妃は二人の男児に恵まれ、隣国の元第二王女である第一側妃にも男児が一人生まれた。
オズワルドが王太子になれる可能性は限りなく低かったのだ。
あの恐ろしい流行り病さえなければ。
十二年前、このミーマニ王国に広がった流行り病でたくさんの国民が亡くなった。
病には特効薬が存在したが、その特効薬の要となる薬草はミーマニ王国の気候では育ちにくく、ほとんどを他国からの輸入に頼っていた。
不幸は続き、その薬草がどの国でも不作だったのだ。
ただでさえ他国から買いつければ割高になるのに、不作ならなおさらだ。
国全体に行き渡るほどの量を仕入れるとなると、病が終息しても国内が貧困に喘ぐことになるのは誰の目にも明らかだった。
そのため、病の特効薬が存在することは民に秘匿され、王族と有力な貴族が優先的に薬を支給された。
その後、貴族が自分の治める領地から人間を選別して薬を分け与える手筈となっていたが、それに反対する女性がいた。
ロベルトとマーガレットの実母、マリア・フィベルト公爵夫人であった。
「恐れながら、国王陛下は国内に争いの火種を放り込むおつもりですか? この病に苦しむ民が何人か、それにより親や子どもを亡くした民が何人かご存じでして? そんななかで突然病を克服した人間が現れれば、怒りの矛先を向けられるのは彼ら自身でございます。陛下におかれましては、命を救う薬を、人柱を作る毒に変えるおつもりですの?」
もちろん、問題はそれだけではない。
一度特効薬の存在を秘匿してしまった以上、薬の材料が足りないから大量生産ができないという事実を告げたところで民は信じるわけがない。
今もどこかに薬が大量に隠されているのかもしれない、と考えるのは当然のこと。
命の危機に立たされた人間の前では、権力など紙でできた壁のように脆くなるのだ。
貴族たちの屋敷や蔵に潜り込み、使用人たちを攫って薬のありかを聞き出そうと乱暴を働く。それ以外にも、貴族に不満を持った平民による暴動の危険はいくらでもある。
さらに恐ろしいのは、それにより再び病が広がる可能性があるということ。
一度薬を飲めばもう安心だと貴族たちは高を括っているが、病にかからなくなるわけではないのだ。むしろ、さらに恐ろしい病に発展した例は多く存在する。
「これらはすべて、憶測でも女の戯言でもございません。世界中に多数の実例が存在する、回避できる未来ですわ。国は人により成り立つものであり、国の病は薬で治るものではございません。そのことをゆめゆめお忘れなきよう」
その場に居合わせた国の重鎮や王族たちは、そこまで言われてもマリアを嘲笑って相手にしなかった。
何が起ころうとも自分たちには関係ないことだ、と考えていたのだろう。
マリアは支給された特効薬に関する書物を集めた。そしてその特効薬と、隣国で育てられている植物の蜜を混ぜると、即効性は薄れるものの症状が和らぐということ、その蜜を毎日一匙ずつ飲み続ければ、その間は病の進行を止められるという情報を得た。
マリアはその情報を王族にもほかの貴族にも惜しみなく共有したが、そんな手間のかかることをする必要はないと皆はせせら笑った。
それでもマリアはこの方法で、支給されたわずかな量の特効薬から、領民全員に行き渡る量の薬を確保することに成功した。子どもや赤ん坊には少ない量を継続して飲ませることで、症状を緩和させ、その子の親たちにも心の余裕を作ることができた。
ほかの貴族たちは、マリアを子どもに薬を満足に与えない悪女と罵ったが、マリアは気にも留めず蜜を使った薬を携えて領民たちの家を一軒ずつ回り、必要な分を与えて症状を記録し、手を握り、声をかけ、食べ物や毛布も支給した。
その方法はドラニクス侯爵領も取り入れ、二つの領地で物資などを支援し合ったおかげで、領民の死亡率は他領の一割にも満たなかった。
一方で、限られた領民にだけ薬を支給していた領地は、マリアが危惧していた事態が次々に起こり、病に苦しむ民たちが暴動を起こし、貴族の屋敷に火を放つという事件にまで発展した。
暴徒と化した民たちには武装した騎士すら近づかなかった。
すべてを失った人間がどれだけ恐ろしいかを一番理解していたのが、戦場を知る彼らだからだ。
そして少しずつ、マリアの意見と蜜による緩和策に対する見方も変わっていき、貴族たちは群がるようにマリアに教えを乞うた。
フィベルト領とドラニクス領では、ほとんどの民が病を克服していたこともあり、マリアは自領のことは信頼できる人間に任せて他領にも足を運ぶようになった。蜜と薬の配合の仕方や、飲み込めないほど疲弊している患者への対応など、必要な治療法を詳しく教えた。
貴族の多くは、患者に触れることすら忌避したが、民のなかにはマリアを手伝いたいと熱心に治療活動に取り組む者も少しずつ増えていった。
病に苦しむ民が減るにつれて、貴族たちも「女風情」と馬鹿にしていたことを忘れ、マリアを聖女、天使だと崇めた。
そして一年。マリアは病の終息を見届け、静かに亡くなった。
その死因は病によるものではなく、過労だった。
治療を施した後も寝ずに経過を記録し、少しでも多くの情報を取る。そんな生活を続けてきたがゆえのことだった。
蜜による治療法は効果が実証されてきたとはいえ、民たちの心は不安に満ちていた。
一人でも多くの民を救い、効果を実感させることで不安を取り除いていかなければ、この治療法を広めることはできない。
国はすでに何人生き残るか、その枠に誰を入れるかという政策で動いていた。それではダメなのだ。
死は悲しみを生む。悲しみは広がり、時に憎しみへ変わる。それは国を呑み込み、どんな薬も効かない病となるのだ。
その憎悪という病に呑まれた国に待つのは、ひと欠片の希望すら残らない滅亡。
数多の先人たちが、その恐ろしさを記録し、二度と繰り返されないよう未来を願ってきた。
マリアはそれを知っていたからこそ、命を削っても民を救ったのだ。
そして眠るように、息を引き取った。
自分の死を最後に、病による悲劇が幕を下ろすことを祈り、眠ったのだ。
マリアの死は美談として国中を駆け巡った。
国はどこにいってもマリアへの称賛と、彼女の死を惜しむ声に溢れた。マリア・フィベルトについて綴られた書物は飛ぶように売れ、吟遊詩人は次々と詩を作り、子どもたちがわらべ歌にして口ずさんだ。
それに焦ったのが王家の者たちだった。
国民たちの支持はフィベルト公爵家とマリアに大きく傾き、逆に特効薬の存在を秘匿して身内で独占し、安全な城内で悠々と過ごしていた王族に対する不満は大きかった。
自分たちへの支持をなんとか持ちなおそうと国王が提案したのが、学園の卒業を間近に控えた王太子に炊き出しや配給を行わせることだった。
当時は病の脅威こそ取り除けたものの、田畑の多くは手が足りず荒れ果て、作物もほとんど育っていない状況だった。
そこでパンや温かいスープを王太子が手ずから施すことで、国民たちからの好感度を稼ごうと考えたのだ。
当時の王太子だった第一王子は賛成し、第二王子も手伝い、張り切って配給に勤しんだ。
配給は好評だったが、ここで再び悲劇が起こった。
第一王子と第二王子が突然、血を吐いて倒れ、そのまま儚くなったのだ。
原因は、なんと病の特効薬だった。
二人は病が流行り始めた頃に薬を飲んでいた。実際にかかったわけではないが、予防になるだろうと考えたのだ。
そして配給を始める前にも、念のためにもう一度薬を飲んだ。それがいけなかったのだ。
実は特効薬に使われている薬草は、毒薬としても使われる。薬と毒は表裏一体とはよく言ったもので、服用する量や頻度でその効能は大きく変わる。特効薬は一度服薬したら、発病しない限り二年間は時間をおかなければ飲んではならないものだったのだ。
かつて流行り病が蔓延した国のほとんどは滅んでいたために、薬に関する情報は知られていないことが多く、薬そのものが希少であるせいで、発病していない者が短期間に二度も薬を飲んだ事例もなかった。
病にかかってから薬を飲んだのであれば、摂取した薬は本来の役割を果たすために効果を発揮し、毒となる成分も消えていく。しかし王子たちは発病もしていないのに二度も薬を飲んだため、薬に含まれる毒の成分が体内で致死量を超えてしまったのである。
原因がわかっても、即位を間近に控えた王太子と第二王子が同時に亡くなった事実は変わらない。
王家に残された王子は二人となった。
当時まだ十歳だった第三王子が立太子され、王太子教育が始まった。
しかし、第三王子を次期国王にすることには反対する貴族が多かった。
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