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プロローグ
アリス
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暗く、寒い森の砂利道を1人の少女が駆けていた。名はアリスと言う。
アリスは必死に走っている。
ビスクドールのような端正で可愛らしい顔は、今では恐怖で醜く歪み、その面影は微塵にも見て取らないほどである。ブロンドのきめ細やかな美しい長髪はホコリをかぶって輝きを無くし、一段と細い毛は宙に投げ出されてぼさぼさになっていた。
「殺される、殺されるわ!早く逃げなきゃ、あいつらが私の首を跳ねにくる…早く、早く…!」
目は血走り炯々として、額からは冷や汗を吹き出しながらしゃくり上げるように呼吸をする。もう随分と長い時間走っているようだが、彼女の足は疲れを知らない機械のように右へ、左へと規則的に運ばれて行く。伸びやかかつ軽快に。白いエプロンは砂で茶色く黄ばみ、愛らしい上質なワンピースもどこかで引っ掛けてきたのか、所々糸がほつれて布が裂けていた。
更に奥へ奥へと駆けていったその時、遂に辺りに光が差し込んだ!今まで空を覆っていた黒ずんだ重苦しい雲が、風によって流され、その間隙から隠れていた月が顔を覗かせたのだ。青くて巨大な、威厳を醸し出し、それでもどこか優しげな雰囲気を持ち合わせている、そんな立派な満月である。風は下界にも吹き続けた。植物の葉と葉が擦れて「しゃらしゃら」と澄んだ音色を響かせ、大木はこれでもかと言わんばかりに激しく自身の枝を揺らしている。
風はアリスに強く当たった。先程まで流れていた汗は風によって急速に乾くとともに彼女の体温までも奪い去ってしまった。
「寒いわ…!私はこのまま死んでしまうのかしら…」
彼女は半ば絶望を覚えたが、足はただ、真っ直ぐに前へと投げ出される。『諦めよう』、そうとも思った。しかし、思考とは裏腹に動きが噛み合わない。
暗い森の中を、月明かりだけか煌々と照らす。
アリスは周りを見ていない。いや、見えていない、という方が正しいと思われよう。
白い斑点を持った毒々しい真っ赤なキノコやら、悪魔の腕を思わせる禍々しい枯れ木の枝やら。月明かりを反射して不気味に光を放つ夜光石にも一切目を向けない。こんなにも危険で、幻想的な場所であるのに…。
「まだ追ってくる!いい加減どこかへ消えて頂戴…!私が何をしたっていうの!?」
心の中で叫びながらアリスの身体は、限界に近づき自暴自棄になってしまった。
その瞬間、空中に三日月のような形をした口が浮き上がった。それは徐々に色を染め、姿を現し、最後にはギョロっとした目がついた。常時ニヤニヤとした口をしている。チシャ猫がアリスの横で肩肘を空中につけ、寝そべっていた。あたかも空間に地面が作られた、そんな感じがしたのだ。アリスが一心不乱に走っているのに対し、チシャ猫は涼し気な表情をして彼女の横に居座っている。それでも彼らは等速で平行に移動している。
「やぁ、アリス。そんなに慌てて何があったんだい?」
チシャ猫は一つも顔色を変えずに質問を投げかけた。
「…追われている」
しわがれたか細い声で答えを返した。
「それは大変だ。で、誰に追われてるっていうのさ?」
まだ表情は変えない。口だけ裂けたように大げさに動かし、黄金色の目を彼女に向けた。
「恐ろしい人たち…!私の首を、取りに来る!」
咳き込みながらも律儀に答えるアリス。口内は既に乾ききっており、咳と息をする度、「ヒュウヒュウ」と声が掠れた。
「それは怖いね、アリス。けどね、この先に行ってしまえば必ず君は死ぬことになる」
彼は肘をついている反対の手の爪を眺めながら無頓着に、そう伝えた。
「嘘よ!まだ道があるもの!あの人たちは私のあとを追ってきたのよ!」
…「それに私だってまだ死にたくないのよ!」
彼女は初めて声を張り上げた。、それでも苦しみで顔色は益々青ざめていった。
「信じるのは君次第さ。僕はそれを言いに来ただけさ、そろそろ消えるよ」
死んでなかったらまた会おう、そう言い残して彼はいとも容易く姿を消してしまった…
『彼は何を考えているのか全く分からないわ。そんなことより今は逃げなきゃ!!』
アリスは狂ったように駆け続ける。すると、ふっと視界が開けた。生い茂っていた木々が突然消えた。見えるのは低い星ばかりである。
『アリスは、空を飛んだ』
飛んで、落ちた。
「嘘っ!?」
落ちて、落ちて、落ち続ける。彼女は崖から落ちたのだ。空気抵抗は虚しくも役に立たず、一直線に奈落の底へと落とされていく。髪は宙で踊り、服は風を受けて原型がわからないほど歪な形をしている。
しばらく間があって「ぴしょっ」と悲しい音が谷間からこだました。実にあっけない最期を、彼女は遂げたのであった。
「だから言ったのになぁ」
チシャ猫が崖の近くの木の枝に寝そべって呟いた。すると、地面の方からザワザワと声がするではないか。
「あの子、どうしたのかしら」
「自分から飛び込んで行ったわよ」
「自殺かしら」
「変な奇声もあげていたわ」
「誰かに追われてるって言ってたわ」
「けど、そんな人見てないわよ」
「とうとう頭がおかしくなっちゃったのよ」
声の主はお喋りが好きな気取った花たちだった。
彼女たちはひっきりなしに話している。
「アリス、一体君は誰に追われていたのさ」
甲高い花たちの声の中、一匹の低い声が森の中へと消されていった。
その後、アリスの言っていた者は、一人たりとも彼女を追っては来なかった。
アリスは必死に走っている。
ビスクドールのような端正で可愛らしい顔は、今では恐怖で醜く歪み、その面影は微塵にも見て取らないほどである。ブロンドのきめ細やかな美しい長髪はホコリをかぶって輝きを無くし、一段と細い毛は宙に投げ出されてぼさぼさになっていた。
「殺される、殺されるわ!早く逃げなきゃ、あいつらが私の首を跳ねにくる…早く、早く…!」
目は血走り炯々として、額からは冷や汗を吹き出しながらしゃくり上げるように呼吸をする。もう随分と長い時間走っているようだが、彼女の足は疲れを知らない機械のように右へ、左へと規則的に運ばれて行く。伸びやかかつ軽快に。白いエプロンは砂で茶色く黄ばみ、愛らしい上質なワンピースもどこかで引っ掛けてきたのか、所々糸がほつれて布が裂けていた。
更に奥へ奥へと駆けていったその時、遂に辺りに光が差し込んだ!今まで空を覆っていた黒ずんだ重苦しい雲が、風によって流され、その間隙から隠れていた月が顔を覗かせたのだ。青くて巨大な、威厳を醸し出し、それでもどこか優しげな雰囲気を持ち合わせている、そんな立派な満月である。風は下界にも吹き続けた。植物の葉と葉が擦れて「しゃらしゃら」と澄んだ音色を響かせ、大木はこれでもかと言わんばかりに激しく自身の枝を揺らしている。
風はアリスに強く当たった。先程まで流れていた汗は風によって急速に乾くとともに彼女の体温までも奪い去ってしまった。
「寒いわ…!私はこのまま死んでしまうのかしら…」
彼女は半ば絶望を覚えたが、足はただ、真っ直ぐに前へと投げ出される。『諦めよう』、そうとも思った。しかし、思考とは裏腹に動きが噛み合わない。
暗い森の中を、月明かりだけか煌々と照らす。
アリスは周りを見ていない。いや、見えていない、という方が正しいと思われよう。
白い斑点を持った毒々しい真っ赤なキノコやら、悪魔の腕を思わせる禍々しい枯れ木の枝やら。月明かりを反射して不気味に光を放つ夜光石にも一切目を向けない。こんなにも危険で、幻想的な場所であるのに…。
「まだ追ってくる!いい加減どこかへ消えて頂戴…!私が何をしたっていうの!?」
心の中で叫びながらアリスの身体は、限界に近づき自暴自棄になってしまった。
その瞬間、空中に三日月のような形をした口が浮き上がった。それは徐々に色を染め、姿を現し、最後にはギョロっとした目がついた。常時ニヤニヤとした口をしている。チシャ猫がアリスの横で肩肘を空中につけ、寝そべっていた。あたかも空間に地面が作られた、そんな感じがしたのだ。アリスが一心不乱に走っているのに対し、チシャ猫は涼し気な表情をして彼女の横に居座っている。それでも彼らは等速で平行に移動している。
「やぁ、アリス。そんなに慌てて何があったんだい?」
チシャ猫は一つも顔色を変えずに質問を投げかけた。
「…追われている」
しわがれたか細い声で答えを返した。
「それは大変だ。で、誰に追われてるっていうのさ?」
まだ表情は変えない。口だけ裂けたように大げさに動かし、黄金色の目を彼女に向けた。
「恐ろしい人たち…!私の首を、取りに来る!」
咳き込みながらも律儀に答えるアリス。口内は既に乾ききっており、咳と息をする度、「ヒュウヒュウ」と声が掠れた。
「それは怖いね、アリス。けどね、この先に行ってしまえば必ず君は死ぬことになる」
彼は肘をついている反対の手の爪を眺めながら無頓着に、そう伝えた。
「嘘よ!まだ道があるもの!あの人たちは私のあとを追ってきたのよ!」
…「それに私だってまだ死にたくないのよ!」
彼女は初めて声を張り上げた。、それでも苦しみで顔色は益々青ざめていった。
「信じるのは君次第さ。僕はそれを言いに来ただけさ、そろそろ消えるよ」
死んでなかったらまた会おう、そう言い残して彼はいとも容易く姿を消してしまった…
『彼は何を考えているのか全く分からないわ。そんなことより今は逃げなきゃ!!』
アリスは狂ったように駆け続ける。すると、ふっと視界が開けた。生い茂っていた木々が突然消えた。見えるのは低い星ばかりである。
『アリスは、空を飛んだ』
飛んで、落ちた。
「嘘っ!?」
落ちて、落ちて、落ち続ける。彼女は崖から落ちたのだ。空気抵抗は虚しくも役に立たず、一直線に奈落の底へと落とされていく。髪は宙で踊り、服は風を受けて原型がわからないほど歪な形をしている。
しばらく間があって「ぴしょっ」と悲しい音が谷間からこだました。実にあっけない最期を、彼女は遂げたのであった。
「だから言ったのになぁ」
チシャ猫が崖の近くの木の枝に寝そべって呟いた。すると、地面の方からザワザワと声がするではないか。
「あの子、どうしたのかしら」
「自分から飛び込んで行ったわよ」
「自殺かしら」
「変な奇声もあげていたわ」
「誰かに追われてるって言ってたわ」
「けど、そんな人見てないわよ」
「とうとう頭がおかしくなっちゃったのよ」
声の主はお喋りが好きな気取った花たちだった。
彼女たちはひっきりなしに話している。
「アリス、一体君は誰に追われていたのさ」
甲高い花たちの声の中、一匹の低い声が森の中へと消されていった。
その後、アリスの言っていた者は、一人たりとも彼女を追っては来なかった。
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