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東京追跡編

バー『ホームズ』での出来事

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バー『ホームズ』は浅草に存在“していた”バーである。
イギリスの名探偵、シャーロック・ホームズの名前から取ったそのバーは主人が探偵小説のファンであるという事もあり、ベイカー街のホームズの下宿を連想させる曇りガラスが貼られ、バーも英国のパブを思わせる上品な形であった。
かつての店主、山守正三はその日の、自分のバーの最後の日を忘れないだろう。
いつものある日、彼は客の相手をしながら、ビールとワインの準備を行っていた。
すると、彼の元に三人の男女が現れたのだ。扉を開けて足を踏み入れた時に客の誰もがその中の中心人物と思われる女性に目がゆく。当然、山守正三もその内の一人だ。
まず、大抵の人物の注目がいったのは彼女の顔だった。清楚という言葉を連想させる卵型の顔にそれぞれ、完璧なパーツが嵌め込められていたといった方が良いだろうか。
少なくとも、あまり学のない彼の頭ではそう表現する他がない。
世の中の明るさを全て吸い取るかの様な細いアーモンドの様な瞳。
かつて、西洋の世界でカエサルやアントニウスと言った権力者を惹きつけたクレオパトラでさえも裸足で逃げ出すかと思う程の高くて形の良い鼻。
天来のものと思える美しい曲線美を顔の中で描いた両眉。
それらのついた顔を彩るかの様な美しくて長い黒壇の様に艶やかな髪。
これらの全てを表現するには彼には些か荷が重すぎたと言えるかもしれない。
少なくとも、上記の様な表現を用いるしか出来なかっただろう。
他に、その清楚可憐な顔立ちとは相反するかの様な美しい体型に殆どの人間が夢中になった。
特に歩くたびに白いドレスの上から浮き出る臀部は男ならば釘付けにならずにはいられなかっただろう。
あの細い白色のドレスが腰のくびれを強調しているのもそれに一役買っていた。
加えて、あの大きな胸。いかにもドレスから溢れそうな程に大きな胸は彼女が足を動かすたびに大きく揺れていく。
山守正三はそれを見て惚けていると、自身のバーの英国製の木製のバーカウンターの前に女が座った事に気が付く。
彼は慌てて注文を取る。
「何にしましょうか?」
「ブランデーを一つ、それから、ビールを二つ」
素気のない声。だが、その声は一度聞いたら耳から離れない程の妖艶な声だった。
山守正三は彼女のために外国から取り寄せたキラキラと光る質の良いグラスを取り出し、赤色のブランデーを注いでいく。
それを女王に手渡すかの様に丁寧に渡してから、お供と思われる二人の男女に手渡す。
山守正三は二人の姿を見つめる。一人は女と似た様な衣服を着ているが、年齢は幼い。恐らく十四、五歳という所だろうか。
だが、清純そうな顔立ちや脂肪の目立たないバランスの整った体に、小さく膨らんだ胸を見るに、将来に期待して良い人材だろう。
問題は隣の男だ。時代は昭和。20世紀も後半分を過ぎたという頃合いなのに、古代の人間が着るような白い麻の服に首元には緑色の翡翠の入った服だったからだ。
顔も美女二人に挟まれていればその酷さがより一層際立つのかもしれない。
少なくとも、不細工と分類される訳ではないが、それでもハンサムとは言い難い顔。
敢えてこの様な安っぽい形容詞を許させてもらうのならば、典型的なチンピラ顔と言った所だろうか。
正三が男を訝しげに眺めていると、古代の服を着た男がいきなり立ち上がり、正三の胸ぐらを掴む。
「おいッ!テメェ!何、人の姉に色目を使ってやがるッ!」
「え、え、そ、そんな……」
「すっとぼけるのもいい加減にしろい!テメェが色目を使ったのは分かってるんだッ!」
そう言って、正三の顔を殴り飛ばそうとした時だ。その腕を他ならぬ美女がその手で止める。
「やめなさい。私は気にしてないから」
「けどよ……」
「私の言う事が聞けないの?」
酷く冷たい調子の声だった。恐らく、本人だけではなく周りの人間もその声の冷たさに身震えていたに違いない。
女は弟を諌め終えると、当惑する正三にお代わりを尋ねる。
正三は慌ててブランデーを注ぎ、彼女に手渡す。
女は無言でブランデーを一口飲み終えると、ブランデーの入ったグラスをテーブルの上に置く。
それから、自分の隣に座っていた少女と何やら小声で話し合ってから、無言で人差し指を鳴らす。
すると、彼女の背後でビールを飲んでいた老人が突然、机の上に突っ伏してしまう。
正三は悲鳴を上げる。だが、女は容赦せずに次々と指を鳴らしていく。
彼女が指を鳴らすと、それに饗応してバーの客たちが倒れていく。老若男女に問わずに顔を恐怖に震わせて……。
正三が彼女の所業に怯えて腰を抜かすのと、三人の異形のものが席から立ち上がるのは殆ど同じだった。
女が指を鳴らすと、今度は彼の足が動かなくなってしまう。まるで、深い雪の中に埋もれてしまったかの様に。
彼女はバーカウンターと客席とを仕切る小さな仕切りを開くのと同時に、怯える正三の元にしゃがみ彼の首を両手で手に取り、彼の頬を触っていく。
それから、顎の下を持ち上げて、
「いい、あなたはこの事件の唯一の生き証人よ。警察が来たのならこう証言なさい。『この事件は妖怪が起こした』とね」
正三は恐ろしさに顎を震わせながら夢中で首を縦に動かす。
それから、女は無言で手刀で正三の胸を貫く。
正三が唸り声を上げる暇もなく、弱々しい声を出していると、彼女は顔に妖艶な笑みを浮かべて二人の共を連れて去っていく。
翌日、警察の取り調べには女に言われた通りには女に言われたまま答えた。
警察は山守正三を事件の重要参考人として拉致しようとしたが、彼が狂ったテープレコーダーの様に『妖怪』『妖怪』と述べていた事から、彼を心神喪失の状態だと判断したのと被害者が全員、凍死という人間が犯人ならば絶対に実行できない方法で死んでいるという二つの点から彼を放免した。
以来、正三はかつての自分の“城”に戻り、今もあの時の女が来ないかを警戒しながら暮らしている。
正直に言えば、あの女と出会うくらいならば、警察に捕まった方がマシだと思う程の恐怖感を心の内に抱えながら。
丁度、そんな時だ。山守正三の前に黒いジャケットにズボン、白いワイシャツを着た二人の青年と一人の可憐な顔立ちの少女が姿を見せたのは。
彼は良くない出来事が起きた事を察して声を震わせながら、新たに現れた三人の若い客を出迎えた。
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