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第一部『悪魔と人』

最上志恩の場合ーその①

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最上志恩もがみしおんはヒーローが好きである。ヒーローはかっこいい。志恩は家族に囲まれる食卓の上で姉を待つ間一人でそう考えていた。
彼の部屋の壁にはヒーローのポスターやヒーローと撮った写真が大切に貼られている。
他にも棚には両親に買ってもらったヒーローのグッズが大切に飾ってある。

他にはDVDもあるし、ビデオデッキも揃っている。
全て今の両親から成績が上がった事や全国採点でいい点を取った褒美に買ってもらったのである。
他には塾で行われた模試での結果がよく、そのご褒美という形でももらった。
普段着はジャージに陰気な顔をした志恩が同年代にかけて勉強ができるのは姉のお陰である。

姉は唯一の血の繋がりのある家族。勿論今いる新しい家族に不満があるわけではない。
それでも志恩に取っての保護者は姉であった。今持っているヒーローのグッズやDVDも今の両親から貰ったものも多いが、姉からもらったものも数の上では負けていない。むしろ姉からもらったものの方が今の両親に貰ったグッズよりも眺める時間が多い。
それは昔姉が幼かった頃に買ったものをそのまま志恩に渡すお古という形であったり、今の両親の様にご褒美や誕生日、クリスマスという形で買ってもらったものも多い。
その保護者の様に志恩を育んでくれた姉は前の家に住んでいた頃に姉は口癖の様に言っていた。

「いいか、志恩……あんたはあたしの可愛い弟……それでいいんだよ。もしさぁ、あんたがあたしの愛を裏切る様な事をしたり、期待から外れる様な事をしたら容赦なくあたしはテメェに攻撃を加えるからな」

赤ん坊の頃はそれを聞いても唖然としていたのだが、その言葉の意味を理解できるようになった頃の志恩はその口癖を聞くたびにひどく怯えていたが、その言葉が終わった後に姉真紀子は優しく志恩の頭を撫でていく。

「まぁ、今のところはそんな素振りを見せなけりゃあ可愛がってやるさ。オメーの好きなヒーローが出てるビデオだって借りてやるし、あんたの大好きなおもちゃだってやるよ。ようはあたしのいう事を聞いてくれればいいんだよ」

その時の姉の表情が志恩は好きだった。なんとも言えない満足そうな表情が垣間見え、その言葉が恐ろしかったのと、その後の姉の表情見たさで志恩は真紀子が教える事の全てを飲み込んでいた。
志恩が世間一般の子供の大半から抜けている礼儀正しさや可愛げ、感謝の心というのを持ち合わせ、大人を喜ばせる術を身に付けているのは真紀子のお陰であるともいえる。
志恩はそれから机の上に置かれている料理を垣間見た。今の母も料理は美味いが姉の作る料理には及ばない。
思えば真紀子が作る料理は絶品であった。特にオニオンスープの味は今でも舌の上に染み付いて離れない。
姉の手作りのオニオンスープとスーパーで購入したフランスパン。そして、ローストビーフと大根のサラダ。
このメニューに代表される姉の手料理を食べるのが鳥取に住んでいた頃の志恩の楽しみであった。

なので今の母の料理は一つほど格が落ちる。勿論志恩だって今の母が苦心して料理を作っているのは知っているし、志恩も真紀子の教育の甲斐あってか、それを口や表情に出したりはしない。
笑顔を浮かべて平らげるのだ。だが、肝心の姉は違う。

鳥取に住んでいた頃中学生くらいかの頃から真紀子は悪い男と付き合う様になっていたのだが、それでも夜には家に帰ってきていた。だが、今では養い先の両親への不満を理由に真紀子は家に帰ってこない。それで今日はたまたま家に帰ってきて志恩も嬉しかったのだが、平気で今の母の料理にケチを付けている。
すると母が立ち上がり、姉の顔に自身の料理を叩き付けたのだ。
宣戦布告のコングは鳴らされたといってもいいだろう。

口汚い罵声と罵倒の応酬が続き、最後には互いに料理の皿を投げ合う始末。
それをオロオロと心配そうな表情で眺めるのは父の姿。
丸い眼鏡をかけた冴えない顔の、それでいて優しそうな中年の男性である。

今の母が専業主婦である事から勤務先ではそれなりの地位に就いているというのは容易に推察できる。
穏やかさ故に敵を作らなかったから、多くの人に推薦されて上の役職に就けたのだろう。
だが、決してそれ以上の出世は望めまい。ある意味気の毒な人だ。

その優しいだけの父は結局、真紀子と今の母の喧嘩を止める事ができずに、黙って母が用意した食事に箸を付けたのである。
おどおどと肩をすくめて、存在感を消す様子は哀れとしか言えない。
そんな志恩の存在に気が付いたのか、父が僕に視線を向ける。
それから随分と低い声で、許しを乞う様に言った。

「すまんな。志恩……母さんと姉さんを止めれんで」

「ううん、お父さんは悪くないよ。お姉ちゃんの……口が悪いのがいけないんだから……」

志恩がその弁解の言葉を口にした直後に僕と今の父との会話をその肝心の二人が強制的に打ち切った。

「このアバズレがッ!あたしが知らないとでも思ってるのかい!?あんたの交友関係について!?不潔なクソ女!死んでしまえ!」

「るせぇ!クソババァ!誰がテメェの家の子供になってやったと思ってるんだよッ!」

「偉そうに言いやがって!志恩が懇願しなけりゃあ、お前の様な尻軽なんて引き取ってやるもんかッ!」

「んだとテメェ!浮浪者の食い残しみたいな不味い飯ばっかり食わされるこっちの身にもなりやがれッ!それともテメェのボケた味覚だと、あのゴミみたいな味が高級レストランのディナーにでも感じるのか!?」

「なんだとッ!出ていけ!お前なんか今すぐ出ていけ!」

「あぁ、出ていってやるよ!」

真紀子はそう怒鳴ると、手付かずの料理を机の上から掴み取り、そのままお返しとばかりに今の母の顔に向かって投げ付けて、慌ただしく階段を登っていく。
料理を投げ付けられた母は体を疼くませながら啜り泣いていた。
それから、泣き声で必死に今の父に懇願していた。

「あなた追い出してよぉ、あんなアバズレのクソ女、追い出してよぉ」

「まぁ、真紀子もカッとだけなんだ。お前だってそうだろ?お前は何も悪くない」

今の父はそう言って今の母の背中を優しく摩っていく。
啜り泣く今の母とそれを優しく慰める父。いつもの光景である。
今の母にはちゃんと今の父がいる。だから、心配ないだろう。

志恩は慌てて姉の後を追いかけていく。
だが、真紀子の方はすっかりと怒りが収まったのか、ベッドの上で寝転びながら漫画を読んでいた。

「おぅ、志恩か、どうした?あのババアにあたしを謝らせろって言われたのか?」

「いいや、なんとなく気になっただけ」

「……そうか、まぁ上がれや。大事な弟があのクソババァに折檻でもされてないか、確かめてやる」

真紀子はベッドの上を叩くと、僕をその上に座らせ、僕の手を優しく握っていく。
それから、道ですれ違えば5、6人は振り向くであろう美しい顔を近付けていく。
細く整えられた両眉。長く高い鼻。立派な口紅が塗られた口。顔のパーツはどれも芸術品のように美しい。
また校則に反しながらも、姉は美を追求しているためか、顔のどのパーツにも上手く化粧が施されている。
化粧なんて施さなくても十分に整った顔をしているというのに。
手元の綺麗に整えられた爪にも薔薇のように真っ赤なマニキュアが塗られており、高校生とは思えない程の大人びた美しさと神秘さとを放っている。

真紀子はヒーローものが大好きで、それに一辺倒な志恩とは異なり、化粧やファッション。それにマンガ作品をこのなく愛していた。
つまるところどの分野においても人を飽きない話題をもっていたといってもいいだろう。
豊富な話題に加えて、あの豊満な胸で迫られてしまえば大抵の男性は真紀子に脈絡されてしまうだろう。
だが、一緒に暮らしていたからこそ志恩は自身の姉の危険性を理解できた。彼女は華美な羽根で相手を誘惑し、近付いた相手に毒の含まれた鱗粉を撒き散らす蝶のようだ。

志恩は思わず身を震わせるとベッドの上から立ち上がったかと思うと、姉の椅子を借りてそのまま姉と向かい合っていく。

「んだよ。釣れねぇな」

「ぼくの事は別にいいよ。それよりも、お姉ちゃん。少しは今のお父さんとお母さんに優しくして上げてもいいんじゃあないの?」

それを聞くのと、姉が大きな声で笑い始めるのは同時であった。
洪笑とも呼べる笑いは収まるまでの間に相当の時間を費やす事になった。
それから刀の様に鋭い眼光で僕を射殺し、僕の喋る意志を削ぐのと同時に低い声で言った。

「嫌だね。あのクソババアとろくでなしの親父に媚び売るなんて死んでもごめんだね」

「媚びだなんて……ただ、家族としてーー」

「家族ゥ?あんた、何か勘違いしてるんじゃあないの!?あいつらは監視役だよ!遠い親戚と名乗るクソどもが財産を取り返しに来ない様に見張るための監視なんだよ!わかったら、二度とくだらねー事を言うなよ」

真紀子は機嫌を悪くしながら、読みかけていた漫画を読む作業へと戻っていく。
黙ってベッドの上で漫画を読む真紀子の姿を眺めながら、志恩は思った。
真紀子は今でも燃えているのだ、と。姉は財産を奪われた事に対し、憤りを感じ、その度にドス黒い憎悪の炎をメラメラと燃やしているに違いない。

真紀子の怒りの炎というのは燻る事なく燃え続け、いずれその炎は遠い親戚や今の両親を焼き殺してしまうかもしれない。
それに志恩とて真紀子の庇護対象から外れてしまえば例外でなくなる。
志恩は不機嫌な顔のまま漫画を読み耽る姉を放って、扉を閉めて姉と同じく二階にある自身の部屋へと戻っていく。
明日の授業に対しての予習に復習もしておかなくてはなるまい。

そうでなければ真紀子ほどは頭が良くない志恩は上位の成績を維持できないのだ。
勉強机に向かい2、3時間ほどシャープペンシルを走らせていると、またしても、真紀子の部屋から罵声が飛び交う。
志恩はそれを無視して、シャープペンシルを走らせようとしたのだが、やがてそれは無視できないほどに大きくなっていく。

もうやめてよ。そんな思いを抱えながら、勉強机の上に突っ伏す。
何処かに救いのヒーローはいないのだろうか。
テレビであるのならばここで救いのヒーローが助けにくるというのに。志恩は懇願する思いで両目を閉じた。






【追記】友人より最上志恩のイラストをいただきましたので貼らせていただきます。


https://twitter.com/ikoraih02_wan?s=11&t=KAccsJrZAgCBaaEuYYmAZA

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