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第二部『箱舟』

姫川美憂の場合ーその④

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美憂はあの新たな“サタンの息子”が足早に現れた二日間から既に数週間という長い時間が過ぎていた事もそうであるが、今夜の相手がいつもの様な中年から壮年の男性ではなく、美しく若い女性であった事や食事の後に連れて行かれたのがいつもの場所ではなく、喫茶店という場所であった事などは到底信じられなかったのだ。
美憂が連れてこられた先は府内でも有数であるとされるお洒落なカフェバーである。相手の女性は戸惑う美憂に向かって落ち着いた声で告げた。

「好きな物を頼んでくれたまえ、遠慮などしなくてもいいんだ」

「で、でもーー」

「いいんだ。私とキミとは同じサタンの息子じゃあないか」

その言葉を聞いて途端に美憂の表情が曇っていくのを友紀は見逃さなかった。
友紀はこの機会を逃す事なく話を続けていく。

「単刀直入に言おう。正直に言えば私はキミを気に入ったんだ。だから組みたい」

「……同じ呼び出した方でも主張はあいつとは真逆という事か」

美憂の脳裏によぎるのは同じくサタンの息子で大銀行の御曹司であった蜷川大輔の顔である。数週間前の夜、彼も今の友紀と同じような方法で美憂を呼び出したのだが、彼の目的は増えすぎたサタンの息子の一掃にあった。
そんな事情を知らない友紀からすれば美憂がなぜ悩んでいるのかが理解できなかったに違いない。
友紀からすれば一番いい呼び出し方であり、作戦タイムであったのだからむしろ美憂が訝しげな表情を浮かべる理由がわからなかったのだ。
友紀は自分に向かって不信感を募らせ続ける美憂を和らげるためか、更なる追加注文を行うのだが、その態度は未だに軟化しようとしない。
友紀は頭を抱えた。どうすれば彼女は自分に対する警戒を解いてくれるのであろうか、と。
悩み抜いた末に友紀が出した結論は占いを行う事にあった。愛用品のタロットカードを懐から取り出し、カードを切り出す。

「な、何をしているんですか?」

「私は占い師でねぇ、特別にキミの悩みを聞いてあげようと思うんだ。占い師でなくても、人に悩みを打ち上げれば楽になるというだろう。一つだけでも打ち明けてみないか?」

「……わかりました。ならーー」

美憂は素直に自身の悩みを打ち明けた。同時に友紀はタロットカードを切り、裏側にして山を作った。それから美憂から語られた悩みを頭の中で念じながら時計回りにカードを混ぜ続けていく。
美憂はタロットカードそのものを初めて見るし、同時にタロットカード占いというのも同じ様に初めてである。
美憂は意外な形の占いに興味を示し、少しだけ好機の目を向けながら友紀がどの様にカードを動かすのかを眺めていた。
今回の相手である友紀が手を止めて、一つの山にまとめるところまでをしっかりと眺めていた。
そこから先は美憂の出番だった。美憂は友紀にカードを切る様に言われ、それを混ぜ合わせていく。
最終的に美憂の元に出たカードは『隠者』と呼ばれるカードである。位置は逆位置。

「うーん。キミは……悩んでいる事があるのなら周りの人にも相談してみたらどうだ?この『隠者』のカードが位置を示すのは逆位置……すなわち良くない立ち位置にあるんだ。キミの場合は周囲に心を閉ざしているところがあると思うから、もっと素直に悩みを打ち明けてみたらいい。そうすれば少しは悩んでいる事も楽になるのではないのかな?」

友紀はこの後に「私が言えた事ではないが」と小さく呟いたが、美憂はその言葉が聞こえなかったらしい。何を考えているのか、ひたすらに視線を下に向けていた。
だが、その後に友紀に向かって真剣な顔を突き付けて言った。

「……悩みがないといえば嘘になる。私は生憎と晩年の藤原道長ではないんでね。この世に欠けるべきものなどないなどという状況にはないからな」

「フフッ、私だって同意見だ。さぁ、話してみてくれ、キミの悩みを」

「実はーー」

美憂の相談は予想外のものであった。なんとあろう事か自分たちが箱舟会に狙われているのかもしれないという相談であったのだ。

「……どうしてあいつらがキミたちを狙うんだ?」

「わからない。ただ最近になってつけ狙われていると思う事が多くなって……」

「心当たりはあるのか?」

「いいや、私にはわからないがーー」

「確かにな、本当にしつこいたりゃ、ありゃあしねぇよ」

二人が予想外の声に驚いて慌てて廊下を見つめると、そこには最上真紀子の姿が見えた。スーツを着込んでいる事から大方用事か何かがあってその帰りにここに寄ったのだと思われる。
真紀子は二人の了承もなしに席に座ると、店員にケーキと紅茶のセットを頼んだのである。
あまりの事に唖然とする二人を放って真紀子は一方的に話を始めていく。

「いやさぁ、あたしも教団には辟易してたんだよ。ついこの前も五十くらいの禿げた親父を接待した帰りにつけ狙われてさぁ、怖いったらありゃあしねぇよ。おまけに家まで着いて来られんだからたまったもんじゃあねぇわな」

真紀子の言葉には嘘や偽りは感じられない。恐らく本当の事を言っているのだと思われるが、美憂からすれば彼女が勘違いしている可能性もある事を頭に入れていた。
と、いうのも真紀子は職が職である故に人の恨みを買いやすいのだ。僅か二ヶ月で成り上がった手腕は誉めるべきであろうが、それを差し引いても多くの人が彼女の出世の犠牲になっている。

「そればかりじゃあねぇぞ、あたしが小遣い稼ぎでクスリを売ってたら背後から気配がしてさぁ、咄嗟に振り返ると、そこには得体の知れない男ども……そのせいで商売相手が逃げちまったんだ。んで、この時ばかりはあたしもイライラしてさ、そのままーー」

「そいつらはお前を恨んでいる相手じゃあないのか?なぜ教団と決め付けるんだ?」

「ハッ、じゃあ姫川、なんでそいつらは教団の奴らしか持っていないバッジを持っているんだ?」

真紀子は論より証拠とばかりにポケットから箱舟会の信者を表すバッジを取り出す。それを見るに数週間前から真紀子を狙っているのは教団であるのは間違いないらしい。

「なぁ、二人とも……先に質問を振っておいてなんだが、どうして二人は教団に狙われるって思ってるんだ?」

「決まってるだろ、教団がこのゲームの存在を知っているからさ」

真紀子がなんの躊躇いもなく言い放つ。

「それはどういう事だ?」

「簡単な話だ。恐らく教祖も“サタンの息子”なんだろうさ、だから邪魔な奴を教団の暗部を使って殺そうとしてる……」

「教団と思われる団体はどうやら既にここにいる信者や向こうから派遣してきたと思われる精鋭を紛れ込ませていたんだろうな。それでどこで仕入れたのかはわからないが、このゲームの事を嗅ぎつけたんだろうぜ」

真紀子が運ばれてきたニューヨークチーズケーキを小さなフォークで切り分けながら言った。真紀子はそのままフォークでチーズケーキの先端を突き刺し口に運ぶ。

「……私が思うに教団が我々に標的を定めたのはあの男がゲームに参加した日にお前を除く不戦派が喫茶店に集まった日の事だと思うな」

「ハッ、バカな、そんなバカな事があるかよ」

「……喫茶店に集まって対策会議を行った日の前日、神通恭介が教団の勧誘被害に遭っている。もし、その勧誘した奴が他の信者に連絡を取って密かに監視網を張り巡らせていたとしたら?」

美憂の問い掛けに一同が押し黙る。それはあまりにもあり得たからである。
だが、ここで真紀子が声を荒げる。

「だとしたら、奴らはどこで神通の奴を見つけたんだ?そもそもあたしらが“サタンの息子”だなんてどこで仕入れた?」

「これはあくまでも推測だが、死んだ蜷川か……考えたくはないが文室さんが例の『箱舟会』の信者でその事を教祖に報告していたとしたら?」

「……成る程、合点はいくな」

真紀子は紅茶を啜りながら言った。
だが、その顔はどこか納得がいかないものがあったらしい。
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