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13.見えないけど触れていた
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窓の外が夕焼けで桃色に染まっている。
保健室の自分の机に座り頬杖をついてその光景を眺めていると、背後の扉がカラカラと開いた。
「懐かしいな」
そう言いながら保健室に入って来たのは、先ほど講演会を終えたばかりの京介さんだった。
「よく君はそうやって空き教室にひとりで座っていた。君のことを意識し始めたのも、今思えばそんな寂しそうな横顔を見たのがきっかけだったかもしれないな」
初めて聞いた話だった。俺はこちらに歩いてくる京介さんを見上げた。
「寂しそうだから俺のことを好きになったんですか?」
京介さんは笑いながら首を振った。
「きっかけはそうだったかもしれないが、好きになった理由は違うぞ。君、学校に入ったばかりの頃、喧嘩してただろう。あれがとても恰好良かった」
「そんなことありましたっけ」
短大に入ったばかりの頃といえば、今から五年以上前のことだ。確かに中学・高校時代は結構荒れていた。売られた喧嘩は買うぐらいのことはしていたが、さすがに短大に入ったころには落ち着いていたと思うが。
「覚えてないか? 短大の校門の外で、絡まれた女子学生を助けていただろう? 最初は君を女性だと見間違えていたから驚いたよ。なんて言っても、自分よりも一回りも身体の大きな男に向かって行ったんだからな。さらにその男を簡単にのしてしまったから心底驚いた」
「……あ、そういえば」
おぼろげながらに思い出した。確かに入学したばかりの春、しつこいナンパ男に絡まれていた女の子を助けたことがあった。その現場を京介さんが見ていたのだろう。
「でもそんなのが格好いいだなんて……。ただの暴力じゃないですか」
「いや、そうじゃないよ。みんなが関わろうとせずに避けていく中で、千草が真っ先に向かって行くところを見て、ああ、この子は人のために身体を張れる人間なんだと思ったよ。とても僕には出来ない。だからこそ惹かれたんだろうな」
自分にないものに惹かれる。なんだかその言葉はとても腑に落ちた。
俺もそうだった。自分が決して持ちえないものを持っている京介さんに惹かれた。きっと生き物が遺伝子に組み込まれたプログラムなのだろう。
「このまえの返事が欲しい」
京介さんの声にはっと顔を上げた。
彼は真剣な瞳で俺を見ている。俺は椅子から立ち上がり、京介さんに向かいあった。ぐっと拳を握りこみ、口を開く。
「俺は……、あなたのもとに戻ることはできません」
京介さんの眉がわずかに動いた。
「どうして? 今恋人はいないんだろう?」
「い、いないですけど」
一瞬答えに詰まった。京介さんの眉が寄る。
「好きな奴はいるってことか?」
今度は答えられなかった。ついさっき自覚した一之宮への恋心を、まだ理解も消化もできていなかった。無言で俺が俯いていると、小さなため息が頭上から聞こえた。
「そいつは、君を恋愛対象として見てくれるような男なのか?」
つまりはゲイかどうかということだろう。
一之宮は今のところ俺に惹かれているのかもしれないが、一時的な感情だ。何より俺は先生で一之宮は生徒だ。恋愛が成り立つなんてはじめから思っていない。
俺は床をみつめたまま、頭を振った。
「それなら話は変わって来る。千草は、これから先の人生のことを考えたことはあるか?」
「これから先の人生ですか?」
「ああ、そうだ。俺たちのような人間は結婚も子供も望めない。一人で人生の後半を過ごす人が圧倒的に多いんだ。本当の自分を隠して女性と結婚するような人たちもいるが、君はそういうタイプではないだろう」
確かにそうだと思う。俺はこくんと頷いた。
「でも僕だったら、君をひとりにしない。死ぬまで君の隣にいる。結婚は出来ないが、それに相当する手続きだってする。僕はその覚悟で会いに来た」
京介さんが両手を差し出し、俺の右手を優しく握る。
「だから、僕の手を取ってくれないか」
言葉が出なかった。そこまで考えてくれていたなんて信じられない。
俺は目を見開き、京介さんをまじまじと見つめた。
窓から差し込んだ西日が京介さんの半身を照らし、半身を暗く染めている。
穏やかな笑顔も全身から染み出すような優しさも、安心できる体温も、以前と全く変わりはない。郷愁に近いような懐かしさに胸が締め付けられる。
付き合ってた頃のことは後悔もあるが、楽しい時間も確かにあった。彼の元へ戻れば、寂しいことも辛いこともないだろう。きっと温かく大きな懐の中でまどろんでいられる。
それでも、と俺の心が叫ぶ。
俺は、一之宮のそばにいたい。自分が満たされなくても、一之宮の心を少しでも良いものや楽しいもので満たしてやりたい。一之宮を思う気持ちは、損だとか得だとか、そんな理屈を超えている。
例えそれが苦しく険しい道であろうと、どうしようもなく俺の心は一之宮に惹かれるのだ。あのまっすぐで優しい心を知った瞬間、俺はきっと捉えられてしまったのだろう。
「ごめんなさい。やっぱりあなたのもとには帰れない」
京介さんの瞳が細かく揺れた。
「俺はあの頃、あなたがいなかったらきっと生きていけなかった。あなたが俺を生かしてくれた。だから、助けてもらったこの命で、今度はあの子のことを助けたい。あの子のそばにいてあげたいんです。彼とは特別な関係になれないってちゃんとわかってるんです。……そいつに、あなたと付き合った方がいいんじゃないかなんて言われたし」
あのときの一之宮の言葉を思い出すと、何度でも胸が痛む。
「でもそんなこと関係ない。俺は彼のために、なんだってしてあげたいんです」
京介さんは視線を下げ、そっと俺の右手から両手を離した。
「……それは、この前保健室にいた男子生徒のことか? 確か名前は……一之宮だったかな」
「えっ、なんで……」
見事にいい当てられて俺は驚愕した。京介さんと一之宮が会ったのは、ただ一度だけだったはずだ。そのときだって二人は話をしていなかった。それなのに、なぜ。
「もしやと思ったが、やはりそうか。実はそこで一之宮くんに会ってね。僕を待ち伏せしていたようだった。彼は『先生を幸せにしてあげてください』と頭を下げたよ」
「え……?」
「どうやら僕はお呼びではなかったらしい」
京介さんはふうと大きなため息をついて、それからくっきりと微笑んだ。
「君を忘れられなかったのは本当のことだ。君はいつも苦しそうな顔をしていたからね。だからこそ、本気で幸せにしたいと思っていた。だけど君は、それを望んではいないんだね」
「京介、さん……」
俺は昔、彼の愛をそのまま受け取ることが出来なかった。彼の気持ちを信じきれなかった。臆病な俺の目には、愛というものはどうしても見ることが出来なかったから。
でも今は、あの時間の中に確かに存在していたのだとわかる。その手触りと温もりと匂い。俺はずっと、京介さんの愛に触れていた。
「一之宮くんはまだそのあたりにいると思うよ。行っておいで、千草」
俺はもう何も言えず、彼に向かって頭を深く下げた。
保健室の自分の机に座り頬杖をついてその光景を眺めていると、背後の扉がカラカラと開いた。
「懐かしいな」
そう言いながら保健室に入って来たのは、先ほど講演会を終えたばかりの京介さんだった。
「よく君はそうやって空き教室にひとりで座っていた。君のことを意識し始めたのも、今思えばそんな寂しそうな横顔を見たのがきっかけだったかもしれないな」
初めて聞いた話だった。俺はこちらに歩いてくる京介さんを見上げた。
「寂しそうだから俺のことを好きになったんですか?」
京介さんは笑いながら首を振った。
「きっかけはそうだったかもしれないが、好きになった理由は違うぞ。君、学校に入ったばかりの頃、喧嘩してただろう。あれがとても恰好良かった」
「そんなことありましたっけ」
短大に入ったばかりの頃といえば、今から五年以上前のことだ。確かに中学・高校時代は結構荒れていた。売られた喧嘩は買うぐらいのことはしていたが、さすがに短大に入ったころには落ち着いていたと思うが。
「覚えてないか? 短大の校門の外で、絡まれた女子学生を助けていただろう? 最初は君を女性だと見間違えていたから驚いたよ。なんて言っても、自分よりも一回りも身体の大きな男に向かって行ったんだからな。さらにその男を簡単にのしてしまったから心底驚いた」
「……あ、そういえば」
おぼろげながらに思い出した。確かに入学したばかりの春、しつこいナンパ男に絡まれていた女の子を助けたことがあった。その現場を京介さんが見ていたのだろう。
「でもそんなのが格好いいだなんて……。ただの暴力じゃないですか」
「いや、そうじゃないよ。みんなが関わろうとせずに避けていく中で、千草が真っ先に向かって行くところを見て、ああ、この子は人のために身体を張れる人間なんだと思ったよ。とても僕には出来ない。だからこそ惹かれたんだろうな」
自分にないものに惹かれる。なんだかその言葉はとても腑に落ちた。
俺もそうだった。自分が決して持ちえないものを持っている京介さんに惹かれた。きっと生き物が遺伝子に組み込まれたプログラムなのだろう。
「このまえの返事が欲しい」
京介さんの声にはっと顔を上げた。
彼は真剣な瞳で俺を見ている。俺は椅子から立ち上がり、京介さんに向かいあった。ぐっと拳を握りこみ、口を開く。
「俺は……、あなたのもとに戻ることはできません」
京介さんの眉がわずかに動いた。
「どうして? 今恋人はいないんだろう?」
「い、いないですけど」
一瞬答えに詰まった。京介さんの眉が寄る。
「好きな奴はいるってことか?」
今度は答えられなかった。ついさっき自覚した一之宮への恋心を、まだ理解も消化もできていなかった。無言で俺が俯いていると、小さなため息が頭上から聞こえた。
「そいつは、君を恋愛対象として見てくれるような男なのか?」
つまりはゲイかどうかということだろう。
一之宮は今のところ俺に惹かれているのかもしれないが、一時的な感情だ。何より俺は先生で一之宮は生徒だ。恋愛が成り立つなんてはじめから思っていない。
俺は床をみつめたまま、頭を振った。
「それなら話は変わって来る。千草は、これから先の人生のことを考えたことはあるか?」
「これから先の人生ですか?」
「ああ、そうだ。俺たちのような人間は結婚も子供も望めない。一人で人生の後半を過ごす人が圧倒的に多いんだ。本当の自分を隠して女性と結婚するような人たちもいるが、君はそういうタイプではないだろう」
確かにそうだと思う。俺はこくんと頷いた。
「でも僕だったら、君をひとりにしない。死ぬまで君の隣にいる。結婚は出来ないが、それに相当する手続きだってする。僕はその覚悟で会いに来た」
京介さんが両手を差し出し、俺の右手を優しく握る。
「だから、僕の手を取ってくれないか」
言葉が出なかった。そこまで考えてくれていたなんて信じられない。
俺は目を見開き、京介さんをまじまじと見つめた。
窓から差し込んだ西日が京介さんの半身を照らし、半身を暗く染めている。
穏やかな笑顔も全身から染み出すような優しさも、安心できる体温も、以前と全く変わりはない。郷愁に近いような懐かしさに胸が締め付けられる。
付き合ってた頃のことは後悔もあるが、楽しい時間も確かにあった。彼の元へ戻れば、寂しいことも辛いこともないだろう。きっと温かく大きな懐の中でまどろんでいられる。
それでも、と俺の心が叫ぶ。
俺は、一之宮のそばにいたい。自分が満たされなくても、一之宮の心を少しでも良いものや楽しいもので満たしてやりたい。一之宮を思う気持ちは、損だとか得だとか、そんな理屈を超えている。
例えそれが苦しく険しい道であろうと、どうしようもなく俺の心は一之宮に惹かれるのだ。あのまっすぐで優しい心を知った瞬間、俺はきっと捉えられてしまったのだろう。
「ごめんなさい。やっぱりあなたのもとには帰れない」
京介さんの瞳が細かく揺れた。
「俺はあの頃、あなたがいなかったらきっと生きていけなかった。あなたが俺を生かしてくれた。だから、助けてもらったこの命で、今度はあの子のことを助けたい。あの子のそばにいてあげたいんです。彼とは特別な関係になれないってちゃんとわかってるんです。……そいつに、あなたと付き合った方がいいんじゃないかなんて言われたし」
あのときの一之宮の言葉を思い出すと、何度でも胸が痛む。
「でもそんなこと関係ない。俺は彼のために、なんだってしてあげたいんです」
京介さんは視線を下げ、そっと俺の右手から両手を離した。
「……それは、この前保健室にいた男子生徒のことか? 確か名前は……一之宮だったかな」
「えっ、なんで……」
見事にいい当てられて俺は驚愕した。京介さんと一之宮が会ったのは、ただ一度だけだったはずだ。そのときだって二人は話をしていなかった。それなのに、なぜ。
「もしやと思ったが、やはりそうか。実はそこで一之宮くんに会ってね。僕を待ち伏せしていたようだった。彼は『先生を幸せにしてあげてください』と頭を下げたよ」
「え……?」
「どうやら僕はお呼びではなかったらしい」
京介さんはふうと大きなため息をついて、それからくっきりと微笑んだ。
「君を忘れられなかったのは本当のことだ。君はいつも苦しそうな顔をしていたからね。だからこそ、本気で幸せにしたいと思っていた。だけど君は、それを望んではいないんだね」
「京介、さん……」
俺は昔、彼の愛をそのまま受け取ることが出来なかった。彼の気持ちを信じきれなかった。臆病な俺の目には、愛というものはどうしても見ることが出来なかったから。
でも今は、あの時間の中に確かに存在していたのだとわかる。その手触りと温もりと匂い。俺はずっと、京介さんの愛に触れていた。
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