13 / 14
第十三話
しおりを挟む
陽が沈み、陽が昇る。
翌日、アナベルはひとり、酒場で火星酒を飲んでいた。のどが燃えるほど強い酒で、女で飲む者は少ない。粗野な荒くれ男が集まる酒場ではなおさらのことだ。しかし、いま、どうしても飲みたい気分だった。
なぜ、ルーフレッドに傷痕のことを話してしまったのかという後悔は消せなかった。しかし、一方で、云ってしまって良かったとも思う。
あのまま、黙ってルーフレッドを利用しつづけることはできなかった。そうしていたなら、自分のなかの軸が壊れてしまったかもしれない。
ただ復讐だけを望むのなら、あるいはそれこそ往くべき道なのかもしれないが……。
と、横から声をかけてくる男がいた。
「お姉さん、火星酒とは剛毅だね。いっしょに飲まないかい」
手をさし出され来る。アナベルは邪険に振り払った。
「話しかけないで。ひとりで飲みたい気分なの。それとも、あなた、あの蛇の刺青の男について知っているとでも云うの?」
アナベルがつい洩らしたひと言に、男は、一瞬、きょとんとしたが、そのうち、何か思いあたったようにかるく首をかしげた。
「蛇の刺青? もしかして、あいつのことかな」
「まさか、知っているの?」
アナベルは食いついた。男はその反応の過敏さに驚いたように、その場で一歩下がる。うっかり危ない動物の尾を踏んでしまったのではないかと怯えるようだ。
「ああ、聞いたことがあるよ。正確には、おれの友達が話していた内容だけれどね。その蛇の刺青の男がどうかしたの?」
思わぬところからなぞの〈蛇の男〉の情報が掴めた。
「もしほんとに知っているなら教えて! わたし、そいつに恨みがあるの」
「ふむ。ここじゃ、ちょっと話せないな。だれが聞いているかわからないからね。この近くにもっと静かに話せる場所がある。そこへ行こう」
アナベルはうなずいた。危険を感じないわけではなかったが、この男は善良そうに見えたし、〈蛇の男〉の情報を逃がしたくなかった。あるいは、いくらか自暴自棄になっていたのかもしれない。
「わかった。行こう」
「こっちだよ。ついて来て」
そのとき、男の目がひどく邪に煌めいたことには気づかなかった。
◆◇◆
「ここは――?」
アナベルが連れ込まれたのは、王都でもいささか治安の悪い辺りに位置する、小さな一室であった。男は、何げなく、あたりまえのことのように、後ろ手で部屋の鍵をかけた。
「どういうこと? 蛇の刺青を彫り込んだ男の話は?」
いまさながら不安に駆られて訊ねると、男は小さく口笛を吹いた。
「刺青? 何だそれ?」
「――騙したのね」
絡みつくような視線が、いやらしくねめつけて来た。どうして、このような男を善良そうなどと思ってしまったのだろう。酒精のせいか、目が曇っていた。いまさらながら悔やまれる。
男はへらへらと笑いながらシャツの釦をひとつ外した。アナベルがその場から後ずさると、何か獰猛なケモノのように飛び掛かって来る。
アナベルはその場に押し倒された。男の指が乱暴に乳房をまさぐる。不快と屈辱で、心が燃えるようだった。
「へえ、意外に良い躰しているじゃん。抱き甲斐があるな」
「離して!」
あらんかぎりの力を込めて抵抗したが、男の体重を跳ねのけることはできない。さらに乱暴に躰をいじられる。地獄のような時間が続いた。
――ああ。
ひたひたと海潮のように押し寄せてきた絶望が心を浸し切る。アナベルはいまやすべてを投げやりに、あきらめようとしていた。
ひっきょう、これが、自分の運命なのかもしれない。自分は見知らぬ男にこのように扱われる程度の存在でしかなかったのだ。
そもそも、本来、八歳のときに死んでいた身の上である。あるいはあのときからずっと、ただ夢を見ていたのかもしれない。
まだ生きている夢、飲み、食べ、歩き、暮らし、あたりまえの人間のように振る舞っている夢を。
ようやくその夢が醒めるときが来たのだ。わたしはふたたび嬲られ、壊される。今度こそ生きてはいけないだろう。それでも良い。もう何もかも疲れ果ててしまった。楽になろう……。
しかし、そのとき、たまさか正面からのぞき込んだ男の卑しい眼のなかに、一匹の蛇の幻影が見えた。彼女の人生を侮辱し、強奪し、破壊した存在の昏い象徴そのもの。
火のような怒りが全身をつらぬいき、豁然と目を見ひらいた。
違う!
わたしは生きている。まだ生きている。そうして、これからも生きてゆく。
力まかせに組み敷かれながら、小さく、しかしはっきりと、上位魔法言語の呪文を詠唱する。男は、彼女が気でも狂ったと思ったのか、まったく気にする様子がない。
「火よ!」
刹那、指先のあたりに、あの火の精霊サラマンダーが踊るように飛びまわる姿が垣間見える。そうして、小さな火球が男の躰を灼いていた。
「痛うっ!」
いままさにアナベルを凌辱しようとしていたその男は、高い悲鳴を上げて彼女のからだから跳ね跳んだ。
このとき、いままで碌々《ろくろく》成功したことがない火の魔法が発動したのは、僥倖というべきか、あるいは追いつめられ、いっそう集中力が増したことに原因を求めるべきであっただろうか。
ともかく、アナベルは肉体の自由を手に入れた。部屋の扉へと駆け寄る。その彼女に向かって、男が襲いかかって来る。必死で鍵を開けた。しかし――
翌日、アナベルはひとり、酒場で火星酒を飲んでいた。のどが燃えるほど強い酒で、女で飲む者は少ない。粗野な荒くれ男が集まる酒場ではなおさらのことだ。しかし、いま、どうしても飲みたい気分だった。
なぜ、ルーフレッドに傷痕のことを話してしまったのかという後悔は消せなかった。しかし、一方で、云ってしまって良かったとも思う。
あのまま、黙ってルーフレッドを利用しつづけることはできなかった。そうしていたなら、自分のなかの軸が壊れてしまったかもしれない。
ただ復讐だけを望むのなら、あるいはそれこそ往くべき道なのかもしれないが……。
と、横から声をかけてくる男がいた。
「お姉さん、火星酒とは剛毅だね。いっしょに飲まないかい」
手をさし出され来る。アナベルは邪険に振り払った。
「話しかけないで。ひとりで飲みたい気分なの。それとも、あなた、あの蛇の刺青の男について知っているとでも云うの?」
アナベルがつい洩らしたひと言に、男は、一瞬、きょとんとしたが、そのうち、何か思いあたったようにかるく首をかしげた。
「蛇の刺青? もしかして、あいつのことかな」
「まさか、知っているの?」
アナベルは食いついた。男はその反応の過敏さに驚いたように、その場で一歩下がる。うっかり危ない動物の尾を踏んでしまったのではないかと怯えるようだ。
「ああ、聞いたことがあるよ。正確には、おれの友達が話していた内容だけれどね。その蛇の刺青の男がどうかしたの?」
思わぬところからなぞの〈蛇の男〉の情報が掴めた。
「もしほんとに知っているなら教えて! わたし、そいつに恨みがあるの」
「ふむ。ここじゃ、ちょっと話せないな。だれが聞いているかわからないからね。この近くにもっと静かに話せる場所がある。そこへ行こう」
アナベルはうなずいた。危険を感じないわけではなかったが、この男は善良そうに見えたし、〈蛇の男〉の情報を逃がしたくなかった。あるいは、いくらか自暴自棄になっていたのかもしれない。
「わかった。行こう」
「こっちだよ。ついて来て」
そのとき、男の目がひどく邪に煌めいたことには気づかなかった。
◆◇◆
「ここは――?」
アナベルが連れ込まれたのは、王都でもいささか治安の悪い辺りに位置する、小さな一室であった。男は、何げなく、あたりまえのことのように、後ろ手で部屋の鍵をかけた。
「どういうこと? 蛇の刺青を彫り込んだ男の話は?」
いまさながら不安に駆られて訊ねると、男は小さく口笛を吹いた。
「刺青? 何だそれ?」
「――騙したのね」
絡みつくような視線が、いやらしくねめつけて来た。どうして、このような男を善良そうなどと思ってしまったのだろう。酒精のせいか、目が曇っていた。いまさらながら悔やまれる。
男はへらへらと笑いながらシャツの釦をひとつ外した。アナベルがその場から後ずさると、何か獰猛なケモノのように飛び掛かって来る。
アナベルはその場に押し倒された。男の指が乱暴に乳房をまさぐる。不快と屈辱で、心が燃えるようだった。
「へえ、意外に良い躰しているじゃん。抱き甲斐があるな」
「離して!」
あらんかぎりの力を込めて抵抗したが、男の体重を跳ねのけることはできない。さらに乱暴に躰をいじられる。地獄のような時間が続いた。
――ああ。
ひたひたと海潮のように押し寄せてきた絶望が心を浸し切る。アナベルはいまやすべてを投げやりに、あきらめようとしていた。
ひっきょう、これが、自分の運命なのかもしれない。自分は見知らぬ男にこのように扱われる程度の存在でしかなかったのだ。
そもそも、本来、八歳のときに死んでいた身の上である。あるいはあのときからずっと、ただ夢を見ていたのかもしれない。
まだ生きている夢、飲み、食べ、歩き、暮らし、あたりまえの人間のように振る舞っている夢を。
ようやくその夢が醒めるときが来たのだ。わたしはふたたび嬲られ、壊される。今度こそ生きてはいけないだろう。それでも良い。もう何もかも疲れ果ててしまった。楽になろう……。
しかし、そのとき、たまさか正面からのぞき込んだ男の卑しい眼のなかに、一匹の蛇の幻影が見えた。彼女の人生を侮辱し、強奪し、破壊した存在の昏い象徴そのもの。
火のような怒りが全身をつらぬいき、豁然と目を見ひらいた。
違う!
わたしは生きている。まだ生きている。そうして、これからも生きてゆく。
力まかせに組み敷かれながら、小さく、しかしはっきりと、上位魔法言語の呪文を詠唱する。男は、彼女が気でも狂ったと思ったのか、まったく気にする様子がない。
「火よ!」
刹那、指先のあたりに、あの火の精霊サラマンダーが踊るように飛びまわる姿が垣間見える。そうして、小さな火球が男の躰を灼いていた。
「痛うっ!」
いままさにアナベルを凌辱しようとしていたその男は、高い悲鳴を上げて彼女のからだから跳ね跳んだ。
このとき、いままで碌々《ろくろく》成功したことがない火の魔法が発動したのは、僥倖というべきか、あるいは追いつめられ、いっそう集中力が増したことに原因を求めるべきであっただろうか。
ともかく、アナベルは肉体の自由を手に入れた。部屋の扉へと駆け寄る。その彼女に向かって、男が襲いかかって来る。必死で鍵を開けた。しかし――
0
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢に転生したので、ゲームを無視して自由に生きる。私にしか使えない植物を操る魔法で、食べ物の心配は無いのでスローライフを満喫します。
向原 行人
ファンタジー
死にかけた拍子に前世の記憶が蘇り……どハマりしていた恋愛ゲーム『ときめきメイト』の世界に居ると気付く。
それだけならまだしも、私の名前がルーシーって、思いっきり悪役令嬢じゃない!
しかもルーシーは魔法学園卒業後に、誰とも結ばれる事なく、辺境に飛ばされて孤独な上に苦労する事が分かっている。
……あ、だったら、辺境に飛ばされた後、苦労せずに生きていけるスキルを学園に居る内に習得しておけば良いじゃない。
魔法学園で起こる恋愛イベントを全て無視して、生きていく為のスキルを習得して……と思ったら、いきなりゲームに無かった魔法が使えるようになってしまった。
木から木へと瞬間移動出来るようになったので、学園に通いながら、辺境に飛ばされた後のスローライフの練習をしていたんだけど……自由なスローライフが楽し過ぎるっ!
※第○話:主人公視点
挿話○:タイトルに書かれたキャラの視点
となります。
聖女が降臨した日が、運命の分かれ目でした
猫乃真鶴
ファンタジー
女神に供物と祈りを捧げ、豊穣を願う祭事の最中、聖女が降臨した。
聖女とは女神の力が顕現した存在。居るだけで豊穣が約束されるのだとそう言われている。
思ってもみない奇跡に一同が驚愕する中、第一王子のロイドだけはただ一人、皆とは違った視線を聖女に向けていた。
彼の婚約者であるレイアだけがそれに気付いた。
それが良いことなのかどうなのか、レイアには分からない。
けれども、なにかが胸の内に燻っている。
聖女が降臨したその日、それが大きくなったのだった。
※このお話は、小説家になろう様にも掲載しています
私はもう必要ないらしいので、国を護る秘術を解くことにした〜気づいた頃には、もう遅いですよ?〜
AK
ファンタジー
ランドロール公爵家は、数百年前に王国を大地震の脅威から護った『要の巫女』の子孫として王国に名を残している。
そして15歳になったリシア・ランドロールも一族の慣しに従って『要の巫女』の座を受け継ぐこととなる。
さらに王太子がリシアを婚約者に選んだことで二人は婚約を結ぶことが決定した。
しかし本物の巫女としての力を持っていたのは初代のみで、それ以降はただ形式上の祈りを捧げる名ばかりの巫女ばかりであった。
それ故に時代とともにランドロール公爵家を敬う者は減っていき、遂に王太子アストラはリシアとの婚約破棄を宣言すると共にランドロール家の爵位を剥奪する事を決定してしまう。
だが彼らは知らなかった。リシアこそが初代『要の巫女』の生まれ変わりであり、これから王国で発生する大地震を予兆し鎮めていたと言う事実を。
そして「もう私は必要ないんですよね?」と、そっと術を解き、リシアは国を後にする決意をするのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも同タイトルで投稿しています。
【完結】ゲーム開始は自由の時! 乙女ゲーム? いいえ。ここは農業系ゲームの世界ですよ?
キーノ
ファンタジー
私はゲームの世界に転生したようです。主人公なのですが、前世の記憶が戻ったら、なんという不遇な状況。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか。
ある日、我が家に勝手に住み着いた平民の少女が私に罵声を浴びせて来ました。乙女ゲーム? ヒロイン? 訳が解りません。ここはファーミングゲームの世界ですよ?
自称妹の事は無視していたら、今度は食事に毒を盛られる始末。これもゲームで語られなかった裏設定でしょうか?
私はどんな辛いことも頑張って乗り越えて、ゲーム開始を楽しみにいたしますわ!
※紹介文と本編は微妙に違います。
完結いたしました。
感想うけつけています。
4月4日、誤字修正しました。
「魔道具の燃料でしかない」と言われた聖女が追い出されたので、結界は消えます
七辻ゆゆ
ファンタジー
聖女ミュゼの仕事は魔道具に力を注ぐだけだ。そうして国を覆う大結界が発動している。
「ルーチェは魔道具に力を注げる上、癒やしの力まで持っている、まさに聖女だ。燃料でしかない平民のおまえとは比べようもない」
そう言われて、ミュゼは城を追い出された。
しかし城から出たことのなかったミュゼが外の世界に恐怖した結果、自力で結界を張れるようになっていた。
そしてミュゼが力を注がなくなった大結界は力を失い……
伯爵令嬢アンマリアのダイエット大作戦
未羊
ファンタジー
気が付くとまん丸と太った少女だった?!
痩せたいのに食事を制限しても運動をしても太っていってしまう。
一体私が何をしたというのよーっ!
驚愕の異世界転生、始まり始まり。
【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革
うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。
優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。
家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。
主人公は、魔法・知識チートは持っていません。
加筆修正しました。
お手に取って頂けたら嬉しいです。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる