1 / 1
本編
しおりを挟む
朝。
ベッドの傍らのガラス窓から、燦然と眩しい陽射しが差し込んでくる。
どうやら今日は晴天のようだ。この世界には前世のように天気予報などという便利なものはないので、その日になってみるまで天候はわからない。
ここ数日雨天が続いていたので、晴れてくれて良かった。
わたしはベッドのなかでぬくぬく蒲団にくるまれながら、パッチリと目をひらいた。
寝起きは良いほうだ。目覚まし時計などなくても、起床時刻になれば、かってに目が醒める。
半身を起こし、体を伸ばす。気持ちの良い朝だ。まさに仕事日和。
となりのベッドで寝ている夫リベルを起こしてしまわないよう、そうっと蒲団から出た。
もっとも、リベルは睡眠が深い。めったなことでは起きないだろう。
じっさい、その綺麗な顔を覗き込んでみると、すやすやと眠りつづける様子だった。心のなかだけで、おはようございます、と告げる。
あるいは本当の夫婦だったらキスのひとつもして起こしているところかもしれないが、わたしたちは契約婚。偽りの夫婦関係に過ぎない。相手の生活は尊重しなければならないのだ。
ただ、そうやって夫の寝顔を眺めていると、いつものように胸の奥からあたたかい感謝の気持ちが湧き上がって来た。
この人は、契約妻であるわたしに対し、きわめて親切に振る舞ってくれている。そんな義理などないにもかかわらず、わたしがやることなすこと、ことごとく適切に助力し、話相手が欲しいときは黙って話を聴いてくれさえするのである。
何て善い人なのだろう。仮の夫婦とはいえ、この人と結婚して良かった。心からそう思う。
リベルのほうも、そう思ってくれていたら良いのだけれど。
寝間着を着替え、簡単に身支度を整えてから、なるべく物音を立てないようそうっと部屋の外へ出て、忙しなく動き回る侍女たちに挨拶する。
朝食の準備はすでにできているらしい。まずはそれをいただきながら、読むべき書類に目を通そう。
一応は伯爵夫人の身の上なのにあまり行儀が良くないが、時間がもったいないのでしかたない。昨日に続いて、今日もたくさんの仕事がわたしを待っているのだ。幸せなことだ。
さあ、今日もいっしょうけんめい働こう!
◆◇◆
それからしばらく書類仕事をし、陽がなかぞらに昇り詰めようとする頃に、リベルが起床してわたしの仕事部屋を訪れた。
まだいくらか眠たそうに、宝石のように綺麗な青い目を擦っている。低血圧なのだ。
わたしはにっこりと笑いかけながら、こんどはしっかり声に出して挨拶した。
「おはようございます、リベルさま」
「おはよう、セレスティナ。今日も精が出るね」
わたしの机の上に山と積まれた書類を見て、いささか呆れたように云う。
本来は伯爵であるかれの仕事なのだが、わたしがお願いして担当させてもらっているのだ。
一応は伯爵夫人の地位にあるとはいえ、事実は契約婚相手に過ぎないわたしを心から信頼し、全権を任せてくれたこの人にはいくら感謝してもし足りない。
おかげで、結婚してからもまったく退屈せずに済んでいる。
わたしは仕事が好きだ。いまの肉体に転生するまえの「前世」でもそうだった。
我ながら、目の前に山積するたくさんの仕事を次々とこなしているとき、最も活き活きしていると思う。
前世では、仕事中毒と云われたりした。何とでも云え。自分が好きなことをして、人の役にも立つ。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
「それにしても、その紙束の量、それを起きてからの時間で処理してしまったのかい。あいかわらず凄まじいな。あ、ごめん、仕事の邪魔だよね。ちょっと朝の挨拶をしたかっただけなんだ。いま、出て行くから」
「いいえ。ちょうど昼の休憩を取ろうと思っていた頃です。いっしょにお昼ご飯をいただきましょう」
わたしはその場に立ち上がった。リベルさまとかるく雑談を交わしながら、食事部屋に向かって歩く。
あまりに仕事を抱え込みすぎ、どうやら過労死してしまったらしい前世の反省から、きちんと休憩は取ることにしているのだ。
リベルさまから見ればそれでも過剰な仕事をため込んでいるように見えるらしいが、わたしにしてみれば十分に一日で処理できる量である。たぶん、きっと、おそらく。
「それにしても、いまさらだけれど、セレスティナは本当によく働くよね。きみが来てから、傾いていた領地経営はいっきに回復した。重税を改めることもできたから、領民たちもありがたがっていることだろう。ぼくも心から感謝しているよ、ありがとう」
「そんな、大袈裟です」
わたしは照れた。この美貌の夫に正面から褒められると照れくさくてたまらない。
そもそもわたしが伯爵夫人になったのは領地を経営する仕事が得意ではない夫に代わって働くためなのだから、ただあたりまえのことをしているだけだ。いちいち賞賛されるほどのことではない。
わたしがリベルと出逢ったのは、泡沫貴族の貧乏令嬢として、宮廷で働いていた頃だ。
そもそもわたしはいわゆる「女の仕事」をこなすため白銀王朝の宮廷に入ったのだが、ちょっとした偶然などから周囲の貴族の仕事を手伝ったりしているうちに、いつのまにか便利に使われるようになり、さまざまな相談を受けたり、書類を読み書きしたり、帳簿を付けたりするようになっていた。
そのことは、どうやら貴族の間で静かに噂になっていたらしい。ある日、わたしのまえにリベルがあらわれて、その甘い声で囁いたのだ。
「きみが欲しい」と。
いま、その同じくちびるが小さく吐息する。
「ちっとも大袈裟な話じゃないよ。きみがいなかったら、わたしのような無能者ではとても伯爵領を維持できなかったことだろう。ほんとうにきみと結婚したことは正しかった。あの頃、耳にした噂を信じて良かったと心から思うよ。最初はとても信じられなかったけれどね。宮廷に恐ろしい能吏がいる、それは二十歳にもならない若く可憐な娘だ、なんて」
「能吏だなんて、恥ずかしいです。ただ、好きなことをやっているだけです」
紅茶を啜りながらさらに照れる。この人は、わたしを褒め殺しするつもりだろうか。
そう、わたしは一年前、仕事の能力を見込まれてリベルと「契約婚」を交わしたのだ。
かれは云ったものだった。きみを愛するつもりはない。ただ、きみのその能力を貸してほしい、と。
その言葉に、わたしはすぐにうなずいた。わたしは恋愛音痴であまり色ごとに興味はなかったし、伯爵夫人として領地経営の仕事に関われることは嬉しかったからだ。
そのときのわくわくする気持ちはいまでも憶えている。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。こんなに喜ばしいことが他にあるだろうか、と。
「もっとも、その頃はきみがこんなに可愛らしい女の子だとはまったく想像していなかったのだけれど。そんなに仕事が得意なのに、日常の細々としたことができないのはなぜなんだろう? 仕事のほうがよほど難しいと思うのだけれど」
「お恥ずかしいです」
そう、わたしはいわゆる「女の仕事」とされる料理や掃除などにまったく向いていない。わたしが得意なのはつまり情報の整理であり、手先を使うようなことは致命的に苦手なのだ。
宮廷でもその点に関しては怒られてばかりだった。いまのように「男の仕事」をこなせるようになったことは、幸いとしか云いようがない。
「まあ、貴族なのだからそのようなことは侍女に任せておけば良いのだけれどね。結婚してから、他にもいろいろと可愛いところを見せてもらった。きみの猫好きには驚いたよ。猫といっしょにいるときは仕事中とは別人みたいに女の子らしくなるのだからね。おかげでいまは屋敷中に何匹の猫がいることか」
「ごめんなさい」
わたしはその場で小さくなった。
いま、この伯爵邸のなかに、正確には十二匹の猫が暮らしている。わたしは自分でもどうかと思うような病的なまでの猫好きで、一匹で寂しそうな猫を見ると拾って来てしまうのだ。
猫を可愛がることがわたしの生きる目的だとすら云って良い。ああ、ほんとうに猫って可愛い。天使? 天使なの?
「いや、謝ったりする必要はないんだ。ただ、きみはいつもわたしを驚かせてくれる、そこが好きだと云いたかっただけなんだから。愛しているよ、セレスティナ」
わたしはリベルの軽口に、思わず吹き出した。この人はよく好きだとか、愛していると云ってくれる。ひょっとしたら、契約妻に対する礼儀だと思っているのかもしれない。
そういうセリフは、ほんとうに愛する人にだけ口にしてほしいものだ。まったく、真に受けたらどうするつもりなんだろ。
「ありがとうございます。ただの契約相手のわたしにむりにそんなことを云わなくても良いんですよ。あ、いつも云っているように愛人を作りたかったらいくらでもそうしていただいて結構ですから。リベルさまは貴族の上、その美貌なんですから、いくら妻帯者でも女の子は寄ってきますよ」
「わたしは、きみ以外に愛人を持ったりするつもりはない。きみに恋をしているからね。もっとも、叶う見込みのない片思いだけれど」
リベルは小さくため息を吐いた。かれのような美形にこのようなことを云われると、いくら恋愛音痴のわたしでも、そしてあくまで冗談口だとわかっていてさえ、ひどく照れる。
この人のためにもっと仕事を頑張ろうという気になる。あるいは、そのために云ってくれているのかもしれない。
その後、わたしはやたらにやる気が出て、就寝するまでにいつも以上の量の仕事を処理してしまった。美男子の甘い囁きは仕事に効く!
さあ、またあした頑張ることにしよう。わたしはとなりのベッドで横になっているリベルに笑いかけてから、ゆっくりと目を閉じた。
おやすみなさい、旦那さま。
◆◇◆
「――眠ったんだね」
わたしは、ベッドに入ってからわずか数秒で眠りに就いてしまった我が妻セレスティナの可愛い寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
なめらかで柔らかな頬を二三度つついてみたが、まったく起きる気配はない。ほんとうにこの人は寝つきが良い。朝起きることにも苦労しない様子なのはうらやましいほどだ。わたしは毎日、起床に苦しんでいるのに。
その可憐な顔を見下ろしていると、あらためてつよい愛情が湧いて来る。彼女のためだったらどんなことでもできる。そんな気になる。
最初はたしかにただの契約結婚だった。
早逝した父からこの領地を継承して以来、無能なわたしのせいで、多くの人に迷惑をかけた。このままでは領地は傾きつづけ、領民たちは困窮することだろう。
そう思い、わたしに代わって仕事を処理してくれる人間を探して、そしてセレスティナと出逢ったのだ。
その小柄で華奢な娘が、宮廷随一の超人的な能吏だなどと、信じられはしなかった。しかし、それでも、その頃、追いつめられていたわたしには賭けるよりほか選択肢がなかったのだ。
もし噂が嘘なら離縁してしまえば良い。そのような身勝手なことを考えていたことを憶えている。
じっさいには、彼女の能力は噂以上だった。わたしから見ると信じられないくらい数字に強い彼女は、あっというまに問題点を洗い出し、領地経営を立て直してみせた。
いま、セレスティナは領民たちから女神のように慕われている。それはそうだろう。彼らの生活が安定したのは、すべて彼女のおかげなのだから。
これほど仕事のできる女性から見て、わたしのような無能者はさぞ無価値に見えるだろう。そう考えて落ち込むこともあった。そのまま口にしてみたこともある。
ところが、実の父母からすら顔だけの男と云われつづけたわたしのことを、彼女は決して蔑むことなく、それどころか、高く認めてくれたのだった。
「人には得手不得手がありますよ。わたしにはリベルさまみたいに優しく人の話を聴きつづけることはできません。それって、すごい才能だと思うんです。もっと、自分を高く評価してください。リベルさまは素晴らしいお人柄のもち主なんですから」
その言葉を聞いて、正直、涙がこぼれそうだった。
長いあいだずっと、伯爵家の後継者でありながら仕事ができない自分のことが嫌いだった。また、だれもがわたしを軽蔑しているように思っていた。
しかし、ここにわたしを理解し、賞賛してくれる人がいる。彼女自身はだれよりも有能であるにもかかわらず、無能なわたしの長所を見つけ、わたしを励ましてくれるのだ。
わたしはこんな女性に対し、きみを愛するつもりはないなどと傲慢なことを口にしてしまったのか。そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
そして、同時に、彼女への恋に落ちていた。それはわたしにとっては経験のない感情で、つまり初恋だった。寝ても覚めても彼女の顔ばかり浮かぶ。
その猫を撫ぜる指先、とろけた表情に心臓が高鳴る。こんなに愚かなことがあるだろうか。わたしは結婚したあとにようやく恋心を知ったのだ。
わたしはその想いをもてあまし、思い切って口にしてみたりもした。だが、妻はまったく本気にする様子がない。どうも、すべてただの軽口か、冗談に過ぎないと思っているらしい。
恋愛ごとには興味がない人だとは知っていたが、まさかここまで鉄のように鈍感だとは思ってもいなかった。
今日も、正面から好きだ、愛していると云ったのに、まったく応じてくれなかった。まあ、少しは照れてくれていたようではあるけれど。
いったい、いつになったら我が想いは彼女に届くのだろう?
わたしは、ちょっとため息を吐いてから、彼女の瑞々しい頬にかるく口づけた。くちびるへのキスは、起きているときにすることにしよう。
「おやすみ、わたしのセレスティナ」
そうして、妻への切ない片想いに胸を締め付けられながら、わたしもまた、眠りに就く。あしたこそは、わたしの恋心が通じる日であってくれと、そう、心のなかで祈りながら。
ベッドの傍らのガラス窓から、燦然と眩しい陽射しが差し込んでくる。
どうやら今日は晴天のようだ。この世界には前世のように天気予報などという便利なものはないので、その日になってみるまで天候はわからない。
ここ数日雨天が続いていたので、晴れてくれて良かった。
わたしはベッドのなかでぬくぬく蒲団にくるまれながら、パッチリと目をひらいた。
寝起きは良いほうだ。目覚まし時計などなくても、起床時刻になれば、かってに目が醒める。
半身を起こし、体を伸ばす。気持ちの良い朝だ。まさに仕事日和。
となりのベッドで寝ている夫リベルを起こしてしまわないよう、そうっと蒲団から出た。
もっとも、リベルは睡眠が深い。めったなことでは起きないだろう。
じっさい、その綺麗な顔を覗き込んでみると、すやすやと眠りつづける様子だった。心のなかだけで、おはようございます、と告げる。
あるいは本当の夫婦だったらキスのひとつもして起こしているところかもしれないが、わたしたちは契約婚。偽りの夫婦関係に過ぎない。相手の生活は尊重しなければならないのだ。
ただ、そうやって夫の寝顔を眺めていると、いつものように胸の奥からあたたかい感謝の気持ちが湧き上がって来た。
この人は、契約妻であるわたしに対し、きわめて親切に振る舞ってくれている。そんな義理などないにもかかわらず、わたしがやることなすこと、ことごとく適切に助力し、話相手が欲しいときは黙って話を聴いてくれさえするのである。
何て善い人なのだろう。仮の夫婦とはいえ、この人と結婚して良かった。心からそう思う。
リベルのほうも、そう思ってくれていたら良いのだけれど。
寝間着を着替え、簡単に身支度を整えてから、なるべく物音を立てないようそうっと部屋の外へ出て、忙しなく動き回る侍女たちに挨拶する。
朝食の準備はすでにできているらしい。まずはそれをいただきながら、読むべき書類に目を通そう。
一応は伯爵夫人の身の上なのにあまり行儀が良くないが、時間がもったいないのでしかたない。昨日に続いて、今日もたくさんの仕事がわたしを待っているのだ。幸せなことだ。
さあ、今日もいっしょうけんめい働こう!
◆◇◆
それからしばらく書類仕事をし、陽がなかぞらに昇り詰めようとする頃に、リベルが起床してわたしの仕事部屋を訪れた。
まだいくらか眠たそうに、宝石のように綺麗な青い目を擦っている。低血圧なのだ。
わたしはにっこりと笑いかけながら、こんどはしっかり声に出して挨拶した。
「おはようございます、リベルさま」
「おはよう、セレスティナ。今日も精が出るね」
わたしの机の上に山と積まれた書類を見て、いささか呆れたように云う。
本来は伯爵であるかれの仕事なのだが、わたしがお願いして担当させてもらっているのだ。
一応は伯爵夫人の地位にあるとはいえ、事実は契約婚相手に過ぎないわたしを心から信頼し、全権を任せてくれたこの人にはいくら感謝してもし足りない。
おかげで、結婚してからもまったく退屈せずに済んでいる。
わたしは仕事が好きだ。いまの肉体に転生するまえの「前世」でもそうだった。
我ながら、目の前に山積するたくさんの仕事を次々とこなしているとき、最も活き活きしていると思う。
前世では、仕事中毒と云われたりした。何とでも云え。自分が好きなことをして、人の役にも立つ。これほど素晴らしいことがあるだろうか。
「それにしても、その紙束の量、それを起きてからの時間で処理してしまったのかい。あいかわらず凄まじいな。あ、ごめん、仕事の邪魔だよね。ちょっと朝の挨拶をしたかっただけなんだ。いま、出て行くから」
「いいえ。ちょうど昼の休憩を取ろうと思っていた頃です。いっしょにお昼ご飯をいただきましょう」
わたしはその場に立ち上がった。リベルさまとかるく雑談を交わしながら、食事部屋に向かって歩く。
あまりに仕事を抱え込みすぎ、どうやら過労死してしまったらしい前世の反省から、きちんと休憩は取ることにしているのだ。
リベルさまから見ればそれでも過剰な仕事をため込んでいるように見えるらしいが、わたしにしてみれば十分に一日で処理できる量である。たぶん、きっと、おそらく。
「それにしても、いまさらだけれど、セレスティナは本当によく働くよね。きみが来てから、傾いていた領地経営はいっきに回復した。重税を改めることもできたから、領民たちもありがたがっていることだろう。ぼくも心から感謝しているよ、ありがとう」
「そんな、大袈裟です」
わたしは照れた。この美貌の夫に正面から褒められると照れくさくてたまらない。
そもそもわたしが伯爵夫人になったのは領地を経営する仕事が得意ではない夫に代わって働くためなのだから、ただあたりまえのことをしているだけだ。いちいち賞賛されるほどのことではない。
わたしがリベルと出逢ったのは、泡沫貴族の貧乏令嬢として、宮廷で働いていた頃だ。
そもそもわたしはいわゆる「女の仕事」をこなすため白銀王朝の宮廷に入ったのだが、ちょっとした偶然などから周囲の貴族の仕事を手伝ったりしているうちに、いつのまにか便利に使われるようになり、さまざまな相談を受けたり、書類を読み書きしたり、帳簿を付けたりするようになっていた。
そのことは、どうやら貴族の間で静かに噂になっていたらしい。ある日、わたしのまえにリベルがあらわれて、その甘い声で囁いたのだ。
「きみが欲しい」と。
いま、その同じくちびるが小さく吐息する。
「ちっとも大袈裟な話じゃないよ。きみがいなかったら、わたしのような無能者ではとても伯爵領を維持できなかったことだろう。ほんとうにきみと結婚したことは正しかった。あの頃、耳にした噂を信じて良かったと心から思うよ。最初はとても信じられなかったけれどね。宮廷に恐ろしい能吏がいる、それは二十歳にもならない若く可憐な娘だ、なんて」
「能吏だなんて、恥ずかしいです。ただ、好きなことをやっているだけです」
紅茶を啜りながらさらに照れる。この人は、わたしを褒め殺しするつもりだろうか。
そう、わたしは一年前、仕事の能力を見込まれてリベルと「契約婚」を交わしたのだ。
かれは云ったものだった。きみを愛するつもりはない。ただ、きみのその能力を貸してほしい、と。
その言葉に、わたしはすぐにうなずいた。わたしは恋愛音痴であまり色ごとに興味はなかったし、伯爵夫人として領地経営の仕事に関われることは嬉しかったからだ。
そのときのわくわくする気持ちはいまでも憶えている。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。もっと仕事ができる。こんなに喜ばしいことが他にあるだろうか、と。
「もっとも、その頃はきみがこんなに可愛らしい女の子だとはまったく想像していなかったのだけれど。そんなに仕事が得意なのに、日常の細々としたことができないのはなぜなんだろう? 仕事のほうがよほど難しいと思うのだけれど」
「お恥ずかしいです」
そう、わたしはいわゆる「女の仕事」とされる料理や掃除などにまったく向いていない。わたしが得意なのはつまり情報の整理であり、手先を使うようなことは致命的に苦手なのだ。
宮廷でもその点に関しては怒られてばかりだった。いまのように「男の仕事」をこなせるようになったことは、幸いとしか云いようがない。
「まあ、貴族なのだからそのようなことは侍女に任せておけば良いのだけれどね。結婚してから、他にもいろいろと可愛いところを見せてもらった。きみの猫好きには驚いたよ。猫といっしょにいるときは仕事中とは別人みたいに女の子らしくなるのだからね。おかげでいまは屋敷中に何匹の猫がいることか」
「ごめんなさい」
わたしはその場で小さくなった。
いま、この伯爵邸のなかに、正確には十二匹の猫が暮らしている。わたしは自分でもどうかと思うような病的なまでの猫好きで、一匹で寂しそうな猫を見ると拾って来てしまうのだ。
猫を可愛がることがわたしの生きる目的だとすら云って良い。ああ、ほんとうに猫って可愛い。天使? 天使なの?
「いや、謝ったりする必要はないんだ。ただ、きみはいつもわたしを驚かせてくれる、そこが好きだと云いたかっただけなんだから。愛しているよ、セレスティナ」
わたしはリベルの軽口に、思わず吹き出した。この人はよく好きだとか、愛していると云ってくれる。ひょっとしたら、契約妻に対する礼儀だと思っているのかもしれない。
そういうセリフは、ほんとうに愛する人にだけ口にしてほしいものだ。まったく、真に受けたらどうするつもりなんだろ。
「ありがとうございます。ただの契約相手のわたしにむりにそんなことを云わなくても良いんですよ。あ、いつも云っているように愛人を作りたかったらいくらでもそうしていただいて結構ですから。リベルさまは貴族の上、その美貌なんですから、いくら妻帯者でも女の子は寄ってきますよ」
「わたしは、きみ以外に愛人を持ったりするつもりはない。きみに恋をしているからね。もっとも、叶う見込みのない片思いだけれど」
リベルは小さくため息を吐いた。かれのような美形にこのようなことを云われると、いくら恋愛音痴のわたしでも、そしてあくまで冗談口だとわかっていてさえ、ひどく照れる。
この人のためにもっと仕事を頑張ろうという気になる。あるいは、そのために云ってくれているのかもしれない。
その後、わたしはやたらにやる気が出て、就寝するまでにいつも以上の量の仕事を処理してしまった。美男子の甘い囁きは仕事に効く!
さあ、またあした頑張ることにしよう。わたしはとなりのベッドで横になっているリベルに笑いかけてから、ゆっくりと目を閉じた。
おやすみなさい、旦那さま。
◆◇◆
「――眠ったんだね」
わたしは、ベッドに入ってからわずか数秒で眠りに就いてしまった我が妻セレスティナの可愛い寝顔を見つめながら、そっと呟いた。
なめらかで柔らかな頬を二三度つついてみたが、まったく起きる気配はない。ほんとうにこの人は寝つきが良い。朝起きることにも苦労しない様子なのはうらやましいほどだ。わたしは毎日、起床に苦しんでいるのに。
その可憐な顔を見下ろしていると、あらためてつよい愛情が湧いて来る。彼女のためだったらどんなことでもできる。そんな気になる。
最初はたしかにただの契約結婚だった。
早逝した父からこの領地を継承して以来、無能なわたしのせいで、多くの人に迷惑をかけた。このままでは領地は傾きつづけ、領民たちは困窮することだろう。
そう思い、わたしに代わって仕事を処理してくれる人間を探して、そしてセレスティナと出逢ったのだ。
その小柄で華奢な娘が、宮廷随一の超人的な能吏だなどと、信じられはしなかった。しかし、それでも、その頃、追いつめられていたわたしには賭けるよりほか選択肢がなかったのだ。
もし噂が嘘なら離縁してしまえば良い。そのような身勝手なことを考えていたことを憶えている。
じっさいには、彼女の能力は噂以上だった。わたしから見ると信じられないくらい数字に強い彼女は、あっというまに問題点を洗い出し、領地経営を立て直してみせた。
いま、セレスティナは領民たちから女神のように慕われている。それはそうだろう。彼らの生活が安定したのは、すべて彼女のおかげなのだから。
これほど仕事のできる女性から見て、わたしのような無能者はさぞ無価値に見えるだろう。そう考えて落ち込むこともあった。そのまま口にしてみたこともある。
ところが、実の父母からすら顔だけの男と云われつづけたわたしのことを、彼女は決して蔑むことなく、それどころか、高く認めてくれたのだった。
「人には得手不得手がありますよ。わたしにはリベルさまみたいに優しく人の話を聴きつづけることはできません。それって、すごい才能だと思うんです。もっと、自分を高く評価してください。リベルさまは素晴らしいお人柄のもち主なんですから」
その言葉を聞いて、正直、涙がこぼれそうだった。
長いあいだずっと、伯爵家の後継者でありながら仕事ができない自分のことが嫌いだった。また、だれもがわたしを軽蔑しているように思っていた。
しかし、ここにわたしを理解し、賞賛してくれる人がいる。彼女自身はだれよりも有能であるにもかかわらず、無能なわたしの長所を見つけ、わたしを励ましてくれるのだ。
わたしはこんな女性に対し、きみを愛するつもりはないなどと傲慢なことを口にしてしまったのか。そう思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
そして、同時に、彼女への恋に落ちていた。それはわたしにとっては経験のない感情で、つまり初恋だった。寝ても覚めても彼女の顔ばかり浮かぶ。
その猫を撫ぜる指先、とろけた表情に心臓が高鳴る。こんなに愚かなことがあるだろうか。わたしは結婚したあとにようやく恋心を知ったのだ。
わたしはその想いをもてあまし、思い切って口にしてみたりもした。だが、妻はまったく本気にする様子がない。どうも、すべてただの軽口か、冗談に過ぎないと思っているらしい。
恋愛ごとには興味がない人だとは知っていたが、まさかここまで鉄のように鈍感だとは思ってもいなかった。
今日も、正面から好きだ、愛していると云ったのに、まったく応じてくれなかった。まあ、少しは照れてくれていたようではあるけれど。
いったい、いつになったら我が想いは彼女に届くのだろう?
わたしは、ちょっとため息を吐いてから、彼女の瑞々しい頬にかるく口づけた。くちびるへのキスは、起きているときにすることにしよう。
「おやすみ、わたしのセレスティナ」
そうして、妻への切ない片想いに胸を締め付けられながら、わたしもまた、眠りに就く。あしたこそは、わたしの恋心が通じる日であってくれと、そう、心のなかで祈りながら。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
婚約者が聖女を選ぶことくらい分かっていたので、先に婚約破棄します。
黒蜜きな粉
恋愛
魔王討伐を終え、王都に凱旋した英雄たち。
その中心には、異世界から来た聖女と、彼女に寄り添う王太子の姿があった。
王太子の婚約者として壇上に立ちながらも、私は自分が選ばれない側だと理解していた。
だから、泣かない。縋らない。
私は自分から婚約破棄を願い出る。
選ばれなかった人生を終わらせるために。
そして、私自身の人生を始めるために。
短いお話です。
※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。
お前は要らない、ですか。そうですか、分かりました。では私は去りますね。あ、私、こう見えても人気があるので、次の相手もすぐに見つかりますよ。
四季
恋愛
お前は要らない、ですか。
そうですか、分かりました。
では私は去りますね。
「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」
歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。
「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは
泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析
能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り
続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。
婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」
感情の無い聖女様は、公爵への生贄にされてしまいました
九条 雛
恋愛
「――私など、ただの〝祈り人形〟でございます。人形に感情はありませぬ……」
悪逆非道の公爵の元へと生贄として捧げられてしまった聖女は、格子の付いた窓を見上げてそう呟く。
公爵は嗜虐に満ちた笑みを浮かべ言い放つ。
「これからは、三食きちんと食べてもらおう。こうして俺のモノとなったからには、今までのような生活を送れるとは思わぬことだな」
――これは、不幸な境遇で心を閉ざしてしまった少女と、その笑顔を取り戻そうとする男の物語。
没落貴族とバカにしますが、実は私、王族の者でして。
亜綺羅もも
恋愛
ティファ・レーベルリンは没落貴族と学園の友人たちから毎日イジメられていた。
しかし皆は知らないのだ
ティファが、ロードサファルの王女だとは。
そんなティファはキラ・ファンタムに惹かれていき、そして自分の正体をキラに明かすのであったが……
冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件
水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」
結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。
出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。
愛を期待されないのなら、失望させることもない。
契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。
ただ「役に立ちたい」という一心だった。
――その瞬間。
冷酷騎士の情緒が崩壊した。
「君は、自分の価値を分かっていない」
開始一分で愛さない宣言は撤回。
無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。
以後、
寝室は強制統合
常時抱っこ移動
一秒ごとに更新される溺愛
妻を傷つける者には容赦なし宣言
甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。
さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――?
自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。
溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる