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第五話
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わたしがエイプリルとともに帰宅すると、そこに執事が待っていた。彼はわたしをお父さまのところへ連れて行き、そして、わたしはたっぷりと叱られることとなった。
あまりにも当然のことだ。わたしは公爵家の代表などと名乗って王宮へ出向いたのだから。むしろ、叱られるだけで済まされることがかぎりなく甘い処断だと云っていい。
いまはわたしも、どうにかそのことがわかるくらいにはなっていた。そしてわたしは、しばらくの間、自室に謹慎することとなった。普段からわたしに甘いお父さまの、これは最大の罰と云って良かっただろう。
うん、反省しよう。
その夜。
小さく、ほんの小さく、わたしのへやの扉を叩く音がした。こんな夜半に、だれだろう? エイプリルがからかいにでも来たのだろうか。
「はい。開いているわ」
わたしが答えると、わずかな軋みの音を立てて、扉が開いた。そこから顔を出した人物を見て、わたしは思わず叫んでいた。
「お姉さま!」
「しーっ」
モニカお姉さまは、きれいに薄い口紅が塗られたくちびるに指をあてた。
「大きな声を出さないで。わたしがここにいることがばれちゃうわ」
「あっ、ごめんなさい。何かご用ですか、お姉さま?」
「うん、ちょっとね」
お姉さまがこのようなあいまいな言葉遣いを選ぶことはめずらしいことだった。
お姉さまは、わたしが眠っていたベッドの傍まで歩いて来ると、そこに椅子を持って来て座った。
「最近、あなたと話をする時間を取れていなかったでしょう。ね、ベネット、たまには姉妹ふたり、女の子どうしでお話でもしない?」
「良いんですか?」
「もちろん。あ、でもお父さまとお母さまには内緒だからね。あなたは謹慎の身の上なんだから」
「はい、ありがとうございます。あの、お姉さまとお話ができて嬉しいです」
わたしがそう口にすると、お姉さまはちょっと笑った。
どうしてだろう、わたしのようなひねくれた人間でも、モニカお姉さまの前に出ると、すぐに素直になれる。お姉さまは、人の心を解きほぐす不思議な力を持っているようだ。
どうして、アンソニー王子はその力を受けなかったのだろうか? いや、受けたからこそ苦しんだと考えるべきなのか。
青白い月光に照らされて、お姉さまの横顔はほんとうに綺麗だった。わたしは何百人もの貴族の奥方や令嬢の顔を見てきたが、お姉さまほどの美女を他に知らない。
アンソニー王子も美形だが、お姉さまと比べると、どう云ったら良いだろう、魂の品位とでもいうべきものに格段の差があるように思える。
彼が劣等感を覚えて苦悩したことも無理はないかもしれない。そう思った。
「ねえ、ベネット」
お姉さまは、ちょっとだけ真剣な顔になって、小声でわたしに訊ねてきた。
「どうして、ひとりでアンソニー殿下のところへ行ったりしたの?」
「それは――」
わたしは的確な言葉を探そうと、一瞬、答えることを躊躇した。しかし、結局、率直に答えることしかできなかった。虚言を弄しても、すぐにお姉さまは見抜いてしまうだろうし、そもそもお姉さまに対して嘘を吐いたりごまかしたりすることなど、考えられなかった。
「あの王子さまが、ほんとうはお姉さまのことを愛していたのかどうか、はっきりと彼の口から聞きたかったからです」
お姉さまはめずらしく目を円くした。
「それはまた、随分とおませなことを聞いていたのね! それで、答えはどうだった?」
「愛していたと云っていました。神を愛するように愛していたと」
「そう」
お姉さまは、ちょっといたずらっぽくほほ笑んだ。
「でも、それと同時に、畏れ、憎んでいたとも云っていたでしょう?」
今度はわたしが目を円く見開く順番だった。
「どうしてわかるのですか?」
「わかるわ。だって、ずっとあの人に恋していたんだもの。好きな人の気持ちは知りたいと思うものでしょう?」
「そう、なのですか」
「ええ」
お姉さまは、ちょっと自慢げに豊かな胸を反らしてみせた。
「わたしだって恋くらいできるんだから。あ、これは内緒の話よ。ヴァネッサとあなたにしか話していないんだから」
「はい」
「わたしはね、あの王子さまが好きだった。幼い頃、初めて出逢ってから、ずっと、ずーっとよ」
お姉さまは、どこか遠いところを見つめるように宙を見た。その姿が、不思議と、今日逢ったアンソニー王子に重なって感じられた。
「お姉さまは、あの方のどこをそんなにお好きだったんですか?」
「意外?」
「ええ。失礼ですが、アンソニー殿下はお姉さまほどのお方がそこまで恋着なさるほどの人物とは思えませんでした」
モニカお姉さまはちょっと考え込むように見えた。
「そうだなあ、たしかに欠点は多い人よね。弱いし、だらしないし、めそめそするし、挙句の果てには異世界からやって来た得体のしれない女なんかにひっかかっちゃうし?」
お姉さまが仰っているのが、最近、宮廷で暗躍したと云われる〈聖女〉のことであることはわかった。
噂によれば、聖女ユウナは、その、人ひとりの心をねじ曲げる力をもちいて王子を誘惑したのだという。
いまは王子の心を得て得意の絶頂にあるようだが、彼があの調子だと、その得意も長くは続かないかもしれない。
「でもね、良いところもたくさんあるのよ。何より、あの人、優しいの。それは不器用な優しさなんだけれどね。子供の頃、わたしに自分で摘んだ花を持って来てくれたときは嬉しかったなあ。あれで好きになっちゃったのかなあ」
モニカお姉さまは照れくさそうにほほ笑んだ。
そうして自然に振る舞っていると、わたしの完璧な姉は、その並外れた美貌を除けば、ほとんどふつうの女の子であるように見えた。
いや――違う。そうではない。姉もまた、まだわずか十八の、ふつうの少女なのだ。
わたしはそのとき、愕然と打ちのめされた。
そうだ。お姉さまはまだ十八歳なのだ。いくら知性と才能に恵まれていても、十八には十八の限界がある。たった十八。わずか十八! わたしより五歳年上でしかないのだ。
わたしはいままでそのことを見て来なかった。いや、むしろ、あえて目を背けてきた。
見たくなかったのだ。わたしの姉は生まれつき完璧な人間なのだと思っていれば、どんなに比較されても平気だったから。
しかし、それは何と残酷な仕打ちだっただろう。
「お姉さま!」
わたしは突然、彼女の胸のなかに跳び込んでいた。
「ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい。わたしは、ばかでした」
「あら、どうしたの、ベネット。ああ、泣かないで。そんなに泣かなくても良いのよ、わたしの可愛いベネット。あなたは何も悪くないのだから」
お姉さまは、優しく、どこまでも優しく、とうとつに泣きじゃくりはじめたわたしの頭を抱き寄せてくれた。
いまになってようやく、わたしは自分の愚かさをしんじつ理解していた。
わたしはいままで、ほんとうに十分にお姉さまの哀しみと寂しさを理解しようとして来ただろうか。この完璧な人が、まさにその完璧さによって、どれほどまわりから差別され、ひとり、絶望的な孤独のなかにいたのか、きちんと把握しようと努力していただろうか。
否――決して、否。
むしろ、わたしもまたお姉さまを差別するそのひとりだったのだ。
モニカお姉さまは決して生まれつき完璧な人などではなかった。そうではなく、自ら完璧であろうとする人だったのだ。
努力を人前で見せない人間は、あたかも一切努力していないかのように見える。しかし、そうではない、決してそうではないのである。
だれもが、モニカお姉さまは特別だという。生まれながらにして才能を持っているのだから、何でもできて当然だという。
しかし、それは、何という露骨で悲惨な差別であることか。
そして、お姉さまは、まわりのそんな目に晒されても、決して反論はしなかった。
あたかも、ほんとうに生来、完璧で、傷つくことを知らない人間であるかのように。
しかし、ときにはその胸に、あまりにも愚かな周囲の人間に対する絶望が去来することはなかっただろうか。
最近、お姉さまは世間で〈悪役令嬢〉などと呼ばれつつあるらしい。それは自ら悪役を買って出て王子と別離したお姉さまに対する賞賛と揶揄が相半ばする呼称なのだという。
だが、自ら、悪であることをひき受けるためには、どれほどの勇気が必要になるのだろう。
お姉さまは、語らない。いつも苦しみは微笑の影に隠して、何でもないことのように見せている。
だから、その苦痛をまわりの人間が理解できないのは当然だとしても、せめて家族は、家族だけは理解してやるべきだったのではないか。
それにもかかわらず、わたしはいままで彼女をただの偶像として扱い、少しも理解し共感しようとはしなかった。
いまさらながらにエイプリルが云っていたあの言葉が思い浮かぶ。
わたしは罪人だ。アンソニー王子よりもっと重い罪を背負った、咎人なのだ!
モニカお姉さまは、どうしても涙を止められないわたしの背を撫ぜながら、子守唄を歌うように語ってくれた。
「大丈夫よ、ベネット。あなただけではないのだから。だれだって、他人のことなんて理解できないのよ。それは、わたしも同じ。でもね、理解できなくても、愛することはできる。わたしがあなたを愛しているように。ねえ、笑って、ベネット。だれよりも可愛いわたしの妹。わたしも、あなたみたいに可愛らしく振る舞えたら、失恋なんてしなくて済んだかしらね。ああ、ばかなことを云ったわね。わたしはわたしで、あなたにはなれないのに」
「お姉さま――お姉さま!」
わたしはその夜、姉のそのふくよかな胸のなかで、たぶん一生分を泣いたのだと思う。もしわたしが少しでもまともな人間になれたのだとしたら、それは、やはりこのことがあったからだ。
自分だけではなく、だれもが苦しみを抱えている。ただ楽なだけの人生などない。
その、言葉にしてみればあまりにもあたりまえのことを、わたしはこのとき、ようやく実感として理解したのだ。
そして、初めて、ほんとうの意味で姉を愛した。この優しい、あまりに優しすぎる人のことを、偶像としてではなく、ひとりの人間として愛した。
それは神聖な、二度とは訪れないような夜だった。
わたしは、どうにか涙を止めて笑顔を見せようとしながら、思った。
わたしにはお姉さまのようにすべてに対して寛容であろうとすることはできない。
それなら、せめて、優しくなろう。人の弱さや愚かしさを少しでも多く許容できる人間になろう。
そうしたら、お姉さまも、わたしの前でくらい、その完璧さの衣装を崩してみせてくれるかもしれない。それは、お姉さまにとって、わずかではあっても救いになるのではないだろうか。
わたしは、この夜を忘れない。
わたしが大人への階段をほんの一歩だけ登ったとき。わたしのいちばん大切な人との、素晴らしく輝かしい思い出の夜だ。
あまりにも当然のことだ。わたしは公爵家の代表などと名乗って王宮へ出向いたのだから。むしろ、叱られるだけで済まされることがかぎりなく甘い処断だと云っていい。
いまはわたしも、どうにかそのことがわかるくらいにはなっていた。そしてわたしは、しばらくの間、自室に謹慎することとなった。普段からわたしに甘いお父さまの、これは最大の罰と云って良かっただろう。
うん、反省しよう。
その夜。
小さく、ほんの小さく、わたしのへやの扉を叩く音がした。こんな夜半に、だれだろう? エイプリルがからかいにでも来たのだろうか。
「はい。開いているわ」
わたしが答えると、わずかな軋みの音を立てて、扉が開いた。そこから顔を出した人物を見て、わたしは思わず叫んでいた。
「お姉さま!」
「しーっ」
モニカお姉さまは、きれいに薄い口紅が塗られたくちびるに指をあてた。
「大きな声を出さないで。わたしがここにいることがばれちゃうわ」
「あっ、ごめんなさい。何かご用ですか、お姉さま?」
「うん、ちょっとね」
お姉さまがこのようなあいまいな言葉遣いを選ぶことはめずらしいことだった。
お姉さまは、わたしが眠っていたベッドの傍まで歩いて来ると、そこに椅子を持って来て座った。
「最近、あなたと話をする時間を取れていなかったでしょう。ね、ベネット、たまには姉妹ふたり、女の子どうしでお話でもしない?」
「良いんですか?」
「もちろん。あ、でもお父さまとお母さまには内緒だからね。あなたは謹慎の身の上なんだから」
「はい、ありがとうございます。あの、お姉さまとお話ができて嬉しいです」
わたしがそう口にすると、お姉さまはちょっと笑った。
どうしてだろう、わたしのようなひねくれた人間でも、モニカお姉さまの前に出ると、すぐに素直になれる。お姉さまは、人の心を解きほぐす不思議な力を持っているようだ。
どうして、アンソニー王子はその力を受けなかったのだろうか? いや、受けたからこそ苦しんだと考えるべきなのか。
青白い月光に照らされて、お姉さまの横顔はほんとうに綺麗だった。わたしは何百人もの貴族の奥方や令嬢の顔を見てきたが、お姉さまほどの美女を他に知らない。
アンソニー王子も美形だが、お姉さまと比べると、どう云ったら良いだろう、魂の品位とでもいうべきものに格段の差があるように思える。
彼が劣等感を覚えて苦悩したことも無理はないかもしれない。そう思った。
「ねえ、ベネット」
お姉さまは、ちょっとだけ真剣な顔になって、小声でわたしに訊ねてきた。
「どうして、ひとりでアンソニー殿下のところへ行ったりしたの?」
「それは――」
わたしは的確な言葉を探そうと、一瞬、答えることを躊躇した。しかし、結局、率直に答えることしかできなかった。虚言を弄しても、すぐにお姉さまは見抜いてしまうだろうし、そもそもお姉さまに対して嘘を吐いたりごまかしたりすることなど、考えられなかった。
「あの王子さまが、ほんとうはお姉さまのことを愛していたのかどうか、はっきりと彼の口から聞きたかったからです」
お姉さまはめずらしく目を円くした。
「それはまた、随分とおませなことを聞いていたのね! それで、答えはどうだった?」
「愛していたと云っていました。神を愛するように愛していたと」
「そう」
お姉さまは、ちょっといたずらっぽくほほ笑んだ。
「でも、それと同時に、畏れ、憎んでいたとも云っていたでしょう?」
今度はわたしが目を円く見開く順番だった。
「どうしてわかるのですか?」
「わかるわ。だって、ずっとあの人に恋していたんだもの。好きな人の気持ちは知りたいと思うものでしょう?」
「そう、なのですか」
「ええ」
お姉さまは、ちょっと自慢げに豊かな胸を反らしてみせた。
「わたしだって恋くらいできるんだから。あ、これは内緒の話よ。ヴァネッサとあなたにしか話していないんだから」
「はい」
「わたしはね、あの王子さまが好きだった。幼い頃、初めて出逢ってから、ずっと、ずーっとよ」
お姉さまは、どこか遠いところを見つめるように宙を見た。その姿が、不思議と、今日逢ったアンソニー王子に重なって感じられた。
「お姉さまは、あの方のどこをそんなにお好きだったんですか?」
「意外?」
「ええ。失礼ですが、アンソニー殿下はお姉さまほどのお方がそこまで恋着なさるほどの人物とは思えませんでした」
モニカお姉さまはちょっと考え込むように見えた。
「そうだなあ、たしかに欠点は多い人よね。弱いし、だらしないし、めそめそするし、挙句の果てには異世界からやって来た得体のしれない女なんかにひっかかっちゃうし?」
お姉さまが仰っているのが、最近、宮廷で暗躍したと云われる〈聖女〉のことであることはわかった。
噂によれば、聖女ユウナは、その、人ひとりの心をねじ曲げる力をもちいて王子を誘惑したのだという。
いまは王子の心を得て得意の絶頂にあるようだが、彼があの調子だと、その得意も長くは続かないかもしれない。
「でもね、良いところもたくさんあるのよ。何より、あの人、優しいの。それは不器用な優しさなんだけれどね。子供の頃、わたしに自分で摘んだ花を持って来てくれたときは嬉しかったなあ。あれで好きになっちゃったのかなあ」
モニカお姉さまは照れくさそうにほほ笑んだ。
そうして自然に振る舞っていると、わたしの完璧な姉は、その並外れた美貌を除けば、ほとんどふつうの女の子であるように見えた。
いや――違う。そうではない。姉もまた、まだわずか十八の、ふつうの少女なのだ。
わたしはそのとき、愕然と打ちのめされた。
そうだ。お姉さまはまだ十八歳なのだ。いくら知性と才能に恵まれていても、十八には十八の限界がある。たった十八。わずか十八! わたしより五歳年上でしかないのだ。
わたしはいままでそのことを見て来なかった。いや、むしろ、あえて目を背けてきた。
見たくなかったのだ。わたしの姉は生まれつき完璧な人間なのだと思っていれば、どんなに比較されても平気だったから。
しかし、それは何と残酷な仕打ちだっただろう。
「お姉さま!」
わたしは突然、彼女の胸のなかに跳び込んでいた。
「ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい。わたしは、ばかでした」
「あら、どうしたの、ベネット。ああ、泣かないで。そんなに泣かなくても良いのよ、わたしの可愛いベネット。あなたは何も悪くないのだから」
お姉さまは、優しく、どこまでも優しく、とうとつに泣きじゃくりはじめたわたしの頭を抱き寄せてくれた。
いまになってようやく、わたしは自分の愚かさをしんじつ理解していた。
わたしはいままで、ほんとうに十分にお姉さまの哀しみと寂しさを理解しようとして来ただろうか。この完璧な人が、まさにその完璧さによって、どれほどまわりから差別され、ひとり、絶望的な孤独のなかにいたのか、きちんと把握しようと努力していただろうか。
否――決して、否。
むしろ、わたしもまたお姉さまを差別するそのひとりだったのだ。
モニカお姉さまは決して生まれつき完璧な人などではなかった。そうではなく、自ら完璧であろうとする人だったのだ。
努力を人前で見せない人間は、あたかも一切努力していないかのように見える。しかし、そうではない、決してそうではないのである。
だれもが、モニカお姉さまは特別だという。生まれながらにして才能を持っているのだから、何でもできて当然だという。
しかし、それは、何という露骨で悲惨な差別であることか。
そして、お姉さまは、まわりのそんな目に晒されても、決して反論はしなかった。
あたかも、ほんとうに生来、完璧で、傷つくことを知らない人間であるかのように。
しかし、ときにはその胸に、あまりにも愚かな周囲の人間に対する絶望が去来することはなかっただろうか。
最近、お姉さまは世間で〈悪役令嬢〉などと呼ばれつつあるらしい。それは自ら悪役を買って出て王子と別離したお姉さまに対する賞賛と揶揄が相半ばする呼称なのだという。
だが、自ら、悪であることをひき受けるためには、どれほどの勇気が必要になるのだろう。
お姉さまは、語らない。いつも苦しみは微笑の影に隠して、何でもないことのように見せている。
だから、その苦痛をまわりの人間が理解できないのは当然だとしても、せめて家族は、家族だけは理解してやるべきだったのではないか。
それにもかかわらず、わたしはいままで彼女をただの偶像として扱い、少しも理解し共感しようとはしなかった。
いまさらながらにエイプリルが云っていたあの言葉が思い浮かぶ。
わたしは罪人だ。アンソニー王子よりもっと重い罪を背負った、咎人なのだ!
モニカお姉さまは、どうしても涙を止められないわたしの背を撫ぜながら、子守唄を歌うように語ってくれた。
「大丈夫よ、ベネット。あなただけではないのだから。だれだって、他人のことなんて理解できないのよ。それは、わたしも同じ。でもね、理解できなくても、愛することはできる。わたしがあなたを愛しているように。ねえ、笑って、ベネット。だれよりも可愛いわたしの妹。わたしも、あなたみたいに可愛らしく振る舞えたら、失恋なんてしなくて済んだかしらね。ああ、ばかなことを云ったわね。わたしはわたしで、あなたにはなれないのに」
「お姉さま――お姉さま!」
わたしはその夜、姉のそのふくよかな胸のなかで、たぶん一生分を泣いたのだと思う。もしわたしが少しでもまともな人間になれたのだとしたら、それは、やはりこのことがあったからだ。
自分だけではなく、だれもが苦しみを抱えている。ただ楽なだけの人生などない。
その、言葉にしてみればあまりにもあたりまえのことを、わたしはこのとき、ようやく実感として理解したのだ。
そして、初めて、ほんとうの意味で姉を愛した。この優しい、あまりに優しすぎる人のことを、偶像としてではなく、ひとりの人間として愛した。
それは神聖な、二度とは訪れないような夜だった。
わたしは、どうにか涙を止めて笑顔を見せようとしながら、思った。
わたしにはお姉さまのようにすべてに対して寛容であろうとすることはできない。
それなら、せめて、優しくなろう。人の弱さや愚かしさを少しでも多く許容できる人間になろう。
そうしたら、お姉さまも、わたしの前でくらい、その完璧さの衣装を崩してみせてくれるかもしれない。それは、お姉さまにとって、わずかではあっても救いになるのではないだろうか。
わたしは、この夜を忘れない。
わたしが大人への階段をほんの一歩だけ登ったとき。わたしのいちばん大切な人との、素晴らしく輝かしい思い出の夜だ。
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