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序章
5 闘いに向けて
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ミレーヌからアルティシアが処刑されたと聞かされ、アトロポスは朝食の食卓にあったナイフを手に取って部屋を飛び出した。そして、最初に出逢った巡回兵を襲い、ナイフを首筋に突き刺して剣を奪った。
アトロポスの目的は二つあった。一つはアルティシアが処刑されたという真偽を確かめることだった。本当に処刑されたのであれば、晒されているという御首を奪ってきちんと埋葬するつもりだった。
もう一つは、アンドロゴラスとシルヴァレートの親子を殺すことだ。特に、自分を凌辱しておきながら、約束を破ったシルヴァレートのことは絶対に許せなかった。
難易度からすれば、アンドロゴラス親子を殺すことの方が遥かに難しいと思われた。大公であるのならまだしも、現在のアンドロゴラスはレウルキア王国の国王だと言う。当然ながら、その警護は厳重を極めているはずだ。まして、前国王弑逆という政変の直後である。王宮最強と呼ばれるダリウス将軍率いる近衛騎士団全員が警護に当たっていても不思議ではなかった。
(悔しいけど、今すぐにアンドロゴラスたちを殺すことは無理だわ。まずはアルティシア様処刑の真偽を確かめて、その御首を取り戻そう)
ミレーヌは、王家一家は城の外門に首を晒されたと言った。レウルキア王宮には、東西南北四つの門がある。そのいずれにも、外門と内門の二つの門があった。本当にアルティシアの御首が晒されているのであれば、どこの門かを調べる必要があった。
アトロポスは、自分がアンドロゴラスの立場であれば前国王の御首を晒すのに、どの門を使うかを考えた。御首を晒す意味は、前国王の悪逆を並べたてて自分の正当性を国民に知らしめることだ。それであれば、一番人々の往来が多い南外門しか考えられなかった。
南外門は首都レウルーラの中心街を貫く南インディス大通りがあるだけでなく、南外門前広場には毎日のように市が立ち大勢の人々で賑わっていた。
(王宮の中から南外門に直接向かうのは下策だわ。前国王の御首を警護している人数が少ないはずはない。他の門から一度王宮を出て、外から南外門を目指した方がいい)
その方が、今回の政変に対する民の声も聞くことができるし、何よりもアルティシアの御首を取り戻すための準備をすることができる。アトロポスの顔はダリウスを初めとする近衛騎士団に割れている。変装も必要だったし、何よりもアルティシアの御首を取り戻すための袋や箱も必要だと思われた。
(東外門と西外門はダメね。外門の外に街もないし、隠れるところさえ全くない広場だわ。馬を使われたら、すぐに追いつかれてしまう。やはり、港町に続く北インディス大通りがある北外門しかないわ)
だが、大きな問題が一つあった。通常、王宮内の者が門を通過する際には、各部署の責任者が発行する手形が必要だった。その手形を持っていないと門番の通過許可が下りないのだ。
(手形がなくても門を出られる方法は……。まさか、城壁をよじ登ることなんてできないし……)
王宮の城壁は、低い場所でも三メッツェ以上の高さがあった。身長百六十五セグメッツェのアトロポスからすると、倍近い高さだ。飛び越えることなどできるはずもなかった。
(飛び越える……? そうだ!)
アトロポスの脳裏に、十年前の記憶が蘇った。まだこの王宮に連れてこられて数日の頃、王宮内を探索していたときに大きな木を見つけた。その木は大きく枝が伸びており、そのうちの一本はたしか城壁の外まであったはずだ。六歳のアトロポスは、この木に登れれば外に出られるのにと思ったのだった。
(あの木は、たしか麒麟宮の西側にあったはず……)
アトロポスは周囲を警戒しながら、麒麟宮へと向かって走り出した。
アトロポスは運良く誰の目にも触れられずに、麒麟宮の西側にある巨木の元に辿り着いた。十年前と同様に、その木は大きな枝を城壁の外まで伸ばしていた。
(木登りの訓練を思い出すわね)
第一騎士団の訓練には、木登りも含まれていた。森やダンジョンなどで、木に登って敵影などを確認する必要があるからだった。アトロポスは筋力こそ男性隊員には敵わなかったが、身軽さを生かして木登りの成績は同期でも一番だった。
(さすがに明るいうちに木登りなんてしたら、どこから見られるか分からないわ。暗くなるのを待った方がいいわね)
冬のこの時期、日が暮れるのは早い。夜の四つ鐘が鳴る頃には周囲は真っ暗になる。太陽の傾きから、あと半刻もしないうちに夜の帳が下りると思われた。
朝食を食べてからアトロポスは何も口にしていなかった。空腹を覚えると、冬の寒さが身に染みた。
(飢えと寒さを感じるなんて、考えてみるとあの日以来かも……)
十年前、アルティシアの馬車に忍び込んで捕まったとき、飢えと寒さに震えていたことをアトロポスは思い出した。そして、その時に初めてアルティシアと言葉を交わしたのだった。
(姫様……申し訳ありません。私は姫様をお護りする約束を果たせませんでした……)
不意に、アトロポスは大きな喪失感に襲われた。誰よりも愛し、尊敬し、大切に思っていたアルティシアの死が、実感を伴ってアトロポスを包み込んだ。
アトロポスはアルティシアが処刑されたと聞いてから、初めて涙を流した。大声で泣き叫びたい衝動を辛うじて抑えると、アトロポスは周囲が暗くなるまで嗚咽し続けた。
夜の帳が下りきり、美しい三日月が夜空に輝くと、アトロポスは涙を拭って立ち上がった。周囲に人影がないことを確認すると、アトロポスはゆっくりと巨木に登り始めた。暗闇の中で注意深く手足を動かし、アトロポスは西側の城壁の上まで太い枝を伝っていった。そこから城壁まではおよそ一メッツェあった。城壁の高さは三メッツェくらいのため、地上までは四メッツェほどの高さだった。
城壁の幅はおよそ五十セグメッツだった。アトロポスは一度城壁の上に下りることにした。城壁の真上まで移動すると、アトロポスはゆっくりと体を下げて城壁の上に立った。後は城壁の外に人がいない時を見計らって飛び降りるだけだった。
(今だッ!)
アトロポスは城壁の外に体を躍らせた。両膝を大きく曲げて着地の衝撃を緩和すると、そのまま前方へと回転した。木登りで少し手の平を擦りむいたが、他に怪我もなくアトロポスは王宮から外へと脱出することに成功した。
目立たないように早足出歩きながら、アトロポスは西外門を大きく迂回して西シドニア通りへ出た。時刻は夜の四つ鐘を少し過ぎた頃のため、まだ商店街には明かりが灯っていた。
アトロポスは武器屋の看板を見つけると、店の中に入った。
「いらっしゃい」
四十前後の男がアトロポスに声を掛けてきた。この店の店主のようだった。
「この剣を売って代わりの武器を買いたいんですが、いくらで売れますか?」
アトロポスは昼間巡回兵から奪った剣を店主に差し出した。
「これは第一騎士団の剣かい?」
「いえ、近衛騎士団の剣です。今度近衛騎士団から第一騎士団に移ったので、不要になったんです」
もっともらしい理由を述べると、アトロポスは笑顔を作って微笑みかけた。店主に不審がられることは避けなければならなかった。
「そうか。あまり手入れは良くないな。金貨一枚でどうかね?」
「金貨一枚ですか? 新品なら金貨十枚はする剣ですよ。少なくても金貨五枚くらいの価値はあると思いますが……」
「金貨五枚は無理だな。大負けで金貨三枚ってとこか……」
「分かりました。では、金貨三枚でお願いします。それと、そこにある細短剣はいくらですか?」
アトロポスは左手の壁に掛けられている剣を指しながら訊ねた。細短剣とは一般的な細剣よりも二十セグメッツェほど剣身が短く軽量な剣だが、刺突力は細剣と遜色がないものだった。非力なアトロポスにとっては、どちらかというと細剣よりも扱いやすかった。
「それは金貨三枚と言いたいところだが、使い手がいなくて一年以上も在庫になっている剣だ。この剣を売ってもらったことだし、お嬢さんの第一騎士団異動のお祝いで金貨一枚にしてあげるよ」
「ありがとうございます」
アトロポスは満面の笑顔で礼を言うと、細短剣とお釣りの金貨二枚を受け取った。
(あとは冒険者風の衣服と御首を入れる革袋ね。宿と食事はそれからでいいわ)
「このお店で装備も売っていますか? できれば革の鎧と大きめの革袋も欲しいんですが……」
「女性用の革鎧なら、そこから選びな。値段はどれでも金貨一枚だ。革袋は売ってないが、俺が使っていたお古でよければタダであげよう」
「ありがとうございます。助かります。試着はできますか?」
「そこのカーテンの向こう側が試着室だ。終わったら声を掛けてくれ」
そう告げると、店主は革袋を取りに店の奥へと入って行った。
試着室に入ると、アトロポスは第一騎士団の団服を脱いで、黒い革鎧に着替えた。上着は革のジャケットで、下はズボンに分かれたセパレートタイプの鎧だった。上着の胸が少しきつかったが、その他はアトロポスの体型にぴったりと合っていた。新品でないのが残念だったが、金貨一枚なら仕方がないと思い、アトロポスはこの鎧を買うことに決めた。
腰の剣帯に細短剣を差すと、アトロポスはカーテンを開けて店主に声を掛けた。
「おじさん、これにします。このまま着ていっていいですか?」
年季の入った革袋を携えながら、店主が店に戻ってきた。
「構わんよ。ほれ、これでいいか?」
「ありがとうございます」
渡された革袋は思ったよりも大きく、御首なら三つくらいは入りそうだった。アトロポスは脱いだ第一騎士団の団服を革袋に詰め込んだ。
「金貨一枚でしたね。はい……」
先ほど受け取った金貨二枚のうち、アトロポスは一枚を店主に渡した。
「まいど。常連になったらおまけしてあげるから、また来てくれ」
「はい。お世話になりました」
店主に頭を下げると、アトロポスは武器屋をあとにした。
(これで準備は整ったわ。あとは宿をとって、夕食を食べよう)
一部の高級宿を除けば、通常の宿屋は銀貨一枚あれば一泊できる。夕食をつけても、銀貨二枚でお釣りが来るはずだった。裏通りに行けばもっと安い宿もあるが、女一人なので比較的治安のいい表通りの宿屋を探した。
武器屋のあった西シドニア通りを東に向かってしばらく歩くと、右手に『迷子のたまり場』という看板を掲げた下級宿を見つけた。
(面白い名前ね。ここにしよう)
アトロポスは入口の暖簾をくぐって中に入った。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか、お食事ですか?」
アトロポスに気づいた女将が、笑顔で声を掛けてきた。
「両方で……。部屋は空いていますか?」
「はい。お一人ですか?」
冒険者風の革鎧を着ていたためか、女将は不審がりもせずにアトロポスに訊ねてきた。
「はい。女一人なので、鍵の掛かる部屋がいいんですが……」
「大丈夫ですよ。うちは全室鍵付きです」
女将の言葉にアトロポスはホッとして笑顔を浮かべた。下級宿の中には、鍵がない部屋も多いのだ。
「夕食と朝食を付けて一泊いくらですか?」
「二食付きだと、銀貨一枚と銅貨五枚になります。風呂はありませんがいいですか?」
「はい。金貨しか持っていないんですが大丈夫ですか?」
アトロポスは武器屋でもらった金貨を女将に見せた。
「いいですけど……えっと、金貨一枚で銀貨十枚だから、お釣りは……」
「銀貨八枚と銅貨五枚ですね」
商人でも、三種類の硬貨が絡むとすぐに暗算できない者も多い。レウルキア王国の首都とは言え、読み書きや計算がまったくできない者が大半なのだ。
「そ、そうですね。お客さん、すごいですね」
「いえ。ではこれでお願いします」
アトロポスは女将に金貨一枚を渡した。女将はアポロポスの言葉どおり、銀貨八枚と銅貨五枚をお釣りとして差し出した。
「部屋は階段を上って右の突き当たりにある五号室です。食堂はお酒も出すので、朝の一つ鐘まで開けています。先に食事にしますか?」
「部屋に荷物を置いてからまた来ます」
女将から部屋の鍵を預かりながら、アトロポスが告げた。
「分かりました。後ほどお待ちしています」
丁寧に頭を下げた女将に向かって、アトロポスは笑顔で手を振ると奥の階段を上っていった。
鍵を開けて部屋に入ると、奥に一人用の寝台があるだけだった。広さは十平方メッツェほどで、下級宿としては一般的な造りだった。今朝までいた朱雀宮の豪華な客室とは雲泥の違いだった。
(どんなに素敵な部屋でも嫌な男と過ごすよりは、こっちの方がずっといいわ)
今朝までシルヴァレートに抱かれていたことを思い出すと、アトロポスは激しい怒りと屈辱に叫びたい衝動に駆られた。同時に、あんな男に何度も恥ずかしい姿を晒した自分が許せなかった。
(女って、男の人に抱かれるとあんな風になってしまうものなの?)
心では拒絶しているにもかかわらず、望まない反応に翻弄されてしまった自分の体がアトロポスには信じられなかった。認めたくはなかったが、あの行為の最中にアトロポスは紛れもなく官能の愉悦を感じていた。そして最後には目の前に白い閃光が瞬き、突き抜けるような快感の衝撃が全身を襲ったのだった。
それも一度きりではなかった。体がその行為に慣れていくに従って、シルヴァレートに貫かれるたびにその衝撃はどんどん強くなっていった。アトロポスはシルヴァレートの腕の中で、総身をビクンビクンと痙攣させながら、「もう許して……、おかしくなっちゃう……」と涙を流して哀願した。このまま続けられたら、自分は壊されてしまうのではないかと恐怖さえ感じた。
しかし、その願いは聞き入れられず、アトロポスは数え切れないほど女の悦びを刻み込まれ、凄絶な歓悦の頂点を何度も極めさせられた。
(違うッ! あんなのは私じゃない! シルヴァレートにあんな風にされたなんて、屈辱以外の何物でもないわッ!)
好きなどころか嫌悪さえしている男に何度も愉悦の極みに押し上げられたことを、アトロポスは絶対に認めたくなかった。
(いつかこの屈辱は必ず晴らすわ。シルヴァレート、覚悟しておきなさい!)
アトロポスは心の中で憎々しげに呟くと、怒りを吐き出すように大きく深呼吸をした。そして、第一騎士団の団服が入った革袋を寝台の横に置くと、食堂に行くために荒々しく扉を閉めて部屋を出て行った。
アトロポスの目的は二つあった。一つはアルティシアが処刑されたという真偽を確かめることだった。本当に処刑されたのであれば、晒されているという御首を奪ってきちんと埋葬するつもりだった。
もう一つは、アンドロゴラスとシルヴァレートの親子を殺すことだ。特に、自分を凌辱しておきながら、約束を破ったシルヴァレートのことは絶対に許せなかった。
難易度からすれば、アンドロゴラス親子を殺すことの方が遥かに難しいと思われた。大公であるのならまだしも、現在のアンドロゴラスはレウルキア王国の国王だと言う。当然ながら、その警護は厳重を極めているはずだ。まして、前国王弑逆という政変の直後である。王宮最強と呼ばれるダリウス将軍率いる近衛騎士団全員が警護に当たっていても不思議ではなかった。
(悔しいけど、今すぐにアンドロゴラスたちを殺すことは無理だわ。まずはアルティシア様処刑の真偽を確かめて、その御首を取り戻そう)
ミレーヌは、王家一家は城の外門に首を晒されたと言った。レウルキア王宮には、東西南北四つの門がある。そのいずれにも、外門と内門の二つの門があった。本当にアルティシアの御首が晒されているのであれば、どこの門かを調べる必要があった。
アトロポスは、自分がアンドロゴラスの立場であれば前国王の御首を晒すのに、どの門を使うかを考えた。御首を晒す意味は、前国王の悪逆を並べたてて自分の正当性を国民に知らしめることだ。それであれば、一番人々の往来が多い南外門しか考えられなかった。
南外門は首都レウルーラの中心街を貫く南インディス大通りがあるだけでなく、南外門前広場には毎日のように市が立ち大勢の人々で賑わっていた。
(王宮の中から南外門に直接向かうのは下策だわ。前国王の御首を警護している人数が少ないはずはない。他の門から一度王宮を出て、外から南外門を目指した方がいい)
その方が、今回の政変に対する民の声も聞くことができるし、何よりもアルティシアの御首を取り戻すための準備をすることができる。アトロポスの顔はダリウスを初めとする近衛騎士団に割れている。変装も必要だったし、何よりもアルティシアの御首を取り戻すための袋や箱も必要だと思われた。
(東外門と西外門はダメね。外門の外に街もないし、隠れるところさえ全くない広場だわ。馬を使われたら、すぐに追いつかれてしまう。やはり、港町に続く北インディス大通りがある北外門しかないわ)
だが、大きな問題が一つあった。通常、王宮内の者が門を通過する際には、各部署の責任者が発行する手形が必要だった。その手形を持っていないと門番の通過許可が下りないのだ。
(手形がなくても門を出られる方法は……。まさか、城壁をよじ登ることなんてできないし……)
王宮の城壁は、低い場所でも三メッツェ以上の高さがあった。身長百六十五セグメッツェのアトロポスからすると、倍近い高さだ。飛び越えることなどできるはずもなかった。
(飛び越える……? そうだ!)
アトロポスの脳裏に、十年前の記憶が蘇った。まだこの王宮に連れてこられて数日の頃、王宮内を探索していたときに大きな木を見つけた。その木は大きく枝が伸びており、そのうちの一本はたしか城壁の外まであったはずだ。六歳のアトロポスは、この木に登れれば外に出られるのにと思ったのだった。
(あの木は、たしか麒麟宮の西側にあったはず……)
アトロポスは周囲を警戒しながら、麒麟宮へと向かって走り出した。
アトロポスは運良く誰の目にも触れられずに、麒麟宮の西側にある巨木の元に辿り着いた。十年前と同様に、その木は大きな枝を城壁の外まで伸ばしていた。
(木登りの訓練を思い出すわね)
第一騎士団の訓練には、木登りも含まれていた。森やダンジョンなどで、木に登って敵影などを確認する必要があるからだった。アトロポスは筋力こそ男性隊員には敵わなかったが、身軽さを生かして木登りの成績は同期でも一番だった。
(さすがに明るいうちに木登りなんてしたら、どこから見られるか分からないわ。暗くなるのを待った方がいいわね)
冬のこの時期、日が暮れるのは早い。夜の四つ鐘が鳴る頃には周囲は真っ暗になる。太陽の傾きから、あと半刻もしないうちに夜の帳が下りると思われた。
朝食を食べてからアトロポスは何も口にしていなかった。空腹を覚えると、冬の寒さが身に染みた。
(飢えと寒さを感じるなんて、考えてみるとあの日以来かも……)
十年前、アルティシアの馬車に忍び込んで捕まったとき、飢えと寒さに震えていたことをアトロポスは思い出した。そして、その時に初めてアルティシアと言葉を交わしたのだった。
(姫様……申し訳ありません。私は姫様をお護りする約束を果たせませんでした……)
不意に、アトロポスは大きな喪失感に襲われた。誰よりも愛し、尊敬し、大切に思っていたアルティシアの死が、実感を伴ってアトロポスを包み込んだ。
アトロポスはアルティシアが処刑されたと聞いてから、初めて涙を流した。大声で泣き叫びたい衝動を辛うじて抑えると、アトロポスは周囲が暗くなるまで嗚咽し続けた。
夜の帳が下りきり、美しい三日月が夜空に輝くと、アトロポスは涙を拭って立ち上がった。周囲に人影がないことを確認すると、アトロポスはゆっくりと巨木に登り始めた。暗闇の中で注意深く手足を動かし、アトロポスは西側の城壁の上まで太い枝を伝っていった。そこから城壁まではおよそ一メッツェあった。城壁の高さは三メッツェくらいのため、地上までは四メッツェほどの高さだった。
城壁の幅はおよそ五十セグメッツだった。アトロポスは一度城壁の上に下りることにした。城壁の真上まで移動すると、アトロポスはゆっくりと体を下げて城壁の上に立った。後は城壁の外に人がいない時を見計らって飛び降りるだけだった。
(今だッ!)
アトロポスは城壁の外に体を躍らせた。両膝を大きく曲げて着地の衝撃を緩和すると、そのまま前方へと回転した。木登りで少し手の平を擦りむいたが、他に怪我もなくアトロポスは王宮から外へと脱出することに成功した。
目立たないように早足出歩きながら、アトロポスは西外門を大きく迂回して西シドニア通りへ出た。時刻は夜の四つ鐘を少し過ぎた頃のため、まだ商店街には明かりが灯っていた。
アトロポスは武器屋の看板を見つけると、店の中に入った。
「いらっしゃい」
四十前後の男がアトロポスに声を掛けてきた。この店の店主のようだった。
「この剣を売って代わりの武器を買いたいんですが、いくらで売れますか?」
アトロポスは昼間巡回兵から奪った剣を店主に差し出した。
「これは第一騎士団の剣かい?」
「いえ、近衛騎士団の剣です。今度近衛騎士団から第一騎士団に移ったので、不要になったんです」
もっともらしい理由を述べると、アトロポスは笑顔を作って微笑みかけた。店主に不審がられることは避けなければならなかった。
「そうか。あまり手入れは良くないな。金貨一枚でどうかね?」
「金貨一枚ですか? 新品なら金貨十枚はする剣ですよ。少なくても金貨五枚くらいの価値はあると思いますが……」
「金貨五枚は無理だな。大負けで金貨三枚ってとこか……」
「分かりました。では、金貨三枚でお願いします。それと、そこにある細短剣はいくらですか?」
アトロポスは左手の壁に掛けられている剣を指しながら訊ねた。細短剣とは一般的な細剣よりも二十セグメッツェほど剣身が短く軽量な剣だが、刺突力は細剣と遜色がないものだった。非力なアトロポスにとっては、どちらかというと細剣よりも扱いやすかった。
「それは金貨三枚と言いたいところだが、使い手がいなくて一年以上も在庫になっている剣だ。この剣を売ってもらったことだし、お嬢さんの第一騎士団異動のお祝いで金貨一枚にしてあげるよ」
「ありがとうございます」
アトロポスは満面の笑顔で礼を言うと、細短剣とお釣りの金貨二枚を受け取った。
(あとは冒険者風の衣服と御首を入れる革袋ね。宿と食事はそれからでいいわ)
「このお店で装備も売っていますか? できれば革の鎧と大きめの革袋も欲しいんですが……」
「女性用の革鎧なら、そこから選びな。値段はどれでも金貨一枚だ。革袋は売ってないが、俺が使っていたお古でよければタダであげよう」
「ありがとうございます。助かります。試着はできますか?」
「そこのカーテンの向こう側が試着室だ。終わったら声を掛けてくれ」
そう告げると、店主は革袋を取りに店の奥へと入って行った。
試着室に入ると、アトロポスは第一騎士団の団服を脱いで、黒い革鎧に着替えた。上着は革のジャケットで、下はズボンに分かれたセパレートタイプの鎧だった。上着の胸が少しきつかったが、その他はアトロポスの体型にぴったりと合っていた。新品でないのが残念だったが、金貨一枚なら仕方がないと思い、アトロポスはこの鎧を買うことに決めた。
腰の剣帯に細短剣を差すと、アトロポスはカーテンを開けて店主に声を掛けた。
「おじさん、これにします。このまま着ていっていいですか?」
年季の入った革袋を携えながら、店主が店に戻ってきた。
「構わんよ。ほれ、これでいいか?」
「ありがとうございます」
渡された革袋は思ったよりも大きく、御首なら三つくらいは入りそうだった。アトロポスは脱いだ第一騎士団の団服を革袋に詰め込んだ。
「金貨一枚でしたね。はい……」
先ほど受け取った金貨二枚のうち、アトロポスは一枚を店主に渡した。
「まいど。常連になったらおまけしてあげるから、また来てくれ」
「はい。お世話になりました」
店主に頭を下げると、アトロポスは武器屋をあとにした。
(これで準備は整ったわ。あとは宿をとって、夕食を食べよう)
一部の高級宿を除けば、通常の宿屋は銀貨一枚あれば一泊できる。夕食をつけても、銀貨二枚でお釣りが来るはずだった。裏通りに行けばもっと安い宿もあるが、女一人なので比較的治安のいい表通りの宿屋を探した。
武器屋のあった西シドニア通りを東に向かってしばらく歩くと、右手に『迷子のたまり場』という看板を掲げた下級宿を見つけた。
(面白い名前ね。ここにしよう)
アトロポスは入口の暖簾をくぐって中に入った。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか、お食事ですか?」
アトロポスに気づいた女将が、笑顔で声を掛けてきた。
「両方で……。部屋は空いていますか?」
「はい。お一人ですか?」
冒険者風の革鎧を着ていたためか、女将は不審がりもせずにアトロポスに訊ねてきた。
「はい。女一人なので、鍵の掛かる部屋がいいんですが……」
「大丈夫ですよ。うちは全室鍵付きです」
女将の言葉にアトロポスはホッとして笑顔を浮かべた。下級宿の中には、鍵がない部屋も多いのだ。
「夕食と朝食を付けて一泊いくらですか?」
「二食付きだと、銀貨一枚と銅貨五枚になります。風呂はありませんがいいですか?」
「はい。金貨しか持っていないんですが大丈夫ですか?」
アトロポスは武器屋でもらった金貨を女将に見せた。
「いいですけど……えっと、金貨一枚で銀貨十枚だから、お釣りは……」
「銀貨八枚と銅貨五枚ですね」
商人でも、三種類の硬貨が絡むとすぐに暗算できない者も多い。レウルキア王国の首都とは言え、読み書きや計算がまったくできない者が大半なのだ。
「そ、そうですね。お客さん、すごいですね」
「いえ。ではこれでお願いします」
アトロポスは女将に金貨一枚を渡した。女将はアポロポスの言葉どおり、銀貨八枚と銅貨五枚をお釣りとして差し出した。
「部屋は階段を上って右の突き当たりにある五号室です。食堂はお酒も出すので、朝の一つ鐘まで開けています。先に食事にしますか?」
「部屋に荷物を置いてからまた来ます」
女将から部屋の鍵を預かりながら、アトロポスが告げた。
「分かりました。後ほどお待ちしています」
丁寧に頭を下げた女将に向かって、アトロポスは笑顔で手を振ると奥の階段を上っていった。
鍵を開けて部屋に入ると、奥に一人用の寝台があるだけだった。広さは十平方メッツェほどで、下級宿としては一般的な造りだった。今朝までいた朱雀宮の豪華な客室とは雲泥の違いだった。
(どんなに素敵な部屋でも嫌な男と過ごすよりは、こっちの方がずっといいわ)
今朝までシルヴァレートに抱かれていたことを思い出すと、アトロポスは激しい怒りと屈辱に叫びたい衝動に駆られた。同時に、あんな男に何度も恥ずかしい姿を晒した自分が許せなかった。
(女って、男の人に抱かれるとあんな風になってしまうものなの?)
心では拒絶しているにもかかわらず、望まない反応に翻弄されてしまった自分の体がアトロポスには信じられなかった。認めたくはなかったが、あの行為の最中にアトロポスは紛れもなく官能の愉悦を感じていた。そして最後には目の前に白い閃光が瞬き、突き抜けるような快感の衝撃が全身を襲ったのだった。
それも一度きりではなかった。体がその行為に慣れていくに従って、シルヴァレートに貫かれるたびにその衝撃はどんどん強くなっていった。アトロポスはシルヴァレートの腕の中で、総身をビクンビクンと痙攣させながら、「もう許して……、おかしくなっちゃう……」と涙を流して哀願した。このまま続けられたら、自分は壊されてしまうのではないかと恐怖さえ感じた。
しかし、その願いは聞き入れられず、アトロポスは数え切れないほど女の悦びを刻み込まれ、凄絶な歓悦の頂点を何度も極めさせられた。
(違うッ! あんなのは私じゃない! シルヴァレートにあんな風にされたなんて、屈辱以外の何物でもないわッ!)
好きなどころか嫌悪さえしている男に何度も愉悦の極みに押し上げられたことを、アトロポスは絶対に認めたくなかった。
(いつかこの屈辱は必ず晴らすわ。シルヴァレート、覚悟しておきなさい!)
アトロポスは心の中で憎々しげに呟くと、怒りを吐き出すように大きく深呼吸をした。そして、第一騎士団の団服が入った革袋を寝台の横に置くと、食堂に行くために荒々しく扉を閉めて部屋を出て行った。
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相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
セクスカリバーをヌキました!
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とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
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【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
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たしかに私は王妃になった。
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夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
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突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
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ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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