夜薔薇《ナイト・ローズ》~闇夜に咲く薔薇のように

椎名 将也

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第5章 火焔の王

9 二つの愛

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 目を覚ますと、隣りに引き締まった筋肉の塊のような男が寝ていた。自分が全裸でその男の左腕を枕にしていたことに気づくと、アトロポスはカアッと顔を赤く染めた。
 下腹部に違和感があり、全身に甘い痺れが残っていた。昨夜、男の長大な物で貫かれ、狂ったように乱れながら何度も歓悦の頂点を極めたことを思い出すと、アトロポスは恥ずかしさと幸せと後悔とが混ざり合った瞳で男の横顔を見つめた。

(私、バッカスとしちゃったんだ……)
 シルヴァレートだけを愛していた。彼が迎えに来てくれることを本気で願っていた。だが同時に、いつの間にかアトロポスの中でバッカスの存在が大きくなっていった。そして、昨夜、その臨界点を超えたのだ。
 酒のせいにはしたくなかった。バッカスが愛しくて堪らなくなり、一つになりたいとアトロポス自身が願った結果だった。

(私、シルヴァを裏切った……。でも、この想いはもう止められない)
 シルヴァレートのことは、前と変わらずに愛している。それは嘘偽りのないアトロポスの本心だった。だが、バッカスのことも同時に愛してしまった。アトロポスはクロトーの言葉を思い出した。

『私は別に複数の男性とそういう関係になることを否定するつもりはないわ』

 あの時、バッカスとは男と女の関係なのかとクロトーから訊ねられた。それを否定した時にクロトーが言った言葉だった。アトロポスは、絶対に自分は複数の男性を同時に愛することはないと思った。そんなことは、淫乱な女がすることだと軽蔑さえした。
 だが、自分はその淫乱な女に成り下がってしまったのかとアトロポスは考えた。

(私はシルヴァを愛している……。そして、バッカスのことも愛している。この気持ちが淫乱かと聞かれたら、絶対に違う。純粋に、心から二人を愛している。世間では認められないことかも知れないけど、二人に対するこの気持ちは嘘じゃない)
 己を正当化する理由を探しているだけかもしれない。だが、今のアトロポスにとって、それが紛れもない真実の気持ちだった。

(バッカスには正直にシルヴァのことを話そう。その上で私を受け入れてくれるか、それとも私から離れていくかは彼が決めることよ。たとえバッカスを永遠に失うことになっても、彼を騙して一緒に居続けるよりはずっといい)

 アトロポスは半身を起こすと、右手で長い黒髪を抑えながらバッカスに口づけをした。すると、バッカスは左腕をアトロポスの背中に回して自分の胸に抱き寄せた。そして、アトロポスに舌を差し込むと、濃厚に絡め始めた。

「んっ……こら、寝たふりしていたわね」
 お互いの唇を繋ぐ唾液の糸を引きながら、アトロポスがバッカスを睨みつけた。
「おはよう、姉御……。昨日は可愛かったぜ」
 バッカスの左手がアトロポスの頭に乗せられ、長い黒髪を愛おしそうに梳き始めた。
「バカ、知らないわ……」
 アトロポスは恥ずかしさで真っ赤に染まった顔を隠すように、バッカスに抱きつきながら顔を逸らした。

「バッカス、話があるの。大事な話よ……」
 意を決すると、アトロポスは黒曜石の瞳で真っ直ぐに濃茶色の瞳を見据えながら告げた。
「大事な話……か。何です、姉御?」
「私、恋人がいるの……」
 真剣な表情でアトロポスが告白した。しばらくの間、バッカスはアトロポスの顔を見つめると、不意に微笑を浮かべながら言った。

「シルヴァってヤツですか?」
「……! 何で、それを……!?」
 思いもよらないバッカスの言葉に、アトロポスは驚愕した。
「前に飲んだ時、何度もシルヴァってヤツの名前を呼びながら、俺に抱きついてきたのを覚えてないんですかい?」
「それは……ッ!」
 まさか、自分の黒歴史をこの場で暴露されるとは思いもせず、アトロポスは恥ずかしさのあまり言葉を失った。

「あれを見たら、姉御がどれだけシルヴァってヤツを好きなのか、聞かなくても分かりますぜ」
 そう言うと、バッカスは楽しそうに笑った。
「バッカス、真面目に聞いて! 私はシルヴァを今でも愛している。彼とは今離れているけど、必ず迎えに来てくれると信じているわ。彼を忘れるなんて、私には絶対にできないのよ」
「……」
 アトロポスの告白を聞き、バッカスが真剣な表情を浮かべながら訊ねた。

「それは、俺とは一夜限りの楽しみだから、忘れてくれってことですか?」
「違うッ! それは違うわッ! あなたのことを愛してしまったのよ! シルヴァとあなたを、同時に同じくらい愛してしまったの! だから、あなたと一つになりたい、あなたに抱かれたいって思ったのよ!」
「姉御……」
 バッカスの濃茶色の瞳が、驚きに大きく見開かれた。

「軽蔑してくれてもいい! 淫乱だと罵ってくれても構わない! こんな女とは一緒にいたくなければ、私から離れていってもいいわ! でも、好きなの! あなたのことが大好きなの! 本気で愛しているのよ!」
 黒曜石の瞳から大粒の涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。バッカスの胸の上に、涙の雫が跡を残して広がった。

「姉御はバカですね」
 優しい口調でそう告げると、バッカスはアトロポスの裸身を抱き寄せた。
「バッカス……?」
「女の口からそんなことを言うもんじゃありません。それは男の役目です。姉御……いや、ローズ、俺はお前が好きだから生涯かけて一緒にいると誓ったんだ。お前がどこの誰を愛していようが関係ない。俺が、お前を愛しているんだ。間違えるな……」
 そう告げるとバッカスは、アトロポスの体をくるりと反転させて組み敷いた。そして、その黒曜石の瞳を真っ直ぐに見つめると短く告げた。

「愛している……」
「バッカス……」
 二つの唇が引き寄せられるように重なり、長く激しい口づけを交わしあった。それは、これからの人生を共に歩むことへの誓いの口づけだった。
 夜明けを知らせる陽光の中で、二人はお互いの愛を確かめ合うように激しく体を重ね始めた。


「ずいぶんと遅くなっちまったな。ローズがなかなか起きないからだぞ」
 予定では朝の五つ鐘には『暁の女神亭』を出発するはずだったのが、すでに朝の六つ鐘を過ぎていた。当初の予定よりも、ニザン以上も遅れてしまった。
「バカ……。あなたがあんなに……」
 鍛治士ギルドのある大通りを歩いていることに気づき、アトロポスが真っ赤になって言葉を止めた。その様子を見て、バッカスはニヤリと微笑みを浮かべた。
「あんなに、何だ……?」
「し、知らないわ!」
 アトロポスは慌ててバッカスから顔を逸らせた。

 お互いを激しく求め合った愛の交歓は、昨夜とは比較にならないほどの快感をアトロポスにもたらせた。全身の痙攣が止まらなくなり、アトロポスは涙を流しながらバッカスに許しを乞うた。だが、バッカスはその底なしの体力でアトロポスを責め続けた。アトロポスはかつてないほど乱れ狂わされ、数え切れないほど歓悦の頂点を極めながら、ついには失神してしまった。

(バッカスに付き合っていたら、体が保たないわ)
 バッカスが口移しで中級回復ポーションを飲ませてくれなかったら、アトロポスはまだ意識を取り戻していないことは間違いなかった。
(あんまり調子に乗らせないようにしないと……)
 アトロポスはバッカスに二つの約束をさせていた。一つは、姉御と呼ばずにローズと呼ぶことだった。そしてもう一つは、二人の間では敬語を禁止することだった。
 そのいずれもが、お互いが対等な関係であることを認めるためには必要だと思ったのだ。だが、現実はバッカスが主導権を握りつつあった。


「見えてきたぞ、ローズ」
「そうね……」
 冒険者ギルド・ザルーエク支部より大きい三階建ての白い建物がその威容を現した。鍛治士ギルド・ザルーエク本部・・である。アトロポスは入口の扉を押して中に入ると、ドワーフの受付嬢に向かって告げた。

「すみません、冒険者ギルドのローズと言いますが、ドゥリンさんをお願いします。約束の材料をお持ちしたと伝えてください」
 あらかじめ約束があると聞き、受付嬢はホッとした表情でアトロポスに言った。
「かしこまりました。ただいま呼んで参りますので、少々お待ちください」
「はい、よろしくお願いします」
 受付嬢はアトロポスたちに一礼すると、階段を上っていった。

 しばらくすると、受付嬢が一人で下りてきた。そして、アトロポスに向かって頭を下げると、興味深そうな眼で見つめながら告げた。
「直接、鍛冶場の方に来て欲しいとのことです。ドゥリンが鍛冶場を見せるなど、滅多にあることではありません。凄いですね、ローズ様……」
「そうなんですか?」
 過去に二回もドゥリンの鍛冶場に連れて行かれていたアトロポスは、それが普通だと思い込んでいた。

「では、ご案内いたします」
「いえ。以前にも入ったことがあるので、大丈夫です。直接伺います」
 そう告げると、受付嬢が驚いたように目を大きく見開いた。
「そうですか、初めてではないのですね。では、こちらの階段からどうぞ」
「ありがとうございます」
 驚愕の眼差しを向ける受付嬢に笑顔で告げると、アトロポスはバッカスに先だって階段を上り始めた。

 二階の一番奥にあるドゥリンの鍛冶場に着くと、アトロポスはノックをしながら名乗った。
「ローズです。お約束の材料をお持ちしました」
「鍵は開いてる。入ってくれ」
 中からドゥリンの声が響き、入室を許可してきた。
「こんにちは、ドゥリンさん」
「失礼します」
 アトロポスとバッカスが挨拶をしながら鍛冶場の中に入った。

 ここに入るのが三度目のアトロポスと違い、初めてドゥリンの鍛冶場を見たバッカスは、物珍しげに中を見渡していた。その様子を微笑みながら見つめると、アトロポスは以前にアイザックから借りた収納増加の魔法が付与された革袋から、火龍の皮と魔石を取り出してドゥリンに手渡した。
「こちらがお約束の火龍の皮と魔石です。クロトー姉さんの助言で、皮は二種類持ってきました。火龍の背中の硬い皮と腹の柔らかい皮です」
「おお、さすがにあねさんだ。よく分かってる」
 アトロポスが渡した二種類の皮を比べながら、ドゥリンが嬉しそうに笑った。

「それから、これが宝玉を削り出すための魔石です。中心の一番魔力が高い部分を選びました。多めに持ってきたので、残ったらご自由にお使いください」
「ありがとよ、嬢ちゃん。これだけ質が高ければ、いい付与ができそうだ」
 削り取る宝玉の大きさにもよるが、少なくても三、四個は取れる大きさの物をアトロポスは持ってきた。ドゥリンは満足そうな笑みを浮かべながら、その真紅の魔石を手に取って灯りに透かしていた。

「こっちも、あんちゃんの両手長剣ロングソードの剣身はすでに打ち終わった。後はこの皮を鞣して、グリップと鞘を作り、ガードに宝玉を埋めて組み立てるだけだ。そうだな……。皮を鞣すところからだから、あと四日くらいか。余裕を見て、五日後の昼までには渡せるようにしておく」
「ありがとうございます、ドゥリンさん」
「お忙しいところ、無理言ってすみません。よろしくお願いします」
 アトロポスとバッカスが、揃ってドゥリンに頭を下げた。

「何、いいってことよ。それより、姐さんに暇な時には顔を見せてくれるように伝えてくれ」
 ドゥリンがドワーフらしい四角張った顔に、笑みを浮かべながら告げた。
「はい、必ずお伝えします。では、五日後の午後にまた伺います」
「では、これで失礼します」
 二人は再度ドゥリンに頭を下げると、彼の鍛冶場を後にした。


「さすがの『猛牛殺しオックス・キラー』も、ドゥリンさんの前では大人しいのね」
 鍛治士ギルドを出てザルーエクの街の入口にある馬繋場に向かいながら、アトロポスが笑った。
「当たり前だろ? 相手は、クロトーの姉御と同じくらい有名な『神明の鍛治士ゴッド・スミス』だぞ。本来なら、俺なんかが口を聞けるお人じゃねえんだから」
 苦笑いを浮かべながら、バッカスが答えた。

「ところで、お腹減ってない? どっかでお昼食べてから行こうか?」
「そう言えば、朝から何も食べてなかったな。ローズ以外は……」
「バ、バカ……!」
 バッカスの言葉に真っ赤に顔を染めると、アトロポスは誰かに聞かれなかったか慌てて周囲を見回した。

(絶対に調子に乗ってるわ、バッカスの奴。一度ギャフンと言わせた方がよさそうね)
「ギルドの食堂のメニューにも飽きたし、たまには違う店にしようぜ。お、あの店はどうだ?」
 バッカスが、食事処・酒処『人魚の森』との看板を出している店を指差しながら訊ねた。看板には魚の絵が描かれていることから、魚料理を出す店のようだ。海がないレウルキア王国では、魚料理は珍しかった。
「いいわね。そこにしましょう」
 バッカスの意見に頷くと、アトロポスはその店に向かって歩き出した。


 昼の一つ鐘にはまだ間があるため、店内には客もまばらだった。アトロポスたちは四人掛け席に向かい合って腰を下ろすと、羊皮紙に書かれたメニューを見た。夜は酒家になるため単品で注文できるみたいだが、昼はセットメニューだけのようだった。
「私はこのAセットと冷緑茶にするわ。バッカスは?」
「そうだな。このBセットと麦酒エールにしようか」
 煮魚を選んだアトロポスと異なり、バッカスは焼き魚のセットを指差した。

「これから馬に乗るのに、エールはやめた方がいいんじゃないの?」
「少しくらいなら大丈夫さ。俺が強いのは知ってるだろう?」
「まあね……」
 二人で酒を飲んでも、アトロポスはバッカスが酔ったところを見たことがなかった。自分で言うとおり、かなりの酒豪のようだった。

「いらっしゃいませ、お決まりですか?」
 二十歳前後の若い女性店員が注文を取りに来た。こんな小さな店には珍しいほどの美しい女性だった。栗色の髪を後ろで一つに束ね、大きめの茶眼はクリクリとよく動いて愛嬌があった。細く通った鼻筋とぷっくりとした薄紅色の唇は造作良く配置されており、美しさと可愛らしさがバランス良く整っていた。背はアトロポスより若干低めだったが、胸は一回り以上大きく、引き締まったウエストと女性らしい丸みを帯びた腰から伸びている脚は白く細かった。

(バッカスの奴……!)
 その女性の大きな胸に視線を釘付けにしているバッカスを見て、アトロポスはムッとして彼を睨みつけた。
「あ、ああ……ゴホン。彼女にはAセットと冷緑茶、俺はBセットとエールを頼む」
 アトロポスの視線に気づいて、わざとらしく咳払いをしながらバッカスが注文をした。
「はい、かしこまりました。少々お待ちください」
 束ねた後ろ髪を揺らしながら、その女性店員は笑顔で一礼してから厨房へ戻っていった。

「綺麗な人ね。この店の看板娘ってところかな?」
「そうだな。これで味が良ければ、常連になってもいいな」
「そうね……」
(ああいう感じの娘が好みって訳ね。美人で可愛くて、胸が大きい……)
 自分より明らかに女としての魅力に富んだ女性店員に、アトロポスは嫉妬を覚えた。だが、それ以上に自分の目の前で他の女に目を奪われたバッカスに怒りを感じた。

「お待たせしました。先にお飲み物をどうぞ。お料理もすぐにお持ちいたします」
 バッカスにエールを、アトロポスの前に冷緑茶を置きながら、女性店員が笑顔で告げた。
「ああ、ありがとう。よく冷えていて旨そうだ」
 強面の顔に似合わない笑みを浮かべながら、バッカスが女性店員に向かって言った。そして、アトロポスと乾杯もせずにエールのグラスを手に取ると、喉を鳴らしながら一気に飲み干した。

「うん、旨い! もう一杯くれるか?」
「はい、お客さん、お強いですね」
「まあな。これくらい、飲んだうちに入らねえよ」
 目の前で女性店員と楽しそうに会話を始めたバックスを、エールよりも冷たい視線でアトロポスは見つめていた。

 その時、アトロポスの眼にテーブルの上に置いてある拳大の石が映った。羊皮紙のメニューが飛ばないように、重し代わりに使っているものだった。その石を手に取ると、アトロポスはニッコリと微笑みながら女性店員に訊ねた。
「これって、高い物ですか?」
「え……? いえ、この辺りで拾ってきた石ですから、タダですけど……」
 アトロポスの質問の意味が分からずに、女性店員が首を傾げながら答えた。

「ねえ、バッカス、これって握るのにちょうどいい大きさね」
「ん? それがどうかしたのか?」
 バッカスは、アトロポスの言葉に対して興味なさそうに訊ねた。
「いえ……、握りつぶし・・・やすそうだって言ったのよ」
 バッカスに向かって笑顔を浮かべると、アトロポスは天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスに覇気を流し込んだ。

 バキッバキッ……!

 次の瞬間、二百五十倍に強化されたアトロポスの握力は、拳大の石を粉々に握りつぶした。
「うわッ!」
「ひッ!」
 バッカスが驚愕のあまり仰け反り、椅子から転げ落ちそうになった。同時に、女性店員が短い悲鳴を上げて厨房へと逃げ出した。

「バッカス……」
「な、何だ……」
 全身から冷や汗を流しながら蒼白になったバッカスの前で、アトロポスはゆっくりと右手を開いた。
 米粒より小さくなった石のかけらが、さらさらとテーブルの上に落ちて小山を作った。バッカスは濃茶色の瞳を大きく見開きながら、その小石の山を見つめていた。

「あんまり調子に乗らないでね……?」
 アトロポスは満面の笑みを浮かべながら、バッカスに向かって告げた。
 アトロポスの黒曜石の瞳に笑みの欠片もないことに気づくと、バッカスは血の気をなくした表情でコクコクと大きく頷いた。

「お腹減ったわね。早く料理、来ないかな?」
 シンと静まりかえった店内に、アトロポスの楽しそうな声が響き渡った。
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