夜薔薇《ナイト・ローズ》~闇夜に咲く薔薇のように

椎名 将也

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第8章 蒼氷姫

3 伯爵令嬢の恋

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 最後尾の荷馬車の中で横になったが、イーディスはなかなか寝付けなかった。先ほどのバッカスの雄姿が瞼から離れなかったのだ。
(バッカスさん……)
 三体のダーク・サーベントを前にして、イーディスは恐ろしさのあまり足が動かなかった。その黒光りする巨体と鋭いはさみ、猛毒の尾を眼にしただけで、全身が恐怖で震えた。

 そのダーク・サーベントをバッカスは瞬殺した。漆黒に輝く美しい剣を振ると、その剣身から火焔の神刃しんじんが放たれ、ダーク・サーベントを瞬時に両断した。眼にも留まらぬ足捌きと剣技に、イーディスは我知らず見蕩れて魅了された。
(格好よかった……。あんなに凄い剣士、初めて……)
 それは、十九歳のイーディスにとって、紛れもない初恋であった。


 イーディスはレウルキア王国の伯爵家の長女として生を受けた。父親のレイモンドはヴァルキリア伯爵家の当主として、レウルキア王家の財務次官を務めていた。イーディスは伯爵令嬢として父親を助けるべく教育を受けなければならない立場であったが、その役目は一歳年下の弟がになってくれた。そのため、イーディスは伯爵令嬢としては比較的自由奔放に成長することが出来た。

 イーディスは宮廷儀礼や礼儀作法よりも、剣や乗馬を好んだ。令嬢に相応しくないと怒られても、座学を抜け出しては剣の稽古を行った。
 十七歳の誕生日に、イーディスに政略結婚の話が出た。相手は侯爵家の長男で、イーディスもよく知っている男だった。女癖の悪いその男との結婚を拒み、イーディスは弟に後を託してヴァルキリア伯爵家を出奔した。そして、冒険者ギルド・ザルーエク支部で剣士として冒険者登録を行った。

 キャシーとマーサとは、冒険者登録をしたその日に知り合った。酔っ払いに絡まれていた二人を助けたことがきっかけで意気投合し、三人はパーティを組むことになった。
 それから二年間、イーディスたちは地道に依頼をこなしていき、先日昇格ポイントを貯めて全員一緒にクラスDへと昇格した。今回の護衛依頼は、クラスDとして初めて臨んだ依頼だったのである。

 その依頼で、予想もしなかった剣士クラスSの二人と出逢った。中でも初めて眼にするバッカスの神技は、イーディスに驚愕と感動を与えた。今まで異性と付き合ったこともないイーディスを恋に落とすには、十分過ぎるほどの衝撃だった。


(あんな人が彼氏だったら……。やだ、あたしったら……)
 自分の想像に顔を赤らめると、イーディスは一人で悶々とした。その様子からは冷徹美人クールビューティの欠片も見られなかった。

「イーディス、眠れないの?」
 すぐ隣りに横たわっているキャシーが声を掛けてきた。
「うん……。ちょっと、頭が冴えちゃって……」
 まさか、バッカスのことを考えて眠れないとは言えず、イーディスは誤魔化した。

「バッカスさん、格好よかったよね。忘れられないんでしょ?」
「え……? あ、あたしは別に……。バッカスさんのことなんて、何とも思ってなんか……」
 自分の気持ちを見透かされ、イーディスは動揺のあまり真っ赤に染まりながら捲し立てた。
「え……? あの凄い剣技が忘れられないのかと……。もしかして、イーディス、バッカスさんに一目惚れしちゃったとか……?」
「け、剣技……? あ、ああ、そうね。凄い剣技だったものね。ひ、一目惚れなんかじゃないわ。あの剣技が忘れられなかっただけよ……」
 キャシーはしばらくイーディスを見つめると、ニヤリと微笑んだ。

「ふーん、ああいうのがイーディスの好みなんだ」
「ち、違うわよ! あたしはただ……」
 キャシーの指摘にイーディスが慌てて言い募ろうとした。その時、キャシーの隣りに寝ていたマーサが冷めた口調で告げた。
「あの二人、できてるわよ」

「え……?」
「何で分かるの?」
 愕然とするイーディスを見つめながら、キャシーがマーサに訊ねた。
「逆に、何で分からないの? 男と女が二人きりでパーティを組んでいるなんて、それ以外に考えられないじゃない?」
 マーサの冷静な分析に、イーディスはショックを受けた。

「今だって、一緒の荷馬車で寝ているのよ。おそらく、普段から宿も同じ部屋に泊まっているはずよ。そうじゃなかったら、今だって別の荷馬車に分かれるに決まっているじゃない? 朝から晩までずっと一緒に過ごしている男女が、恋人同士じゃないっていう方が不自然よ」
 冷静なマーサの説明に、イーディスは動揺を隠せなかった。

「そ、それはそうかも知れないけど……」
(バッカスさんがあの娘と……? 嫌だ! そんなこと……!)
「恋人同士って言ったって、別に結婚している訳じゃないでしょ? 奪っちゃえば?」
「え……?」
 平然と告げたキャシーの言葉に、イーディスは驚いて彼女の顔を見つめた。

「何なら、あたしたちが協力して上げるわよ。ねえ、マーサ?」
「まあ、いいけど……。具体的にどうするつもり?」
 冷静な口調でキャシーに訊ねたマーサだったが、内心では面白そうだと思っていた。
「そうね。こんなのはどう? あたしとマーサでアトロポスって娘をバッカスさんから引き離すから、その間にイーディスが誘惑するのよ」
「誘惑って……」
 男性と付き合ったこともないイーディスには、ハードルが高すぎるキャシーの提案だった。

「明日、あんたは『夜薔薇ナイト・ローズ』と模擬戦をするんでしょ? どうせ勝てないんだから、気絶した振りをしなさい。あたしとマーサで、アトロポスって娘をやり過ぎだって責めるわ。その間、あんたはバッカスさんに介抱されるのよ。そして、怖かったと言って、泣いて抱きつきなさい。男なんて女の涙に弱いから、それだけでイチコロよ」
 杜撰ずさんすぎるキャシーの計画だったが、男慣れしていない三人にはとてつもない名案に思えた。

「さすがキャシーね、よくそんなこと思いつくわね」
 マーサが感心したように告げた。だが、イーディスは心配そうにキャシーを見つめながら言った。
「でも、あの『夜薔薇ナイト・ローズ』に文句なんて言って大丈夫なの? 彼女を怒らせたら、怪我どころじゃすまないわよ」
「いくらなんでも、共同で依頼を受けているパーティに手を出したりはしないでしょ? 心配しなくても平気よ」
 自信を持って告げるキャシーの言葉に、イーディスは安心して頷いた。

「分かった、がんばってみる!」
 イーディスの目的はアトロポスと模擬戦をすることではなく、バッカスの心を掴むことに変わっていた。


 翌日の午前中は何事もなく予定通りの旅程を進んだ。商団から配給された昼食を食べ終わると、イーディスは緊張した面持ちでアトロポスに向かって告げた。
「アトロポスさん、約束通り模擬戦をしてもらえますか?」
 イーディスの言葉に、バッカスが驚きの表情を浮かべながら言った。
「本気だったのか? 悪いことは言わないから、やめておけ。大怪我じゃすまないぞ」
 アトロポスの正体が『夜薔薇ナイト・ローズ』だと知って、バッカスはてっきりイーディスが模擬戦を諦めたと思い込んでいたのだ。

「いえ……。剣士クラスSと模擬戦ができる機会なんて滅多にありませんから……。ぜひ、お願いします」
 真剣な表情で頭を下げたイーディスを見て、アトロポスはバッカスと顔を見合わせた。
「どうするんだ、アトロポス? いくらなんでも、実力が違いすぎるぞ」
「<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を使うわけにもいかないし……。バッカス、解体用のナイフ持ってない?」
 <蒼龍神刀アスール・ドラーク>では、イーディスの剣を折ってしまうのは確実だった。

「あるけど、いっそのこと素手でいいんじゃないか?」
「そうね。イーディスさん、無手むてでもよければお相手しますけど、どうですか?」
 聞きようによっては、アトロポスの言葉は剣士であるイーディスを侮辱したものだった。模擬戦をするのに、武器を持たないで相手をしてやると言っているのだ。イーディスはさすがにカチンと頭に来た。

(いくら剣士クラスSと言ったって、剣も持たないって人のことを舐めすぎてない? そっちがその気なら、本気でやってやるわ!)
 アトロポスやバッカスと違い、イーディスは剣士クラスSとDの力の差がどの程度あるのか理解していなかった。たとえ無手でも、アトロポスがその気になればイーディスは一タルザンと立っていることが出来ないのだ。

「分かりました。無手でお願いします。その代わり、私はこの剣を使いますので怪我をされても文句は言わないでください」
 イーディスの言葉を聞いて、バッカスは大きくため息をついた。そして、肩をすくめるとアトロポスの顔を見つめて意識伝達を送った。

『お前の力を全然分かってないぞ。どうするんだ?』
『そうね。覇気を解放して力の差を見せつけてみる?』
『馬鹿言うな。そんなことしたら、荷馬車にも被害が出るぞ』
『そっか……。じゃあ、彼女に好きに打ち込ませて、適当にあしらうわ』

「分かりました。広いところに行きましょう。それから、最初は好きに打ち込んできていいですよ。あなたの剣が私に少しでもかすったら、あなたの勝ちで構いませんから……」
 ニッコリと微笑みながら告げたアトロポスの言葉に、イーディスは完全に頭に来た。
(擦りでもしたらあたしの勝ちですって!? 人を舐めるのもいい加減にしなさいよ!)
 擦るどころか、大怪我をさせてやるとイーディスは心に決めた。


 街道に停めてある荷馬車から三十メッツェほど奥に入った草原で、アトロポスはイーディスと対峙した。バッカスが審判を買って出たが、アトロポスは断った。審判が必要になるとはとても思えなかったのだ。バッカスもアトロポスの考えを察して、見学するだけに留めた。彼の横には、キャシーとマーサが並んで二人を見据えていた。

「バッカスさん、いくら何でも無手っていうのはイーディスを舐めすぎていませんか? ああ見えても、イーディスは剣士クラスBに近い実力を持っているんですよ」
 文句を言ってきたキャシーに、バッカスは苦笑いを浮かべながら訊ねた。
「キャシーって言ったか? 昨日の俺の戦いをどう思った?」
「え……? それは凄かったです。動きもよく見えなかったし、あっという間に三体のダーク・サーベントを倒すなんて、信じられませんでした」

「俺とイーディスが戦ったら、どうなると思う?」
 キャシーの感想を聞いて、バッカスが訊ねた。
「それは、勝負にもなりませんよ。あっという間にバッカスさんがイーディスを倒しちゃうのは間違いありません」
「つまり、俺とイーディスとの力の差はかなりあるっていうことか?」
 キャシーはバッカスが言いたいことが分からなかったが、その意見には同意して頷いた。

「はい。一言では言い表せないほどの力の差があると思います。例えはおかしいですが、象と蟻くらい違います」
「象と蟻か……? では、俺とアトロポスの力の差は分かるか?」
 キャシーの例えに笑いながら、バッカスが訊ねた。
「バッカスさんとアトロポスさんですか? 同じ剣士クラスSですよね? それほど力の差なんてないんじゃないですか?」

「アトロポスの実力は、剣士クラスSSを遥かに超えているぞ。あいつが剣士クラスSに留まっているのは、危険なSS級依頼を俺に受けさせないためだ。俺とイーディスの力の差より、俺とアトロポスの差の方が十倍以上も大きいぞ」
「え……? まさか……そんな……」
 バッカスの言葉に、キャシーが驚愕のあまり茶色の瞳を大きく見開いた。

「見ていれば分かるさ。アトロポスがその気になれば、たとえ無手だろうとイーディスは一タルザンもかからずに倒されるから……」
「……」
 バッカスが告げたことが信じられないとでも言うように、キャシーは二人の方に視線を移した。そこには両手で剣を正眼に構えたイーディスと、自然体で立っているアトロポスの姿があった。


「始めましょうか? 好きに打ち込んできてください」
「分かりました。行きますッ!」
 そう告げると、イーディスは一気にアトロポスとの距離を詰めた。そして、右上段から袈裟懸けを放った。瞬きさえしていないアトロポスの体を、イーディスの剣は左肩から右腰まで両断した。

(そんな……!? 手応えが……?)
 だが、単に空気を斬り裂いたように、まったく手応えを感じなかった。次の瞬間、アトロポスの体は消え失せた。
「こっちですよ。ちゃんと相手の気配を捉えないとダメですよ」
 真後ろから聞こえてきたアトロポスの声に、イーディスは驚いて振り向いた。そこには先ほどと同じように自然体で立っているアトロポスの姿があった。

(どうやって移動したの? まったく見えなかった……)
 驚愕を押し殺して、イーディスは再び剣を正眼に構えた。そして、大きく踏み込むと今度は連撃を放った。上段からの唐竹割り、左下からの逆袈裟、右から水平に薙ぎ払い、そして、左上からの袈裟懸け……。
 だが、アトロポスの体を斬っているはずの剣戟には、まったく手応えを感じなかった。そして再び、アトロポスの姿が消失した。

「無闇に剣を振るっても疲れるだけですよ。相手の気配をきちんと捉えてください」
「そんな……馬鹿な……」
 声のする方を振り返ると、汗一つかいていないアトロポスが微笑んでいた。それに対して、イーディスは緊張のあまり手に汗をべったりとかきながら剣を握っていた。

「たったそれだけの動きで息が乱れるようでは問題ですよ。それと、その剣はあなたには重すぎるようですね。買い替えることをお勧めします」
「何を言って……それよりも、何なの、その動きは……?」
 イーディスは今までアトロポスの残像を攻撃していたことに気づいた。残像が残るほどの速度でアトロポスが移動していることを理解したのだ。

「昨日のバッカスと同じように動いているだけです。特に速度強化は使っていませんけど……?」
 イーディスの言葉に首を傾げながらアトロポスが告げた。彼女は天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスの速度強化も筋力強化もまったく使っていなかったのだ。

「速度強化って……? それが普通の動きだとでも言うの?」
「はい。このくらい出来なければ、剣士クラスSは名乗れませんから……。イーディスさんの攻撃は終わりですか? それならば、今度は私の番でいいですね?」
 そう告げると、アトロポスの姿がブレて消えた。

「痛ッ……!」
 次の瞬間、イーディスは右手首に痛みを感じて剣を落とした。
「ちょっと借りますね。やっぱり、重いわ……」
 いつの間にか横に姿を現したアトロポスが、イーディスの剣を拾いながら言った。そして、左腰に剣を差すように構えると、両脚を大きく開いて居合の姿勢を取った。

「ハッ……!」
 短い気合いとともにアトロポスがイーディスの剣で居合を放った。漆黒の神刃しんじんが刀身から放たれ、百メッツェも先にある巨木の幹を両断した。

 ズシーーンッ……!

 大地を震撼させる轟音とともに、高さ二十メッツェはある巨木が地響きを立てて倒れ落ちた。

「な……ッ!」
 美しい碧眼を大きく見開いて、イーディスは言葉を失った。
「やっぱり、威力がイマイチだわ。イーディスさん、もう少し軽い剣の方がいいですよ」
 笑顔でそう告げると、アトロポスは呆然と立ち尽くすイーディスに剣を返してきた。

「じゃあ、模擬戦はこれで終了にしましょう。みんなのところにもどりましょうか?」
 アトロポスはイーディスにそう告げると、バッカスの元に向かって歩き出した。
(な、何なのよ、この娘は……? 昨日のバッカスさん……いえ、それ以上じゃないの?)
 イーディスは愕然としながら、アトロポスの背中を見つめていた。


「な、何なんですか……あれ……?」
「ん? アトロポスが素振りしただけだろ?」
「す、素振りって……?」
 高さ二十メッツェもの大木を両断する素振りなど、キャシーは聞いたことがなかった。顔を引き攣らせてバッカスを見つめていると、イーディスを従えたアトロポスが戻ってきた。

「ただいま、バッカス。イーディスさん、剣士クラスDにしてはいい剣筋をしているわよ」
「そうだな。もう少し鍛えれば、すぐにクラスCにはなれそうだな」
 アトロポスの意見に頷きながら、バッカスはイーディスの顔を見つめた。初恋の男性に見つめられ、イーディスが見る見る赤くなった。

「中途半端に動いたから、もう少し運動したくなっちゃたわ。バッカス、ついでに模擬戦でもしない?」
「い、いや……遠慮しておく……」
 アトロポスの誘いに、本気で顔を引き攣らせながらバッカスが告げた。
「そう? 腕を斬るのはなしにしてあげるから、やりましょうよ」
「か、勘弁してくれ……。そ、それより、そろそろ出発の時間だぞ。みんなも、早く持ち場に戻った方がいい」
 慌てた口調で告げたバッカスを見て、キャシーは彼が言っていたアトロポスの実力が本当のことだと理解した。

「もうそんな時間なんだ。じゃあ、模擬戦はまた今度ね。持ち場に戻りましょうか?」
「は、はい……」
「そうね……」
 アトロポスの言葉に怯えながら、キャシーとマーサが逃げ出すように走り去っていった。イーディスもその後を追いながら、チラリとバッカスを振り向いた。

(バッカスさん、可哀想……。あの娘に脅されているんだわ。あたしが何とか助けて上げるから、待っていてください……)
 恋は盲目で自己中心的であることを、イーディスはまだ知らなかった。
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