夜薔薇《ナイト・ローズ》~闇夜に咲く薔薇のように

椎名 将也

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第8章 蒼氷姫

6 イーディスの末路

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「バッカスッ! 何考えてるのよッ!」
 キャシーたちからバッカスがイーディスを襲っていると聞いたアトロポスは、<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を掴むと、荷馬車を飛び降りた。そして、天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスに覇気を流して速度強化と筋力強化を最大まで解放すると、全力でバッカスの元に駆け出した。
 当然のことながら、キャシーたちは媚薬については何も告げていなかった。

 二タルザンもかからずに焚き火に到着すると、アトロポスは自分の目を疑った。愛するバッカスがイーディスに口づけをしながら、はだけた白い胸を揉みしだいていた。
「バッカスッ! 何しているのッ! すぐに離れなさいッ!」
 左腰に差した<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を抜き放つと、切っ先をバッカスに突きつけながらアトロポスが叫んだ。

「アトロポス……? え……? 何でだ……?」
 自分が抱いているはずのアトロポスの声が後ろから聞こえ、バッカスは驚いて振り向いた。そこには<蒼龍神刀アスール・ドラーク>を抜き放ったアトロポスが、凄まじい怒りを湛えた黒瞳でバッカスを睨みつけていた。

 驚いて視線を戻すと、白い乳房を剥き出しにして泣いているイーディスの姿がそこにはあった。
(馬鹿な……!? 俺はイーディスを抱いていたのか?)
 状況を理解すると、バッカスは蒼白になった。だが、理性を保てたのはその瞬間だけだった。強烈な媚薬に侵されたバッカスの体は、猛烈な拒絶反応に襲われた。

「グッ……グハッ……!」
 心臓が破裂しそうなほどの激しい動悸に、バッカスは両手で胸を押さえながら崩れ落ちた。思うように息が出来ず、酸欠で頭がガンガンと割れるように痛んだ。苦痛と激痛のあまり地面をのたうち回るバッカスに、アトロポスが驚愕した。

「バッカスッ! どうしたのッ! しっかりして、バッカスッ!」
 <蒼龍神刀アスール・ドラーク>を投げ捨てると、アトロポスはバッカスの元へ駆け寄った。だが、バッカスはアトロポスの手を振り払うと、胸を押さえて苦しみ続けた。
「バッカス、上級回復ポーションを飲ませるわッ!」
 アトロポスは右腰の小物入れから青い液体の入った小瓶を取り出すと、三分の一ほど口に含んだ。そして、再び天龍の革鎧ヘルムドラーク・ハルナスに覇気を流すと、二百五十倍に強化した筋力でバッカスを押さえつけ、口移しに上級回復ポーションを流し込んだ。

「そんな……? 上級回復ポーションが効かない?」
 三度に分けて上級回復ポーションをすべて飲ませたはずなのに、バッカスは胸を押さえたまま苦しみ続けた。アトロポスは、両手で胸を隠しながら泣いているイーディスを振り向くと、厳しい声で訊ねた。

「バッカスに何が起こったの? 話してッ!」
 全身から黒炎の覇気を放ちながら鋭い視線を向けるアトロポスに、イーディスは震え上がりながら告げた。
「び、媚薬を……」
「媚薬ッ? どういうことッ!?」
「バ、バッカスさんとあなたの仲を引き裂こうとして、媚薬を飲ませて彼を誘惑したのよ! でも、こんなに強力な媚薬だったなんて知らなかった! あんな小さな瓶しか入れていないのに……」

 アトロポスに追いついてやって来たマーサが、イーディスの言葉に驚愕した。
「イーディス、まさか一瓶全部入れたの? 一滴でいいって言ったのに……!」
「一滴……? そんな……? この水筒に全部入れたわ!」
 マーサの言葉に驚いて、イーディスが緑黄茶の入った小さな水筒を手に取って掲げた。二人の会話を聞いたアトロポスは、ハッと閃いた。

「バッカス、これを握ってッ!」
 ブラック・ダイヤモンドの首飾りネックレスを首から外すと、アトロポスはバッカスの右手に握らせた。クロトーによる完全解毒魔法が付与された首飾りネックレスだった。

 バッカスの体が光輝に包まれると、全身から薄紅色の霧が抜け出して飛散していった。強力な媚薬の成分が跡形もなく浄化されたのだった。
「バッカス、しっかりして! バッカスッ!」
 アトロポスがバッカスの体を揺さぶった。バッカスが意識を取り戻して、焦げ茶色の瞳でアトロポスを見つめた。

「バッカス! よかったッ! バッカスッ!」
 アトロポスがバッカスに抱きついた。左手をアトロポスの背中に廻しながら、バッカスが申し訳なさそうな声で告げた。
「悪かった、アトロポス……。俺はお前を裏切った。お前だと思って抱いたのが、イーディスだったとは……」
 その言葉に、イーディスはショックを隠しきれなかった。アトロポスと間違えて犯されそうになったなど、絶対に許せるものではなかった。

「バッカスさん、あたしをアトロポスさんと間違えたって、本当ですかッ!?」
「ああ、すまない、イーディス。この通りだ」
 バッカスがイーディスに深く頭を下げた。
「あたしの唇を奪った上に、胸まで触っておいて……。酷い……」
 イーディスが両手で顔を覆って泣き始めた。

「酷いのはどっちよ!? あなたたちは、バッカスを殺すところだったのよ! そんな危険な媚薬を飲ませて、私の最愛の人の命を奪うところだったのよッ!」
 アトロポスはイーディス、マーサ、キャシーの顔を次々と見渡しながら、三人を怒鳴りつけた。激怒のあまり、アトロポスの全身から漆黒の覇気が燃え上がっていた。

「ひっ……!」
「ひぃいい!」
「くッ……!」
 剣士クラスSの激しい怒りを正面から受けて、マーサとキャシーは蒼白になってガタガタと震え始めた。唯一人、イーディスだけは碧眼に強い意志を込めてアトロポスを睨み返した。

「あたしは、バッカスさんを脅しつけて無理矢理言うことを聞かせているあなたを許せないッ! 例えこの生命を失ったとしても、あたしはバッカスさんをあなたから解放して自由にしてあげるわッ!」
 イーディスのセリフを聞いて、アトロポスはバッカスの顔を見つめた。バッカスはアトロポスの黒瞳に映った無言の言葉を、首を振って否定した。

「イーディス、俺がいつアトロポスから離れたいと言った? 生涯を掛けてアトロポスを護ると誓ったのは、俺の方だ。アトロポスが俺を縛り付けているんじゃない。俺がアトロポスの側にいたいんだ。アトロポスは俺にとって、何ものにも代えられない最愛の女なんだ」
「バッカス……」
「バッカスさん……」
 アトロポスとイーディスが同時にバッカスの名を呟いた。だが、そこに込められた感情は正反対のものだった。

 <守護天使ガルディエーヌ>三人の前で愛を告げられたアトロポスは、赤くなりながらも嬉しそうな笑みを浮かべてバッカスに手を差し伸べた。その手を掴むとバッカスは立ち上がり、左手でアトロポスの肩を抱いた。アトロポスは優しい微笑みを浮かべると、バッカスの横顔を幸せそうに仰ぎ見た。

 一方、イーディスはすべてが自分の思い込みに過ぎないと気づかされ、ショックを隠しきれなかった。恥ずかしさと一方的な失恋による激しい自己嫌悪を感じ、この場から逃げ出したくなった。
(バッカスさんは始めからアトロポスさんを愛していた……。あたし一人が馬鹿みたいに勘違いしていたなんて……)

「ごめんなさい、バッカスさん。イーディスをそそのかしたのはあたしなんです」
「いえ、媚薬をイーディスに渡したのは、あたしです。イーディスだけを責めないでください」
 キャシーとマーサが、イーディスの両肩に手を置きながら、バッカスとアトロポスに頭を下げた。

「キャシー……、マーサ……」
 イーディスは左右から自分を支えてくれる二人の顔を交互に見つめた。
「イーディス、諦めよう。二人の間には割り込む余地なんてなさそうよ」
「初恋は実らないって、昔から言われているしね」
 自分を力づけようと微笑んでくれる仲間に感謝すると、イーディスはバッカスとアトロポスに向かって深く頭を下げた。
「バッカスさん、アトロポスさん、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした。二人はあたしに協力してくれただけなんです。すべての責任はあたし一人にあります」

「どうする、アトロポス? 水に流すか?」
 三人の様子を見つめていたバッカスが、アトロポスに訊ねた。
「いえ……。バッカスが死にかけたことを、この程度で許せるはずないわ。あなたを失うかも知れないと思った私が、どんな気持ちだったか分かる?」
「おい、アトロポス……。まさか、お前……?」

 冒険者ギルドは所属する冒険者に対して、いくつかの制約を課している。その中で最も重要で厳しい制約が、冒険者同士のいさかいの禁止であった。特に相手を殺したり、致命傷を与えたりした場合には、冒険者資格が剥奪されることもあった。この場合の致命傷というのは、即死部位を狙うなど上級回復ポーションが効かない攻撃が該当した。
 今回の薬物過剰投与は、十分にこのケースに当てはまるものだった。

「アトロポスさん、今回の責任はあたし一人にあります! 二人のことはどうか見逃してください!」
 アトロポスの言葉に、イーディスが真剣な表情で訴えた。冷めた視線でイーディスを見据えると、アトロポスが告げた。

「分かりました、イーディスさん。あなた一人に責任を取ってもらいます。今回のことをギルドに報告する……」
「おい、アトロポス! ちょっと待て!」
 想像以上にアトロポスの怒りが大きいことを知り、バッカスが慌てて叫んだ。

「ギルドに報告する代わりに、イーディスさんには一つ私と約束をしてもらいます」
「約束……?」
 冒険者資格剥奪を覚悟していたイーディスは、アトロポスの言葉の意味が分からずに彼女の顔を見つめた。
「はい。イーディスさんには次の剣士クラスA昇格試験に合格してもらいます」
「剣士クラスA昇格試験……!?」
 現在、イーディスは剣士クラスDになったばかりだ。クラスC昇格試験ならまだしも、クラスA昇格試験になど受かるはずはなかった。

「そういうことか……。イーディス、どうやらアトロポスはお前のことを許してくれたみたいだぞ。だが、冒険者資格剥奪の方が良かったって、後悔するなよ」
 アトロポスの考えを読み取って、バッカスが笑顔を浮かべながらイーディスに告げた。
「え……? どういうことですか?」
「もちろん、今のままではクラスAどころかクラスBにも昇格できません。だから、ダスガールに着くまでの七日間、私が徹底的にあなたを鍛えてあげます」
 ニッコリと笑顔で告げたアトロポスの言葉に、イーディスは蒼白になった。

「それって毎日、アトロポスさんと模擬戦をするという意味じゃ……?」
「バッカス、上級回復ポーションはあと何本残ってる?」
「この依頼を受けるときに二十本買ったから、あと二十五本くらいはあるぞ」
 イーディスの顔を見ながらニヤリと笑いを浮かべると、バッカスがアトロポスに告げた。
「そう。それなら、二十五回は腕を斬り落としても大丈夫ね。イーディスさん、私はあなたがバッカスと口づけをしたことに焼き餅を焼いている訳じゃないので、誤解しないでくださいね。純粋にあなたを剣士クラスAにしてあげたいだけですから……」

「は、はい……。よ、よろしく……お、お願いします……」
 ニッコリと笑顔で告げたアトロポスの言葉に、イーディスはガタガタと震えながら涙目になって答えた。
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