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第1章 灰の季節
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朝の空は、淡いグレーだった。
ハルはベランダに出て、まだ冷たい空気を深く吸い込んだ。
制服の袖から忍び込んだ風が、肌を刺すように冷たく感じた。
カーテン越しに差し込む光さえ、今日は少し色を失っている気がした。
人の感情、心の中のうねり、それが周囲の空気ににじんで見える。
ある人はまるで夕焼けのような赤を帯び、ある人は深い森のような緑に包まれ、
ある人は、不安定な青や、弾ける黄色をまとっていた。
それは煙のようで、光のようで――
でも、誰にも見えない。たぶん、僕以外には。
それが「特別」なことだと知ったのは、小学二年生のときだった。
「お母さん、あの人、怒ってるよ」
商店街の花屋で、母と花を選んでいたときだった。
レジの奥にいたおばあさんの背中から、真っ赤な色がもくもくと立ち昇っていた。
花の香りに包まれた空間なのに、その色だけが鋭くて苦しかった。
「えっ?どうしてそう思うの?」
「だって、赤いの出てる」
母は笑った。
「ハルは、ほんと面白いねぇ」
その時の母の笑顔は、優しい藤色だった。
僕は安心した。変な子じゃなかったんだと思った。
でも、それ以降は誰にも言わなくなった。
誰にも話さなくても、見えてしまうものがあると気づいたからだ。
「ハルー、朝ごはん冷めるよー!」
リビングから母の声がする。
台所に入ると、母は朝食を並べていた。
焼き鮭、卵焼き、味噌汁。それぞれに色があったけれど、母の周りの色もやっぱり変わらなかった。
やさしい藤色。
落ち着いていて、でもほんの少しだけ、灰色が混ざっていた。
それはたぶん、疲れ。あるいは、父が今朝も無言で家を出たこと。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
「お母さんは、何色が好き?」
母は箸を止めて、少しだけ考えた。
「そうねえ……白、かなあ。真っ白。なんにもない色って、なんでもできそうじゃない?」
そう言った時、彼女の藤色が一瞬、白に近づいた気がした。
「ハルは?」
僕は少し迷った。
「……グレー」
「え?グレーって……地味ねえ」
母は笑ったけど、その笑いも柔らかかった。
登校の道すがら、僕は晴れ渡る青色の空を見上げながら、自分の色について考えていた。
世界は、色であふれている。
僕には、それが見える。
じゃあ、僕は?
何も見えない自分に、焦りを感じていた。
みんなの色が見えるのに、自分の心だけが、空っぽのようで。
誰かを助けるたび、自分だけが取り残されていくような感覚。
でもそれを、誰にも言えなかった。
自分の色は見えない。
周りの色に反応するように、僕の中の色も少しずつ変わる気がする。
でも、それは本当の“自分の色”とは違う気がしていた。
「おはよう、ハル」
その声には、いつも透明感のある青が流れていた。
ミズキだった。
彼女の青色は、湖の底に差し込む光のような深さがある。
見ようとしないと見えないけど、確かにそこにある安心。
「おはよう」
僕は返しながら、ふと思った。
彼女はいつからこんなに、青色になったんだろう。
昔、ミズキが泣いていた日があった。
クラスで仲間外れにされた日。
彼女はずっと黙っていたけれど、僕には見えた。
その時の彼女の色は、赤くて、黒くて、ぐちゃぐちゃだった。
でも、彼女は泣いたあとも、誰のことも責めなかった。
「どうして、怒らなかったの?」と聞いたら、
「私が怒ると、相手の中にその怒りが残るでしょ? それって苦しいから」
そう言って微笑んだ。
僕は、その時からミズキの色が“青”に変わったのだと、今になって思う。
教室のドアを開けると、色が押し寄せてきた。
赤。黄。緑。青。紫。オレンジ。
まるで、無数の色が空中で踊っているみたいだった。
でも、それはただ「カラフル」ってだけじゃなかった。
人の心からにじみ出る色は、混ざるときれいとは限らない。
むしろ、濁った色が多い。
たとえば、教室の隅でスマホをいじってる男子たち。
彼らの色はグレーに近い緑だった。
うっすらと不満をにじませていて、でも何も動かない。
誰かを見下す言葉は吐くけど、自分からは何もしない。
そのくせ、場の空気にはすごく敏感だ。
僕はあの色を「停滞緑」と呼んでいた。
濁った池の水面みたいな、動かない緑。
前の席の女子グループは、華やかな色をまとうけれど、その中には鋭い赤が混ざっていた。
褒めてるのか貶してるのかわからない言葉を投げ合って、
誰かがいなくなった瞬間、別の色に切り替わる。
「場に合わせて色を変える」――それも器用さかもしれない。
でも、僕にはどうしても馴染めなかった。
「なあ、ハル」
昼休み、タイチが声をかけてきた。
「なんかさ、おまえって“人の心”を見るの得意っぽいよな」
ドキッとした。
まさか、バレた?
「……なんで?」
「いや、よく周り見てんじゃん。俺がスベった時とか、フォローしてくれるしさ」
「スベるのは自覚してるんだ」
「そこは気にすんな!」
タイチが笑った。
彼の黄色は、今日もまぶしかった。
でも、その内側にある“白っぽいにごり”を、僕はずっと感じていた。
「……タイチって、何でそんなに元気なの?」
「ん?元気じゃねえよ」
「え?」
「“元気なやつ”って役割だろ。クラスに1人はいるじゃん。俺、あれやってんの」
冗談みたいに言ったけど、その瞬間、黄色がほんの一瞬だけしぼんだ。
彼も、無理してるんだ。
誰かを笑わせるたびに、自分のどこかを削っている。
タイチはふっと空を見上げて言った。
「でもまあ……誰かが笑ってくれるなら、俺はそれでいーけどな。色とか気にしてたら、楽しくなくなるだろ?」
僕には、彼の言葉がどこか切なく響いた。
そのとき、廊下の奥から“重い色”が溢れた。
それは、煤けた闇のような黒だった。
ただ濃いだけじゃない。ひび割れたように乾いた黒。触れたら、指先から砕けてしまいそうな、壊れかけた黒だった。
ハルは思った。これまで見たどの色よりも、近づくのが怖かった。
けれど――目を逸らしたくない、とも思った。
ソウだ。
転校してきて数日。誰とも話さず、誰も近寄らない。
彼の黒は、分厚くて、閉じていて、まるで鋼鉄みたいだった。
でも――その日は少しだけ、違った。
彼は廊下の隅で、ポケットから何かを取り出していた。
それは、くしゃくしゃの紙。落書きのようなスケッチ。
何気なく視線を向けたとき、一瞬だけ彼の黒が――揺れた。
ごくわずかに、紫っぽい何かが、黒の中で瞬いた。
だけど、それもすぐに飲み込まれて消えた。
彼は僕と目が合うと、すぐに紙をしまって、足早に去っていった。
夜。ベッドに寝転びながら、僕は今日の“色”を思い出していた。
ミズキの青。タイチの黄色。教室の赤や緑やオレンジ。ソウの黒。
そして、自分のグレー。
「僕は、なんで自分の色が見えないんだろう」
誰かに言ったことはないけど、それがずっと心に引っかかっていた。
見えるのに、わからない。他人の色は感じ取れるのに、自分の色だけがぼやけている。
「もしかして、僕の心って空っぽなんじゃないか?」
そんな考えがよぎって、胸の奥がぎゅっと締まった。
ハルはベランダに出て、まだ冷たい空気を深く吸い込んだ。
制服の袖から忍び込んだ風が、肌を刺すように冷たく感じた。
カーテン越しに差し込む光さえ、今日は少し色を失っている気がした。
人の感情、心の中のうねり、それが周囲の空気ににじんで見える。
ある人はまるで夕焼けのような赤を帯び、ある人は深い森のような緑に包まれ、
ある人は、不安定な青や、弾ける黄色をまとっていた。
それは煙のようで、光のようで――
でも、誰にも見えない。たぶん、僕以外には。
それが「特別」なことだと知ったのは、小学二年生のときだった。
「お母さん、あの人、怒ってるよ」
商店街の花屋で、母と花を選んでいたときだった。
レジの奥にいたおばあさんの背中から、真っ赤な色がもくもくと立ち昇っていた。
花の香りに包まれた空間なのに、その色だけが鋭くて苦しかった。
「えっ?どうしてそう思うの?」
「だって、赤いの出てる」
母は笑った。
「ハルは、ほんと面白いねぇ」
その時の母の笑顔は、優しい藤色だった。
僕は安心した。変な子じゃなかったんだと思った。
でも、それ以降は誰にも言わなくなった。
誰にも話さなくても、見えてしまうものがあると気づいたからだ。
「ハルー、朝ごはん冷めるよー!」
リビングから母の声がする。
台所に入ると、母は朝食を並べていた。
焼き鮭、卵焼き、味噌汁。それぞれに色があったけれど、母の周りの色もやっぱり変わらなかった。
やさしい藤色。
落ち着いていて、でもほんの少しだけ、灰色が混ざっていた。
それはたぶん、疲れ。あるいは、父が今朝も無言で家を出たこと。
「ねえ、お母さん」
「うん?」
「お母さんは、何色が好き?」
母は箸を止めて、少しだけ考えた。
「そうねえ……白、かなあ。真っ白。なんにもない色って、なんでもできそうじゃない?」
そう言った時、彼女の藤色が一瞬、白に近づいた気がした。
「ハルは?」
僕は少し迷った。
「……グレー」
「え?グレーって……地味ねえ」
母は笑ったけど、その笑いも柔らかかった。
登校の道すがら、僕は晴れ渡る青色の空を見上げながら、自分の色について考えていた。
世界は、色であふれている。
僕には、それが見える。
じゃあ、僕は?
何も見えない自分に、焦りを感じていた。
みんなの色が見えるのに、自分の心だけが、空っぽのようで。
誰かを助けるたび、自分だけが取り残されていくような感覚。
でもそれを、誰にも言えなかった。
自分の色は見えない。
周りの色に反応するように、僕の中の色も少しずつ変わる気がする。
でも、それは本当の“自分の色”とは違う気がしていた。
「おはよう、ハル」
その声には、いつも透明感のある青が流れていた。
ミズキだった。
彼女の青色は、湖の底に差し込む光のような深さがある。
見ようとしないと見えないけど、確かにそこにある安心。
「おはよう」
僕は返しながら、ふと思った。
彼女はいつからこんなに、青色になったんだろう。
昔、ミズキが泣いていた日があった。
クラスで仲間外れにされた日。
彼女はずっと黙っていたけれど、僕には見えた。
その時の彼女の色は、赤くて、黒くて、ぐちゃぐちゃだった。
でも、彼女は泣いたあとも、誰のことも責めなかった。
「どうして、怒らなかったの?」と聞いたら、
「私が怒ると、相手の中にその怒りが残るでしょ? それって苦しいから」
そう言って微笑んだ。
僕は、その時からミズキの色が“青”に変わったのだと、今になって思う。
教室のドアを開けると、色が押し寄せてきた。
赤。黄。緑。青。紫。オレンジ。
まるで、無数の色が空中で踊っているみたいだった。
でも、それはただ「カラフル」ってだけじゃなかった。
人の心からにじみ出る色は、混ざるときれいとは限らない。
むしろ、濁った色が多い。
たとえば、教室の隅でスマホをいじってる男子たち。
彼らの色はグレーに近い緑だった。
うっすらと不満をにじませていて、でも何も動かない。
誰かを見下す言葉は吐くけど、自分からは何もしない。
そのくせ、場の空気にはすごく敏感だ。
僕はあの色を「停滞緑」と呼んでいた。
濁った池の水面みたいな、動かない緑。
前の席の女子グループは、華やかな色をまとうけれど、その中には鋭い赤が混ざっていた。
褒めてるのか貶してるのかわからない言葉を投げ合って、
誰かがいなくなった瞬間、別の色に切り替わる。
「場に合わせて色を変える」――それも器用さかもしれない。
でも、僕にはどうしても馴染めなかった。
「なあ、ハル」
昼休み、タイチが声をかけてきた。
「なんかさ、おまえって“人の心”を見るの得意っぽいよな」
ドキッとした。
まさか、バレた?
「……なんで?」
「いや、よく周り見てんじゃん。俺がスベった時とか、フォローしてくれるしさ」
「スベるのは自覚してるんだ」
「そこは気にすんな!」
タイチが笑った。
彼の黄色は、今日もまぶしかった。
でも、その内側にある“白っぽいにごり”を、僕はずっと感じていた。
「……タイチって、何でそんなに元気なの?」
「ん?元気じゃねえよ」
「え?」
「“元気なやつ”って役割だろ。クラスに1人はいるじゃん。俺、あれやってんの」
冗談みたいに言ったけど、その瞬間、黄色がほんの一瞬だけしぼんだ。
彼も、無理してるんだ。
誰かを笑わせるたびに、自分のどこかを削っている。
タイチはふっと空を見上げて言った。
「でもまあ……誰かが笑ってくれるなら、俺はそれでいーけどな。色とか気にしてたら、楽しくなくなるだろ?」
僕には、彼の言葉がどこか切なく響いた。
そのとき、廊下の奥から“重い色”が溢れた。
それは、煤けた闇のような黒だった。
ただ濃いだけじゃない。ひび割れたように乾いた黒。触れたら、指先から砕けてしまいそうな、壊れかけた黒だった。
ハルは思った。これまで見たどの色よりも、近づくのが怖かった。
けれど――目を逸らしたくない、とも思った。
ソウだ。
転校してきて数日。誰とも話さず、誰も近寄らない。
彼の黒は、分厚くて、閉じていて、まるで鋼鉄みたいだった。
でも――その日は少しだけ、違った。
彼は廊下の隅で、ポケットから何かを取り出していた。
それは、くしゃくしゃの紙。落書きのようなスケッチ。
何気なく視線を向けたとき、一瞬だけ彼の黒が――揺れた。
ごくわずかに、紫っぽい何かが、黒の中で瞬いた。
だけど、それもすぐに飲み込まれて消えた。
彼は僕と目が合うと、すぐに紙をしまって、足早に去っていった。
夜。ベッドに寝転びながら、僕は今日の“色”を思い出していた。
ミズキの青。タイチの黄色。教室の赤や緑やオレンジ。ソウの黒。
そして、自分のグレー。
「僕は、なんで自分の色が見えないんだろう」
誰かに言ったことはないけど、それがずっと心に引っかかっていた。
見えるのに、わからない。他人の色は感じ取れるのに、自分の色だけがぼやけている。
「もしかして、僕の心って空っぽなんじゃないか?」
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