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第38話 和樹の気持ち

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(和樹・・独白・・)

要に刺され入院を余儀なくされた俺は、はるかさんの葬儀に参列する事はできなかった。

俺は正美のことが、酷く気になっていた。病院から正美に電話を掛けて、俺は葬儀に参列できなかった事を詫びた。正美は沈んだ声だったが、落ち着いたら俺の見舞いに行くと返事した。俺はその提案をやんわりと断った。

大した傷ではないので、そう長く入院する事にはならないと思っていた。それに、正美は兄貴の世話で忙しい。無理をする正美に見舞いを求めるのも気が引けた。

だが、傷の治りが思いのほか悪く、実際には入院は三週間に及んだ。その間も、俺は正美と電話のやり取りだけは欠かさず続けていた。

正美の兄の弘樹は、新しいマンションに引っ越したようだ。落ち込みが激しく、食事も喉を通らない状態らしい。正美は兄のマンションに泊まりこんで、世話をしているようだ。

無理もないと思った。

自分が関わりを持っていた人間に、妻を殺されたのだから。しかも、はるかさんは妊娠していたと聞く。妻と自分の子供を殺されて、精神状態を崩さない人間はいないだろう。

それでも、弘樹には弟の正美がいる。

俺は最悪の状態にはならないだろうと思っていた。退院して数日後、俺は正美がいる弘樹の新しいマンションを訪れた。そこで俺は、自分の考えが甘かったことを実感した。

俺の目の前に現れた正美は、兄と同じく酷く精神を崩し殆ど鬱状態だった。
兄弟はマンションという密室の中で、完全にシンクロしてしまっていた。

このままでは、二人は共倒れになる。

俺は危機感を抱き、正美を無理やりマンションから連れ出した。そして、自分でも詐欺師かと疑うほどに、尤もらしい心理学の用語を並べ立てた。

そして、このまま兄弟で一緒に暮らせば、正美も弘樹も共倒れしかねないと力説した。

「正美、あかん。このままやったら、お前まで潰れる。俺のマンションにもどるで、正美」

俺は必死に正美を説得し、正美は渋々ながらもそれに同意した。そして、正美は兄のマンションを出た。

次の日に、俺は正美を心療内科に連れて行き、診察を受けさせた。本音では、正美の精神状態を心配しての行動だった。ただし、建前は兄の心の傷のケアをどうすべきか・・それを専門家に相談するという理由で、正美を連れ出した。

正美は専門家のアドバイスを受けて、俺と一緒に暮らしながら兄のマンションに2日おきに通うようになった。

そうすることで、正美の精神は徐々に落ち着きを取り戻していった。正美には仕事もさせた。絵を描かせる事が、一番のストレス発散になると思ったから。

騒がしかったマスコミも、要が不起訴処分になると、途端に騒がなくなった。事件は次から次に起きていて、マスコミも一つの事件をゆっくり追う余裕などないのだろう。

正直なところ、要に刺された身としては、彼が罪に問われないという事実は納得しがたいものだった。たとえ、彼がまともでない状態だったとしても、その罪が減じられていいものか疑問に思う。

何の罪もない人が、死んでいるというのに。法律や医学的なことはよう分からん。それが、正直なところだ。

正美の兄の方は、季節を重ねるごとに回復の兆しをみせているようだ。

正美が嬉しそうに俺に報告する。

今日は、ご飯を良く食べてくれた。
今日は、楽しそうに笑ってくれた。
今日は、一緒に買い物に出かけた。

正直、こんな話を正美から聞かされるのはきつい。俺はあの事件以来、正美を抱いていない。正美は事件のショックのせいか、性的なことに興味を示さなくなっているからだ。

正美ははるかさんの血まみれの遺体を見ている。身近に死に触れた正美は、ダイレクトに快楽を連想するセックスを不謹慎な事だと考え遠ざけている節がある。

だが、俺は傷ついた正美を抱いて慰めたいと思っている。とはいえ、正美の気持ちを無視するようなことができる訳がない。ただ彼が望む時に、その肩を抱きしめ背中を撫でるくらいにとどめていた。

とにかく、今は兄弟の心のケアを最優先にする。

いつかきっと、弘樹は立ち直る。そうなれば、徐々に正美も兄から距離を置くようになるだろう。それを見守るしかないと思っていた。

ふと、俺は自分の母親の事を思い出していた。俺の父親は女遊びの激しい人で、そのことで母親は随分困らされた。だが母は何時も笑顔を絶やさず、父親を問い詰めるような事はしなかった。

母親は旧時代の耐える女といった具合だった。そんな母親の態度に、父親も結局何度女遊びをしても、最後には彼女の元に戻ってきた。

『やっぱり、お前の傍が落ち着くわ』

簡単な一言で、父親は浮気を詫びる。そして、それをあっさりと受け入れる母親。思春期の俺は、そんな夫婦関係が理解できず、嫌で堪らなかった。母親がどうして黙って父親の浮気を許すのか、腹立たしく思った。

母は父を愛してはいないのだろうとも思っていた。今思うと、あれは正妻としての精一杯の虚勢だったのかもしれない。愛していたからこそ、父親を逃すまいとしていたのかもしれない。

心に吹き荒れる感情を押し殺し、常に明るい家庭を家族に提供し続けた母親。それが正しい夫婦の関係かというと、疑問には思う。でも、今でもそれなりに円満な夫婦生活を送っているのだから、夫婦の形状とは様々ということなのだろう。

結局のところ、俺は母親と同じなのかもしれない。正美を愛している。あいつ無しの生活は考えられない。

だから、提供し続けるしかない。

正美にとって居心地のいい空間を。たとえその心が乱れても、必死に笑ってあいつを支えて提供し続けるしかない。正美を俺の元から逃さんように。

実際、この作戦は成功していたと思う。正美の兄は順調に回復し、12月には新しい仕事を始めていた。警備会社の仕事だった。

心療内科の先生の勧めで『犯罪被害者の会』のセミナーに参加するようになった弘樹は、そこに通う警備会社の社長と知り合いになった。その関係で、警備の仕事に誘われたようだ。その社長も娘を犯罪で亡くしていたので、弘樹と通じるものがあったのだろう。

鬱に陥った人間は、回復期に思いもしない行動を取ることがある。医者にそう指摘されていた正美は、兄が働きに出る事に不安を感じていたようだった。

だが、俺は歓迎した。弘樹には早く回復して欲しかった。正美を早く解放して欲しい。むしろ回復が遅いと、いらいらしていたほどだった。

全てが順調だと思っていた。

だが、新年を迎えた一月。
突然、正美の様子がおかしくなった。

兄の弘樹は順調に回復し、仕事も始めた。なのに、正美は沈んだ表情を見せることが多くなった。

俺には原因が分からなかった。

人の心理状態を推し量るのは難しい。躁鬱の波があるのだろうかとも考えた。そんな思いを抱いたまま、一月を過ごした。その下旬には、アシスタント仲間と遅めの新年会を開いた。

正美は酷い飲み方をして、そして酔いつぶれてしまった。俺は自宅の正美のベットに彼を寝かせ、その服を着替えさせようとした。

そして、それに気が付いた。

正美の体には、無数の赤い鬱血の痕があった。キスマークだった。俺はぎょっとして、服を着替えさせるのをやめた。俺はあの事件以来、正美と肌を合わせていない。

だから、気が付かなかった。
正美は弘樹と抱き合っている?

「なんでや・・正美」

酔いつぶれた正美の頬を撫で、俺は呟いていた。正美は兄への想いを、吹っ切れてはいなかったのか?だから、心の弱りきった兄と寝たのか?

あるいは、弘樹が無理やり正美を抱いたのだろうか?

医者が鬱の回復期に思わぬ行動に出ることがあると言っていた。その思わぬ行動というのが、正美を抱く事だったとしたら?

同意の上なのか?
そうじゃないのか?

それによって、俺の行動も変えなければならない。もし、同意の上での事でも、俺はもう正美のことを諦める事などできない。

「どないしたらいいんや、俺は?」

答えが見つからないまま、時間だけが過ぎた。そして、俺たちは二月を迎えていた。


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