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本編
第二十九話 不審者
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◆◆◆◆◆
赤穂藩に下された改易の沙汰。それに伴う城の明け渡しは、つい先ごろ、幕府の監視のもと無事に済んだという。
浅野の家臣たちは、城を追われ、今は四散しているはずだった。世間の噂も一時よりはやや静まり、町にもわずかな平穏が戻りつつあった。
だが――吉憲の心は、どうにも晴れない。
「……この道を、通ってくれ」
使いの帰り道、ふと思い立ち、駕籠越しにそう命じた。家臣は一瞬黙ったが、黙礼とともに進路を変える。
呉服橋御門内にある、吉良家の上屋敷。門前には、いつも以上に厳めしい見張りが並んでいた。
町人の間では「浅野の仇は吉良」との声が今なお燻り続け、屋敷の塀には落書きや脅し文まで貼られる始末。緊張に満ちた空気が、門前にも色濃く漂っていた。
(……義周)
簾をそっと持ち上げながら、吉憲は屋敷を見つめる。
弟の顔が胸に浮かぶたび、冷たく重たい石が胸の底へ沈んでいくようだった。
すでに家の当主として日々を過ごす義周だが、世の風当たりを考えると、兄として気が気ではない。
――その時。
門前の往来から少し離れた、裏通りに続く細い横道。その角の暗がりに、小柄な人影が静かに佇んでいた。
野暮な紺の羽織に、差し足向きの軽やかな雪駄。年の頃は十五、六――まだ少年と呼べる若さ。
だが吉憲は、その伏せた目元に、一瞬、妙な鋭さを見た。
(……妙だな。あの歳で、あの気配)
少年は、吉良屋敷をひと目見ただけで、何かを悟ったようにすっと踵を返す。その動きに、無駄はなかった。
「止まれ。……駕籠を降りる」
「若……!」
家臣の制止も聞かず、吉憲はすばやく裾をさばいて駕籠を降りる。
「不審な少年を追う。駕籠は通れるところまでついて来い」
「はっ」
すでに少年の姿は、通りの角を曲がって消えていた。
吉憲は駆け出し、角を曲がった先の通りへと入る。だが、そこに人影はない。
わずかに舞い上がった砂埃と、乾いた雪駄の足音が遠ざかった痕跡だけが残っていた。
(まっすぐ逃げてはいない……あの動きなら、路地の奥――)
吉憲は迷わず、その先の狭い横丁へと足を向ける。
数軒の商家を抜け、袋小路のような道を回り込むと、小さな木戸が現れた。開け放たれたその先、夕暮れの光が差し込む長屋の裏手が広がっている。
ぬかるみに残った小さな足跡。その先に、ちらりと少年の背中が見えた。
(……いた)
その少年は、井戸端で立ち話をしていた数人のおかみさんたちの前で、ふと足を止めていた。
雪駄の音に気づいた女たちが振り返る。その瞬間、少年はおかみさんの一人にすがりつくようにして、声を上げた――
「お願い、おかみさん……助けて……!」
息を弾ませながら、少年は一人のおかみさんの袖にしがみついた。
「吉良の殿様の顔を、ちょっとだけ見てみたくて……屋敷を覗いてたら、変な侍に睨まれて……追いかけられているんだ!」
泣き真似ともつかぬ、うるんだ瞳。つくりものの怯え――だが、それがあまりに自然で、長屋の女たちは同情を示す。
「まあ……なんてこと!」
「子ども相手に、侍が追っかけて来るだなんて、物騒な!」
「吉良の殿様があれだけ悪逆無道なんだもの、家来だって似たようなもんでしょ」
次々と憤る声があがる。
そのとき、小走りで角を回ってきた吉憲が現れた。
「……待て!」
その言葉に、おかみさんたちの視線が一斉に注がれる。井戸端にいた一人が、ぴたりと動きを止めた。
「おやあんた、もしかして――この子を追ってきた吉良家のお侍かい?」
吉憲は言葉を飲み込んだ。少年は女たちの陰から、いたずらっ子のような笑みをひそかに浮かべている。まるで狐に化かされたような心地だった。
「もう行きな。怖い思いをしたんだろう?」
「……ありがとうございます。おばさんたち、優しい……!」
少年は潤んだ目で頷き、おかみさんの袖を軽く握ると、その手を離して、長屋の影へと駆け出した。
(――やられた!)
その背に向け、吉憲は一歩も動けぬまま、ただ見送っていた。
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赤穂藩に下された改易の沙汰。それに伴う城の明け渡しは、つい先ごろ、幕府の監視のもと無事に済んだという。
浅野の家臣たちは、城を追われ、今は四散しているはずだった。世間の噂も一時よりはやや静まり、町にもわずかな平穏が戻りつつあった。
だが――吉憲の心は、どうにも晴れない。
「……この道を、通ってくれ」
使いの帰り道、ふと思い立ち、駕籠越しにそう命じた。家臣は一瞬黙ったが、黙礼とともに進路を変える。
呉服橋御門内にある、吉良家の上屋敷。門前には、いつも以上に厳めしい見張りが並んでいた。
町人の間では「浅野の仇は吉良」との声が今なお燻り続け、屋敷の塀には落書きや脅し文まで貼られる始末。緊張に満ちた空気が、門前にも色濃く漂っていた。
(……義周)
簾をそっと持ち上げながら、吉憲は屋敷を見つめる。
弟の顔が胸に浮かぶたび、冷たく重たい石が胸の底へ沈んでいくようだった。
すでに家の当主として日々を過ごす義周だが、世の風当たりを考えると、兄として気が気ではない。
――その時。
門前の往来から少し離れた、裏通りに続く細い横道。その角の暗がりに、小柄な人影が静かに佇んでいた。
野暮な紺の羽織に、差し足向きの軽やかな雪駄。年の頃は十五、六――まだ少年と呼べる若さ。
だが吉憲は、その伏せた目元に、一瞬、妙な鋭さを見た。
(……妙だな。あの歳で、あの気配)
少年は、吉良屋敷をひと目見ただけで、何かを悟ったようにすっと踵を返す。その動きに、無駄はなかった。
「止まれ。……駕籠を降りる」
「若……!」
家臣の制止も聞かず、吉憲はすばやく裾をさばいて駕籠を降りる。
「不審な少年を追う。駕籠は通れるところまでついて来い」
「はっ」
すでに少年の姿は、通りの角を曲がって消えていた。
吉憲は駆け出し、角を曲がった先の通りへと入る。だが、そこに人影はない。
わずかに舞い上がった砂埃と、乾いた雪駄の足音が遠ざかった痕跡だけが残っていた。
(まっすぐ逃げてはいない……あの動きなら、路地の奥――)
吉憲は迷わず、その先の狭い横丁へと足を向ける。
数軒の商家を抜け、袋小路のような道を回り込むと、小さな木戸が現れた。開け放たれたその先、夕暮れの光が差し込む長屋の裏手が広がっている。
ぬかるみに残った小さな足跡。その先に、ちらりと少年の背中が見えた。
(……いた)
その少年は、井戸端で立ち話をしていた数人のおかみさんたちの前で、ふと足を止めていた。
雪駄の音に気づいた女たちが振り返る。その瞬間、少年はおかみさんの一人にすがりつくようにして、声を上げた――
「お願い、おかみさん……助けて……!」
息を弾ませながら、少年は一人のおかみさんの袖にしがみついた。
「吉良の殿様の顔を、ちょっとだけ見てみたくて……屋敷を覗いてたら、変な侍に睨まれて……追いかけられているんだ!」
泣き真似ともつかぬ、うるんだ瞳。つくりものの怯え――だが、それがあまりに自然で、長屋の女たちは同情を示す。
「まあ……なんてこと!」
「子ども相手に、侍が追っかけて来るだなんて、物騒な!」
「吉良の殿様があれだけ悪逆無道なんだもの、家来だって似たようなもんでしょ」
次々と憤る声があがる。
そのとき、小走りで角を回ってきた吉憲が現れた。
「……待て!」
その言葉に、おかみさんたちの視線が一斉に注がれる。井戸端にいた一人が、ぴたりと動きを止めた。
「おやあんた、もしかして――この子を追ってきた吉良家のお侍かい?」
吉憲は言葉を飲み込んだ。少年は女たちの陰から、いたずらっ子のような笑みをひそかに浮かべている。まるで狐に化かされたような心地だった。
「もう行きな。怖い思いをしたんだろう?」
「……ありがとうございます。おばさんたち、優しい……!」
少年は潤んだ目で頷き、おかみさんの袖を軽く握ると、その手を離して、長屋の影へと駆け出した。
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