【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第三十話 追う

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◆◆◆◆◆


(……やられたな)

吉憲は喉の奥で息を呑んだが、一拍の間を置いて、すぐに表情を作り直した。

「……違う。俺も、同じなんだ」

「え?」

おかみさんの一人が眉をひそめる。吉憲は、わざとらしく肩を落とし、情けない声を出した。

「俺も、吉良の殿様を一目見てみようとして、屋敷の前をうろついてたんだ。そしたら、いきなり侍に睨まれて……怖くなって逃げてきたんだ」

吉憲はわざとらしくはない程度に、ほんの少しだけ肩をすぼめ、心細げに目を伏せた。

その仕草があまりにも自然で――年若い顔立ちもあいまって、女たちの目にはどこか頼りない少年のように映った。

「……あらまあ、ほんとに」

最初に声をかけたおかみさんが目を丸くし、頬をゆるめる。

「なんだい、あんたも似たようなもんかい」

別の女がくすりと笑って続ける。

「まったく、若い子は好奇心ばかり強くって困ったもんだね。でもまあ、うちの息子に比べりゃ、よっぽど利発そうだよ」

「早く行きな、あの子はもうあっちへ逃げたよ」

笑いまじりのその声に、吉憲は軽く頭を下げた。

女たちは道を空ける。吉憲は深く頭を下げ、すぐにその隙間を縫うようにして路地へ駆け出した。


その背後――

「若君!」

駆けつけた上杉家の家臣が声を張り上げる。しかし、おかみさんたちはすぐに立ちふさがり、仁王立ちになって道をふさいだ。

「子供を追いかけているのはあんたたちだね。侍だからって、勝手に通れると思ったら大間違いさね」

「いくらお武家様でも、今は女衆の縄張りなんだよ!」

家臣たちが戸惑う中、吉憲は一度も振り返らず、ただ前だけを見つめて走る。

――逃がすものか。

そう胸の内で呟きながら、長屋の細い裏道へと身を滑り込ませた。湿った土の匂い、軋む板の音。狭い路地を抜け、少年の影を追って、吉憲はさらに奥へと駆けていく。

しかし――

(……見失ったか)

細い抜け道の先、角をいくつも曲がった先に、少年の姿はなかった。吉憲はその場に立ち止まり、周囲の気配を探るように目を細めた。

(風の流れ、土の乾き……この先だ)

わずかに乱れた足跡と、民家の板塀に残る衣の擦れ跡。吉憲はわずかな痕跡から少年の進路を見極めると、無言のまま再び駆け出す。

ほどなくして――

小さな辻を抜けた先、遠くに少年の背が見えた。道端で立ち止まり、周囲を見回すその表情には、安堵の色が浮かんでいる。

(まいたつもりか……)

吉憲は息をひそめ、歩調を落として距離を保つ。少年は警戒を解いた様子で、足早に小さな神社の境内へと入っていった。

吉憲は境内の片隅――苔むした石垣の陰に身をひそめた。社殿の影に紛れるようにして、慎重に気配を消す。

すると――

少年は社殿の脇に立つひとりの男へと、まっすぐ駆け寄っていった。
黒羽織に家紋は見当たらないが、端正に結われた月代さかやき丁髷ちょんまげ。腰の刀に無駄はなく、立ち姿にはただならぬ気配が宿っている。


(……浪人、か?)

二人は言葉を交わしているようだったが、その声は届かない。

吉憲は物陰に身を沈めたまま、ただ静かに、そのやり取りを見守っていた。



◆◆◆◆◆
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