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本編
第五十一話 それぞれの道
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◆◆◆◆◆
吉憲は、京から戻って数日、溜まっていた用務を忙しなく片付けていた。
夏の気配はすっかり影を潜め、空気にはひんやりとした秋の冷気が忍び込んでいる。
そんな折、耳に飛び込んできたのは思いも寄らぬ話だった。
――吉良家が、呉服橋御門内の屋敷を引き払い、本所へ屋敷替えになるらしい。
「本所だと……?」
思わず、口に出していた。
呉服橋は大名や高家の屋敷が軒を連ねる由緒ある場所だ。それに比べれば、本所は人通りも少なく、防備も手薄な地――。
(討ち入りを誘っているようなものではないか)
胸の内に、不安が募っていく。
加えて、その頃には、さらに一つの噂が吉憲の耳に届いた。
「……大石内蔵助が、江戸に下向しているらしい」
ぞくりと背筋を冷たいものが這った。
浪士たちが江戸に戻っている――そんな不穏な話もちらほらと聞こえ始めている。
(まさか……屋敷替えの情報が漏れ、大石たちは“その時”を狙っているのでは?)
じっとしてはいられなかった。
夜分とはいえ、吉憲はすぐさま吉良家へ向かう。
屋敷替えを控えた多忙な時期、しばらくは義周に会えないかもしれない。その思いもあったが――なにより、弟の身が案じられた。
◇
籠に揺られて辿り着いた屋敷。桐原を伴い、吉憲は義周を訪ねた。
突然の訪れに、義周は驚きを隠せない。灯りのともる静かな座敷に通され、畳に座るやいなや、吉憲は切り出した。
「……大石内蔵助が、今、江戸にいると聞いた。あの男は仇討ちを断念したとは思えない」
義周の指先が、わずかに震えた。
「……大石殿が」
「本所への屋敷替えと聞いた。あの辺りは、物騒な話も少なくない……。
せめてしばらくの間だけでも、上杉家に身を寄せてはどうか。
父上には俺から話す。お前を、必ず引き取ってみせる」
吉憲の声音には、明らかな焦りがにじんでいた。だが、義周はすぐに首を横に振った。
「兄上。私は……もう“吉良義周”として、ここにおります」
「けれど、お前は俺の弟だ。上杉の血を引く者だ。危険から遠ざけるのが、兄の務めだと思っている」
「気持ちは……ありがたいです」
義周は静かに目を伏せた。
「ですが私は、祖父のもとで礼を学び、名を受け、その名を守って生きてきました。
それを、ただ“逃げるために”捨てることはできません。私は高家の跡継ぎです」
吉憲は言葉を失った。
その眼差しに映る義周は、もはや幼い弟ではなかった。
「……武家の誇りを守るために、命を落としてもいいというのか」
思わず声を荒らげていた。
義周は顔を上げ、まっすぐに吉憲を見つめる。
「兄上」
その一言に、吉憲ははっと我に返った。
「……すまない」
うつむきかけたそのとき、ふと背後で畳を踏む足音がした。
障子が音もなく開き、白髪の混じる老武士が静かに現れる。
「……吉憲か」
祖父――吉良義央である。
その姿に、一瞬で空気が引き締まった。
「上杉家へは、すでに文を遣わしておいた。すぐに帰り支度をしなさい」
吉憲は目を見開いた。
「祖父上……」
「お前には、お前の立場がある。その責を、今は果たせ」
短く告げられた言葉には、押し殺した感情と覚悟が込められていた。
「義周、兄を見送りなさい」
義周は一瞬だけ瞼を伏せ、小さく頭を下げる。
「祖父上……ありがとうございます」
その声音は穏やかだった。けれど、その奥には、何かを乗り越えようとする決意が、確かにあった。
吉憲は、黙って義周の横顔を見つめていた。
(それぞれの“義”を貫くために……俺たちは、もう別々の道を歩むしかないのか)
けれど、背を向け合わずにいられる――それだけで、絆はまだ途切れていないと思えた。
義央がゆるりと目を細め、吉憲を見つめた後、静かに立ち去ろうとする。だが、ふと足を止めて振り返った。
「……上杉家に預けた者は、元気にしているか」
唐突な問いに、吉憲は一瞬、言葉に詰まる。
「はい。祖母上は、お変わりなくお過ごしです」
その言葉を聞いた義央の頬に、かすかに柔らかなものが浮かんだ。
一瞬だけ――祖父が“人”としての顔を見せたような気がした。
吉憲は、心の奥で何かがふっと揺れるのを感じた。
遠い存在と思っていた祖父が、ほんの少しだけ近くなった気がする。
障子の隙間から、秋風がそっと吹き込んできた。
秋の入り口に残る、わずかな夏の余韻が、ふたりの肩をすり抜けていった。
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吉憲は、京から戻って数日、溜まっていた用務を忙しなく片付けていた。
夏の気配はすっかり影を潜め、空気にはひんやりとした秋の冷気が忍び込んでいる。
そんな折、耳に飛び込んできたのは思いも寄らぬ話だった。
――吉良家が、呉服橋御門内の屋敷を引き払い、本所へ屋敷替えになるらしい。
「本所だと……?」
思わず、口に出していた。
呉服橋は大名や高家の屋敷が軒を連ねる由緒ある場所だ。それに比べれば、本所は人通りも少なく、防備も手薄な地――。
(討ち入りを誘っているようなものではないか)
胸の内に、不安が募っていく。
加えて、その頃には、さらに一つの噂が吉憲の耳に届いた。
「……大石内蔵助が、江戸に下向しているらしい」
ぞくりと背筋を冷たいものが這った。
浪士たちが江戸に戻っている――そんな不穏な話もちらほらと聞こえ始めている。
(まさか……屋敷替えの情報が漏れ、大石たちは“その時”を狙っているのでは?)
じっとしてはいられなかった。
夜分とはいえ、吉憲はすぐさま吉良家へ向かう。
屋敷替えを控えた多忙な時期、しばらくは義周に会えないかもしれない。その思いもあったが――なにより、弟の身が案じられた。
◇
籠に揺られて辿り着いた屋敷。桐原を伴い、吉憲は義周を訪ねた。
突然の訪れに、義周は驚きを隠せない。灯りのともる静かな座敷に通され、畳に座るやいなや、吉憲は切り出した。
「……大石内蔵助が、今、江戸にいると聞いた。あの男は仇討ちを断念したとは思えない」
義周の指先が、わずかに震えた。
「……大石殿が」
「本所への屋敷替えと聞いた。あの辺りは、物騒な話も少なくない……。
せめてしばらくの間だけでも、上杉家に身を寄せてはどうか。
父上には俺から話す。お前を、必ず引き取ってみせる」
吉憲の声音には、明らかな焦りがにじんでいた。だが、義周はすぐに首を横に振った。
「兄上。私は……もう“吉良義周”として、ここにおります」
「けれど、お前は俺の弟だ。上杉の血を引く者だ。危険から遠ざけるのが、兄の務めだと思っている」
「気持ちは……ありがたいです」
義周は静かに目を伏せた。
「ですが私は、祖父のもとで礼を学び、名を受け、その名を守って生きてきました。
それを、ただ“逃げるために”捨てることはできません。私は高家の跡継ぎです」
吉憲は言葉を失った。
その眼差しに映る義周は、もはや幼い弟ではなかった。
「……武家の誇りを守るために、命を落としてもいいというのか」
思わず声を荒らげていた。
義周は顔を上げ、まっすぐに吉憲を見つめる。
「兄上」
その一言に、吉憲ははっと我に返った。
「……すまない」
うつむきかけたそのとき、ふと背後で畳を踏む足音がした。
障子が音もなく開き、白髪の混じる老武士が静かに現れる。
「……吉憲か」
祖父――吉良義央である。
その姿に、一瞬で空気が引き締まった。
「上杉家へは、すでに文を遣わしておいた。すぐに帰り支度をしなさい」
吉憲は目を見開いた。
「祖父上……」
「お前には、お前の立場がある。その責を、今は果たせ」
短く告げられた言葉には、押し殺した感情と覚悟が込められていた。
「義周、兄を見送りなさい」
義周は一瞬だけ瞼を伏せ、小さく頭を下げる。
「祖父上……ありがとうございます」
その声音は穏やかだった。けれど、その奥には、何かを乗り越えようとする決意が、確かにあった。
吉憲は、黙って義周の横顔を見つめていた。
(それぞれの“義”を貫くために……俺たちは、もう別々の道を歩むしかないのか)
けれど、背を向け合わずにいられる――それだけで、絆はまだ途切れていないと思えた。
義央がゆるりと目を細め、吉憲を見つめた後、静かに立ち去ろうとする。だが、ふと足を止めて振り返った。
「……上杉家に預けた者は、元気にしているか」
唐突な問いに、吉憲は一瞬、言葉に詰まる。
「はい。祖母上は、お変わりなくお過ごしです」
その言葉を聞いた義央の頬に、かすかに柔らかなものが浮かんだ。
一瞬だけ――祖父が“人”としての顔を見せたような気がした。
吉憲は、心の奥で何かがふっと揺れるのを感じた。
遠い存在と思っていた祖父が、ほんの少しだけ近くなった気がする。
障子の隙間から、秋風がそっと吹き込んできた。
秋の入り口に残る、わずかな夏の余韻が、ふたりの肩をすり抜けていった。
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