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本編
第五十五話 襲撃
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◆◆◆◆◆
空には鈍色の雲が垂れこめ、町の通りには昨夜の雪がまだらに残っていた。
ぬかるむ地面を踏みしめながら、吉良家の門を静かに出てゆく駕籠が一つ。
屋敷は既に本所へと移されていた。
屋敷替えの折には、「仇討ちに巻き込まれるのでは」と不安を覚えて辞めた者もいれば、新たに仕える者もいた。
人の出入りは続き、騒がしさを孕みながらも、屋敷はようやく新たな日常を取り戻しつつある。
その駕籠に乗っていたのは、義周だった。
「使いが終われば、すぐ戻るように」
出立の直前、祖父――義央が静かに言った言葉が、耳に残っている。
本来なら祖父自身が出向くはずだった用件だったが、松の廊下事件の後、上野介の外出はほとんどなくなった。今では、外での公務は義周が代わってこなすのが常となっていた。
(……今日も、何事もなければよいが)
駕籠の揺れに身を任せながら、義周は小さく息をついた。
「吉良義周」としての務めにようやく慣れはじめた矢先だった。
祖父の背を見て礼を学び、名代として振る舞うことに、ようやくわずかな自負を持ち始めたところだった。
だからこそ、それはあまりにも突然で――容赦なかった。
雪を蹴立てるようにして、駕籠の進む道の先から、ふたりの男が駆けてきた。
頭巾を深くかぶり、抜き身の刀を手にしている。明らかにただの町人ではない。
「危ない!」
叫び声があがる。行き交う人々が脇へ逃げ散り、周囲がざわついた瞬間――
駕籠の簾が風を孕み、ばさりと激しく揺れた。
「下がれ!」
家来の怒声が響く。
続いて、駕籠が大きく傾いだ。片方の担ぎ手が斬られたのだ。
義周の身体が横に倒れ込み、壁にぶつかる。
「な……何事だ!」
息を呑んだ瞬間、扉がばたりと開き、冷たい冬の風が雪煙と共になだれ込む。
簾を乱暴に捲った家来の顔――その背後には、刀を振り上げた二人の襲撃者がいた。
「義央はどこだ! 出てこい、卑怯者!」
「こそこそ隠れやがって!」
怒声が重なる。剣閃が走り、火花と共に家来の刃と激突する。
義周は動けなかった。
(……祖父上を、狙って……!)
家来のひとりがひとりの襲撃者に組みつき、雪の上でもみ合いながら押し倒す。
だがもう一人が駕籠の方へ突進してきた。
「若様、こちらへ!」
近習の新八郎が駆け寄り、義周の腕を引いて駕籠から引きずり出す。
足元の石畳は滑り、義周はよろめきながらも必死に走った。
路地の奥――小さな味噌屋の軒先に身を滑り込ませ、ようやく身体を休める。
胸が苦しくなるほど波打ち、息が整わない。
「……若様、ご無事ですか」
新八郎が荒い呼吸のまま膝をつく。
その腕から、血が、ぽた、ぽた、と雪に落ちていた。
「……え……!」
思わず身を引いた義周の袖に、濃い紅がにじんでいた。
新八郎の血が、自分の着物を濡らしていた。
「怪我を……!」
「かすり傷です。構いませぬ」
新八郎はかぶりを振り、片手で傷口を押さえながらも、義周の前に立ちはだかる。
額には汗が滲み、声はかすれ、肩はわずかに震えていた。
(……私の、ために)
恐怖よりも、困惑と、重たい何かが胸に落ちていく。
吉良の名に向けられた憎悪――
その刃の先に、自分ではない誰かが傷を負った。
それが、どれほど理不尽で、痛ましいことか。
(――吉良義周として生きるとは、こういうことなのか)
名を継いだというだけで、命が脅かされ、周囲までも巻き込む。
義周は唇を結び、血に濡れた袖を見つめた。
その場に立ち尽くすしかなかった己の無力さと、名に刻まれた過去の重さを、初めて肌の奥まで突きつけられた気がした。
その冷たさは、雪よりも深かった。
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空には鈍色の雲が垂れこめ、町の通りには昨夜の雪がまだらに残っていた。
ぬかるむ地面を踏みしめながら、吉良家の門を静かに出てゆく駕籠が一つ。
屋敷は既に本所へと移されていた。
屋敷替えの折には、「仇討ちに巻き込まれるのでは」と不安を覚えて辞めた者もいれば、新たに仕える者もいた。
人の出入りは続き、騒がしさを孕みながらも、屋敷はようやく新たな日常を取り戻しつつある。
その駕籠に乗っていたのは、義周だった。
「使いが終われば、すぐ戻るように」
出立の直前、祖父――義央が静かに言った言葉が、耳に残っている。
本来なら祖父自身が出向くはずだった用件だったが、松の廊下事件の後、上野介の外出はほとんどなくなった。今では、外での公務は義周が代わってこなすのが常となっていた。
(……今日も、何事もなければよいが)
駕籠の揺れに身を任せながら、義周は小さく息をついた。
「吉良義周」としての務めにようやく慣れはじめた矢先だった。
祖父の背を見て礼を学び、名代として振る舞うことに、ようやくわずかな自負を持ち始めたところだった。
だからこそ、それはあまりにも突然で――容赦なかった。
雪を蹴立てるようにして、駕籠の進む道の先から、ふたりの男が駆けてきた。
頭巾を深くかぶり、抜き身の刀を手にしている。明らかにただの町人ではない。
「危ない!」
叫び声があがる。行き交う人々が脇へ逃げ散り、周囲がざわついた瞬間――
駕籠の簾が風を孕み、ばさりと激しく揺れた。
「下がれ!」
家来の怒声が響く。
続いて、駕籠が大きく傾いだ。片方の担ぎ手が斬られたのだ。
義周の身体が横に倒れ込み、壁にぶつかる。
「な……何事だ!」
息を呑んだ瞬間、扉がばたりと開き、冷たい冬の風が雪煙と共になだれ込む。
簾を乱暴に捲った家来の顔――その背後には、刀を振り上げた二人の襲撃者がいた。
「義央はどこだ! 出てこい、卑怯者!」
「こそこそ隠れやがって!」
怒声が重なる。剣閃が走り、火花と共に家来の刃と激突する。
義周は動けなかった。
(……祖父上を、狙って……!)
家来のひとりがひとりの襲撃者に組みつき、雪の上でもみ合いながら押し倒す。
だがもう一人が駕籠の方へ突進してきた。
「若様、こちらへ!」
近習の新八郎が駆け寄り、義周の腕を引いて駕籠から引きずり出す。
足元の石畳は滑り、義周はよろめきながらも必死に走った。
路地の奥――小さな味噌屋の軒先に身を滑り込ませ、ようやく身体を休める。
胸が苦しくなるほど波打ち、息が整わない。
「……若様、ご無事ですか」
新八郎が荒い呼吸のまま膝をつく。
その腕から、血が、ぽた、ぽた、と雪に落ちていた。
「……え……!」
思わず身を引いた義周の袖に、濃い紅がにじんでいた。
新八郎の血が、自分の着物を濡らしていた。
「怪我を……!」
「かすり傷です。構いませぬ」
新八郎はかぶりを振り、片手で傷口を押さえながらも、義周の前に立ちはだかる。
額には汗が滲み、声はかすれ、肩はわずかに震えていた。
(……私の、ために)
恐怖よりも、困惑と、重たい何かが胸に落ちていく。
吉良の名に向けられた憎悪――
その刃の先に、自分ではない誰かが傷を負った。
それが、どれほど理不尽で、痛ましいことか。
(――吉良義周として生きるとは、こういうことなのか)
名を継いだというだけで、命が脅かされ、周囲までも巻き込む。
義周は唇を結び、血に濡れた袖を見つめた。
その場に立ち尽くすしかなかった己の無力さと、名に刻まれた過去の重さを、初めて肌の奥まで突きつけられた気がした。
その冷たさは、雪よりも深かった。
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