【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第五十六話 ほころぶ蕾

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◆◆◆◆◆

襲撃の後――
義周は屋敷に戻ってすぐ、自室にこもった。灯もつけず、ただ静かに、畳の上に座している。

時刻は夕方。障子越しの光は、すでに翳り始めていた。

着物は着替えたはずだったが、袖口に染みたあの感触が、どうしても拭いきれない。見れば何もないはずの手元に、血の気配が蘇る。

かすかに指先が震えていた。

――家臣の話によれば、襲ってきたのは赤穂浪士ではなかったという。
義憤に駆られた町人か、あるいは興味本位で刀を振るった輩だったらしい。赤穂藩にも吉良家にも無関係な者と聞かされ、義周は言いようのない恐ろしさに身を竦ませた。

(高家の次期当主として……いざ赤穂浪士に刃を向けられた時、私は、毅然としていられるのだろうか)

心に問うても、答えは返ってこなかった。

祖父を守るために。家の名に恥じぬように。そう思っていた。そう、信じていたはずだった。

けれど今は、それすらも霧の中にあるように思えた。

――手の震えが、止まらない。

その時、襖の向こうから声がかかった。

「……若様、お茶をお持ちしました」

かすかに乾いた喉を動かし、義周は応じた。

「……入れ」

入ってきたのは、年若い女中のひとりだった。
屋敷替えの折に、仇討ちの巻き添えを恐れて去っていった古株の女中の代わりに、新しく仕えはじめた娘である。

まだ若く、物腰もおずおずとしてはいるが――
いつも控えめに、けれどまっすぐに義周を見てくる。その眼差しの芯に、どこか誠実な強さがあった。

彼女の持つ盆には湯気の立つ茶碗と、白椿の切り花が一輪、そっと添えられていた。

女中は黙って、茶を畳に置くと、花を手に取る。

「まだ蕾ですが……」

「白椿か……」

義周はわずかに目を細めた。

「そこに活けてくれるか?」

「はい、義周さま」

部屋の隅に据えられた細い竹の花入には、もともと名もない草花が数本差されていた。女中はそれをそっと抜き、代わりに白椿を丁寧に差し込む。

椿の重みでわずかに傾いた竹筒を整えると、深く一礼し、彼女は何も言わずに部屋を後にした。

残された白椿が、夕闇の中でひっそりと光っていた。

その白さは、ふと義周に米沢城の庭を思い出させる。

雪解けの頃、兄と並んで眺めた白椿の木。あの時は、何も知らずに、ただ笑っていた。

義周はようやく、震える指を押さえながら、椿を見つめる。

(……見ず知らずの者に、理不尽な怒りをぶつけられる。吉良家の嫡男として、これからも、それを受け続けるのか)

締め付けられるような思いを抱えながら、義周は静かに息を吐いた。



襲撃の翌朝。
空気はまだ冷えきっていて、座敷には朝の光が細く差し込んでいる。

義周はふと、部屋の隅に置かれた竹花入に目をやった。

白椿の蕾が、静かに開いていた。

真っ白な花弁が朝の光を受けて、柔らかに輝いている。

(……咲いたのか)

それだけのことなのに、胸の奥がじんとした。

義周はそっと膝を進め、花の前に座る。
椿の枝に指先が触れたとき、昨日の女中の姿が脳裏に浮かんだ。

名を知らぬ娘。けれど、なぜか忘れがたい横顔だった。

その日の午後――

礼儀作法の稽古を終えた義周は、冷たい風の吹く庭へと足を向けた。
重ね着の裾を押さえながら、薄く雪の積もる石畳を一歩ずつ踏みしめてゆく。

本所の屋敷に移ってから、まだ日も浅い。
けれど、庭の一隅に植えられた一本の白椿の木だけは、早くも義周の心に強く残っていた。

以前の屋敷にはなかった立派な木である。
移り住んだばかりの庭に、ひときわ白く冴え冴えと咲くその姿は、どこかこの屋敷の静けさと重なって見えた。

その白椿の傍に、人影があった。


「……おまえは」

振り返った女中は、昨日、椿の枝を持ってきた娘だった。

「名を聞いてもよいか」

「……菊と申します」

「お菊、か」

義周が呟くと、お菊は目を細めて笑みを浮かべ、静かに頷いた。
彼女の背後には、雪を弾くように咲く白椿があった。

凛として枝を伸ばすその姿は、米沢の庭にあった木とよく似ている。

(あの時も……兄と、こんな雪の中を歩いた)

そっと目を閉じる。
柔らかく咲く花びらの白が、兄の声や笑顔を呼び起こすように、胸の奥へ広がってゆく。

「……どうされたのですか?」

お菊の声が、すぐ近くで聞こえた。

目を開けると、彼女が心配そうに覗き込んでいる。

「想い人を、思い浮かべていたのですか?」

不意の言葉に、義周は驚いてわずかに身を引いた。

「……ちがう。兄を、思い出していただけだ」

「そうでしたか」

お菊は、ふわりと笑った。
その笑みは、あまりにも素直で、あたたかくて。
胸のどこかにあった硬さが、少しずつ解けてゆくように感じられた。

白椿の下に立つふたりを、冬の陽がやわらかく包んでいた。


◆◆◆◆◆
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