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本編
第六十四話 先回り
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◆◆◆◆◆
女の姿は、人波に紛れて見失った。
だが、胸の奥に残る違和感が、吉憲を突き動かしていた。
(あの目……あの歩き方……)
女の顔には見覚えはない。
だが、その歩き方、姿勢、立ち居振る舞い――
どれを取っても、ただの町女には見えなかった。
腰の引きすぎない足取り。
手の添え方に、無意識の所作が滲む。
何より、大石にあのような形で書状を渡すなど、よほど信頼された者でなければできることではない。
遊び女でも、遣い女でもない。
それでいて、あの落ち着きと所作――あれは、武家屋敷の中で暮らしていなければ身につかぬものだ。
女中か、それに近い立場……
少なくとも、屋敷の敷居をまたげる“内側の人間”に違いない。
(ならば、どこだ?)
女の向かう先が、吉良家だとしたら――すべてが繋がる。
(……吉良家の中に、大石と通じる者が)
確証はなかった。
だが、武士の勘は時に理を超える。
吉憲はすぐさま踵を返し、人々の波を縫って屋敷を目指した。
日が傾きはじめた江戸の街。
その空気を切るように、足が加速する。
◇
屋敷の角を曲がり、勝手口のある裏手へと出たときだった。
浅葱色の小袖に紺色の頭巾。
あの女が、音もなく門扉を開き、屋敷の中へと姿を消していった。
(――やはり)
脈が高鳴るのを感じる。
見間違いではない。
そして、ただの使用人でないことも、今や確信へと変わっていた。
(吉良家の中に、大石と繋がる者がいる……)
義周の顔が、胸の奥に浮かぶ。
(守らねば)
正門へと急ぎ、門番の前に立つ。
「お待ちくだされ!」
門番が警戒の色を見せたが、吉憲の名を聞いた瞬間、表情が変わる。
「……上杉家の若君」
「そうだ。俺は上杉吉憲。至急取り次いでほしい。義周に会いたい」
門番は一礼し、屋敷の中へと駆けていった。
夕暮れの静まり返る通り。
吉憲は、じっと門の奥を見つめた。
その時だった。
「若君!」
振り向けば、桐原清十郎が駆けてくる。
顔には土埃がついていたが、傷は見当たらない。
「無事か?」
「問題ありません。追っ手三名、いずれも手傷を負わせ退けました」
「殺さずに退けたのか……やるな」
吉憲の言葉に、桐原はわずかに笑みを浮かべて頷く。
「……それにしても、よくここが分かったな」
吉憲がそう問えば、桐原は一礼して静かに口を開いた。
「大石が釣りなどという気まぐれに興じるとは思えません。
あの場にいたのは、偶然ではない。――誰かから何かを“受け取るために待っていた”、そう考えました」
「……なるほど」
「それほどの情報を渡す相手に、軽い立場の女を使うとは思えません。
装いや動きからしても、あの女は武家に仕える者。屋敷の中に出入りできる立場です。
そうなれば、仕える家は限られる。大石が待っていたという事実が、その答えです」
「……吉良家しかない、か」
「はい。あの女が戻る先は、ここ以外にありえない。
そして――ここに来れば、必ず吉憲様に会えると確信しておりました」
その言葉に、吉憲は小さく笑ってうなずいた。
「鋭いな。同じ考えだ。……やはり、お前がいてよかった」
その言葉の直後、門番が戻ってきた。
「お待たせいたしました。殿の許しが下りました。どうぞ中へ」
門が、静かに開く。
夕暮れの陽に長く伸びる影を引いて、
吉憲と桐原は、迷いなく屋敷の奥へと足を進めていった。
◆◆◆◆◆
女の姿は、人波に紛れて見失った。
だが、胸の奥に残る違和感が、吉憲を突き動かしていた。
(あの目……あの歩き方……)
女の顔には見覚えはない。
だが、その歩き方、姿勢、立ち居振る舞い――
どれを取っても、ただの町女には見えなかった。
腰の引きすぎない足取り。
手の添え方に、無意識の所作が滲む。
何より、大石にあのような形で書状を渡すなど、よほど信頼された者でなければできることではない。
遊び女でも、遣い女でもない。
それでいて、あの落ち着きと所作――あれは、武家屋敷の中で暮らしていなければ身につかぬものだ。
女中か、それに近い立場……
少なくとも、屋敷の敷居をまたげる“内側の人間”に違いない。
(ならば、どこだ?)
女の向かう先が、吉良家だとしたら――すべてが繋がる。
(……吉良家の中に、大石と通じる者が)
確証はなかった。
だが、武士の勘は時に理を超える。
吉憲はすぐさま踵を返し、人々の波を縫って屋敷を目指した。
日が傾きはじめた江戸の街。
その空気を切るように、足が加速する。
◇
屋敷の角を曲がり、勝手口のある裏手へと出たときだった。
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(――やはり)
脈が高鳴るのを感じる。
見間違いではない。
そして、ただの使用人でないことも、今や確信へと変わっていた。
(吉良家の中に、大石と繋がる者がいる……)
義周の顔が、胸の奥に浮かぶ。
(守らねば)
正門へと急ぎ、門番の前に立つ。
「お待ちくだされ!」
門番が警戒の色を見せたが、吉憲の名を聞いた瞬間、表情が変わる。
「……上杉家の若君」
「そうだ。俺は上杉吉憲。至急取り次いでほしい。義周に会いたい」
門番は一礼し、屋敷の中へと駆けていった。
夕暮れの静まり返る通り。
吉憲は、じっと門の奥を見つめた。
その時だった。
「若君!」
振り向けば、桐原清十郎が駆けてくる。
顔には土埃がついていたが、傷は見当たらない。
「無事か?」
「問題ありません。追っ手三名、いずれも手傷を負わせ退けました」
「殺さずに退けたのか……やるな」
吉憲の言葉に、桐原はわずかに笑みを浮かべて頷く。
「……それにしても、よくここが分かったな」
吉憲がそう問えば、桐原は一礼して静かに口を開いた。
「大石が釣りなどという気まぐれに興じるとは思えません。
あの場にいたのは、偶然ではない。――誰かから何かを“受け取るために待っていた”、そう考えました」
「……なるほど」
「それほどの情報を渡す相手に、軽い立場の女を使うとは思えません。
装いや動きからしても、あの女は武家に仕える者。屋敷の中に出入りできる立場です。
そうなれば、仕える家は限られる。大石が待っていたという事実が、その答えです」
「……吉良家しかない、か」
「はい。あの女が戻る先は、ここ以外にありえない。
そして――ここに来れば、必ず吉憲様に会えると確信しておりました」
その言葉に、吉憲は小さく笑ってうなずいた。
「鋭いな。同じ考えだ。……やはり、お前がいてよかった」
その言葉の直後、門番が戻ってきた。
「お待たせいたしました。殿の許しが下りました。どうぞ中へ」
門が、静かに開く。
夕暮れの陽に長く伸びる影を引いて、
吉憲と桐原は、迷いなく屋敷の奥へと足を進めていった。
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