【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第七十九話 夜の会談

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◆◆◆◆◆

十一月に入った江戸の夜は、肌を刺すような冷たさだった。

冷えた風が路地を駆け抜け、軒の簾を揺らしていく。
犬の遠吠えが乾いた空ににじみ、どこかから線香のかすかな香りが漂っていた。

桐原清十郎は、神田の一角に立つ長屋の前にいた。

表札も暖簾もない、古びた借家の一室――だが、その裏で何が行われているかを、桐原はすでに知っていた。

ここは、筆五郎という筆名でかわら版を書き綴る者の作業場。
そしてその作業場を支えるのが、紙問屋を営む脇屋新兵衛――すなわち、赤穂浪士・大高源吾である。

もとを辿れば、茶人・山田宗徧の門人の中にあった一名。
女中・お菊の縁を手繰って浮かび上がったその男は、表では帳簿紙や番付を扱う商い人の顔を持ちながら、
裏ではこの長屋に金を流し、かわら版を使って世論を操っていた。

筆を執るのは筆五郎。だが、何を書かせ、いつ流すかを決めているのは――
書かせる側の者。

桐原が文を託したのは十月の末だった。
「大石内蔵助に会いたい」との主君・吉憲の言葉を預かり、脇屋に届けた。

最初は取り合おうとしなかった脇屋も、こちらがその正体に気づいていると知るや、渋々口を開いた。

「……返事は、待て」

そして十一月、返ってきた言葉はただひとつ。

「会う」

名も印もない。だが、筆致の熱だけは確かにそこにあった。

会う場所として指定されたのが、この長屋の一室だった。

(……あえて、この場所を)

桐原は敷居の前で立ち止まった。
わざわざ、かわら版の作業場。世論を煽る“現場”を、会談の舞台に選ぶ――それが何を意味するのか、理解できぬほど愚かではない。

ここはただの場ではない。
これまでに撒かれた言葉、火をつけた紙の束――
すべてを見せつけ、「もう流れは変えられぬ」と告げるための場所だ。

桐原は静かに息を吐いた。

刀と脇差を外し、それぞれ布で包み直してから、そっと脇へ置く。
この場において、武器を持ち込むべきでないことは、言われずとも分かっていた。

そして、戸を叩いた。

中から、わずかな沈黙ののち、低く抑えた声が返る。

「名を」

「桐原清十郎。上杉吉憲さまの命にて参上仕りました」

戸が引かれた。

顔は見えない。だが、差し出された手に、桐原は目をとめた。
短く切られた爪の間には、黒い墨の滲み。
細く、固く、すでに何百枚も紙を扱ったような節のある指。

(――筆を握る手か)

桐原は軽く頭を下げ、布で包んだ刀をその男に預けた。
手元がふわりと揺れ、軽くなった気がした。

一礼し、敷居をまたぐ。

灯のほの暗い長屋の奥に、二つの人影が見えた。

ひとりは、大石内蔵助。
その傍に控えていたのは、まだ年若いが鋭い眼差しを宿した少年――大石主税。

墨の匂いと、乾いた紙の束が、部屋の空気を満たしていた。

◆◆◆◆◆

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