【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第八十九話 大石内蔵助の討ち入り

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◆◆◆◆◆

……時は寅の刻。
空にはまだ月が残り、白き雪は音もなく降り積もる。

凍てつく夜の闇のなか、私はただ、静かに息を吐いた。
この吐息が、長い歳月を潜り抜けてきた我が身の熱を、わずかに溶かしていく。

堀部の借宅に集った四十七の命――そのひとつひとつが、今、私の背にある。
主君浅野内匠頭の仇、吉良上野介義央を討つべく、我らはこの夜、江戸の地に義の刃を振るう。

――果たして、これが正義なのか?

私は、何度も己に問うてきた。
幕府の裁断は、確かに法に則ったものだった。だが、武士にとって主を斬られ、何も為さず生きること――それは死よりも深き恥辱であった。

私の心には、あの日の報せが今も焼きついて離れぬ。
松の廊下で刃を抜いた罪――そのただ一事により、殿は即日、切腹を命じられた。
どれほど無念であったか。どれほど、言葉にならぬ想いがあったか。
私はその場におらず、ただ後れて知ったのみ。
されど、胸の内では、幾度も幾度もあの瞬間を思い描き――“なぜだ”と、叫びたくなる己がいる。


主よ。なぜ、あのような形で逝かねばならなかったのですか。
なぜ、我らに何も遺さぬまま、無念を飲み込んだのですか――。

だが、いまはもう問うまい。

すべては、この一夜に集約されている。
息子・主税は、表門を預かるまでに成長した。
かつて遊びに興じていたあの幼子が、今や血刀を携え、主君の名をその胸に刻んでいる。

私が信じねば、誰がこの子を支えるのか。

静かに、私は門前に竹竿を立てた。
文箱には口上書。「浅野家旧臣、大石内蔵助、主君の仇を討つ」――。

堂々と名乗りを上げる。
我らは賊に非ず。逃げもせず、隠れもせず、ただまっすぐにこの“義”を貫く。

「火事だ!」

裏門からの声が上がる。笛の合図。全員が動いた。

……雪が燃えるようだった。
白は赤に染まり、黒き闇を裂いて、我らは進む。

誰も怯まぬ。誰も叫ばぬ。
ただ無言で、刃を交える。
長屋は鎹で封じた。争う覚悟のない者に、我らの刃は向けぬ。

だが――吉良義央の姿が、見えぬ。

寝所はもぬけの殻。夜具はまだ温かい。
潜んでいるのか、逃げたのか。いや、まだこの屋敷にいる。そう感じた。

「一つ一つ、探せ」

やがて、裏口近くの小屋の前に、白小袖をまとった男が姿を現した。足軽が叫ぶ。「間違いござらぬ、上野介にて!」

その声に、私は目を閉じた。

――終わった。

主税が、吉良の首を携え、駆けてきた。

「父上!」

その声は、幼子のようにはしゃぎながらも、どこか、誇らしげだった。
それが、私の胸を締めつける。

「……見事だ、主税」

そう答えながら、私はこの子の手が、もはや血に染まってしまったことを悔いた。
この子は、まだ十五。
学び、遊び、友と笑い合いながら、ゆるやかに時を重ねてゆくはずの歳だった。
その少年が、いま仇の首を掲げ、私の前に立っている。

この首一つを捧げたところで、我らの運命は決して明るいものではない。
よくて切腹、悪くすれば、打ち首獄門。
十五にして、この子もまた――死ぬのだ。

その覚悟を胸に抱きながら、笑みすら浮かべて私に報告する我が子が、
いっそ不憫で、誇らしくて、
……そして、何よりも――哀しかった。

この道を選んだ時点で、逃れられぬ運命ではあった。
だが、そうであっても、涙を流すことを禁じる理由にはならぬ。

……私は、笛を吹いた。

戦いは、一刻足らず。
しかし我らにとっては、一年と四か月のすべてをかけた“生”の結晶だった。

死者はなし。皆、無事だ。
それが、どれほど奇跡に近いことか。

さあ、行こう。
我らが目指すは、泉岳寺。

主君の墓前に、この首を捧げよう。
すべての誇りと、すべての痛みを、その前に置いて――。

たとえ幕府が我らを罪人と断じようとも、かまわぬ。
この行いが徒党であり、逆賊であると罵られようとも、よい。

我らの行動は、民の目に映った。
その胸に、“義”とは何かを問うたのだ。

――それでよい。
私は、“義士”であればよいのだ。

主君よ、見ておられますか。
この手で、貴方の無念は晴らしました。
この子が、貴方の敵を討ちました。

……これにて、役目は果たされました。

――進め、泉岳寺へ。

◆◆◆◆◆
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