89 / 95
本編
第八十八話 吉良上野介の最期
しおりを挟む
◆◆◆◆◆
寝所の障子越しに、かすかな雪の気配が落ちていた。
白く沈んだ夜の空気のなか、遠くで武器が交わる音と、怒号が微かに響いてくる。現のものとして、それは確かに命を奪う音だった。
義央は、すでに控えの間にいた家臣たちをすべて下がらせていた。
「ここには、誰も入れるな。よいか――」
その命に、家臣たちは頭を垂れた。主の最期を悟り、無言のまま控えの間から姿を消している。
すべては時間を稼ぐため。
切腹の覚悟を妨げぬように。
そして、義央の首が落とされたあとは、もう戦わなくてよい――そう言い残されていた。
灯を落とした室内に、義央はじっと座していた。
手元には、長年肌身離さず持ってきた短刀。
――これでよい。
すでに心は定まっていた。
吉良上野介義央は、静かに膝に手を置いたまま、目を閉じた。
そのまぶたの裏に浮かぶのは、つい数刻前――上杉家当主・綱憲から届けられた一通の手紙の文面だった。
手元に文はもうない。
誰にも見せぬよう、すぐに火にくべた。
だが、墨の一字一句が、未だに脳裏から消えぬ。
――「父上。貴殿を守る道はございませぬ。
吉良家がこれ以上、上杉家を巻き込むことがあってはなりませぬ」――
綱憲は、そう書いた。
それがわが子の決断であると、義央はすぐに悟った。
高家筆頭として積み重ねてきた家格も、将軍家の儀礼を司ってきた名も、今や、この“赤穂の火”の前には何の楯にもならぬ。
綱憲にとって、上杉家を守るためには――吉良義央を切り捨てるより他になかった。
そういう文であった。
非情。だが、理である。
義央はそれを咎める気にはなれなかった。
「……ならば、ここで果てるしかあるまい」
静かにそう呟く声には、怒りも悲しみも混ざっていなかった。
ただ、長い人生を生きてきた者の、最後の覚悟だけがにじんでいた。
脇に置かれた短刀。
いつからか、寝所には必ずそれを置くようになっていた。
覚悟など、とうの昔に決めていた。だが今、冷えた鍔に指を添える手の内に、わずかに震えが走る。
武士として、礼を司る者として、腹を裂いて死ぬことに迷いはなかった。
ーーだが、目を閉じれば、義周の顔が浮かぶ。
まだ若く、世間の“正義”に晒されるには脆すぎる。
綱憲の文によれば、義周はすでに屋敷を離れた。
だが、外でこの騒ぎを知ったはずだ。
この先、吉良の者として生きることは、死よりもつらい道かもしれない。
「……生きるとは、過酷なことよな、義周」
深く息を吸い、刀の柄に手をかけたそのとき――
背後の襖が、音もなく開いた。
「お待ちくださいませ!」
声を上げて駆け込んできたのは、お菊だった。
髪に雪をまぶし、着物の裾を乱しながら膝をつく。
「……お菊であったか? なぜここにおる?」
義央の手が止まった。
お菊は息を整え、震える声で口を開いた。
「申し上げます。私は……赤穂浪士に内通しておりました。
討ち入りの計画を知り、手を貸した者でございます。この場で斬られても、文句は申せません」
そう言って頭を垂れるお菊に、義央はしばし目を細めた。
静かに問いかける。
「なれば――なぜ、戻ってきたのだ」
お菊は唇を噛み、わずかに震える声で応じた。
「兄も……討ち入りに加わっております。けれど、吉良家に仕えるうち、兄が言っていたことがすべてとは思えなくなりました。私は……吉良の殿様が、世の言うような悪人には思えなかったのです」
「……そうか」
義央の声は低く、しかし確かに届く。
お菊は一歩近づき、手にしていた女物の外套を取り出すと、そっと義央の肩にかけた。
その動作は慎ましくも、どこか決意を帯びていた。
「裏口まで――お連れします。私が、ご案内いたします」
義央は、その手元を静かに見下ろす。
この娘が義周と親しくしていることも、義周が彼女に心を寄せていることも、すべて知っていた。
だが、何も言わず、見守ってきた。
ふいに、呟くように問う。
「……そなた、義周に惚れておるのか?」
思いがけぬ問いに、お菊は一瞬きょとんとし、すぐに顔を紅く染める。
けれど、逃げることなく、はっきりと頷いた。
「はい。義周様を――慕っております」
義央は小さく目を伏せ、わずかに首を振った。
「……いや、つまらぬことを聞いた。許せ」
「いいえ……」
お菊は、そっと目を伏せた。
「義周様は、どなたよりも清廉で、まっすぐなお方です。
その義周様が、大切に思っておられる義央様が、世の言うような悪らつな人物だとは……私には、思えませんでした。
分かっていたのに……申し訳ございません、義央様」
義央はしばし黙したまま、お菊を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ頬を緩める。
「……いや。良い」
そのとき、寝所の外から足音が近づいた。
浪士たちの捜索は、すぐそこまで迫っている。
「……このままでは、お前まで巻き込まれる」
義央は立ち上がり、刀を腰に差す。
その声には、静かな情と決断があった。
「来い。ここを離れるぞ」
◇
裏口へ向かう途中、廊下の両側から迫る足音が聞こえた。
遠ざかろうとした矢先、前方の角にも気配がある。
お菊が身を引いて義央の袖を引こうとした、そのときだった。
「――義央さま!」
血に濡れた顔で、山吉新八郎が現れた。
額に裂傷を負い、肩から血を流しながらも、まっすぐに進み出る。
「新八郎……おまえ、生きていたか」
「はっ……奇跡的に、です」
息が荒く、声はかすれていたが、しっかりと前を見据えていた。
「義周さまから……お伝えせよと……言伝を預かっております……!」
義央が目を細める。
「言伝だと……?」
新八郎は、ふらつきながらも膝をついた。
廊下の板に血がぽたりと落ちる。
「“義周は、生きて……吉良家の“誠”を後の世に伝えます”――
そう、申しておりました……!」
その声は震え、かすれ、血にまみれながらも、確かに届いた。
義央はしばし沈黙した。
――その“誠”という一語に、すべてが込められていることを、誰よりも理解していた。
「……そうか」
低く応えると、義央は静かに目を閉じた。
瞼の裏に、まだ幼かった義周の笑顔が浮かんだ。
真っ直ぐすぎて、不器用なまでに真剣だった、あの少年の姿。
「よく、伝えてくれた。……もし、おまえが生き残ったなら――
生きる道を選んだ義周を支えてやってくれ。頼むぞ、山吉新八郎」
名を呼ばれた新八郎は、驚きに目を見開いた。
次の瞬間、涙がぽろりと零れる。
「……はっ……!」
義央は目を伏せ、背を向けた。
「――参ろう」
その声音は穏やかで、どこか遠くを見つめるようだった。
お菊が無言で頷き、彼のすぐ背後につく。
ふたりは再び裏口を目指して、廊下を静かに歩き出す。
新八郎の姿が、背後でじっと見送っている気配があった。
だが――。
わずかに角を曲がった先、微かな雪の風が吹き込むのと同時に、
その静けさを破るように、複数の足音が迫りくる。
廊下の奥からも、荒々しい足音が跳ねた。
義央はふと足を止めた。
お菊もその背に倣い、振り返らずに立ち止まる。
前方からも、わずかな気配。
背後にも、追いすがる音が迫っている。
もう、逃げ道はない。
「……どうやら、ここまでのようじゃの」
義央は一瞬だけ立ち止まり、視線を左右に巡らせた。
そして、お菊の腕を軽く引いて、縁側の障子をそっと開ける。
冷えた夜気とともに、雪が舞い込んできた。
廊下から庭へと抜け、足元を濡らす雪の上を進む。
庭の脇――炭俵や箒が並ぶ物陰に、小さな板張りの小屋が見えた。
義央はその扉に手をかけ、軋む音とともに押し開ける。
雪除けのため、冬の間に道具をしまっておくための、粗末な物置小屋だった。
「ここに隠れておれ。絶対に音を立てるな」
「殿様……!」
「命令だ。……義周のためにも、生きよ」
義央はお菊の肩に女物の衣をかける。お菊は唇を噛みしめてうなずいた。
義央は扉を静かに閉め、雪の降りしきる庭へと出た。
◇
現れた白小袖の男に、赤穂浪士たちは一瞬、動きを止めた。
その男は、まるで雪そのもののように静かに立っていた。
老いてなお背筋はまっすぐで、目には一片の曇りもなかった。
「……吉良上野介、ここに在り」
ざわつく浪士たちの列に、凛とした声が落ちる。
「そなたらの仇討ちを、“義”とは認めぬ」
低く、しかし確かに通る声だった。
「生きている今も、死んだ後も、断じて認めん。浅野内匠頭の殿中刃傷――あれに義はない。
ゆえに、その仇討ちにも、義はない」
浪士たちがたじろぎ、誰も即座に刀を振るえなかった。
その威厳に、気圧されていたのだ。
「……世はそれを理解せぬ。だが、いずれ気づく者もあろう」
ふっと笑った。
それは嘲りではなく、静かな信念の表れだった。
「その日まで――待とう。
さあ、斬れ。この儂を。首を持ってゆけ……それで、気が済むのだろう?」
吉良義央は、ゆっくりと真正面から浪士たちを見据えた。
背筋は伸び、白雪の中にあっても、その姿には一分の揺るぎもなかった。
一人の若き浪士が進み出る。
刀を握るその手は小さく震えていたが、足取りは確かだった。
「……大石内蔵助が倅、大石主税と申す。その首、しかと――頂戴仕る!」
義央はうっすらと目を細める。
「若いの……義周と、同じほどか……それより下かもしれぬな。
この仇討ち、“義”とは思わぬ。だが――」
言葉を切り、ふと空を仰ぐように目を上げた。
「……その若さに免じて、この首をくれてやろう。
さあ、来い。斬るがよい」
主税は大きく息を吸い、叫びと共に踏み込む。
その刃が、鋭く閃いた。
雪が舞い、血が奔る。
吉良義央の身体は、斬られながらも膝を折らず、最後まで立ったまま倒れた。
まるで、誇りを貫いたまま雪に沈むように。
――返り血に染まりながらも、その顔には、不思議なほど穏やかな光が残っていた。
吉良は、武士として死んだ。
誰にも膝を屈せぬまま、静かに、威厳を保って。
◆◆◆◆◆
寝所の障子越しに、かすかな雪の気配が落ちていた。
白く沈んだ夜の空気のなか、遠くで武器が交わる音と、怒号が微かに響いてくる。現のものとして、それは確かに命を奪う音だった。
義央は、すでに控えの間にいた家臣たちをすべて下がらせていた。
「ここには、誰も入れるな。よいか――」
その命に、家臣たちは頭を垂れた。主の最期を悟り、無言のまま控えの間から姿を消している。
すべては時間を稼ぐため。
切腹の覚悟を妨げぬように。
そして、義央の首が落とされたあとは、もう戦わなくてよい――そう言い残されていた。
灯を落とした室内に、義央はじっと座していた。
手元には、長年肌身離さず持ってきた短刀。
――これでよい。
すでに心は定まっていた。
吉良上野介義央は、静かに膝に手を置いたまま、目を閉じた。
そのまぶたの裏に浮かぶのは、つい数刻前――上杉家当主・綱憲から届けられた一通の手紙の文面だった。
手元に文はもうない。
誰にも見せぬよう、すぐに火にくべた。
だが、墨の一字一句が、未だに脳裏から消えぬ。
――「父上。貴殿を守る道はございませぬ。
吉良家がこれ以上、上杉家を巻き込むことがあってはなりませぬ」――
綱憲は、そう書いた。
それがわが子の決断であると、義央はすぐに悟った。
高家筆頭として積み重ねてきた家格も、将軍家の儀礼を司ってきた名も、今や、この“赤穂の火”の前には何の楯にもならぬ。
綱憲にとって、上杉家を守るためには――吉良義央を切り捨てるより他になかった。
そういう文であった。
非情。だが、理である。
義央はそれを咎める気にはなれなかった。
「……ならば、ここで果てるしかあるまい」
静かにそう呟く声には、怒りも悲しみも混ざっていなかった。
ただ、長い人生を生きてきた者の、最後の覚悟だけがにじんでいた。
脇に置かれた短刀。
いつからか、寝所には必ずそれを置くようになっていた。
覚悟など、とうの昔に決めていた。だが今、冷えた鍔に指を添える手の内に、わずかに震えが走る。
武士として、礼を司る者として、腹を裂いて死ぬことに迷いはなかった。
ーーだが、目を閉じれば、義周の顔が浮かぶ。
まだ若く、世間の“正義”に晒されるには脆すぎる。
綱憲の文によれば、義周はすでに屋敷を離れた。
だが、外でこの騒ぎを知ったはずだ。
この先、吉良の者として生きることは、死よりもつらい道かもしれない。
「……生きるとは、過酷なことよな、義周」
深く息を吸い、刀の柄に手をかけたそのとき――
背後の襖が、音もなく開いた。
「お待ちくださいませ!」
声を上げて駆け込んできたのは、お菊だった。
髪に雪をまぶし、着物の裾を乱しながら膝をつく。
「……お菊であったか? なぜここにおる?」
義央の手が止まった。
お菊は息を整え、震える声で口を開いた。
「申し上げます。私は……赤穂浪士に内通しておりました。
討ち入りの計画を知り、手を貸した者でございます。この場で斬られても、文句は申せません」
そう言って頭を垂れるお菊に、義央はしばし目を細めた。
静かに問いかける。
「なれば――なぜ、戻ってきたのだ」
お菊は唇を噛み、わずかに震える声で応じた。
「兄も……討ち入りに加わっております。けれど、吉良家に仕えるうち、兄が言っていたことがすべてとは思えなくなりました。私は……吉良の殿様が、世の言うような悪人には思えなかったのです」
「……そうか」
義央の声は低く、しかし確かに届く。
お菊は一歩近づき、手にしていた女物の外套を取り出すと、そっと義央の肩にかけた。
その動作は慎ましくも、どこか決意を帯びていた。
「裏口まで――お連れします。私が、ご案内いたします」
義央は、その手元を静かに見下ろす。
この娘が義周と親しくしていることも、義周が彼女に心を寄せていることも、すべて知っていた。
だが、何も言わず、見守ってきた。
ふいに、呟くように問う。
「……そなた、義周に惚れておるのか?」
思いがけぬ問いに、お菊は一瞬きょとんとし、すぐに顔を紅く染める。
けれど、逃げることなく、はっきりと頷いた。
「はい。義周様を――慕っております」
義央は小さく目を伏せ、わずかに首を振った。
「……いや、つまらぬことを聞いた。許せ」
「いいえ……」
お菊は、そっと目を伏せた。
「義周様は、どなたよりも清廉で、まっすぐなお方です。
その義周様が、大切に思っておられる義央様が、世の言うような悪らつな人物だとは……私には、思えませんでした。
分かっていたのに……申し訳ございません、義央様」
義央はしばし黙したまま、お菊を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ頬を緩める。
「……いや。良い」
そのとき、寝所の外から足音が近づいた。
浪士たちの捜索は、すぐそこまで迫っている。
「……このままでは、お前まで巻き込まれる」
義央は立ち上がり、刀を腰に差す。
その声には、静かな情と決断があった。
「来い。ここを離れるぞ」
◇
裏口へ向かう途中、廊下の両側から迫る足音が聞こえた。
遠ざかろうとした矢先、前方の角にも気配がある。
お菊が身を引いて義央の袖を引こうとした、そのときだった。
「――義央さま!」
血に濡れた顔で、山吉新八郎が現れた。
額に裂傷を負い、肩から血を流しながらも、まっすぐに進み出る。
「新八郎……おまえ、生きていたか」
「はっ……奇跡的に、です」
息が荒く、声はかすれていたが、しっかりと前を見据えていた。
「義周さまから……お伝えせよと……言伝を預かっております……!」
義央が目を細める。
「言伝だと……?」
新八郎は、ふらつきながらも膝をついた。
廊下の板に血がぽたりと落ちる。
「“義周は、生きて……吉良家の“誠”を後の世に伝えます”――
そう、申しておりました……!」
その声は震え、かすれ、血にまみれながらも、確かに届いた。
義央はしばし沈黙した。
――その“誠”という一語に、すべてが込められていることを、誰よりも理解していた。
「……そうか」
低く応えると、義央は静かに目を閉じた。
瞼の裏に、まだ幼かった義周の笑顔が浮かんだ。
真っ直ぐすぎて、不器用なまでに真剣だった、あの少年の姿。
「よく、伝えてくれた。……もし、おまえが生き残ったなら――
生きる道を選んだ義周を支えてやってくれ。頼むぞ、山吉新八郎」
名を呼ばれた新八郎は、驚きに目を見開いた。
次の瞬間、涙がぽろりと零れる。
「……はっ……!」
義央は目を伏せ、背を向けた。
「――参ろう」
その声音は穏やかで、どこか遠くを見つめるようだった。
お菊が無言で頷き、彼のすぐ背後につく。
ふたりは再び裏口を目指して、廊下を静かに歩き出す。
新八郎の姿が、背後でじっと見送っている気配があった。
だが――。
わずかに角を曲がった先、微かな雪の風が吹き込むのと同時に、
その静けさを破るように、複数の足音が迫りくる。
廊下の奥からも、荒々しい足音が跳ねた。
義央はふと足を止めた。
お菊もその背に倣い、振り返らずに立ち止まる。
前方からも、わずかな気配。
背後にも、追いすがる音が迫っている。
もう、逃げ道はない。
「……どうやら、ここまでのようじゃの」
義央は一瞬だけ立ち止まり、視線を左右に巡らせた。
そして、お菊の腕を軽く引いて、縁側の障子をそっと開ける。
冷えた夜気とともに、雪が舞い込んできた。
廊下から庭へと抜け、足元を濡らす雪の上を進む。
庭の脇――炭俵や箒が並ぶ物陰に、小さな板張りの小屋が見えた。
義央はその扉に手をかけ、軋む音とともに押し開ける。
雪除けのため、冬の間に道具をしまっておくための、粗末な物置小屋だった。
「ここに隠れておれ。絶対に音を立てるな」
「殿様……!」
「命令だ。……義周のためにも、生きよ」
義央はお菊の肩に女物の衣をかける。お菊は唇を噛みしめてうなずいた。
義央は扉を静かに閉め、雪の降りしきる庭へと出た。
◇
現れた白小袖の男に、赤穂浪士たちは一瞬、動きを止めた。
その男は、まるで雪そのもののように静かに立っていた。
老いてなお背筋はまっすぐで、目には一片の曇りもなかった。
「……吉良上野介、ここに在り」
ざわつく浪士たちの列に、凛とした声が落ちる。
「そなたらの仇討ちを、“義”とは認めぬ」
低く、しかし確かに通る声だった。
「生きている今も、死んだ後も、断じて認めん。浅野内匠頭の殿中刃傷――あれに義はない。
ゆえに、その仇討ちにも、義はない」
浪士たちがたじろぎ、誰も即座に刀を振るえなかった。
その威厳に、気圧されていたのだ。
「……世はそれを理解せぬ。だが、いずれ気づく者もあろう」
ふっと笑った。
それは嘲りではなく、静かな信念の表れだった。
「その日まで――待とう。
さあ、斬れ。この儂を。首を持ってゆけ……それで、気が済むのだろう?」
吉良義央は、ゆっくりと真正面から浪士たちを見据えた。
背筋は伸び、白雪の中にあっても、その姿には一分の揺るぎもなかった。
一人の若き浪士が進み出る。
刀を握るその手は小さく震えていたが、足取りは確かだった。
「……大石内蔵助が倅、大石主税と申す。その首、しかと――頂戴仕る!」
義央はうっすらと目を細める。
「若いの……義周と、同じほどか……それより下かもしれぬな。
この仇討ち、“義”とは思わぬ。だが――」
言葉を切り、ふと空を仰ぐように目を上げた。
「……その若さに免じて、この首をくれてやろう。
さあ、来い。斬るがよい」
主税は大きく息を吸い、叫びと共に踏み込む。
その刃が、鋭く閃いた。
雪が舞い、血が奔る。
吉良義央の身体は、斬られながらも膝を折らず、最後まで立ったまま倒れた。
まるで、誇りを貫いたまま雪に沈むように。
――返り血に染まりながらも、その顔には、不思議なほど穏やかな光が残っていた。
吉良は、武士として死んだ。
誰にも膝を屈せぬまま、静かに、威厳を保って。
◆◆◆◆◆
5
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~
四谷軒
歴史・時代
【あらすじ】
美濃の戦国大名、斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)は、隣国尾張の織田信長に嫁ぐことになった。信長の父・信秀、信長の傅役(もりやく)・平手政秀など、さまざまな人々と出会い、別れ……やがて信長と帰蝶は尾張の国盗りに成功する。しかし、道三は嫡男の義龍に殺され、義龍は「一色」と称して、織田の敵に回る。一方、三河の方からは、駿河の国主・今川義元が、大軍を率いて尾張へと向かって来ていた……。
【登場人物】
帰蝶(きちょう):美濃の戦国大名、斎藤道三の娘。通称、濃姫(のうひめ)。
織田信長:尾張の戦国大名。父・信秀の跡を継いで、尾張を制した。通称、三郎(さぶろう)。
斎藤道三:下剋上(げこくじょう)により美濃の国主にのし上がった男。俗名、利政。
一色義龍:道三の息子。帰蝶の兄。道三を倒して、美濃の国主になる。幕府から、名門「一色家」を名乗る許しを得る。
今川義元:駿河の戦国大名。名門「今川家」の当主であるが、国盗りによって駿河の国主となり、「海道一の弓取り」の異名を持つ。
斯波義銀(しばよしかね):尾張の国主の家系、名門「斯波家」の当主。ただし、実力はなく、形だけの国主として、信長が「臣従」している。
【参考資料】
「国盗り物語」 司馬遼太郎 新潮社
「地図と読む 現代語訳 信長公記」 太田 牛一 (著) 中川太古 (翻訳) KADOKAWA
東浦町観光協会ホームページ
Wikipedia
【表紙画像】
歌川豊宣, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる