【完結】兄弟愛ー吉良上野介の孫二人ー異聞ー

月歌(ツキウタ)

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本編

第八十八話 吉良上野介の最期

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◆◆◆◆◆


寝所の障子越しに、かすかな雪の気配が落ちていた。
白く沈んだ夜の空気のなか、遠くで武器が交わる音と、怒号が微かに響いてくる。現のものとして、それは確かに命を奪う音だった。

義央は、すでに控えの間にいた家臣たちをすべて下がらせていた。
「ここには、誰も入れるな。よいか――」
その命に、家臣たちは頭を垂れた。主の最期を悟り、無言のまま控えの間から姿を消している。

すべては時間を稼ぐため。
切腹の覚悟を妨げぬように。
そして、義央の首が落とされたあとは、もう戦わなくてよい――そう言い残されていた。

灯を落とした室内に、義央はじっと座していた。
手元には、長年肌身離さず持ってきた短刀。

――これでよい。
すでに心は定まっていた。

吉良上野介義央は、静かに膝に手を置いたまま、目を閉じた。
そのまぶたの裏に浮かぶのは、つい数刻前――上杉家当主・綱憲から届けられた一通の手紙の文面だった。

手元に文はもうない。
誰にも見せぬよう、すぐに火にくべた。
だが、墨の一字一句が、未だに脳裏から消えぬ。

――「父上。貴殿を守る道はございませぬ。
 吉良家がこれ以上、上杉家を巻き込むことがあってはなりませぬ」――

綱憲は、そう書いた。

それがわが子の決断であると、義央はすぐに悟った。

高家筆頭として積み重ねてきた家格も、将軍家の儀礼を司ってきた名も、今や、この“赤穂の火”の前には何の楯にもならぬ。

綱憲にとって、上杉家を守るためには――吉良義央を切り捨てるより他になかった。

そういう文であった。

非情。だが、理である。
義央はそれを咎める気にはなれなかった。

「……ならば、ここで果てるしかあるまい」

静かにそう呟く声には、怒りも悲しみも混ざっていなかった。
ただ、長い人生を生きてきた者の、最後の覚悟だけがにじんでいた。

脇に置かれた短刀。

いつからか、寝所には必ずそれを置くようになっていた。

覚悟など、とうの昔に決めていた。だが今、冷えた鍔に指を添える手の内に、わずかに震えが走る。

武士として、礼を司る者として、腹を裂いて死ぬことに迷いはなかった。

ーーだが、目を閉じれば、義周の顔が浮かぶ。

まだ若く、世間の“正義”に晒されるには脆すぎる。

綱憲の文によれば、義周はすでに屋敷を離れた。
だが、外でこの騒ぎを知ったはずだ。
この先、吉良の者として生きることは、死よりもつらい道かもしれない。

「……生きるとは、過酷なことよな、義周」

深く息を吸い、刀の柄に手をかけたそのとき――
背後の襖が、音もなく開いた。

「お待ちくださいませ!」

声を上げて駆け込んできたのは、お菊だった。
髪に雪をまぶし、着物の裾を乱しながら膝をつく。

「……お菊であったか? なぜここにおる?」

義央の手が止まった。
お菊は息を整え、震える声で口を開いた。

「申し上げます。私は……赤穂浪士に内通しておりました。
討ち入りの計画を知り、手を貸した者でございます。この場で斬られても、文句は申せません」

そう言って頭を垂れるお菊に、義央はしばし目を細めた。
静かに問いかける。

「なれば――なぜ、戻ってきたのだ」

お菊は唇を噛み、わずかに震える声で応じた。

「兄も……討ち入りに加わっております。けれど、吉良家に仕えるうち、兄が言っていたことがすべてとは思えなくなりました。私は……吉良の殿様が、世の言うような悪人には思えなかったのです」

「……そうか」

義央の声は低く、しかし確かに届く。

お菊は一歩近づき、手にしていた女物の外套を取り出すと、そっと義央の肩にかけた。
その動作は慎ましくも、どこか決意を帯びていた。

「裏口まで――お連れします。私が、ご案内いたします」

義央は、その手元を静かに見下ろす。
この娘が義周と親しくしていることも、義周が彼女に心を寄せていることも、すべて知っていた。
だが、何も言わず、見守ってきた。

ふいに、呟くように問う。

「……そなた、義周に惚れておるのか?」

思いがけぬ問いに、お菊は一瞬きょとんとし、すぐに顔を紅く染める。
けれど、逃げることなく、はっきりと頷いた。

「はい。義周様を――慕っております」

義央は小さく目を伏せ、わずかに首を振った。

「……いや、つまらぬことを聞いた。許せ」

「いいえ……」

お菊は、そっと目を伏せた。

「義周様は、どなたよりも清廉で、まっすぐなお方です。
その義周様が、大切に思っておられる義央様が、世の言うような悪らつな人物だとは……私には、思えませんでした。
分かっていたのに……申し訳ございません、義央様」

義央はしばし黙したまま、お菊を見つめていた。
やがて、ほんの少しだけ頬を緩める。

「……いや。良い」


そのとき、寝所の外から足音が近づいた。
浪士たちの捜索は、すぐそこまで迫っている。

「……このままでは、お前まで巻き込まれる」

義央は立ち上がり、刀を腰に差す。
その声には、静かな情と決断があった。

「来い。ここを離れるぞ」



裏口へ向かう途中、廊下の両側から迫る足音が聞こえた。
遠ざかろうとした矢先、前方の角にも気配がある。

お菊が身を引いて義央の袖を引こうとした、そのときだった。

「――義央さま!」

血に濡れた顔で、山吉新八郎が現れた。
額に裂傷を負い、肩から血を流しながらも、まっすぐに進み出る。

「新八郎……おまえ、生きていたか」

「はっ……奇跡的に、です」

息が荒く、声はかすれていたが、しっかりと前を見据えていた。

「義周さまから……お伝えせよと……言伝を預かっております……!」

義央が目を細める。

「言伝だと……?」

新八郎は、ふらつきながらも膝をついた。
廊下の板に血がぽたりと落ちる。

「“義周は、生きて……吉良家の“誠”を後の世に伝えます”――
そう、申しておりました……!」

その声は震え、かすれ、血にまみれながらも、確かに届いた。

義央はしばし沈黙した。
――その“誠”という一語に、すべてが込められていることを、誰よりも理解していた。

「……そうか」

低く応えると、義央は静かに目を閉じた。
瞼の裏に、まだ幼かった義周の笑顔が浮かんだ。
真っ直ぐすぎて、不器用なまでに真剣だった、あの少年の姿。

「よく、伝えてくれた。……もし、おまえが生き残ったなら――
生きる道を選んだ義周を支えてやってくれ。頼むぞ、山吉新八郎」

名を呼ばれた新八郎は、驚きに目を見開いた。
次の瞬間、涙がぽろりと零れる。

「……はっ……!」

義央は目を伏せ、背を向けた。

「――参ろう」

その声音は穏やかで、どこか遠くを見つめるようだった。
お菊が無言で頷き、彼のすぐ背後につく。

ふたりは再び裏口を目指して、廊下を静かに歩き出す。
新八郎の姿が、背後でじっと見送っている気配があった。

だが――。

わずかに角を曲がった先、微かな雪の風が吹き込むのと同時に、
その静けさを破るように、複数の足音が迫りくる。

廊下の奥からも、荒々しい足音が跳ねた。

義央はふと足を止めた。
お菊もその背に倣い、振り返らずに立ち止まる。

前方からも、わずかな気配。
背後にも、追いすがる音が迫っている。

もう、逃げ道はない。

「……どうやら、ここまでのようじゃの」

義央は一瞬だけ立ち止まり、視線を左右に巡らせた。
そして、お菊の腕を軽く引いて、縁側の障子をそっと開ける。

冷えた夜気とともに、雪が舞い込んできた。
廊下から庭へと抜け、足元を濡らす雪の上を進む。
庭の脇――炭俵や箒が並ぶ物陰に、小さな板張りの小屋が見えた。

義央はその扉に手をかけ、軋む音とともに押し開ける。

雪除けのため、冬の間に道具をしまっておくための、粗末な物置小屋だった。

「ここに隠れておれ。絶対に音を立てるな」

「殿様……!」

「命令だ。……義周のためにも、生きよ」

義央はお菊の肩に女物の衣をかける。お菊は唇を噛みしめてうなずいた。

義央は扉を静かに閉め、雪の降りしきる庭へと出た。



現れた白小袖の男に、赤穂浪士たちは一瞬、動きを止めた。

その男は、まるで雪そのもののように静かに立っていた。
老いてなお背筋はまっすぐで、目には一片の曇りもなかった。

「……吉良上野介、ここに在り」

ざわつく浪士たちの列に、凛とした声が落ちる。

「そなたらの仇討ちを、“義”とは認めぬ」

低く、しかし確かに通る声だった。

「生きている今も、死んだ後も、断じて認めん。浅野内匠頭の殿中刃傷――あれに義はない。
ゆえに、その仇討ちにも、義はない」

浪士たちがたじろぎ、誰も即座に刀を振るえなかった。
その威厳に、気圧されていたのだ。

「……世はそれを理解せぬ。だが、いずれ気づく者もあろう」

ふっと笑った。
それは嘲りではなく、静かな信念の表れだった。

「その日まで――待とう。
さあ、斬れ。この儂を。首を持ってゆけ……それで、気が済むのだろう?」

吉良義央は、ゆっくりと真正面から浪士たちを見据えた。
背筋は伸び、白雪の中にあっても、その姿には一分の揺るぎもなかった。

一人の若き浪士が進み出る。
刀を握るその手は小さく震えていたが、足取りは確かだった。

「……大石内蔵助が倅、大石主税と申す。その首、しかと――頂戴仕る!」

義央はうっすらと目を細める。

「若いの……義周と、同じほどか……それより下かもしれぬな。
この仇討ち、“義”とは思わぬ。だが――」

言葉を切り、ふと空を仰ぐように目を上げた。

「……その若さに免じて、この首をくれてやろう。
さあ、来い。斬るがよい」

主税は大きく息を吸い、叫びと共に踏み込む。
その刃が、鋭く閃いた。

雪が舞い、血が奔る。
吉良義央の身体は、斬られながらも膝を折らず、最後まで立ったまま倒れた。
まるで、誇りを貫いたまま雪に沈むように。

――返り血に染まりながらも、その顔には、不思議なほど穏やかな光が残っていた。

吉良は、武士として死んだ。
誰にも膝を屈せぬまま、静かに、威厳を保って。


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