片恋スウィートギミック

綾瀬麻結

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1巻

1-1

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   一


 会社の窓から望む空は、いつ雨が降り出してもおかしくないほどの鉛色なまりいろの雲で覆われている。
 七月に入ったとはいえ、今年の梅雨つゆ明けはまだ先になりそうだ。それはつまり、もうしばらくじめじめする湿気と付き合わなければならないということ。
 どんよりした鈍色にびいろを目にするだけで、やる気がどんどんせていく。

「……はあ」

 今年三十歳になる鳴海なるみ優花ゆかは、セミロングの髪をでながら小さく息をつき、パソコン画面に視線を戻した。仕事に集中しなければと思うのに、目がチカチカし、作業が進まない。
 これでは、絶対に入力ミスをしてしまう。
 退社時間が迫っているのもあり、優花は区切りのいいところで手を止めた。そして蛍光けいこうピンクの付箋ふせん紙を取り出し、〝経費書類、至急〟と書き入れる。外回りに出ている社員のデスクへ行き、それをパソコン画面に貼り付けて回った。
 優花は、中小企業の広告宣伝を請け負う、広報戦略会社で働いている。社長は元々大手広告代理店に勤めていたが、自社商品の宣伝に苦戦する会社の助けがしたいと独立し、この会社を設立した。
 社員は、社長を含めてわずか十人。女性は四十代の川上かわかみの他には優花しかおらず、この二人で事務をになっている。少人数で仕事を回すのはとても大変だが、優花は社員同士が手をたずさえて支え合うこの会社が大好きだった。

「あっ、俺も請求し忘れてた……」

 優花が付箋紙を貼る姿に目を留めた社員の一人が、顔を上げる。

「なるべく早く出してくださいね」

 そう言いながら、優花は目の下にうっすらとクマを作る彼の顔を見た。今取り掛かっている仕事が忙しいのだろう。難しい顔をしつつも、クライアントにとって何が一番いい方法なのかと、資料とにらめっこしている。
 定時で上がる優花や川上と違い、広報の仕事をする彼らにすれば、就業時間はあってないようなもの。もし今日も残業する様子なら、退社前にコーヒーをれてあげよう。
 仕事中の他の社員たちの分も――と、優花が自分のデスクへ戻ろうとしたその時だった。

「なんだって!?」

 突然、社長が大声を上げた。社内に響き渡るその声に、優花は部屋のすみしつらえられた社長のデスクに目をやる。社長は顔を青ざめさせて、携帯から聞こえる相手の声に耳を傾けていた。

「それで、容態は! ……うむ、……そう、か。……良かった」

 張り詰めていた社長の頬が、ふっと緩む。そして、少し離れた位置にいる優花にも聞こえるほどの安堵の息をこぼした。とはいえ、その目にはまだ何かを心配するような光が宿っている。
 しばらく会話を続けたあと、社長は携帯をデスクに置いて顔を上げた。

「皆、聞いてくれ」

 社長の声に、社内にいる社員全員が彼のデスクに集まる。

「たった今、専務から連絡が入った。彼と一緒にクライアントのもとへ行っていた三井みついが、交通事故に遭ったらしい」

 告げられた内容に、皆息を呑む。社長の次の言葉を待ち、誰も声を発しない。社長は小さく頷き「三井の命に、別状はない」と続けた。

「良かった……」

 社員皆が胸をで下ろす。優花も、隣に立つ川上と安堵の笑みをわした。

「だが、足を骨折したそうだ。折れた箇所が悪く、手術後のリハビリに時間がかかるらしい。そこは主治医との話になるから、今はまだ何も言えないんだが……」

 社長は一旦口を閉じ、目を泳がせる。でもすぐに咳払いを一つし、社員を見回した。

「皆も知ってのとおり、三井が受け持っている仕事はかなりある。現在進行形のものもあれば、これから契約を詰める予定のものもある。君たちも、今請け負っている仕事で手一杯だと思うが、三井が復帰するまでの間、彼の仕事を振り分けさせてほしい」
「当然ですよ、社長。社員は家族同然。困っている時はお互いさまです。俺たちで、なんとか乗り切りましょう!」

 四十代の主任が、すぐに答える。そして彼に賛同する社員たちが、次々に「頑張ります!」と声を上げた。

「ありがとう。ではまず、三井のスケジュールを確認しよう。デスクに置いてある予定表を持ってきてくれ」

 社長の言葉に、一番の若手社員が反応する。ファイルを手にすると取って返し、男性社員たちで話し合いを始めた。

「あたしたちは、これまで以上に、彼らをサポートしなきゃね」

 先輩の川上に言われて、優花は力強く頷いた。
 事務員の優花たちは、広報の仕事に関しては素人しろうとで、まったく役に立てない。その代わり、仲間たちが会社へ戻ってきた時に、ホッと肩の力が抜ける場所を整えよう。領収書などの提出が遅れても、大目にみればいい。仕事が増えた分は、先輩と分け合えばなんとかなる。
 彼らの負担を減らすには、自分たちも頑張らなければ!

「とは言っても、あたしたちが今できることってないね。とりあえず、皆にお茶でもれようか」
「そうですね。わたしも手伝います」

 優花は、川上と一緒に給湯室へ向かおうとする。だが、一歩足を踏み出したところで「鳴海!」と呼び止められた。振り返ると、そこにいる全員の目が優花にそそがれていた。

「あ、あの……わたし、ですか?」
「そう、お前」

 呼ばれたら早くこっちへ来いと言わんばかりに、主任が優花に手招きする。

「お茶はあたしが淹れるから、鳴海さんはいってらっしゃい」

 川上に背を押され、優花は社長たちの方へ歩き出す。ただ、いったい何の用事で呼ばれているのか見当がつかないせいで足取りが重くなる。

「な、な、なんでしょうか」

 逃げ出したい衝動に駆られるが、必死にこらえてたずねた。

「社長、どうでしょう。鳴海は事務職ですが、常識と非常識の区別はつく大人です。彼女はもう三十歳ですし――」
「まだ二十九歳です!」

 優花は思わず主任の言葉をさえぎり、年齢を訂正してしまう。ハッとした時は遅く、男性社員たちがくすくすと声をこぼした。その笑いに、優花の頬がみるみる熱くなる。たまらず手の甲で口を覆い、羞恥しゅうちを隠す。

「女性にとって、年齢は禁句なんです。デリケートなんです! それぐらい察してください」
「と、思ったことをすぐに口に出してしまう、年齢のわりにいささか子どもっぽいところもある鳴海ですが、その気概は買ってもいいと思います。それに――」
「しゅ、主任!」

 優花の抗議を主任は一笑に付す。
 自分の評価を社員たちの前で言い続けるのは勘弁してほしい。優花は止めようとするが、主任は優花を無視し、社長に真摯しんしな目を向ける。

「意外と時間の融通ゆうずうくでしょう。またイベントの件ですが、私を含めた他の社員は、別件で既に埋まっています。川上さんには小さなお子さんがいるので、さすがに難しい。からだが空いているのは鳴海しかいません。彼女に任せてみてもいいと思うんですが、どうでしょうか」

 時間の融通が利くって何? 仕事を任せる? それって……わたしにですか!? ――と声を上げたいのに、場の雰囲気がそうさせない。社長と主任は真面目な顔つきをし、他の社員たちは上司の邪魔にならないよう誰も口を挟もうとしないからだ。
 何がどうなっているのか、まったく状況を把握できず、優花一人だけがおろおろしていたその時、急に雨が降り始めた。雨脚はだんだん強くなり、窓に叩きつけるしずくが滝のように流れ落ちていく。
 優花の不安を掻き立てるその天気に、ぶるっと身震いが起きたまさに瞬間。

「よし、鳴海に任せよう!」

 ずっと口を閉じていた社長が声を上げた。

「な、何を任せるって言うんですか?」

 優花の口から、泣き声に似た声が漏れた。嫌な予感に、たまらず主任の袖をきつく引っ張る。しかし彼は営業スマイルを顔に張り付けて、意味ありげに優花を見つめた。

「何って……仕事に決まってるだろ? 社員が大変な時、俺たちが助け合うのは当然だ。鳴海にも、三井が受け持っていた仕事を振り分けさせてもらう」

 振り分ける? 事務職の経験しかないのに、広報の仕事を!?

「む、無理です! 皆さん、ご存知ですよね? わたしが事務員だというのを。それなのに、いきなり他の仕事をできるはずありません! しかも、三井さんの仕事なんて……。スケジュールの調整など、そういう内容なら頑張りますから」
「その点は大丈夫。広報の仕事とは言っても、新しい契約を取ってこいと言ってるんじゃない。鳴海にしてほしいのは、番組内容のチェックだけだ」
「……はい?」
「誰か、三井のデスクにある概要ファイルを持ってきてくれ。鳴海に回す仕事の分だけで構わない」

 主任の声は耳に入ってくる。だが優花は、その内容を上手く把握できないでいた。
 優花は大学卒業後、一度郷里に戻り仕事にいた。しかし数年後東京へ出てきて、この会社に就職した。この会社では、川上が取引関係の書類を、優花が経理関係を主に受け持っている。
 そんな優花に、広報の最前線で頑張る男性社員と肩を並べる仕事ができるわけがない。

「主任、わたしには無理――」
「はい、これ」

 ファイリングされた資料を、主任が優花の手に押し付ける。優花は咄嗟とっさにそれを受け取るものの、ハッとなって顔を上げた。彼は優花と目が合うなり、両手を背後に回して知らん顔をする。

「うちのクライアントが、ラジオ番組のスポンサーになった。七月から九月までのワンクールと短いが、夏にイベントが開催されることで、充分そこで自社製品の宣伝ができると踏んだためだ。鳴海には収録現場へおもむき、クライアントに代わって番組内容をチェックしてもらいたい」

 途端、優花の胸に痛みが走った。主任の発した〝ラジオ〟という言葉に、過剰に反応してしまったせいだ。
 心の奥に封印したはずの昔の記憶が、沸々ふつふつよみがえってくる。
 優花は過去の記憶を振り払い、主任を仰ぎ見た。

「ちょっと待ってください。番組内容を確認するだけなら、録音したデータをもらって、会社で確認すればいいんじゃないですか?」

 なんとかその仕事から逃げたくて、優花は食い下がる。だが主任は、優花の言葉を一蹴いっしゅうした。

「何、ふざけたことを言ってるんだ。我々は、クライアントの不利益になるような真似まねは決してしてはならない。現場に居れば、間違った情報はすぐに訂正してもらえるだろ? だから鳴海は、毎回収録現場に行ってチェックしろ。わかったか」
「……はい」

 そう言われたら、もうぐうのも出ない。優花は仕事を引き受ける旨を告げた。
 新規の契約を取ってこいと言われなかっただけでも良しとしよう。それに、優花が集中すればいいのは番組内容のみ。それほど不安になる必要もない。

「よし、決まりだ。それでは、早速行ってくれ」

 優花の手首をつかんで歩き出す主任。そんな彼に引っ張られて足を動かしつつ、彼の背に問いかける。

「早速、行く? あの、それって、どういう意味――」

 主任は優花のデスク前で止まり、引き出しからバッグを出すよううながす。

「主任?」
「こちらの事情で担当者が変わる旨は、俺が先方に連絡しておく。鳴海は、すぐに出発してくれ。実は、スポンサー権を取得した番組の収録が……十九時から始まるんだ。しかも、今回の収録は東京ではなく特別に横浜のスタジオで行われる」

 優花は壁掛け時計に目をやる。針は十七時十分を指していた。会社から駅まで歩く距離、乗車時間と乗り換え時間などを簡単に頭の中で計算する。

「ギリギリじゃないですか!」

 状況を把握していくうちに、優花の中で焦りが生じる。初対面の人と上手く仕事ができるかわからない不安も重なり、徐々に涙目になってきた。
 優花はバッグを取り出し、そこに渡された仕事のファイルを突っ込む。そんな優花の隣で、主任が気持ち悪いほどの笑みを浮かべて親指を立てた。

「大丈夫、鳴海なら時間までに辿り着けるさ」

 優花は主任をにらみ付けたが、主任の後ろにいた社長や他の社員が笑顔で手を振る。

「鳴海、お前なら必ずできる! それは、お前でもできる仕事だ!」
「……行ってきます!」

 投げやりに言うと、主任が「タクシーには乗るなよ。経費節減中だ」と一言。

「わかってます!」

 もう、どうとでもなれ!
 そんな気持ちを抱きながら、優花は会社を出た。外は大雨と吹き荒れる風のせいで、木々の枝が左右に大きく揺れている。まるで、優花の心を映し出しているかのようだった。


 雨の中、優花は最寄り駅まで歩き、電車に乗った。帰宅ラッシュに引っ掛かって少し乗り換えに時間を要したが、これなら収録が始まる前には現場に到着できるだろう。
 移動時間を利用し、優花は主任から受け取った資料に目を通す。
 ラジオ番組のスポンサーになったクライアントは、タオル工場をいとなむ小さな会社だ。夏のイベントで販売される番組グッズ制作に参加できるため、スポンサーになることを決めたようだ。
 そこに書いてあるとおり、契約を結んでいる間は、番組はスポンサーにとってマイナスになる発言はできない。それを確認するのは、事務経験しかない優花にもできる。主任が優花を〝常識と非常識の区別はつく大人〟と評したのは、この仕事を任せても大丈夫という意味だろう。
 次に、新ラジオ番組〝キミドキッ!〟の概要を確認する。特に決まった内容を話すのではなく、パーソナリティが情勢に合ったトークを毎週繰り広げていくというものだった。さらに、内容次第でゲストを呼び、視聴者の知らないドキッとする話題も届けるらしい。
 パーソナリティは、東京のラジオ放送局で活躍するベテランアナウンサー。場数を踏んでいるアナウンサーなら、こちらが心配しなくても上手く回してくれるはず。すべてマイク前に座る彼に任せていればいい。三ヶ月なんてあっという間だ。

「……うん、大丈夫」

 自分にそう言い聞かせると、優花は資料をバッグに入れ、自分の私服姿に目をやった。レース地のキャミソール、胸元が開いたオーガンジー素材のチュニック、膝頭の見えるスカート、そしてハイヒールと、順番に見下ろす。
 これといっておかしなところはない。ただ今日だけは、スーツを着てくれば良かったと思わずにはいられなかった。普通に、女性の通勤時に見られる姿ではあるが、今日初めて現場の人と会う恰好ではないのが、優花でもわかる。
 どこかで店に寄り、安いスーツを買った方がいいだろうか。
 その考えにかれないでもないが、即却下する。寄り道をすれば絶対に遅刻してしまう。それだけは絶対に避けなければならない。とどのつまり、この服装で行くしかないというわけだ。
 がっくり肩を落として小さくため息をいた時、横浜駅到着のアナウンスが車内に流れた。優花は席を立つと、急いでホームに降りた。続いて乗り換えホームへ行き、電車に乗る。
 数分後、改札を出た優花は、早足に目的地のビルを目指す。だが雨脚は強く、ビルに入った時は足元がびしょ濡れだった。
 これで人に会うのは恥ずかしいが、収録時間前に到着する方が大事だと自分に言い聞かせ、急いで受付へ向かう。受付嬢に目的を告げて入室に必要なカードキーをもらい、エレベーターに乗った。
 上昇する間、優花は雨で濡れた肌をハンカチでぬぐい、湿気でふくらんだ髪を手櫛てぐしで落ち着かせようと努力する。だがすぐにエレベーターは到着し、扉が左右に開いた。
 ああ、遅かった――と肩を落として嘆息しつつ、ゆっくりエレベーターホールに出た。

「鳴海さんですか?」

 その声に顔を上げる。ネームプレートを首に掛けた若い男性が、優花を目にするなりそばへ走り寄ってきた。

「はい、そうです!」
「お世話になります、私〝キミドキッ!〟スタッフの小林こばやしと言います」
「鳴海優花と申します。三井に代わって、担当させていただきます。現場に不慣れなせいで、いろいろとご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 優花は緊張を隠せないまま挨拶あいさつする。それを感じ取ったのか、小林は優花の強張こわばりを解くように頬を緩めた。

「こちらこそよろしくお願いします。収録スタジオへご案内しますね」

 小林が廊下の奥を指す。優花は、彼にうながされるまま一緒に歩き出した。

「三井さんのことですが、大変でしたね。御社からご連絡をいただいた時は、我々スタッフも驚きましたよ。……三井さんのお怪我けが、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。ただ残念ながら、しばらく入院生活が続くようでして……。現場に入れず、本当に申し訳ございません。三井の代わりとしてわたしも尽力しますので、何かあればどんどんおっしゃってください」
「そういう意気込みは、こちらとしても本当に有り難いです! 一緒にいい番組を作り上げていきましょうね。……あっ、ここがコントロールルームです」

 小林がドアの前で立ち止まり、カードキーを指定場所に接触させる。そして扉を押し開き、「どうぞ」と優花を室内へ促す。

「三井さんと代わられた、新しい担当の方が到着されました」
「失礼します!」

 優花は頭を下げて、音響設備の整った部屋に入る。

「初めまして。前担当者の三井と代わることになりました、鳴海優花と申します。どうぞよろしくお願い――」

 相手にいい印象を持ってもらおうと元気良く挨拶したまではいいが、そこにいるスタッフの一人を意識した途端、優花の声は小さくなり、最後には言葉が途切れてしまった。

「……な、んで?」

 あまりのショックに、優花の営業スマイルが静かに解けていき、の自分が現れる。そして、顔は強張り、唇はかすかに震え始めた。
 仕事で人と接することに慣れていれば、すぐに表情を取りつくろえたかもしれない。何事もなかったかのように誤魔化せたかもしれない。だが優花には、それは無理だった。
 音響スタッフの隣に座る、黒色のチノパン、白いシャツ、その上に薄手のジャケットを羽織った男性から目をらせない。
 ゆるやかに波打つマッシュウルフカット、優しげな目元、黒々とした綺麗な双眸そうぼう、真っすぐな鼻梁びりょう、そして薄いが柔らかそうな唇。記憶にある面影おもかげを少し残しつつ、大人の魅力あふれる男性へと変貌を遂げたその姿に、優花が必死に押し隠してきた感情が動き始める。
 男性もまた、驚愕きょうがくに満ちた目で優花を仰ぎ見ていた。だが、先に我に返った彼が立ち上がり、優花の方へ近づいてくる。

「ど、どうして……」

 か細く震える優花の声は、シーンと静まり返るコントロールルームに響く。それを掻き消すほどの声量で、彼が「鳴海!」と自分の名前を呼んだ。記憶の奥深い部分にある懐かしいバリトンの声。それを耳にした瞬間、優花の心臓が高鳴った。

「まさか、こんなところで鳴海に会えるなんて思ってもみなかった!」

 やにわに彼が両手を差し出し、親しげに優花の冷たい手をつかんだ。予想外の出来事に自分を律することができず、優花のからだがビクッとなる。
 優花は現実に向き合いたくないとばかりにまぶたを閉じるが、無理だった。冷たい手から伝わる彼の体温、記憶に残る声音に心を揺さぶられる。
 逃げるのは不可能だと観念した優花は、ゆっくり目を開けた。

「た、小鳥遊たかなし……くん」
「そう、俺だよ。良かった……俺のこと、覚えてくれてたんだね」

 小鳥遊は甘くかすれた声で言い、嬉しそうに微笑んだ。彼の態度は普通なのに、すべてに翻弄ほんろうされる。くすぐったいようなうずきが、雨で冷え切った躯の芯を駆け巡っていった。
 大学を卒業して八年。その間、小鳥遊とは一度も会っていないのに、当時彼に抱いていた熱い想いがほんの数秒でよみがえった。同時に、彼との苦い思い出が、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏のうりに浮かぶ。
 会いたかった、でも会いたくなかった小鳥遊との再会に、優花の胸の奥で困惑と歓喜が渦巻うずまき始める。
 早く、小鳥遊くんの手を振りほどきなさいよ! ――と内なる声がささやく。なのに手足がしびれたように震えて力が入らない。
 優花は小鳥遊をこばめないまま、その場にたたずむほかなかった。



   二


「実は鳴海とは、大学の同窓生なんです。しかも、同じサークルに入ってたんですよ」

 小鳥遊が番組スタッフに告げたのは、ほんの数分前のこと。さらに、当時はとても親しくしていたと続けたため、スタッフたちの間に走っていた緊張が心なしかやわらいだ。
 それもそうだろう。いきなり親しげに握手すれば、誰だって何事かと思う。そして、小鳥遊の言葉に対し優花の反応が鈍かったせいで、二人の間に何かあったと勘ぐられてしまったようだ。
 大人の対応を取れなかった優花が、全面的に悪い。それは理解している。でもこの状況にどう反応すればいいのかわからず、結果、優花は口籠くちごもるしかできなかった。
 パーソナリティの変更など資料に書かれていなかったのに。しかも、それが小鳥遊だなんて……

「あの……ご存知のように、今回の新番組ですけど、まずはワンクールでという話なんです。でもパーソナリティが若い小鳥遊になったこともあって、俺たちは長く続く番組にしたいと考えていて……。最初の一ヶ月が勝負だと思っているので……その、頑張りますね!」

 収録準備で小鳥遊が構成作家とラジオブースに入るなり、スタッフの小林が気をかせて優花に話しかけてくる。優花はまだ落ち着きを取り戻せていないが、なんとか頬を緩めて彼に頷いた。

「はい……。わたしも、応援しています」
「スタンバイお願いします」

 音響スタッフの言葉に、小鳥遊が頷く。

「はい、いきます。五、四、――」

 ラジオ収録開始の合図が出され、番組のテーマとなるリズミカルな曲が流れた。コントロールルームにいるスタッフの緊張が高まる。それに対し、ラジオブースにいる小鳥遊は目を閉じ、まるで始まるその瞬間が楽しみでならないとばかりに口元をほころばせていた。
 初めて見る小鳥遊の仕事風景に、目が釘付けになる。優花が息を詰めて彼を見つめていた時、彼がカッと目を見開いた。そこにふざけた色は一切ない。意志の強そうな光を宿し、彼はマイク横にあるレバーを動かした。

「小鳥遊が触っているあのレバーは、カフキーと言って、自分でマイクのスイッチを切り替えるものなんです」

 優花は小林の説明に頷きながら、生き生きした表情をする小鳥遊をじっと見つめた。

「こんばんは! 新番組〝キミドキッ!〟が今夜から始まりました! パーソナリティの小鳥遊あきらです。第一回ということで、実はまだ手探り状態なんですよね。でも、リスナーの皆さんにドキッとしてもらえるような情報をお届けするとともに、ゲストもお呼びして、これまで知られていなかった新たな部分を掘り起こしていこうと思っています。番組のトップバッターを飾ってくれるゲストの発表は、番組後半で! どうぞ楽しみにしていてくださいね」

 小鳥遊は一度手元に置いてある原稿に目を落とし、ストップウォッチをちらっと見る。

「ところで、実は今、とてもドキドキしてるんです! もしかして〝番組スタッフの仕業しわざ? 初回というのもあって、俺を驚かそうとした!?〟って思ってしまうぐらいに」

 くすくすと声をこぼした小鳥遊が、正面に座る構成作家ににやりとする。構成作家は何もしていないと首を横に振り、顔の前で手を交差した。

「あれ? 構成作家が意味不明のバツ印を作ってるけど、それって言うなってこと? 知らないってこと? でも俺……とてもテンションが高いんで暴露しますね! 今、向こう側のブースには番組スタッフが数人いるんですけど、他にもう一人、仕事で来ている人がいるんです。その人はなんと、俺の大学時代の同窓生! 八年ぶりの再会です! ずっと音信不通だったんですよ。正直、奇跡としか思えない……」

 そう言って、小鳥遊がコントロールルームにいる優花を見る。二人の視線がぶつかるや否や、彼はこちらが照れてしまうほどさわやかに微笑んだ。

「うわっ、小鳥遊さんって、あんな風に笑えるんだ。鳴海さんに会えて喜んでるのが、こっちにまで伝わってくるよ」

 優花は心の中で〝それは違う〟と頭を振る。
 小鳥遊がああいう笑顔を見せるのは、自分にではない。相手をとろけさせる笑みは、いつも優花の隣にいた女性に向けられていた。
 男性の熱い視線を一身に浴びる、モデルのような美人の友人に……
 その友人との距離を縮めたいがために、優花は小鳥遊に利用されていた。なのに、どうして当時と変わらない、にこやかな表情で優花を見るのだろう。

「リスナーの皆さんの中で、最近ドキッとした話などがありましたら、是非番組までメールをお送りください。お待ちしてます」

 複雑な思いに、胸の奥を掻きむしりたくなる。その一方で、小鳥遊のバリトンの声に、封印し続けた感情が呼び起こされて、そこが熱くなっていく。優花は、小鳥遊を見つめながら、遠い昔の記憶に思いをせていた。


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