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第二章

紫陽花2

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 まずはウォーミングアップに、複数の紫陽花を撮る。生垣のように並んだ紫陽花で構図を作った。手前から奥へ、そしてその先に続く道を意識しながら。
 雨上がりの遊歩道は湿り気が残っていて、しっとりとした印象。空に視線を移すと、どんよりとした分厚い雲ではなくてむしろ薄明るい。紫陽花撮影に適した環境だ。
「僕、ちょっと飲み物を買ってきますね」
「ありがとう。お願い」
 俺は身につけているボディバッグから財布を取り出し、ゲンキくんに硬貨を数枚渡した。
「ごちそうさまです」
 そう言ってゲンキくんは受け取り、この場から離れた。
 脊髄損傷の合併症で、俺は体温調節機能がうまく働かない。だから夏場は熱中症になりやすい。しかも一度写真を撮り始めると集中してしまって水分補給を忘れてしまう。これまでもたびたびゲンキくんには気遣ってもらっていた。
 ゲンキくんの分も俺が支払うのは手数料というわけではないが、こうするとお互い気持ちよく水分補給ができるということがわかり、今や俺たちの間では暗黙の了解となっている。
 さて、紫陽花は土壌の酸度によって色が変わるというが、ここの紫陽花は水色だ。
 今度はひとつの紫陽花にピントを合わせて撮る。絞りをめいっぱい開くと背景がぼけるので、ひとつだけを際立たせることができる。ごく一般的な手法だが、やはりこの撮り方はいい。
 どの紫陽花を主役に据えようか、あれこれ思案しながら撮っていたら、ゲンキくんが戻ってきた。
「どぞ」
「さんきゅ」
 礼を言ってスポーツ飲料のペットボトルを受け取り、さっそくキャップを開けて飲む。冷たい飲料が食道を抜けて胃に落ちるのが感じられ、知らないうちに水分が不足していたことを知る。
「どうです? いい写真撮れました?」
「まだ序盤だけど」
 俺はゲンキくんに液晶画面を見せた。
「おぉっ。プロの写真だ」
「だから俺はプロなんだって」
 お決まりのやり取りをしつつも、ふと心配になる。俺は撮影にのめり込むと周囲が見えなくなる。だからきっとゲンキくんをほったらかしにしてしまう。
「俺さ、まだまだ写真を撮るのに時間かかりそうなんだけど、いいのか?」
「僕だって子どもじゃないんだから、適当にぶらぶら時間つぶしますって」
「そっか」
 確かに。だが、俺はふとゲンキくんがこの街にいた時のことを知りたくなった。話したくなさそうで話したそうにしていた元カノの話も。
 俺はファインダーをのぞきながら、ゲンキくんに問う。
「ゲンキくんさ、この街に住んでたって言ってたじゃん。それって、大学時代とか?」
「専門学校ですね。理学療法士養成の学校時代」
「そっか」
 露出を変える。露出を上げてふんわりとした紫陽花を撮るのもいいが、俺はあえて下げる。カメラに取り込む光の量を抑えることによって、しっとりとアンニュイな雰囲気を出したいからだ。
「最初、神戸の学校に行こうと思ってたんですよ」
 ゲンキくんは島の出身だ。島にも理学療法士養成の学校はあるが、やはり島の外への憧れが強かったという。
「うん。俺もそうだわ。俺も兵庫の地方出身だけど、神戸の写真学校に行ったもん」
「そうなんですね。僕の場合、死んだじいちゃんが、どうせ島を出るならばーんと東京でも行って来いって。で、思い切ってここに」
 ゲンキくんは声色をまねたのか、じいちゃんのセリフを思わせる部分だけ大げさに言った。
「それなら、もっと都会……新宿とかは考えなかったの?」
「やっぱ、緑豊かな島の出身じゃないですか。都心は落ち着かないだろうって思ったから」
「なるほどな。わかるかも」
 確かに、ここに来れば自然と触れ合える。俺も人の多かった都心の路線で乗り換えをした時よりも、ここに来てリラックスしていることを実感している。
 撮った紫陽花を液晶画面で確認する。暗く落ち着いた背景に浮かぶ紫がかった水色。実際の紫陽花とは少し印象が異なるのは、風景が作品になる瞬間でもあるからだ。
 もう少しこの露出で狙ってみよう。俺は再びカメラを構えてシャッターを切る。
「真也さんって、遠距離恋愛の経験あります?」
 思いもしなかった質問に、一瞬シャッターがぶれる。液晶画面で確認すると、見事にピンボケ。
 潮時だとばかりに、俺はレンズを取り外してマクロに換えた。
「俺は……ないな。ってか、恋愛経験そのものも豊富とはいえない」
 さかのぼると、幼稚園か小学校の頃に初恋らしきものを経験したが、中学、高校と彼女どころか好きな子すらいたためしがなかった俺。
 神戸の写真学校時代にやっと本当の意味での初恋を経験したが、お互いいい人止まりだった。というか、ありきたりな言い方をすれば、その時代はカメラが恋人だった。
「カメラだけは裏切らないって本気で思ってた」
「さすが。かっこいいですね」
 青臭くて声に出して言うのも恥ずかしいが、俺は本気でそう思っていた。ゲンキくんが褒めてくれたので気をよくする俺だった。
「じゃあ、真也さんってけっこう奥手だったんですね」
「そうだなぁ。モテるタイプでもなかったし」
 誰かと初めてつき合ったのが、写真事務所のカメラマン時代。事務所の先輩に連れられて参加した合コンで知り合った彼女だったが、つき合いは一年も続かなかった。やはり写真が本命だった。
 ぽつぽつと語る。ファインダーをのぞく俺と横にいるゲンキくん。お互いが同じ方向を向いているからこそ、本音で語ることができるのかもしれない。
「俺が本気で好きになったのは、香織さんだけかもしれない」
「香織先生との出会い、よっぽどインパクトが強かったんですね」
「まぁな。俺は最初香織さんの麻酔技術に惚れたんだけど、向こうはカメラマンじゃないただの俺を愛してくれた」
「何気にのろけちゃって」
 肩を軽くたたかれる。ゲンキくんの尻をたたこうとカメラから右手を離すも、気配を感じたのかさっとよけられた。
「僕も、そんな人に出会いたいなぁ。ってか彼女のこと好きだったんだけどな。ここにもよく来たし」
「もしかしてボート乗った?」
「乗りましたよ、もちろん。まぁ、別れちゃったのはボートのせいではないですけどね」
 マクロレンズを使用する場合は、被写体にぐっと寄る必要がある。ぎりぎりまで車椅子を近づけ、さらに上半身を紫陽花に寄せる。下半身の感覚がなく、足を踏ん張ることのできない俺にとっては、転倒すらしかねない無謀な体勢。だが、ゲンキくんがいるから、俺は何の躊躇もない。
「卒業してからしばらくは遠距離だったんですけどね、やっぱお互い就職すると忙しくなるじゃないですか」
 理学療法士養成の学校の同級生として知り合ったゲンキくんと彼女。卒業後は、ゲンキくんは島の病院に、彼女は地元である八王子で就職した。そしてふたりは自然消滅という結末を迎えた。
「東京で就職することは考えなかったの?」
「やっぱ、結局僕も島の人間なんですよね。ここには三年いたけど、島で就職することしか考えてなかったなぁ……」
「彼女に『俺についてこい』とか言わなかったの?」
「怖かった……のかも。彼女の人生を背負うことになるから」
 寂しそうにゲンキくんは笑う。無言でうなずいて、俺は紫陽花を撮る。
 マクロレンズを通してのぞく紫陽花は個性的だ。花びらだと思われがちながくの中心にある、小さな本当の花びら。そして控えめでありながら凛としたたたずまいのおしべ。
 がくに残る雨粒を見つけた。俺は露出を上げる。雨粒の中に閉じ込められた光を撮りたい。俺は続けざまにシャッターを切った。
「いつか、人生の荷物をともに背負えるような人に巡り合えるといいな」
「ほんとですよ。出会い、どっかに転がってませんかねー」
 そう言ってきょろきょろとあたりを見回す仕草をするゲンキくん。この純粋なゲンキくんに紹介できる人がいれば……と思いを巡らせるが、いかんせん女性の知り合いがほとんどいない俺だ。
 ふいにゲンキくんが素っ頓狂な声を上げる。
「あっ、真也さん!」
「ど、どうした?」
「出会い、ありましたよ」
「え?」
 ゲンキくんが指さす方を見ると、立派な触覚を持ったカタツムリが紫陽花の葉の上にいた。
「ほんとだ。確かにいい出会いだ」
 俺はハンドリムを回して、カタツムリに近づく。そしてマクロレンズから標準レンズに交換する。動作の遅い俺とカタツムリの相性は大変いい。驚かせて殻に閉じこもらないように、慎重に近づいた。
 カタツムリは首を伸ばすようにしてゆっくりと花に向かっている。
「かわいいなぁ。ずっと見ていられる」
 そうつぶやくゲンキくんを横目に、俺はカタツムリにレンズを向ける。
 かわいらしいカタツムリは、ふわっと明るい雰囲気がよく似合う。俺は差し込む薄日を意識する。そして上半身を右へ左へ傾け、俺はさまざまな角度からカタツムリを撮った。
 レンズ越しにカタツムリと向き合いながらふと思う。こいつは明確な意思を持って移動しているのだろうか。
 俺はゲンキくんに問う。
「なぁゲンキくん」
「何ですか?」
「こいつってさ、ああしたい、こうしたいっていう意思みたいなもんってあるのかな?」
 しばらくの沈黙のあと、明確な回答があった。
「あるに決まってますよ。だって紫陽花の花きれいですもん。きれいな場所が好きなのは、人間もカタツムリも同じです」
「そうだな。ゲンキくんの言う通りだな」
 相変わらずゆっくりとしたペースで目的に向かって移動するカタツムリ。
 俺も同じようなものだ。まだまだ自分ひとりでの移動に自信がなくて、今現在もゲンキくんに頼っている。だが、こんな俺でも少しずつ自分自身の写真を追求しつつある。
 構えていたカメラを下ろして、視線を横にずらす。そして、中腰になってカタツムリを応援するゲンキくんの姿を視界に入れる。ゲンキくんが俺を手助けしてくれる時と同じ表情。こんなにも純粋な人が俺の側にいる。
「ゲンキくん」
 そう呼びかけると、ゲンキくんは首をかしげて俺を見た。
「ありがとうな。いろいろ俺に親切にしてくれて」
「何をいきなり……。照れるじゃないですか」
 まんざらでもない様子のゲンキくんに向けて素早くカメラを構え、シャッターを切る。
「撮りましたね、今。イケメンに撮ってくれました?」
「それはもちろん」
 思い切り照れているゲンキくんがイケメンかどうかはともかく、ゲンキくんらしいゲンキくんが切り撮られていた。自画自賛ではあるがいい写真だ。
「あっ、真也さん!」
 ん?とゲンキくんが指を差した方を見ると、カタツムリが紫陽花のがくの上についに到達する瞬間だった。
「おぉ。ついに」
 慌ててカメラを構える。そして、水色のがくの上をどこか誇らしげに歩くカタツムリを撮った。

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