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第一章 「目覚めたら七歳でした」

第18話 父娘の形

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「………お嬢さま、お嬢さま……ッ! 早くお着替えを!!」

 ロゼがこんなにも取り乱す姿は初めてだった。まだ眠たい朝にイクシャは恐る恐る何事かと瞼を開く。自分のベッドの周りに今までに接した事のない沢山の侍女が集まって己を覗き込んでいたのだ。まるで死人を弔う人間のように蒼褪め悲しい顔をしていて、その光景に瞬き一つも出来なかった。

「どう、いう……事?」
「さ、起きられましたね! 早く早く!」

 ぐいっと無理矢理手を引っ張られ、訳の分からないままに。洗顔、肌のケア、髪のケア、何時も以上に凝った髪型、来たことも無い装飾品が沢山ついてフリルやレース、刺繍が施されたワンピース。呆気の取られる。裾には細かい花の装飾をされたレースが付いていて、更にはひらひらと蝶のように動きに合わせて揺れて、足元が透けている薄い肌触りの良い生地。まるで夜空のように星々があるようだ。

 その後に、付けたことも無い重い髪飾りが付けられる。可愛らしいリボンの真ん中には翠の玉石だ。やり切ったような達成感が浮かぶ侍女達の顔に安堵が広がって笑い合う。
 事を聞きやすいのはロゼだけだったので、そっと近寄って裾を引っ張る。

「ねえ、どうしたの……?」
「旦那さまがお嬢さまと一日を過ごしたいとの、事で………領地の湖畔でお待ちになられています」

 心配と不安の入り混じった顔でロゼは小さく「申し訳ありません」と額に手を合わせて謝る。

 (湖畔!!? 聞いてない聞いてない、一体どうしたの!!? 一昨日はあんなに……ッ) 

 ────不審な動きをするな。私とお前は親子なのだから子供らしく笑顔を浮かべてろ。

 叫びたい気持ちを抑えてイクシャは頷いた。恐怖と共に、心の中には、嬉しさが滲んでいたのをイクシャは気付かない振りを続けていた。

 ▽ ▲ ▽
 

 湖畔の上でまさかの二人きり。舟はゆらゆらと揺れている。

(漕ぐなんて聞いてない……)

 ベルナールは変わらず涼しい顔でイクシャの動きに合わせて漕いでいる。様子を窺っているのに気付いたのかベルナールは短く息を吐いて。

「楽しいか」
「え、ぁ、た、たた楽しいです……も、勿論。お父さまは?」
「……まあまあだ」

 その返答に思わず拳を作りそうになるが、慌てて笑顔を作った。この会話も無い中で、舟を漕いで二人きりで面と向かっているなんて何が楽しいのだろうかとぼんやりと思いながらベルナールに微笑みを向ける。
 下手に嫌悪を覚らせると面倒臭い事になるから従順な、身体の弱い娘を演じて。

「普段、外に出る事が少ないですから、こうやって景色をゆっくりと眺めるのは気持ち良いです」
「……そうか」

 風に吹かれた前髪を横に流して瞼を伏せて笑う娘の姿にベルナールは静かに目線を落とした。
 その仕草に、イクシャは瞬きをしてしまう。何か、気にかかる時にするような表情だったから。何時の間にか苦手で苦手で関わりたくはないと思っていて、だけど何故か嫌いになれない人の仕草一つ顔色一つで何もかも察しがつくようになっていたなんてなと薄笑いを浮かべる。

 敬語か、と心の中で反芻しながら流れる水の下で咲く花を見てベルナールは深呼吸を繰り返した。

 ──その翠眼と顔の造り、表情、身のこなしまで奥方様によう似とる。
 ──ねえ、これでやっと自由になれるね二人で暮らせるね? ただいま、ルナ!

 ネニュファールに似てるから、ネニュファールと同じだからと繰り返し突き放す己に何度背中を向けて来た事か。あの日、パーティーで思った事が未だ心に残っている。悪夢と共に出てくる、怯えた娘の姿が震える背中が、娘を苦しめたイクシャは、リュシアンにとって将来を妨げるものだと思った事が。

 その時、イクシャが欠伸をした。何時もよりも早く起きたからかまだ八歳の身体には午前四時は早く感じるのか。

「眠いか?」
「ぃ、いえ! ……ふぁ、ッあ、う……っ!」

 言った傍から欠伸をして「しまった!」とあからさまに顔を赤くさせるイクシャにベルナールは瞬きを繰り返した。焦る姿をベルナールは観察し、目を伏せた。

「──なんだ」
「ぇ?」

 何でもないんだ、と瞼を伏せるベルナール。何を言ったのだろうと、脳内再生をしてもその言葉は解らない。

「目覚めの珈琲を用意しよう」

 舟から先に降りるベルナールに続いて自分で陸地に足を踏み入れようと上げたその時、手が差し出される。

「掴みなさい」

 パーティーの時とは違う優しさだった。安らかな顔で軽やかな声で手を差し出す父親に戸惑ったが、思い切ってその手を、イクシャはそっと掴んだ。
 今なら、今だけなら、呼べると思った。今なら、娘として、行動が出来ると思った。


「あり、がとうござい、ます……ぱ、ぱ」

 少し照れ臭そうに瞳を柔らかに細めて小さく呟く声を不思議と聞き逃さなかった。ベルナールは眼を見開いて、瞬きを繰り返した。

 ──『おあ、うぁっ、あぶ! ぱ、ぱ……っ!』

 不意に、赤ん坊の声が蘇る。すぐ近くに居る、この少女の赤ん坊の頃の声。涎を出してころころと幸せを溢し微笑む赤ん坊を抱いた時の感情が蘇る。

 可愛い可愛いと何回も口癖になるくらいに言っていた自分が、蘇る。家族を顧みずんい感謝や言葉自体を伝え合っていなかった自分が、ネニュファールの悲しい顔が、怒りが。

 自分は何の為に働いていたか──誰もが言う出世の為か。否、最初は違かった筈だ。温かい気持ちで、目の前に立ち塞がるネニュファールとの婚姻を認めない貴族社会、何もかもを薙ぎ払う為に、お腹に宿っていた家族を守る為に権力を欲した。
 
 過去の自分に改めて気付かされる。
 イクシャはやっとやっと言えたと息を呑んで、目の前で立つ父の顔を窺う。


「ああ、俺も随分馬鹿だったな」
 
 大切なことを忘れてしまった。ただ大切なことを何の為に働いていたかということを忘れてはならないのに。
 そう溢したベルナールは、微かに口角が上がっていた。
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