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第9話 レニュ穀倉地帯
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「レニュ穀倉地帯?」
ハンローレンが口にしたのは皇都にほど近い地域の名前だった。
秋には一面の黄金色の麦畑を見ることができる美しい土地である。
ハンローレンが説明する。
「ええそうです。そこに行けばよいのです」
「なんで?」
ハンローレンは唇に人差し指を置いた。そして、まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるように言った。
「なんでも、です」
ハンローレンの言葉を聞いて、俺はさらに首をかしげた。
「俺に知られたくないことがあるんだ?」
「まあ、そういうことです」
それっきり、彼は黙った。俺の反応を待っているようだ。
俺は少し悩んで、それから質問した。
「そこに行けば皇子は追いかけて来ないのか?」
「ええ確実に」
「そこに行くこと、皇子は許可してくれるのか?」
「神殿が許可します」
それだけ聞くと、俺はうなずいた。
「よし、じゃあ行こう」
今度はハンローレンが質問する番だ。
「おや、他に聞きたいことはないんですか?」
「いろいろあるけど……まあ、お前を信頼するって決めたからな」
ハンローレンは苦笑した。そして胸に手を置いて「精一杯、信頼にお答えします」と芝居がかった言葉遣いで答えた。
彼は続ける。
「馬車での移動になります。しばらくご不便をおかけします」
「いいよ。馬車に乗せてもらえてありがたいくらいだ」
「では、出発は明日です。早いうちがいいでしょう。ぐずぐずしていたら邪魔されてしまいますからね」
そうして、ハンローレンはあっという間に身をひるがえして去っていった。
出発は明日。とはいえ、着の身着のままこの大神殿で世話になっている俺がまとめるべき荷物などあるわけもなく。
手持無沙汰な俺はぶどう畑へ足を向けた。
畑ではギルがいつものように指揮をとっていた。
人足たちが小屋からビネガーを薄めた液を運び出している。これから葉の裏に塗る作業をはじめるところだったようだ。
ギルはビネガーをひとつひとつ確認している。
科学知識の素地がないこちらの世界の住民は、俺がどんなに繰り返し言い含めても指示通りにしてくれないことが多い。しかし、彼は俺のよくわからないであろう指示を忠実に守ってくれる稀有な人材である。
「やあギル」
俺が遠くから声をかけると、彼も手をあげて挨拶を返してくれた。
「賢者様」
彼はどんなに言っても、俺のことをこう呼ぶのだけはやめてくれない。
俺は苦笑しながら駆け寄る。
「どんな感じ?」
傍まで来ると、彼は丁寧に腰を折った。
「改善されています。みな、安心して秋を迎えられると喜んでいます」
「ギルのおかげだな」
「いえ、そんな……」
彼は謙遜するが、実際のところ、彼の几帳面さがなければここまで短期間で改善しなかったはずだ。
ぶどうの木は葉を大きく開いて空を目指している。葉の色は鮮やかな緑だ。
畑を行き交う農夫の表情も明るくなった。
俺は満足してそののどかな光景を眺めた。
ふと、ギルが声をひそめて言った。
「レニュ穀倉地帯に行かれるとか……」
俺は驚く。それはつい数時間前に決まったばかりだというのに、もう彼は知っているのだ。
「え? ああ、うん。よく知ってるな」
「神殿が公表して……大騒ぎですよ」
「ええ? そんなに?」
「あの呪われた土地へ行かれるなど……しかし、あなたが行かれるということは、やはり呪いではないのですね?」
物騒な単語が出てきて、俺は困惑した。
「待って待って。何の話なんだ?」
「ご存じないのですか? ではなぜレニュへ?」
「ええっと……」
要領を得ない俺の様子に、ギルは眼鏡を押し上げて説明を始めた。
「レニュの土地が呪われたという話です。住んでいる人間だけでなく、足を踏み入れただけの旅人まで呪われるとか」
「ええ!?」
レニュ穀倉地帯といえば、国の食糧庫とも呼ばれる土地である。その名の通り、皇都一帯に穀物を供給する肥沃で広大な地域を指す。
ウガ湖の水源に支えられて発展したその土地では、主に麦が栽培されている。
「もうかなりの死人が出ているのですよ」
ギルの言葉に、俺はとある疑問が出た。
「それってさ」
しかし、俺の言葉をさえぎって、ギルが力強く言った。
「私は、呪いではないと思っています」
彼は真摯な目をしている。
「なんでそう思うんだ?」
「私は昔、レニュ穀倉地帯で働いていました。あの地域の農夫たちはみな信心深く、豊作を神に願うすばらしい人間ばかりです。風と生き、土と生きている者たちです。呪いなど、ありえません」
非科学的だが、それでも多くの人が納得できる話だ。
レニュは豊穣の神を祀り、その地域住民の信心深さは国内でも有名だ。
ギルはさらに続ける。
「畑の賢者様が行かれるということは、なんらかの、そう……それこそ穀物の問題なのでしょう?」
穀物の問題。その言葉に俺ははっとした。
穀物に問題があって、それを食べることで「呪い」にかかっているのだとしたら?
レニュ穀倉地帯からの麦の供給が途絶えれば、国中で餓死者が出る。
俺の背中をつめたいものが伝った。
「それは……行ってみないとわからない」
ハンローレンが俺をそこに行かせたい理由、そして皇子が俺が行くのを止められない理由。
一気に辻褄があって、俺は拳を握った。
呪い。
それはこの世界でもっとも恐れられるものだ。
呪われるのは神への信心がない者で、呪いによって死ねば一切の救いは得られない。
主神モアデルスをあがめ、皇族はその眷属であるとされているこの国において、呪いにかかること自体が皇族への反逆罪でもある。
俺はこの呪いというのが本当にあるものなのかどうかを知らない。
俺自身が禊によって髪色が変わるのを目の当たりにしているため、ない、とは言えない。
それでも、「呪いではないものを呪いと呼んでいる」だけということもある。
「うん。行かないと。それは行かないと」
俺が力になれるのなら、行くべきだ。
それから、俺は疑問を口にした。
「宮城は何をしてるんだ? 急いで対応しないと……」
「陛下は病に伏されていますし、なにより、いまは……」
ギルが言葉を濁す。
彼の言わんとすることを俺は理解した。
――後継者問題でそれどころではないのだ。
俺は天を仰ぎ、それからギルに礼を述べると、そのまま大神殿に駆け戻った。
ハンローレンが口にしたのは皇都にほど近い地域の名前だった。
秋には一面の黄金色の麦畑を見ることができる美しい土地である。
ハンローレンが説明する。
「ええそうです。そこに行けばよいのです」
「なんで?」
ハンローレンは唇に人差し指を置いた。そして、まるで聞き分けのない子どもに言い聞かせるように言った。
「なんでも、です」
ハンローレンの言葉を聞いて、俺はさらに首をかしげた。
「俺に知られたくないことがあるんだ?」
「まあ、そういうことです」
それっきり、彼は黙った。俺の反応を待っているようだ。
俺は少し悩んで、それから質問した。
「そこに行けば皇子は追いかけて来ないのか?」
「ええ確実に」
「そこに行くこと、皇子は許可してくれるのか?」
「神殿が許可します」
それだけ聞くと、俺はうなずいた。
「よし、じゃあ行こう」
今度はハンローレンが質問する番だ。
「おや、他に聞きたいことはないんですか?」
「いろいろあるけど……まあ、お前を信頼するって決めたからな」
ハンローレンは苦笑した。そして胸に手を置いて「精一杯、信頼にお答えします」と芝居がかった言葉遣いで答えた。
彼は続ける。
「馬車での移動になります。しばらくご不便をおかけします」
「いいよ。馬車に乗せてもらえてありがたいくらいだ」
「では、出発は明日です。早いうちがいいでしょう。ぐずぐずしていたら邪魔されてしまいますからね」
そうして、ハンローレンはあっという間に身をひるがえして去っていった。
出発は明日。とはいえ、着の身着のままこの大神殿で世話になっている俺がまとめるべき荷物などあるわけもなく。
手持無沙汰な俺はぶどう畑へ足を向けた。
畑ではギルがいつものように指揮をとっていた。
人足たちが小屋からビネガーを薄めた液を運び出している。これから葉の裏に塗る作業をはじめるところだったようだ。
ギルはビネガーをひとつひとつ確認している。
科学知識の素地がないこちらの世界の住民は、俺がどんなに繰り返し言い含めても指示通りにしてくれないことが多い。しかし、彼は俺のよくわからないであろう指示を忠実に守ってくれる稀有な人材である。
「やあギル」
俺が遠くから声をかけると、彼も手をあげて挨拶を返してくれた。
「賢者様」
彼はどんなに言っても、俺のことをこう呼ぶのだけはやめてくれない。
俺は苦笑しながら駆け寄る。
「どんな感じ?」
傍まで来ると、彼は丁寧に腰を折った。
「改善されています。みな、安心して秋を迎えられると喜んでいます」
「ギルのおかげだな」
「いえ、そんな……」
彼は謙遜するが、実際のところ、彼の几帳面さがなければここまで短期間で改善しなかったはずだ。
ぶどうの木は葉を大きく開いて空を目指している。葉の色は鮮やかな緑だ。
畑を行き交う農夫の表情も明るくなった。
俺は満足してそののどかな光景を眺めた。
ふと、ギルが声をひそめて言った。
「レニュ穀倉地帯に行かれるとか……」
俺は驚く。それはつい数時間前に決まったばかりだというのに、もう彼は知っているのだ。
「え? ああ、うん。よく知ってるな」
「神殿が公表して……大騒ぎですよ」
「ええ? そんなに?」
「あの呪われた土地へ行かれるなど……しかし、あなたが行かれるということは、やはり呪いではないのですね?」
物騒な単語が出てきて、俺は困惑した。
「待って待って。何の話なんだ?」
「ご存じないのですか? ではなぜレニュへ?」
「ええっと……」
要領を得ない俺の様子に、ギルは眼鏡を押し上げて説明を始めた。
「レニュの土地が呪われたという話です。住んでいる人間だけでなく、足を踏み入れただけの旅人まで呪われるとか」
「ええ!?」
レニュ穀倉地帯といえば、国の食糧庫とも呼ばれる土地である。その名の通り、皇都一帯に穀物を供給する肥沃で広大な地域を指す。
ウガ湖の水源に支えられて発展したその土地では、主に麦が栽培されている。
「もうかなりの死人が出ているのですよ」
ギルの言葉に、俺はとある疑問が出た。
「それってさ」
しかし、俺の言葉をさえぎって、ギルが力強く言った。
「私は、呪いではないと思っています」
彼は真摯な目をしている。
「なんでそう思うんだ?」
「私は昔、レニュ穀倉地帯で働いていました。あの地域の農夫たちはみな信心深く、豊作を神に願うすばらしい人間ばかりです。風と生き、土と生きている者たちです。呪いなど、ありえません」
非科学的だが、それでも多くの人が納得できる話だ。
レニュは豊穣の神を祀り、その地域住民の信心深さは国内でも有名だ。
ギルはさらに続ける。
「畑の賢者様が行かれるということは、なんらかの、そう……それこそ穀物の問題なのでしょう?」
穀物の問題。その言葉に俺ははっとした。
穀物に問題があって、それを食べることで「呪い」にかかっているのだとしたら?
レニュ穀倉地帯からの麦の供給が途絶えれば、国中で餓死者が出る。
俺の背中をつめたいものが伝った。
「それは……行ってみないとわからない」
ハンローレンが俺をそこに行かせたい理由、そして皇子が俺が行くのを止められない理由。
一気に辻褄があって、俺は拳を握った。
呪い。
それはこの世界でもっとも恐れられるものだ。
呪われるのは神への信心がない者で、呪いによって死ねば一切の救いは得られない。
主神モアデルスをあがめ、皇族はその眷属であるとされているこの国において、呪いにかかること自体が皇族への反逆罪でもある。
俺はこの呪いというのが本当にあるものなのかどうかを知らない。
俺自身が禊によって髪色が変わるのを目の当たりにしているため、ない、とは言えない。
それでも、「呪いではないものを呪いと呼んでいる」だけということもある。
「うん。行かないと。それは行かないと」
俺が力になれるのなら、行くべきだ。
それから、俺は疑問を口にした。
「宮城は何をしてるんだ? 急いで対応しないと……」
「陛下は病に伏されていますし、なにより、いまは……」
ギルが言葉を濁す。
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