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東北中學物語
東北中學物語(1)
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「おねが……します。おれ、モウ……」
舌足らずな口調と咳き込む音が、乱立する机の間から聞こえた。椅子に座った人物と、床に膝をついた者。同じ制服を纏った二つの人影の間では、ぎらぎらした欲望が光沢を放っている。
夕方の逆光が、普段とは違う教室を照らしていた。半分ほど開けられた窓からは、冷たさの残る春風が窓帷を揺らし、淫靡な香りを運んでいる。
酷いものを見た、と思った。失敗した。時が悪かった。
図書室で幾何の復習をしていただけだった。帰宅しようとした矢先、財布が見当たらなかったので教室に戻った。大した金額は入っていなかったので、明日にすればよかったのだが、教室だけでも確かめようと戻った結果、こんなとんでもない場面に遭遇してしまったのだ。
突然開け放たれた扉に、二人の人影の視線は捨人の方へ移動した。二人のうち、床に膝をついているほうが口を開く。
「……さくら?」
聞き覚えのある、呂律の回らない声で名前を呼ばれて初めて、彼と面識があることに気がついた。いや、面識があるなんていう遠い関係ではない。つい数時間前までこの教室で机を並べていた級友ではないか。
百目鬼蔵六。
特別親しくはないが、挨拶を交わしたことくらいはあったかもしれない。仰々しい名前とは裏腹に、同学年にしては背が低く、華奢な見て呉れであることを、級長の竹生にからかわれていた光景は記憶に新しい。
「なに勝手に止めてんだよ」
苛立ちを含んだ声色には覚えがなかった。椅子に座った人物は強い口調とは反対に、蔵六の髪をそっと梳く。
「すいませ……でもせんぱ……あの、」
小さく鼻をすすりながら、黒い制服の袖口で涙を拭う。ひどい近眼のおかげで表情は分からないが、口元が卑猥に光っていることだけは確認できた。
「君も、混ざる?」
此方を向いてニヤリと笑った顔にも、やはり見覚えがなかった。部活動でもしていないと、他学年との交流なんてそうそうできることではないのだから無理もない。
「いえ。失礼しました」
勢いよく扉を閉めると、不快な軋みと共に、目の前の光景が遮断された。肩の力が抜けて、息をゆっくり吐く。動揺していた心臓が少しずつ正常になっていった。
踵を返し、不自由な左足を引きずりながら校舎を出る。強く、大粒の雨。辺りは薄暗くなり始め、遠くからは雷の音が聞こえる。
捨人は小さくため息をつくと、鞄を懐に仕舞い、雨の中へと踏み出した。柔らかくなった土と跳ねる雨水が、洋袴の裾を汚してゆく。左足を引きずるように歩くため、普通よりずっと遅い速度でしか進まない。すぐに靴の中は水浸しになり、纏った制服は重量を増し、何倍にも感ぜられた。髪からは水滴がとめどなく流れ、顔面だけでなく眼鏡にも付着する。視界が悪くなるが、かといって外すとさらに見えなくなるという悪循環に陥り、進行速度はますます落ちるばかりであった。
舌足らずな口調と咳き込む音が、乱立する机の間から聞こえた。椅子に座った人物と、床に膝をついた者。同じ制服を纏った二つの人影の間では、ぎらぎらした欲望が光沢を放っている。
夕方の逆光が、普段とは違う教室を照らしていた。半分ほど開けられた窓からは、冷たさの残る春風が窓帷を揺らし、淫靡な香りを運んでいる。
酷いものを見た、と思った。失敗した。時が悪かった。
図書室で幾何の復習をしていただけだった。帰宅しようとした矢先、財布が見当たらなかったので教室に戻った。大した金額は入っていなかったので、明日にすればよかったのだが、教室だけでも確かめようと戻った結果、こんなとんでもない場面に遭遇してしまったのだ。
突然開け放たれた扉に、二人の人影の視線は捨人の方へ移動した。二人のうち、床に膝をついているほうが口を開く。
「……さくら?」
聞き覚えのある、呂律の回らない声で名前を呼ばれて初めて、彼と面識があることに気がついた。いや、面識があるなんていう遠い関係ではない。つい数時間前までこの教室で机を並べていた級友ではないか。
百目鬼蔵六。
特別親しくはないが、挨拶を交わしたことくらいはあったかもしれない。仰々しい名前とは裏腹に、同学年にしては背が低く、華奢な見て呉れであることを、級長の竹生にからかわれていた光景は記憶に新しい。
「なに勝手に止めてんだよ」
苛立ちを含んだ声色には覚えがなかった。椅子に座った人物は強い口調とは反対に、蔵六の髪をそっと梳く。
「すいませ……でもせんぱ……あの、」
小さく鼻をすすりながら、黒い制服の袖口で涙を拭う。ひどい近眼のおかげで表情は分からないが、口元が卑猥に光っていることだけは確認できた。
「君も、混ざる?」
此方を向いてニヤリと笑った顔にも、やはり見覚えがなかった。部活動でもしていないと、他学年との交流なんてそうそうできることではないのだから無理もない。
「いえ。失礼しました」
勢いよく扉を閉めると、不快な軋みと共に、目の前の光景が遮断された。肩の力が抜けて、息をゆっくり吐く。動揺していた心臓が少しずつ正常になっていった。
踵を返し、不自由な左足を引きずりながら校舎を出る。強く、大粒の雨。辺りは薄暗くなり始め、遠くからは雷の音が聞こえる。
捨人は小さくため息をつくと、鞄を懐に仕舞い、雨の中へと踏み出した。柔らかくなった土と跳ねる雨水が、洋袴の裾を汚してゆく。左足を引きずるように歩くため、普通よりずっと遅い速度でしか進まない。すぐに靴の中は水浸しになり、纏った制服は重量を増し、何倍にも感ぜられた。髪からは水滴がとめどなく流れ、顔面だけでなく眼鏡にも付着する。視界が悪くなるが、かといって外すとさらに見えなくなるという悪循環に陥り、進行速度はますます落ちるばかりであった。
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