ドレスデンのドリルきゅん

つなかん

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三章 夜と霧編

亡命

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「こりゃまた楽しいお出迎えだな」
「リドル……失礼だぞ!」

 ハイネの言葉は無視して革張りの高そうなソファに腰を下ろした。葉巻を取り出して火をつける。まさか、ここは禁煙じゃないよな。
 異端審問が思い出された。それよりもっと酷い。狭く、窓のない部屋に通された。メガネをかけた愛想のない男が椅子に座って、鉛筆で机をトントン叩いた。

「ハインリヒ・シュタイナー」
「は、はい!」

 突然名前を呼ばれたハイネは、反射的に敬礼をした。退屈で、灰皿に灰を落とす。窓が存在しない小さな部屋は、なにもかもが歪に思えた。玄関からここに辿り着くまで、案内係一人としか接していない。なにかがおかしい。
 ハイネもそれはわかっているようで、とんでもない緊張感がこの部屋を支配する。メガネのおじさんが、のんびりと書類を捲る音だけが響いた。

「記録によると、五年前シャッテン・シュトゥルムの試験を受けたそうだね」

 形式ばった喋り方だった。もうあれから五年も経つのか。なんだか物凄く昔の出来事のように感じる。ハイネがごくりと唾液を飲み込む音が聞こえた。今更そんな質問をする意味が、まるでわからない。

「……いいえ、受けてません」
「あ? いや嘘ついてんじゃねーよ、こんなときに」

 思わず口を挟んだ。口を挟まずにはいられない。あの真面目なハイネが嘘をつくはずがない。頭が混乱して、少しでも冷静さを取り戻すために、深く葉巻を吸った。ジリジリ、先が焼きこげる。肺に煙が蓄積され、脳がぼんやり萎んで、一時的にイライラや焦燥感から逃れることができた。

「受けようとはしました。でも、書類に間違いがあるから今日は帰れと言われました」

 タバコも葉巻も、葉っぱも吸っていないのに、ハイネは落ち着き払って返事をした。反対におれは、葉巻を握る指が震える。灰がソファに落ちたが、いちいち気にしている余裕はなかった。

「それは、具体的にどんな間違いだと言われましたか?」
「……」

 あくまで事務的な質問だった。おじさんはあまり、この件について興味がないようだ。でも、だったらなんのためにここまで呼び出された。明らかにここは、裁判所ではない。
 しかしその質問で、ハイネにかろうじて残っていた余裕が消えるのがわかった。口をきつく結んで、部屋の隅に視線を落とす。数秒間沈黙したのち、意を決したように息を吸った。

「……血統証明書に偽造の疑いがある、と」

 ――は?
 なにそれ初耳なんだけど。

 たしかに、旧政権は“正当な”ゲルマニア人こそが必要だと、ことある度に主張していた。SSの入隊の条件に、血統証明書の提出が義務付けられていたとしてもなんら不思議はない。
 でも、田舎の農村出身の俺たちでは、その条件を満たしているとはとても思えなかった。ハイネがSSにずっと憧れていたことも知っている。……書類の偽造をしていてもおかしいと思えない。

「偽造はしていないんですよね?」
「……」

 ペラ、と書類を捲る音がやけにうるさく鼓膜を揺らした。短くなった葉巻を、ジュッと灰皿に押し付ける。時計の秒針の音がせわしない。
 ソファが柔らかくて、なんだか落ち着かない。足をくんで、貧乏揺すりを始めた。

「あなたの提出した証明書には、レーゼンハウゼン卿の捺印がありました」
「……黙秘します」

 レーゼンハウゼンの名前は、俺でも耳にしたことがあった。西側の由緒正しい貴族で、旧政権とは対立関係にあった。SSの試験を受けるなら隠しておくのが賢明な名前だ。しかしながら、彼らが入隊条件に課していた血統として申し分ないのは言うまでもない。

 おじさんがメガネをカチャっと上げ、それから大きなため息をついた。わかる、俺も同じ気持ち。黙秘とか、ガチじゃん。
「お、俺にだって黙秘権くらいあるだろ?」
 こんなに動揺したハイネを見るのは初めてだった。俺と同じ、金髪で、青い目。身長は昔から高かったし、身体検査は余裕で通過したんだろう。

 試験を受けに行くと言って、朝早く家を出ていった。それから村が焼かれるまで、ハイネが帰ってくることはなかった。おじさんがまた、書類を捲る。

「帰れと言われたのに、すぐに家に帰らなかった」
「く、空襲があって列車に乗れなかった。工場で働いて、そのあと軍の試験を受けた」

 ――そんなこと、一言も言わなかった。
 筋は通っているし、こんな場面でハイネが嘘をついているとは考えにくい。でも、だからって……。

「で、今に至ると?」
「一度だけ村に帰った。でも、家がなかった。死亡者リストに母の名前があった」
「弟さんのことは探そうともしなかった?」
「それは――」

 指を大きく、パチンと大きく鳴らした。なんの書類か知らないが、おじさんのページを捲る動きが止まる。それから、チクタクせわしない時計の秒針の音も。

「なんだよ!」
「お前、俺がいなかったら今頃蜂の巣だぜ」

 ニヤッと笑って指をさす。ドアが半分開かれて、そこから銃口が覗いていた。それでやっと、ハイネは俺が時間を止めたことを理解したみたいだ。ヒュっと息を飲む。
 換気扇の隙間から、俺にも銃口が向けられていた。こりゃ気づかなんな。暗殺ってこういう風にやるんだぁ、すごーい。ちょっとばかり感心を覚える手口だ。共産主義がクソってことがわかっただけでも、今日は十分な収穫だろう。

「どうして……」
「俺は誰かさんと違って人格者だから、お兄ちゃんを見捨てたりなんてしなーい」

 ふざけてみせたけど、ハイネは険しい顔のままだった。ソファから立ち上がり、乱暴にハイネの腕を掴む。
 時間が止まって固まっている暗殺者サンたちをすり抜けて、そっと部屋を出る。

「どうやったんだ?」
「異端審問会で西に行ったとき、おかしな女がやっててそれを真似した」

 なにごともなかったかのように正面玄関を突破する。この“能力”を使うのは、俺も初めてだ。すぐに欠陥に気づいた。
 そんなに長い間、時間を止めることはできない。仕方なくまた指を鳴らして、そうすると前方で大きな爆発音がした。

「俺の車が……」
「車を見るな、まっすぐ歩け!」

 ハイネのトラバントが火柱を上げていた。今更進行方向を変更するわけにもいかないので、燃えさかる車の脇を通りすぎる。

 素早く裏通りに入って、追っ手が来ていないか気を配った。「火事だ!」という言葉が四方八方から聞こえて、周囲が混乱に包まれる。

「まずい、早く戻って報告しないと!」
「バカかオメー、殺されかけたんだぞ!!」

 頭ハッピーセットかよ。参謀本部出身って本当なのかな? とても狼狽していて、目の前で起きていることが理解できないらしい。

「今更書類の偽造くらいでいちいち呼び出して殺すか? お前、思想に問題があんだよ」
「お前にだけは言われたくない」

 憔悴気味に嘆息した。こんなハイネ、俺は知らない。堅物で、冷たくて、田舎が嫌いで、村を捨てて出ていった最低なやつ。そのはずだったのに。

「どうすんだよ、これから」

 いつも俺に注意ばかりしてくるハイネが、俺に意見を求めた。おもしろ。まぁハイネの人生でも、暗殺されそうになるなんて初めてだろうしな。

 楽しくてワクワクする考えが頭にたくさん浮かんだ。民間人が逃げ惑う足音が、軽快なBGMに思える。これからなにをしようと、俺の自由ってわけだ。
 窮屈で、人を虐めたり殺したりすることしか娯楽なんてなくて、お互いがお互いを密告し合ってるような田舎とはオサラバってわけだ。

「西に亡命してビールを飲みまくる!」
「いや、無理だろ……」
「俺は国境警備隊だぞ、余裕余裕」
「“元”国境警備隊、な」

 ハイネはガックリ肩を落とした。そんなに軍に戻りたいかね。西にはバナナだけじゃなく、でっかいハンバーガーショップもあるって噂だ。
 この前行けなかったから、たくさん美味いもん食ってやろ。とりあえず、まずこの目立つ服を着替えないとな。

「それに向こうなら、トラバント旧型車より、ずっと良い車に乗れるぜ」

 どこで誰が見ているかわからない。周りに不審に思われないように声を低くした。ハイネはずっと浮かない表情だった。やっぱり殺されそうになったの、ちょっとショックだったのかな。降参したように手を挙げて、俺に微笑んだ。

「あぁ、そうだな」
「そうと決まれば、ロースゲートス出発進行!!」

 楽しみだな。バナナだって食べ放題だし、良い車だって乗り回せる――そう、たとえば最新型のベンツとか。
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