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六章 エルマー編
オデッサファイル
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「お久しぶり」
駐屯場の、建付けの悪い扉が開いた。黒髪の地味な女。訓練施設で同期だったから、名前と顔は一致した。思わず、大きなため息が漏れる。訓練施設のことは、あまり思い出したくない。
「なんの用だよ、クラウゼ」
「わ、私のこと覚えてたんですね」
デスクを片付ける手が止まった。ハインリヒ先輩が熱心に読んでいた文庫本が数冊残っている。これ、貰っちゃっていいかな。なんか面白そうだし。本に罪はないもんね。
「あなた、ハイネのこと嫌いでしょ?」
「は? ハイネって誰だよ」
クラウゼはおどおどした様子で、しかしまっすぐに俺を見た。なんだよ急にこんな窓際部署にやってきて。興味深いタイトルの本と、それ以外を仕分けするために、作業を再開させた。
「前、ここにいたでしょ。ハインリヒ・シュタイナー」
「別に……嫌いじゃない」
小さく嘆息した。ハインリヒ先輩、女の子にハイネって呼ばれてるんすか。ちょっとウケる。クラウゼが先輩とどういう関係なのか、気にならないと言えば嘘になる。けれど、深く追求するほどには興味をひかれなかった。
「アイツ、前政権の大ファンだ」
それで、今じゃ指名手配犯ってわけ。笑える。めぼしい文庫本をピックアップすることができた。中には、“ブッデンブローク家の人々”もあって、なんとも懐かしい気持ちにさせられる。クラウゼは俺を横目でチラッと見て、小さく鼻をすすった。
「そう、そうよね。私もね、家族を殺されたの」
「前の首相はベジタリアンだった。野菜なんて、なにがいいんだか。ソイツのファンだなんて――」
「え?」
ギリギリ、頭痛がするほど歯を食いしばった。クラウゼに、俺の家族のことを知られているんじゃないかとヒヤヒヤした。口がペラペラ回る。メガネを押し上げた。
「野菜なんて食べる必要ない。実家にいた頃、僕は野菜なんて食べなかった」
敗戦が確定して自殺した元首相。共和国出身だってのに、芸術というものをまるで理解していない。ピカソもミロもダリも、全部全部、あんなに素晴らしいのに燃やしてしまった。……ピアノの才能があった俺の姉たちも。
「どういうこと?」
こてっと首を傾げて俺を見上げた。ふと、逮捕された母親の顔が浮かんだ。やたら黒い血の風呂に入っていた。若い女を何人も地下に監禁して殺した。頭痛が酷いと、頻繁をヒステリーを起こした。姉たちがピアノを弾くと、嵐は過ぎ去った。特にあれがお気に入りだった。リストの超絶技巧練習曲、ラ・カンパネラ。
「そんなこと、今は関係ない」
ダメだダメだ、冷静にならないと。深く息を吸い、そして吐いた。軍隊なんてもうやめる。大丈夫、なんせ名誉除隊だ。逮捕されたり、ガス室に送られることだってない。これからは、まともな市民として生きればいい。
「ねぇ、リドルくんが今どうしてるか、教えてあげようか?」
クラウゼの言葉に顔を上げた。リドルくんと知り合いなのか? 国境警備隊から前線に異動になって、素晴らしい戦果をあげたって聞いたけど。リドルくんのことならいつもラジオの周波数が近況を伝えてきた。少佐に昇進しただとか、西の異端審問に呼び出されたとか、それから――。
「たしか、指名手配なんだろ?」
ハインリヒ先輩と仲良く一緒に紙面を踊らせていた。政治批判をした、とかなんとか。物語の中じゃないんだから、たった二分間だって、政治批判は許されない。
「あのね、お願いがあるの……処刑リストをくれない?」
「あれは持ち出し禁止だ! 無理に決まってる!」
クラウゼは上目遣いで俺を見上げた。うるうる、目をうるませている。そんな顔したってダメなもんはダメだ。規則を破れば斬首刑、絞首刑、銃殺刑、いずれかに課せられる。
「いいじゃない、どうせやめるんでしょ?」
「持ち逃げしろっていうのか!?」
「処分したってことにすればいい」
引き出しの一番上を開ける。左から二番目の鍵、過去の処刑リストの棚のものだ。手のひらに食い込むほど、ぎゅっと強く握る。処刑リストなんて、なんに使うんだか。まさかスパイじゃないよな。スパイ行為は、間違いなく銃殺刑だ。
「お前、なんのつもりだ」
「リドルく――」
「わかったわかった。でも、そんなことしたら俺だってただじゃすまない」
リドルくんの名前を出されると弱い。また会いたいと願ってしまう。前代未聞の、一万マルクもの懸賞首だ。どこでなにをしているのやら。
「大丈夫、私が西に亡命させてあげるよ」
本当に大丈夫なんだろうか。リドルくんが国境警備隊から異動させられて、以前よりは西に行きやすくなったという噂は聞いた。
だけど、たんまり地雷は埋まっているし、そう簡単に亡命できるとは思えなかった。あっちはあっちで、合衆国の支配下だ。実家に帰りたい。もう廃墟になってしまっているのかな。それとも更地で、意外と綺麗な自然公園なのかも。中央に噴水があって、白い鳩が飛んでるといいな、なんて。
「気球を使って、上から越えよう!」
「はぁ?」
クラウゼは俺よりも花畑な妄想を繰り広げた。本気なのかな。真剣な眼差しをひしひしと感じる。魅力的な提案だった。右手に握った鍵を
彼女に差し出してしまう。どうせやめるんだし、いいよね。
「ブロンくん、そういうの好きでしょ?」
ニッコリ笑った。胸が踊る。気球って、丸くてふわふわしていて、とってもかわいいと思う。人生で空を飛ぶ機会なんて、そうそう訪れない。
駐屯場の、建付けの悪い扉が開いた。黒髪の地味な女。訓練施設で同期だったから、名前と顔は一致した。思わず、大きなため息が漏れる。訓練施設のことは、あまり思い出したくない。
「なんの用だよ、クラウゼ」
「わ、私のこと覚えてたんですね」
デスクを片付ける手が止まった。ハインリヒ先輩が熱心に読んでいた文庫本が数冊残っている。これ、貰っちゃっていいかな。なんか面白そうだし。本に罪はないもんね。
「あなた、ハイネのこと嫌いでしょ?」
「は? ハイネって誰だよ」
クラウゼはおどおどした様子で、しかしまっすぐに俺を見た。なんだよ急にこんな窓際部署にやってきて。興味深いタイトルの本と、それ以外を仕分けするために、作業を再開させた。
「前、ここにいたでしょ。ハインリヒ・シュタイナー」
「別に……嫌いじゃない」
小さく嘆息した。ハインリヒ先輩、女の子にハイネって呼ばれてるんすか。ちょっとウケる。クラウゼが先輩とどういう関係なのか、気にならないと言えば嘘になる。けれど、深く追求するほどには興味をひかれなかった。
「アイツ、前政権の大ファンだ」
それで、今じゃ指名手配犯ってわけ。笑える。めぼしい文庫本をピックアップすることができた。中には、“ブッデンブローク家の人々”もあって、なんとも懐かしい気持ちにさせられる。クラウゼは俺を横目でチラッと見て、小さく鼻をすすった。
「そう、そうよね。私もね、家族を殺されたの」
「前の首相はベジタリアンだった。野菜なんて、なにがいいんだか。ソイツのファンだなんて――」
「え?」
ギリギリ、頭痛がするほど歯を食いしばった。クラウゼに、俺の家族のことを知られているんじゃないかとヒヤヒヤした。口がペラペラ回る。メガネを押し上げた。
「野菜なんて食べる必要ない。実家にいた頃、僕は野菜なんて食べなかった」
敗戦が確定して自殺した元首相。共和国出身だってのに、芸術というものをまるで理解していない。ピカソもミロもダリも、全部全部、あんなに素晴らしいのに燃やしてしまった。……ピアノの才能があった俺の姉たちも。
「どういうこと?」
こてっと首を傾げて俺を見上げた。ふと、逮捕された母親の顔が浮かんだ。やたら黒い血の風呂に入っていた。若い女を何人も地下に監禁して殺した。頭痛が酷いと、頻繁をヒステリーを起こした。姉たちがピアノを弾くと、嵐は過ぎ去った。特にあれがお気に入りだった。リストの超絶技巧練習曲、ラ・カンパネラ。
「そんなこと、今は関係ない」
ダメだダメだ、冷静にならないと。深く息を吸い、そして吐いた。軍隊なんてもうやめる。大丈夫、なんせ名誉除隊だ。逮捕されたり、ガス室に送られることだってない。これからは、まともな市民として生きればいい。
「ねぇ、リドルくんが今どうしてるか、教えてあげようか?」
クラウゼの言葉に顔を上げた。リドルくんと知り合いなのか? 国境警備隊から前線に異動になって、素晴らしい戦果をあげたって聞いたけど。リドルくんのことならいつもラジオの周波数が近況を伝えてきた。少佐に昇進しただとか、西の異端審問に呼び出されたとか、それから――。
「たしか、指名手配なんだろ?」
ハインリヒ先輩と仲良く一緒に紙面を踊らせていた。政治批判をした、とかなんとか。物語の中じゃないんだから、たった二分間だって、政治批判は許されない。
「あのね、お願いがあるの……処刑リストをくれない?」
「あれは持ち出し禁止だ! 無理に決まってる!」
クラウゼは上目遣いで俺を見上げた。うるうる、目をうるませている。そんな顔したってダメなもんはダメだ。規則を破れば斬首刑、絞首刑、銃殺刑、いずれかに課せられる。
「いいじゃない、どうせやめるんでしょ?」
「持ち逃げしろっていうのか!?」
「処分したってことにすればいい」
引き出しの一番上を開ける。左から二番目の鍵、過去の処刑リストの棚のものだ。手のひらに食い込むほど、ぎゅっと強く握る。処刑リストなんて、なんに使うんだか。まさかスパイじゃないよな。スパイ行為は、間違いなく銃殺刑だ。
「お前、なんのつもりだ」
「リドルく――」
「わかったわかった。でも、そんなことしたら俺だってただじゃすまない」
リドルくんの名前を出されると弱い。また会いたいと願ってしまう。前代未聞の、一万マルクもの懸賞首だ。どこでなにをしているのやら。
「大丈夫、私が西に亡命させてあげるよ」
本当に大丈夫なんだろうか。リドルくんが国境警備隊から異動させられて、以前よりは西に行きやすくなったという噂は聞いた。
だけど、たんまり地雷は埋まっているし、そう簡単に亡命できるとは思えなかった。あっちはあっちで、合衆国の支配下だ。実家に帰りたい。もう廃墟になってしまっているのかな。それとも更地で、意外と綺麗な自然公園なのかも。中央に噴水があって、白い鳩が飛んでるといいな、なんて。
「気球を使って、上から越えよう!」
「はぁ?」
クラウゼは俺よりも花畑な妄想を繰り広げた。本気なのかな。真剣な眼差しをひしひしと感じる。魅力的な提案だった。右手に握った鍵を
彼女に差し出してしまう。どうせやめるんだし、いいよね。
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