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十章 スパイ編
拷問
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「戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である」(1984/ジョージ・オーウェル)
一日のうち二分間なら、なにを憎悪してもいい。映画のスクリーンに罵声を浴びせたり、その唇で不適切なキスを交わしたり。
……でも、現実は小説のように上手くいかない。そんなことわかってる。言われなくたって。
ちょっとばかり大袈裟な音をたてて俺は本を閉じた。そうでもしなければ、うんざりするほど耳を劈く悲鳴で頭をやられてしまう。さっきからずっと鼓膜を揺らしていた。
パイプ椅子から立ち上がる。床に広がった血溜まりを踏んで、ブーツが滑りそうになった。気分が悪い。薄暗い地下室の唯一の光源である電球が何度か点滅した。
拘束された囚人がぐったりと椅子に座っていた。番号はたしか、Nの206。小さな机に置かれたファイルを開いた。不安定に揺れる電球の光でなんとか文字を読む。Nはナチ、彼はその残党なのだろう。クリップで止められている白黒写真には眩い笑顔の少年が映っていた。視線を横に向ける――とても同一人物とは思えない。
指の爪は二十枚全部綺麗に剥がれていて、そこかしこから血を出している。もう虫の息だった。さっきまであげていた、耳にキンキン響く悲鳴ももう聞かずに済むだろう。喉からひゅうひゅう息が漏れている。喋れるのか? これ。
こんなことなら、ギロチンでスパッと首を切られて死んだほうがマシだ。特にスパイはそういう死に方をする可能性がある。仕事、仕事。やりたいとか、やりたくないとかじゃない。
「ハイネくーん、そろそろ交代しよーよ。俺、すっごく疲れちゃった」
フリードリヒが手袋を外した。血溜まりの床にビシャっと音を立てて落ちる。俺はファイルを閉じて机の上に置いた。オーウェルの『1984年』の表紙がこっちを見つめている。ゆっくり瞬きをして黒の手袋を手に取った。仕事仕事。ブーツで血塗れの床を踏みつけて歩く。
「お前、まさか秘密警察だったなんて――こんなことが知れたら……ッゴホ」
どうやらまだ喋れるみたいだ。膝蹴りを入れると、囚人番号N‐206は椅子ごとひっくり返った。ものすごい音が鳴る。やりすぎたか……頭蓋骨が割れていないといいんだが。
深呼吸をして、血と汗をたっぷり含んだ空気を肺に取り込む。どんより、暗い気持ちになった。諜報部にやってきてから、思っていることをそのまま顔に出さない訓練はしてきたが――どこまでそれが役に立っているのかわからない。幸い、薄暗い地下室では細かい表情なんてわからなないだろう。
手袋を左手から順番に嵌めた。指にフィットさせるため、口を使って調整する。椅子に縛られたまま後ろに倒れた囚人の胸ぐらを掴んだ。できるだけ恐ろしく、冷ややかに睨みつける。
「一生懸命命乞いをすれば助けてやってもいい」
「え?」
期待の籠った目。ここから絶望に落とすのが最高に効く。マニュアルにはそう書かれていた。俺は仕事をマニュアル通りに遂行するだけ。――以前東でギロチン係をしていたとき、元SSの囚人も似たようなことを言って命乞いをしていたっけ。俺もいずれは……。
「……なんてな」
無表情のまま椅子ごと彼を引っ張りあげる。ゲッソリ痩せ、写真のようなかつての栄光ある肉体は既に消え失せていた。簡単に持ち上げることができる。後頭部はどうやら無事みたいだ。やれやれ、やりすぎるとまた始末書残業コース確定だからな。
「ね~、勝手に殺すの禁止ね」
「はいはい」
言われなくてもそんなことわかってる。いちいちうるさいんだ。フリードリヒは退屈そうに椅子に座ってぶらぶら足を揺らしていた。年下の上司なんてやりづらいことこの上ない。
しかしフリードリヒは少なくとも、かつての俺のように部下に対して嫌がらせ行為をすることはなかった。それが普通、とアグネスなら鼻で笑うだろうか。
爪はすべて剥がされているならば次は指だ。本当は歯でも構わないが、喋ることが困難になりやすいので推奨されていない。縦かけてある板を取り出して椅子に固定する。慣れた手つきでN‐206の手首や指を板に設置されている輪に嵌めた。これでびくとも動かせないはずだ。
あとは……ナイフか。ズボンのベルトに仕込んであるものを取り出した。ヒュッと息を飲む音が地下室に響く。
「指がぜーんぶなくなる前に、ゲロっちゃったほうがいいよ~」
フリードリヒの軽快な声が恐怖の吐息をかき消した。また余計な口を挟む。ナイフを握りしめた。まずは小指から……おえ、気分が悪い。こっちのほうがゲロりそうだ。
***
「大丈夫~?」
「あ゛? こんなのよゆーだし」
ゲロを我慢しただけでもヨシとしておこう。血溜まりの中に指が数本落ちている。ものすごく気分が悪い。ナイフの柄が血で滑る。おびただしい量の血と、二十枚の爪。それから三、四本の指でやっと欲しい情報を聞き出すことができた。フリードリヒが報告書にペンを走らせる。
「どうせなら、レジスタンスの拷問をしたかったな~」
「またその話か」
うげー、趣味が悪い。今回ばかりは感情を隠すことは叶わなかった。思わず眉を顰める。囚人は俺だ。だから、俺もいつかあんな風に死ぬ。レジスタンスだろうがネオナチだろうが行きつく先はみんな同じだ。拷問され、殺される。
フリードリヒが報告書に走らせているボールペンを止めた。やや大袈裟な動作でファイルを閉じて椅子から立ち上がる。大きく伸びをする。
「さーて、仕事仕事」
一日のうち二分間なら、なにを憎悪してもいい。映画のスクリーンに罵声を浴びせたり、その唇で不適切なキスを交わしたり。
……でも、現実は小説のように上手くいかない。そんなことわかってる。言われなくたって。
ちょっとばかり大袈裟な音をたてて俺は本を閉じた。そうでもしなければ、うんざりするほど耳を劈く悲鳴で頭をやられてしまう。さっきからずっと鼓膜を揺らしていた。
パイプ椅子から立ち上がる。床に広がった血溜まりを踏んで、ブーツが滑りそうになった。気分が悪い。薄暗い地下室の唯一の光源である電球が何度か点滅した。
拘束された囚人がぐったりと椅子に座っていた。番号はたしか、Nの206。小さな机に置かれたファイルを開いた。不安定に揺れる電球の光でなんとか文字を読む。Nはナチ、彼はその残党なのだろう。クリップで止められている白黒写真には眩い笑顔の少年が映っていた。視線を横に向ける――とても同一人物とは思えない。
指の爪は二十枚全部綺麗に剥がれていて、そこかしこから血を出している。もう虫の息だった。さっきまであげていた、耳にキンキン響く悲鳴ももう聞かずに済むだろう。喉からひゅうひゅう息が漏れている。喋れるのか? これ。
こんなことなら、ギロチンでスパッと首を切られて死んだほうがマシだ。特にスパイはそういう死に方をする可能性がある。仕事、仕事。やりたいとか、やりたくないとかじゃない。
「ハイネくーん、そろそろ交代しよーよ。俺、すっごく疲れちゃった」
フリードリヒが手袋を外した。血溜まりの床にビシャっと音を立てて落ちる。俺はファイルを閉じて机の上に置いた。オーウェルの『1984年』の表紙がこっちを見つめている。ゆっくり瞬きをして黒の手袋を手に取った。仕事仕事。ブーツで血塗れの床を踏みつけて歩く。
「お前、まさか秘密警察だったなんて――こんなことが知れたら……ッゴホ」
どうやらまだ喋れるみたいだ。膝蹴りを入れると、囚人番号N‐206は椅子ごとひっくり返った。ものすごい音が鳴る。やりすぎたか……頭蓋骨が割れていないといいんだが。
深呼吸をして、血と汗をたっぷり含んだ空気を肺に取り込む。どんより、暗い気持ちになった。諜報部にやってきてから、思っていることをそのまま顔に出さない訓練はしてきたが――どこまでそれが役に立っているのかわからない。幸い、薄暗い地下室では細かい表情なんてわからなないだろう。
手袋を左手から順番に嵌めた。指にフィットさせるため、口を使って調整する。椅子に縛られたまま後ろに倒れた囚人の胸ぐらを掴んだ。できるだけ恐ろしく、冷ややかに睨みつける。
「一生懸命命乞いをすれば助けてやってもいい」
「え?」
期待の籠った目。ここから絶望に落とすのが最高に効く。マニュアルにはそう書かれていた。俺は仕事をマニュアル通りに遂行するだけ。――以前東でギロチン係をしていたとき、元SSの囚人も似たようなことを言って命乞いをしていたっけ。俺もいずれは……。
「……なんてな」
無表情のまま椅子ごと彼を引っ張りあげる。ゲッソリ痩せ、写真のようなかつての栄光ある肉体は既に消え失せていた。簡単に持ち上げることができる。後頭部はどうやら無事みたいだ。やれやれ、やりすぎるとまた始末書残業コース確定だからな。
「ね~、勝手に殺すの禁止ね」
「はいはい」
言われなくてもそんなことわかってる。いちいちうるさいんだ。フリードリヒは退屈そうに椅子に座ってぶらぶら足を揺らしていた。年下の上司なんてやりづらいことこの上ない。
しかしフリードリヒは少なくとも、かつての俺のように部下に対して嫌がらせ行為をすることはなかった。それが普通、とアグネスなら鼻で笑うだろうか。
爪はすべて剥がされているならば次は指だ。本当は歯でも構わないが、喋ることが困難になりやすいので推奨されていない。縦かけてある板を取り出して椅子に固定する。慣れた手つきでN‐206の手首や指を板に設置されている輪に嵌めた。これでびくとも動かせないはずだ。
あとは……ナイフか。ズボンのベルトに仕込んであるものを取り出した。ヒュッと息を飲む音が地下室に響く。
「指がぜーんぶなくなる前に、ゲロっちゃったほうがいいよ~」
フリードリヒの軽快な声が恐怖の吐息をかき消した。また余計な口を挟む。ナイフを握りしめた。まずは小指から……おえ、気分が悪い。こっちのほうがゲロりそうだ。
***
「大丈夫~?」
「あ゛? こんなのよゆーだし」
ゲロを我慢しただけでもヨシとしておこう。血溜まりの中に指が数本落ちている。ものすごく気分が悪い。ナイフの柄が血で滑る。おびただしい量の血と、二十枚の爪。それから三、四本の指でやっと欲しい情報を聞き出すことができた。フリードリヒが報告書にペンを走らせる。
「どうせなら、レジスタンスの拷問をしたかったな~」
「またその話か」
うげー、趣味が悪い。今回ばかりは感情を隠すことは叶わなかった。思わず眉を顰める。囚人は俺だ。だから、俺もいつかあんな風に死ぬ。レジスタンスだろうがネオナチだろうが行きつく先はみんな同じだ。拷問され、殺される。
フリードリヒが報告書に走らせているボールペンを止めた。やや大袈裟な動作でファイルを閉じて椅子から立ち上がる。大きく伸びをする。
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