ドレスデンのドリルきゅん

つなかん

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十章 スパイ編

第二種混血

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「ね、この書類なに?」
「あ゛?」

 おぇ……。まだ頭の中にべったりあの光景がへばりついていた。叫び声も、呻き声も、弱々しい命乞いも。聞き入れてもらえるなんて本気で思っていたんだろうか。
 どんなに階級が上の位でも、戦争犯罪人の多くが最期には命乞いをした。さながら屠殺場の豚のように。人間を殺すなんて今更、たいしたことじゃないハズなのに細かく指が震えていた。

 無機質な地下室とは異なり、事務室は物で溢れかえっていた。机上にはタイプライターと黒電話。整理されたファイルがうずたかく積まれている。机の数に比べて椅子の数は極端に少ない。この仕事諜報部はいつだって出張続きだ。俺だってつい最近まで、ド田舎のギムナジウムに飛ばされていた。

「なんで怒ってるの?」
「怒ってない!」

 まだ書類仕事がたんまり残ってるってのに。イライラして貧乏揺すりをした。フリードリヒが退屈そうに唇を尖らせる。

「うわー、不機嫌ハラスメント」

 なんとでも言え、上機嫌ハラスメント野郎め。指の皮が剥けるほど手を洗ったはずなのに、分厚い手袋だってしていたはずなのに、まだ両手が血で汚れている気がした。いや、もうとっくに汚れている。
 俺だってリドルのように、もっと気軽に人殺しを楽しめばいい。もしくはこのフリードリヒのように、もっと仕事として割り切るとか。器用に生きることができたら、こんなことにはなってないか。

 フリードリヒが椅子の上にふんぞり返ってパラパラファイルを捲った。チラッと見えた表紙には五年も前の日付が刻印されていた。――五年前、なんだか嫌な予感がした。

「俺らが兄弟ってことになってる。上手くできてるけど……偽造でしょ?」
「それは、試験を受けるために」

 もごもご返事をした。あまり思い出したくない。血統証明書の偽造――公文書を捏造したのに結局試験は受けられなかった。オマケに、親を殺され村を焼かれた。それから、当局にマークされて職を追われた。
 そんなに悪いことをしたとは思えない。ま、この上機嫌ハラスメント野郎と兄弟設定なのは反吐が出るけれど。丁度、ガチャっと大袈裟な音を立てて部屋の扉が開かれた。

「……お疲れ様です」
「おつ~」

 アグネス・クラウゼ――昔とはだいぶ印象が変わった。無表情のまま俺たちを一瞥して椅子を引いた。タイプライターに用紙をセットする。

 フリードリヒはそんなアグネスを気に留める様子すらなかった。いつものこと。ギスギスした人間関係なんて日常茶飯事。手に持っていた五年前のファイルを閉じて机に放った。背もたれに体重を預ける。椅子がキィ、と小さく軋んだ。

「で、試験って?」

 いやこの話続けるんかい。アグネスが一定間隔で叩くタイプライターの音が耳に響いた。時計の秒針の音と、端まで文字を打ったというチーンという間抜けな合図。

「SSの……」

 ボソッと呟くと机を叩く大きな音が鼓膜を揺らした。アグネスがタイプライターを打っていた手を止めて立ち上がる。俺のほうをキッと睨みつけた。

「ほら! 差別主義者レイシスト!」

 指をさすなよ。アグネス、昔はこんなんじゃなかった。泥だらけになって遊んで、農作業をして、豚や人を殺して、死体を埋めて――そりゃまぁ、楽しかったわけじゃないが。
 ……おぇ。これまで網膜に映してきた散らばった人間だったものたちが、紙芝居みたいに順番に思い出された。込み上げてくる胃液をなんとか抑え込む。
 ポーカーフェイスもできないんじゃこの仕事向いてない。歳下の上司フリードリヒにそう教わったばかりだった。小さく息を吐く。

「そうヒスるなよ。スパイには冷静さが必要不可欠、だろ?」
「サイテー」

 アグネスはギロりと俺を睨みつけたのち、再び席に座った。何事もなかったかのようにすました顔でタイプライターを叩く。

「まぁそう喧嘩しないでさぁ、チームメイトとは仲良くしようよ」

 フリードリヒが机をトントンと叩いた。イラついている様子はなく、ニコニコ笑顔を崩さない。そんなことより“チーム”という言葉が気になった。アグネスも俺と同じことを考えているらしく、訝しげに眉根に皺を寄せた。タイプライターから指を離し、まっすぐにフリードリヒを見つめる。

「チーム? なに、新しい仕事?」
「そ、次は東側! 楽しみだよね~」

 東……思わず息を飲んだ。スパイ行為は銃殺刑、特に俺はあっちじゃ指名手配犯だ。今度こそ命はない。自分がどんな死に方をするのか、想像するだけで気が滅入った。

「あの、それ俺は――」
「ハイネくんがいなきゃダメだよなにそろ、先方の指名だからね!」

 フリードリヒは当然、とばかりにウィンクを飛ばした。センポウ、シメイ、なんだか頭がクラクラしてきた。堪えていたため息が漏れ出した。

「だからその呼び方やめろ」

 フリードリヒは俺の言葉なんてまるで聞こえていないみたいにやれやれと首を振った。背もたれから体重を前に移動させ、いつになく真剣な表情でテーブルに両肘をつく。

「言っとくけどこれは“仕事”だよ」
「……わかってる」

 動揺して思わず視線を逸らした。別に断ろうなんて思ってない。上からの命令に従う。俺にはそれしか能がないから。アグネスみたいに賢くないし、リドルみたいに強くない。

「ハイネには難しいんじゃない」
「あ゛? どういうことだよアグネス」

 涼しい顔でタイプライターを叩くアグネスを見ているとイラついてきた。昔は大人しくていい奴だったのに。今じゃ合衆国の言いなりだ。俺のほうを見てフッと鼻で笑う。

「公私混同? 得意じゃん?」
「言うようになったな」

 報告書の偽装、もしかしてバレているんだろうか。嘘はもっと上手につかなくちゃ。注意された言葉が脳内を反芻した。机に積まれていたファイルのうち、一番上のものを手に取ってパラパラとページを捲る。

「うーん、この資料によると第二級混血」
「殺す!」

 ポーカーフェイスなんて無理だ。つい、ありえないくらいの大声を出す。アグネスがビクッと肩を震わせた。びっくりさせてしまったのかもしれない。
 それでもコンプレックスを刺激され、我慢できずにガタッと椅子から立ち上がった。フリードリヒの持っているファイルに手を伸ばすが、ひょいと避けられてしまう。

「言いふらされたくなかったら、ちゃんと仕事してね~」
「次はなにをするんだ」

 チーム、チーム。連帯責任、団体行動。仕事。第二種混血。嫌な言葉たちが脳内を巡った。フリードリヒが大袈裟な動作でファイルを閉じてニヤッと笑った。

「ま、ず、は~。テーブルマナーの練習からかな!」
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