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四 新たな依頼
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それから三ヵ月経った六月下旬。梅雨入りして毎日が湿っぽい中、今日は梅雨の晴れ間で久しぶりの日差しが街を清々しく照らしている。仕事の三時休憩に食べるおやつをコンビニで買って来た私が紙カップ入りのアイスコーヒーを飲みながら紙山文具店の前を通ると、濃紺のエプロンをつけた紙山さんが店のガラス扉の真ん中にいつも貼られている貼り紙を新しいものに変えていた。
『知恵をペン先に込め、どんな謎もサクっと解決いたします』
そんな文言の書かれた貼り紙にあれ?と首を傾げる。
「紙山さん、こんにちは」
「なんだ、またお前か」
「貼り紙、変えたんですね。サクッとのところ、前は”スカッと”解決だったじゃないですか。何で変えたんですか?」
「最近、とんと依頼がない。サクッとの方が重たくなくて気軽に依頼できるかと思ってな」
「クッキーじゃないんだから」
「―いや待て―だとしたらパリッとの方がいいかもしれない」
「ウインナーの話でした?」
「お前が食べ物に置き換えるからだ。この食いしん坊、毎日飽きもせずになぜここを通る?」
「それは……仕方なくです。コンビニにおやつを買いに行くにはここを通らなきゃいけないし」
「家で作ってくればいいだろう。今度日持ちがするものを教えてやる」
「え?本当ですか?やったぁ!」
紙山さんは料理が趣味だ。その上お菓子も食べさせてもらえるなんて嬉しくて喜んだら紙山さんは仕方ない奴だと呆れ顔をしながら店へと戻って行った。その背中に愛おしさがこみ上げる。本当の理由は好きだから毎日飽きもせず通るんですよ、なんて言ったら紙山さん、なんて言うだろう。言えない想いを噛み締めて勤務先に戻る道を歩き出す。
紙山さんは超絶イケメンの紙山文具店の二代目店主だ。今は亡き祖父の店を守りながら探偵社を営む父親の影響で前職にしていた探偵もやっている。中学生相手に依頼料十万円を前払いしろとか意地悪な事を言うこともあるが、三ヵ月前に彼を手伝って探偵の助手をした事がある私はそれがジョークだとわかっている。初めて手伝った事件は近くの私立中学の女生徒からの依頼だった。犯人に脅迫状までもらった私はちょっとの間、紙山文具店の三階の彼の部屋に身を隠していた。その事件は短期間で解決できたのだけれど、予想外の事が起きた。
無愛想で感じ悪いなぁというのが第一印象だった紙山さんと一緒に生活して情が移ったせいか、一人暮らしのアパートにいるよりも紙山さんとご飯を食べたり、あれこれ言い合いながらも話すのが楽しく思えてしまったのだ。今では、一人の異性としてガッツリ意識している。
好きな人の存在は偉大だ。紙山さんに会うと元気が出る。定時終わりまでのあと二時間も軽々と乗り越えてしまえる気がする。足取りも軽く頬を緩ませながら自社ビルの総務部に戻ると買って来たおやつのプリンの蓋に心の中でお気に入りのラブソングの鼻歌を歌いながら手をかけたら、プルルッと内線が鳴った。
「はい、筆野です!」
気分が上がっていたので元気よく発声した私の耳にじめっとした梅雨真っ盛りの雨粒のような陰気な声が降り注ぐ。
「今すぐ二階の会議室に来い」
総務部の墨田係長だ。その低温ボイスは特に不機嫌な時に出る音程で、聞いた途端にドバッと泥水を入れられたように背中がむず痒くなった。
「……今ちょっと取り込んでいまして」
「ならなぜワンコールで出た?」
「うっ」
「いいから早く来い!」
電話越しに雷が落ちて通話が切られる。盛大にため息を吐くと早速ズキズキと痛み始めた胃の辺りをぎゅっと抑えた。
「つーちゃん、胃薬あるよ?」
隣の席の二つ上の先輩の菊池さんが心配そうなまなざしを送ってくる。
「なんのこれしき。大丈夫です」
「本当に?本当に本当に無理してない?」
「本当に本当に大丈夫です」
優しい先輩の言葉に実はもう涙目になりそうだけれど、目の奥に引っ込めて笑顔を作った。菊池さんは癒やし系美人で日本人形みたいにおしとやかな佇まいの女性だ。新人である私をつーちゃんと名付け、いつも気にかけて可愛がってくれている。
「つらい時は言ってね。うちの課、新人入っても係長のいびりですぐ辞めちゃうのに、ここまでがんばってくれているのって前任の女性と筆野さんだけだからなんだか心配で心配で」
前任の女性とは紙山さんの元彼女、奈々子さんの事だろう。ストレスで痛む胃の辺りをさすりながら周りを見ると、他の課員も菊池さんと同じような憐れみの視線を送ってきている。
「ははっ、いったい何があったんでしょうね。それでは筆野、はりきって行って参りまーす」
皆を心配させまいと胸を張って宣言する。そして心ではさめざめと泣きながら鬼の墨田係長の待つ会議室へと向かった。
墨田係長は私にやたらと厳しい。今年の四月に入社して三ヵ月経ち、仕事にもだいぶ慣れて来たというのに意味もなく理不尽な理由で叱られることが日常だ。
その原因はわかっている。新人だからというよりも、私が紙山さんに一方的に懐いて交流しているのがどうも気に食わないみたいなのだ。創業以来社内で使う文具を一手に引き受けている紙山文具店の店主である紙山さんは社内に出入りすることもあり、その顔面の良さで社内の女性社員から注目されている。それを見ると”アイツばかりモテてムカつく”らしい。まるで小学生並みのやっかみだ。けれど係長は紙山さんが未だに元カノであった私の担当業務の前任者、百瀬奈々子さんという女性への未練を引きずっているから他の女性に興味がないのだという事を知らない。その奈々子さんにはもう結婚を前提で付き合う婚約者ができてしまった。それを知った今も紙山さんはまだ、彼女の好きな色だった薄ピンク色のエプロンを家事をする時はずっとつけているくらいに奈々子さんへの想いを捨てきれずにいる。それでも私は紙山さんが好きで、できるなら振り向いて欲しいし、役に立ちたいと思うわけで。
そこである決意を固めた。それは奈々子さんが教えてくれた五年前に紙山文具店で起きた哀しい出来事についてのことだ。通り魔に追いかけられた子供が店に逃げ込み、当時の店主の紙山さんの祖父と紙山さんに頼まれてその日たまたま店を手伝っていたお母さんが子供を守ろうとしたあげくに刺されて亡くなった事件。その未だに見つかっていない犯人を探すと決めた。意を決して紙山さんに犯人の手がかりを探したいと言ったら、最初はお前には関係のないことだと断られた。けれど引き下がらない私に最後は根負けしたみたいで諦めたように言ってくれた。
『決めるのは、お前だ。勝手にしろ。だが、あくまでも単独行動はするな。俺のそばで動け』
まだ一緒に行動できると嬉しくてニマニマと口元が緩んでしまい、紙山さんに不思議そうな顔をされた。その時の事を想い出せばまた頬が緩んでしまう。いけないと気持ちを引き締め、紙山さんから初めて“筆野”と名前を呼んでもらえたあの日に教えられた通り、精一杯胸を張って会議室のドアをノックした。会議室に入ると、意外過ぎる人物が私を待っていた。
「長野県の遠久野《とおくの》高原リゾートにある大型アウトレットモールでね、この夏休み期間だけ販促の為にアウトドアグッズの販売を行う事になった。それで君に私と同行してその手伝いをして欲しい」
そう言ったのは、営業一課の蒼井課長、二十九歳。各営業部が具体的に何をやっているかもまだ疎い私でも彼の名は知っていた。知覚野商事一の売上を誇る人気アウトドアグッズを企画販売する営業部のエリート課長だ。人当たりがよく爽やかなイケメンでこなせないスポーツはないという噂も聞いている。
「そういう事だから私はここで失礼」
なんだかとても不機嫌そうに私を睨みつけながら蒼井課長の隣にいた墨田係長が退室して行く。不安げに見送っていた私に蒼井課長がスッと名刺を差し出した。
「ちゃんと話すのはこれが初めてだよね。よろしくね、筆野さん」
そう言ってにっこりと微笑む蒼井課長は”エリート然とした凛々しさ”と”爽やか”を足して無限大にしたような完璧なビジネスマンと言った雰囲気で、そこはかとなく良い匂いがした。これっていわゆる大人の”フェロモン”ってやつかも……。ああ、こんな上司が良かったなぁ……。ついうっとりと蒼井課長を見ていたら目の前で手を左右に振られた。
「大丈夫?具合でも悪い?」
「あっ、いいえ!元気です」
私も名刺を出して渡すと、蒼井課長はそれをじっと見つめてから口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「名前はどう読むの?」
「つづりです」
「へぇ、品がいいね。君の雰囲気によく似合っている」
そう言われてなんだか照れてしまう。誰かさんと比べてこの思いやりのある優しい感じには惚れ惚れする。今すぐ営業一課に異動願いを出したいくらい。
まだぼーっとしている私に誰かが締まりのない顔だなと声を発した。他にもまだ誰かいたのかと驚いてそちらを見たら目が丸くなった。会議室のテーブルの端っこに座っていたその人物に見覚えがあったからだ。
「紙山さん!なんでここに?!」
「仕事。蒼井とカレンダーの打ち合わせだ」
「君はどうやら彼と知り合いみたいだね。今回のイベントもやりやすそうだ。さあ座って座って」
そう言うと蒼井課長は口をあんぐり開けたままの私を促して会議室の椅子を引いて座らせてくれた。ここは高級レストランだった?そのジェントルマンな所作すらも某係長と比べてしまう。ありがとうございますと照れながらお礼を言うと向かいに座って腕を組んでいた紙山さんが不機嫌そうに言う。
「その締まりのない顔を戻せ」
「そ、そっちこそ何ですか。ここの会社に来るときだけスーツなんか着てカッコつけて。しかもいつも同じグレースーツに紫色のネクタイって、それしか持ってないんでしょ?」
「ああ、そうだ。悪いか」
「ストップ!君達、思っていた以上に仲が良さそうだね。嫉妬しちゃうなぁ、はは」
「冗談じゃない」
「それはこっちの台詞です!」
思わず息巻いて言ったけれどなんだか胸がちくちくと痛い。紙山さんのバカ。大嫌いになっちゃうぞ。
「まぁまぁ筆野さん、落ち着こう。紙山は昔から素直じゃない。心と裏腹な事ばかり言う奴なんだ。気にしないでいいよ」
「俺は思ったままに言っている。その方が相手の為だ」
「うー」
「唸るな、犬か?」
「昔から変わってないなお前も。可愛い子程いじめたくなるってやつだぞ、それは」
「そんなんじゃねえ」
昔から?さっきからまるで友達の様に話しているけど、なぜだろうと疑問が湧く。
「蒼井課長と紙山さんって昔からのお知り合いなんですか?」
「高校で知り合ったんだ。大学も一緒でさ。以来、遊び友達だよ」
「紙山さん、お友達いたんですか?」
「友達ぐらいいる」
「口は悪いけど良い奴なんだよ。それより本題に入ろう」
二人の意外なつながりに驚いている私の前に蒼井課長はそう言いながらパンフレットの様なものを置いた。表紙には《あけぼの印刷》と書かれてある。
「長野県にある印刷会社の会社案内だ。紙の製造から印刷物の請負まで幅広くやっている。ここに今回の出張の間にアポを取って行こうと思っているんだ」
「はい」
「うちの部では毎年、年末年始にかけて社名入りのノベルティカレンダーを顧客に配って販促に努めていてね。自社製品を買ってくれた客に取り扱い店舗のレジで特典として配ってもらっているんだ。ところが前から頼んでいた印刷会社が潰れたと先日連絡が来てね。それで思いついたんだ。紙山が毎年持って来てくれるあけぼの印刷の作る紙山文具のノベルティカレンダーはいつも紙の質がいい。デザインも素晴らしい。だからうちも今年からここに頼もうと思って連絡したら断られた。あけぼのの社長が紙山文具としか取引きしないって言うんだよ」
「えっ、理由は?」
「それが電話口では教えてもらえなくてね。それで今回のイベント先がちょうど同じ長野だから紙山も一緒に同行してもらって社長に直接交渉しようと思っている」
「同行?」
「紙山にアポを取ってもらって一緒に交渉に行くつもりだ。断られるかもしれないが直接会ってみないとわからないからね。普段の業務で忙しいとは思うけれどすまないが君もこのパンフレットに目を通しておいてもらいたいんだ」
「わかりました」
パンフレットの一ページ目をめくってみると一見強面な社長の顔が大きな写真入りで載っていた。紫色のスーツに同色のシャツに黒いネクタイ、頭は見事なパンチパーマで薄紫のレンズの四角い眼鏡をかけている。なんだか社長というよりも組長みたいで手強そうだ。断られて叩き出される私達を想像して身震いがした。
「気が向かないかい?」
「いえっ、そんな!寧ろ嬉しいです。私なんかを抜擢していただけるなんて」
いつも墨田係長に不遇な扱いを受けている身としては本当に涙が出そうなくらいに嬉しい。
「実は一緒に準備していた課員が高所恐怖症なので同行は無理ですって急に辞退してきてね。イベント会場になるショッピングモールは高原にあって標高の高い崖の上にあるんだよ。おまけに空気もちょっと薄い。でも、君は若いし、体力もありそうだ」
「それでわたしをご指名されたんですか」
「ああ。でもそれだけじゃない」
蒼井課長は急に熱っぽいまなざしで私を見つめてくる。
「いつも見ていたんだ、君を。君は今までになく素晴らしい」
「えっ、あ、あのっ、そういうのは困ります……」
思わずちらっと紙山さんを見るとつまらなそうにボールペンを指で回している。
「こ、告白とか、ここじゃマズイかもです課長」
「いつも感心して見ていた。あの嫌味全開な墨田係長のところでよく三ヶ月近くもがんばっているって」
「そこ?!」
「君はタフだ。どんな高所でもへこたれずにきっと最後まで責任をもって仕事をやり遂げてくれるって確信している。さぁ、共にいざ長野へ!」
「はは……そっちですか」
差し出された手を握り返しながら紙山さんを見たら椅子に寄りかかって腕組みしながら居眠りしていた。私に関心すらないの、切なすぎるね、うん。しかし必要とされているのは嬉しい。紙山さん、見てなさい。今度は課長の仕事で役に立つのだっ!
「課長の為なら筆野綴、火の中、水の中、山の中、どんなに空気が薄くともお供いたしますっ!」
「お前、単純だな」
「何か言いました?」
いつの間に起きたのだ。呆れ顔でそう言い放ってきた紙山さんを睨んだらフンと目を逸らされてしまった。紙山さんはそうやっていつもからかうけど、蒼井課長はそんな私の日頃の努力(嫌味を言われているだけ)を買ってくれているんだよ?やる気出ちゃうよ、そりゃあ。身体からふつふつとみなぎってくるやる気。上司に対して前向きなやる気を感じたのはかつてない事。よし初出張、がんばるぞー!
「お任せ下さい!何を聞かれても答えられるようにこのパンフ丸暗記しますねっ!」
「頼もしいね。さすが筆野さんだよ!」
どうやら蒼井課長は褒め上手らしい。褒められるのは普段の反動からか全く慣れていないから余計に嬉しく感じる。でもこの時の私は思ってもみなかった。この七日間の出張が思いもかけない出来事の始まりになるなんて……。
『知恵をペン先に込め、どんな謎もサクっと解決いたします』
そんな文言の書かれた貼り紙にあれ?と首を傾げる。
「紙山さん、こんにちは」
「なんだ、またお前か」
「貼り紙、変えたんですね。サクッとのところ、前は”スカッと”解決だったじゃないですか。何で変えたんですか?」
「最近、とんと依頼がない。サクッとの方が重たくなくて気軽に依頼できるかと思ってな」
「クッキーじゃないんだから」
「―いや待て―だとしたらパリッとの方がいいかもしれない」
「ウインナーの話でした?」
「お前が食べ物に置き換えるからだ。この食いしん坊、毎日飽きもせずになぜここを通る?」
「それは……仕方なくです。コンビニにおやつを買いに行くにはここを通らなきゃいけないし」
「家で作ってくればいいだろう。今度日持ちがするものを教えてやる」
「え?本当ですか?やったぁ!」
紙山さんは料理が趣味だ。その上お菓子も食べさせてもらえるなんて嬉しくて喜んだら紙山さんは仕方ない奴だと呆れ顔をしながら店へと戻って行った。その背中に愛おしさがこみ上げる。本当の理由は好きだから毎日飽きもせず通るんですよ、なんて言ったら紙山さん、なんて言うだろう。言えない想いを噛み締めて勤務先に戻る道を歩き出す。
紙山さんは超絶イケメンの紙山文具店の二代目店主だ。今は亡き祖父の店を守りながら探偵社を営む父親の影響で前職にしていた探偵もやっている。中学生相手に依頼料十万円を前払いしろとか意地悪な事を言うこともあるが、三ヵ月前に彼を手伝って探偵の助手をした事がある私はそれがジョークだとわかっている。初めて手伝った事件は近くの私立中学の女生徒からの依頼だった。犯人に脅迫状までもらった私はちょっとの間、紙山文具店の三階の彼の部屋に身を隠していた。その事件は短期間で解決できたのだけれど、予想外の事が起きた。
無愛想で感じ悪いなぁというのが第一印象だった紙山さんと一緒に生活して情が移ったせいか、一人暮らしのアパートにいるよりも紙山さんとご飯を食べたり、あれこれ言い合いながらも話すのが楽しく思えてしまったのだ。今では、一人の異性としてガッツリ意識している。
好きな人の存在は偉大だ。紙山さんに会うと元気が出る。定時終わりまでのあと二時間も軽々と乗り越えてしまえる気がする。足取りも軽く頬を緩ませながら自社ビルの総務部に戻ると買って来たおやつのプリンの蓋に心の中でお気に入りのラブソングの鼻歌を歌いながら手をかけたら、プルルッと内線が鳴った。
「はい、筆野です!」
気分が上がっていたので元気よく発声した私の耳にじめっとした梅雨真っ盛りの雨粒のような陰気な声が降り注ぐ。
「今すぐ二階の会議室に来い」
総務部の墨田係長だ。その低温ボイスは特に不機嫌な時に出る音程で、聞いた途端にドバッと泥水を入れられたように背中がむず痒くなった。
「……今ちょっと取り込んでいまして」
「ならなぜワンコールで出た?」
「うっ」
「いいから早く来い!」
電話越しに雷が落ちて通話が切られる。盛大にため息を吐くと早速ズキズキと痛み始めた胃の辺りをぎゅっと抑えた。
「つーちゃん、胃薬あるよ?」
隣の席の二つ上の先輩の菊池さんが心配そうなまなざしを送ってくる。
「なんのこれしき。大丈夫です」
「本当に?本当に本当に無理してない?」
「本当に本当に大丈夫です」
優しい先輩の言葉に実はもう涙目になりそうだけれど、目の奥に引っ込めて笑顔を作った。菊池さんは癒やし系美人で日本人形みたいにおしとやかな佇まいの女性だ。新人である私をつーちゃんと名付け、いつも気にかけて可愛がってくれている。
「つらい時は言ってね。うちの課、新人入っても係長のいびりですぐ辞めちゃうのに、ここまでがんばってくれているのって前任の女性と筆野さんだけだからなんだか心配で心配で」
前任の女性とは紙山さんの元彼女、奈々子さんの事だろう。ストレスで痛む胃の辺りをさすりながら周りを見ると、他の課員も菊池さんと同じような憐れみの視線を送ってきている。
「ははっ、いったい何があったんでしょうね。それでは筆野、はりきって行って参りまーす」
皆を心配させまいと胸を張って宣言する。そして心ではさめざめと泣きながら鬼の墨田係長の待つ会議室へと向かった。
墨田係長は私にやたらと厳しい。今年の四月に入社して三ヵ月経ち、仕事にもだいぶ慣れて来たというのに意味もなく理不尽な理由で叱られることが日常だ。
その原因はわかっている。新人だからというよりも、私が紙山さんに一方的に懐いて交流しているのがどうも気に食わないみたいなのだ。創業以来社内で使う文具を一手に引き受けている紙山文具店の店主である紙山さんは社内に出入りすることもあり、その顔面の良さで社内の女性社員から注目されている。それを見ると”アイツばかりモテてムカつく”らしい。まるで小学生並みのやっかみだ。けれど係長は紙山さんが未だに元カノであった私の担当業務の前任者、百瀬奈々子さんという女性への未練を引きずっているから他の女性に興味がないのだという事を知らない。その奈々子さんにはもう結婚を前提で付き合う婚約者ができてしまった。それを知った今も紙山さんはまだ、彼女の好きな色だった薄ピンク色のエプロンを家事をする時はずっとつけているくらいに奈々子さんへの想いを捨てきれずにいる。それでも私は紙山さんが好きで、できるなら振り向いて欲しいし、役に立ちたいと思うわけで。
そこである決意を固めた。それは奈々子さんが教えてくれた五年前に紙山文具店で起きた哀しい出来事についてのことだ。通り魔に追いかけられた子供が店に逃げ込み、当時の店主の紙山さんの祖父と紙山さんに頼まれてその日たまたま店を手伝っていたお母さんが子供を守ろうとしたあげくに刺されて亡くなった事件。その未だに見つかっていない犯人を探すと決めた。意を決して紙山さんに犯人の手がかりを探したいと言ったら、最初はお前には関係のないことだと断られた。けれど引き下がらない私に最後は根負けしたみたいで諦めたように言ってくれた。
『決めるのは、お前だ。勝手にしろ。だが、あくまでも単独行動はするな。俺のそばで動け』
まだ一緒に行動できると嬉しくてニマニマと口元が緩んでしまい、紙山さんに不思議そうな顔をされた。その時の事を想い出せばまた頬が緩んでしまう。いけないと気持ちを引き締め、紙山さんから初めて“筆野”と名前を呼んでもらえたあの日に教えられた通り、精一杯胸を張って会議室のドアをノックした。会議室に入ると、意外過ぎる人物が私を待っていた。
「長野県の遠久野《とおくの》高原リゾートにある大型アウトレットモールでね、この夏休み期間だけ販促の為にアウトドアグッズの販売を行う事になった。それで君に私と同行してその手伝いをして欲しい」
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「ちゃんと話すのはこれが初めてだよね。よろしくね、筆野さん」
そう言ってにっこりと微笑む蒼井課長は”エリート然とした凛々しさ”と”爽やか”を足して無限大にしたような完璧なビジネスマンと言った雰囲気で、そこはかとなく良い匂いがした。これっていわゆる大人の”フェロモン”ってやつかも……。ああ、こんな上司が良かったなぁ……。ついうっとりと蒼井課長を見ていたら目の前で手を左右に振られた。
「大丈夫?具合でも悪い?」
「あっ、いいえ!元気です」
私も名刺を出して渡すと、蒼井課長はそれをじっと見つめてから口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「名前はどう読むの?」
「つづりです」
「へぇ、品がいいね。君の雰囲気によく似合っている」
そう言われてなんだか照れてしまう。誰かさんと比べてこの思いやりのある優しい感じには惚れ惚れする。今すぐ営業一課に異動願いを出したいくらい。
まだぼーっとしている私に誰かが締まりのない顔だなと声を発した。他にもまだ誰かいたのかと驚いてそちらを見たら目が丸くなった。会議室のテーブルの端っこに座っていたその人物に見覚えがあったからだ。
「紙山さん!なんでここに?!」
「仕事。蒼井とカレンダーの打ち合わせだ」
「君はどうやら彼と知り合いみたいだね。今回のイベントもやりやすそうだ。さあ座って座って」
そう言うと蒼井課長は口をあんぐり開けたままの私を促して会議室の椅子を引いて座らせてくれた。ここは高級レストランだった?そのジェントルマンな所作すらも某係長と比べてしまう。ありがとうございますと照れながらお礼を言うと向かいに座って腕を組んでいた紙山さんが不機嫌そうに言う。
「その締まりのない顔を戻せ」
「そ、そっちこそ何ですか。ここの会社に来るときだけスーツなんか着てカッコつけて。しかもいつも同じグレースーツに紫色のネクタイって、それしか持ってないんでしょ?」
「ああ、そうだ。悪いか」
「ストップ!君達、思っていた以上に仲が良さそうだね。嫉妬しちゃうなぁ、はは」
「冗談じゃない」
「それはこっちの台詞です!」
思わず息巻いて言ったけれどなんだか胸がちくちくと痛い。紙山さんのバカ。大嫌いになっちゃうぞ。
「まぁまぁ筆野さん、落ち着こう。紙山は昔から素直じゃない。心と裏腹な事ばかり言う奴なんだ。気にしないでいいよ」
「俺は思ったままに言っている。その方が相手の為だ」
「うー」
「唸るな、犬か?」
「昔から変わってないなお前も。可愛い子程いじめたくなるってやつだぞ、それは」
「そんなんじゃねえ」
昔から?さっきからまるで友達の様に話しているけど、なぜだろうと疑問が湧く。
「蒼井課長と紙山さんって昔からのお知り合いなんですか?」
「高校で知り合ったんだ。大学も一緒でさ。以来、遊び友達だよ」
「紙山さん、お友達いたんですか?」
「友達ぐらいいる」
「口は悪いけど良い奴なんだよ。それより本題に入ろう」
二人の意外なつながりに驚いている私の前に蒼井課長はそう言いながらパンフレットの様なものを置いた。表紙には《あけぼの印刷》と書かれてある。
「長野県にある印刷会社の会社案内だ。紙の製造から印刷物の請負まで幅広くやっている。ここに今回の出張の間にアポを取って行こうと思っているんだ」
「はい」
「うちの部では毎年、年末年始にかけて社名入りのノベルティカレンダーを顧客に配って販促に努めていてね。自社製品を買ってくれた客に取り扱い店舗のレジで特典として配ってもらっているんだ。ところが前から頼んでいた印刷会社が潰れたと先日連絡が来てね。それで思いついたんだ。紙山が毎年持って来てくれるあけぼの印刷の作る紙山文具のノベルティカレンダーはいつも紙の質がいい。デザインも素晴らしい。だからうちも今年からここに頼もうと思って連絡したら断られた。あけぼのの社長が紙山文具としか取引きしないって言うんだよ」
「えっ、理由は?」
「それが電話口では教えてもらえなくてね。それで今回のイベント先がちょうど同じ長野だから紙山も一緒に同行してもらって社長に直接交渉しようと思っている」
「同行?」
「紙山にアポを取ってもらって一緒に交渉に行くつもりだ。断られるかもしれないが直接会ってみないとわからないからね。普段の業務で忙しいとは思うけれどすまないが君もこのパンフレットに目を通しておいてもらいたいんだ」
「わかりました」
パンフレットの一ページ目をめくってみると一見強面な社長の顔が大きな写真入りで載っていた。紫色のスーツに同色のシャツに黒いネクタイ、頭は見事なパンチパーマで薄紫のレンズの四角い眼鏡をかけている。なんだか社長というよりも組長みたいで手強そうだ。断られて叩き出される私達を想像して身震いがした。
「気が向かないかい?」
「いえっ、そんな!寧ろ嬉しいです。私なんかを抜擢していただけるなんて」
いつも墨田係長に不遇な扱いを受けている身としては本当に涙が出そうなくらいに嬉しい。
「実は一緒に準備していた課員が高所恐怖症なので同行は無理ですって急に辞退してきてね。イベント会場になるショッピングモールは高原にあって標高の高い崖の上にあるんだよ。おまけに空気もちょっと薄い。でも、君は若いし、体力もありそうだ」
「それでわたしをご指名されたんですか」
「ああ。でもそれだけじゃない」
蒼井課長は急に熱っぽいまなざしで私を見つめてくる。
「いつも見ていたんだ、君を。君は今までになく素晴らしい」
「えっ、あ、あのっ、そういうのは困ります……」
思わずちらっと紙山さんを見るとつまらなそうにボールペンを指で回している。
「こ、告白とか、ここじゃマズイかもです課長」
「いつも感心して見ていた。あの嫌味全開な墨田係長のところでよく三ヶ月近くもがんばっているって」
「そこ?!」
「君はタフだ。どんな高所でもへこたれずにきっと最後まで責任をもって仕事をやり遂げてくれるって確信している。さぁ、共にいざ長野へ!」
「はは……そっちですか」
差し出された手を握り返しながら紙山さんを見たら椅子に寄りかかって腕組みしながら居眠りしていた。私に関心すらないの、切なすぎるね、うん。しかし必要とされているのは嬉しい。紙山さん、見てなさい。今度は課長の仕事で役に立つのだっ!
「課長の為なら筆野綴、火の中、水の中、山の中、どんなに空気が薄くともお供いたしますっ!」
「お前、単純だな」
「何か言いました?」
いつの間に起きたのだ。呆れ顔でそう言い放ってきた紙山さんを睨んだらフンと目を逸らされてしまった。紙山さんはそうやっていつもからかうけど、蒼井課長はそんな私の日頃の努力(嫌味を言われているだけ)を買ってくれているんだよ?やる気出ちゃうよ、そりゃあ。身体からふつふつとみなぎってくるやる気。上司に対して前向きなやる気を感じたのはかつてない事。よし初出張、がんばるぞー!
「お任せ下さい!何を聞かれても答えられるようにこのパンフ丸暗記しますねっ!」
「頼もしいね。さすが筆野さんだよ!」
どうやら蒼井課長は褒め上手らしい。褒められるのは普段の反動からか全く慣れていないから余計に嬉しく感じる。でもこの時の私は思ってもみなかった。この七日間の出張が思いもかけない出来事の始まりになるなんて……。
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マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
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