紙山文具店の謎解きな日常

夏目もか

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五  いざ、雲の上へ

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蒼井課長からの思いがけない依頼があってからひと月が経った七月の最終週。学校等は既に夏休みに入っている事もあり、テレビのニュースで見た高速道路は早朝から混んでいるようだった。自宅のアパートの前まで迎えに来てくれた紙山さんがミニバンに私のキャリ―ケースを運び入れる。意気揚々と後部座席に乗り込み、運転席でシートベルトを締め直した紙山さんに尋ねた。
「準備万端、いよいよですね。やる気がみなぎってきました!」
「それなら助手席に乗れ。俺が寝ないようにそのやる気とやらでしっかり見張っていろ」
「……まあ、いいですけど」
頼られていることが嬉しいくせに素直になれない私は大げさな咳払いをしつつ助手席に移った。紙山さんの隣である。顔がにやけそうになるのを抑えなきゃ。
「蒼井課長と一緒に迎えに来るんじゃなかったんですか?」
「あいつは後で来る。社用携帯、必要な資料類全部、会社に忘れたって今朝まぬけな連絡が来た」
「は?」
「行くぞ」
目をぱちくりさせた私に構わず、紙山さんはエンジンをかけた。イベント会場のある長野県は遠九野高原村まで結局二人きりのドライブだ。その車中で。
「蒼井課長ってひょっとして忘れん坊?」
「知らなかったのか?あいつと行くはずだった部下は高所恐怖症で同行を断ったんじゃない。蒼井の出張時の忘れ物の酷さにいつも付き合って疲弊して同行はまっぴらごめんと辞退したんだ。おそらく本人には言えずにそう言い訳したんだろう」
「それまさか調べたんですか?」
「自分の付き合う人間が安全な人物なのか、その身辺の人間まで探っておくのは危険回避の為、探偵の常識だ」
「それでも付き合ってあげているのは優しさなんですね。紙山さん、やっぱり意外といいところもある!」
褒めようとしたのにいきなり流れていたラジオのボリュームを上げられて面食らう。
「もう!」
マイペースな紙山さんにため息を吐く。そして何度も読み込んではいるけれどイベントの運営指示書とあけぼの印刷の会社パンフレットを再度読み直すことにした。上司が到着していなくても現場では動かなきゃならないのだから。紙山さんとの初の遠出を嬉しいなって思って昨夜は興奮して眠れなかったけれど、目的は仕事、それからは真面目に資料を読んだ。そんな私を赤信号で止まった際、紙山さんがチラリと見つめてそっと指を伸ばし、ラジオのボリュームを下げてくれた。
              
ミニバンが急カーブでガタンと揺れて瞼が開いた。資料を読みながらいつの間にか眠ってしまったようだ。身を起こすと窓の外に白い真綿のような雲が見えた。眼下に大海原のように青空が広がっている。まさに雲の海だった。そういう景色を実際に見るのは初めてだったので壮大さに目を瞠る。
「もうすぐですか?」
紙山さんがああと頷く。車はショッピングモールのある高原へと続く周遊道路を走っていた。くねくねとしたカーブが続いていて曲がるたびに身体がぐらりと揺れて酔いそうだ。思わず胸の辺りを抑えたら紙山さんがダッシュボードを開けて丸くて小さなものをくれた。見た事のない赤いパッケージに包まれた飴だった。
「酔いに効くと奈々子が言っていた」
―奈々子さん。ハンドルを握る紙山さんを見ると、長い睫毛の先に静かな憂いが見えるような気がした。紙山さんの奈々子さんへの未練はまだこのくねくね道みたいに果てしなく心の中に続いているのだろうな。奈々子さんが他の人と結婚してしまうとしても好きな気持ちは簡単には消せないよね。その未練が消えない限り、とても私から告白なんてできないよ。
それでも紙山さんも蒼井課長に負けないぐらい、ジェントルマンだ。だって酔っている私に気がついて、飴をくれた訳だし。感謝しながらありがたくいただこう。しみじみ思いながら飴の包装を破ってぽいと口に入れた。
「激辛っ!」
鼻が割れるように痛い。強烈なミントの風味がスース―としてつらい。口をすぼめて悶絶しながら紙山さんを見ると肩が小刻みに震えている。どうやらからかわれたようだ。
「お前の好みがわからなかったからな。帰りもあるから袋ごと持っとけ」
紙山さんはビニール袋に入った様々な種類の飴を私の方に差し出す。他のもあるなら最初から好きなの選ばせてよっもう!心の中で文句を言いながら慌てて飴を漁る。一番甘そうなやつを見つけて口に入れた。あー、やばい。激辛に激甘が混じってなんだか余計に気持ちが悪い。コロコロ変わる私の百面相に紙山さんは前を向いたままくすくすと笑っている。また面白がって。私で遊ぶのはやめて。でもなんだかこういうのって……まるで恋人同士のじゃれ合いみたいじゃない?そんなこと言ったら紙山さんにまた冗談じゃないと言われかねないけれど。
やがて視線の先に広大なショッピングモールと駐車場が見えてきた。赤や黄色や紫のカラフルな花が花壇に咲き乱れ、いろんな店が軒を連ねて並び、多くの観光客が楽しげに行き交っている。目的地はもうすぐだ。もう二人きりのドライブも終わりなんだなぁと感傷的な気分になる。
長野県は遠九野高原村の標高約二千メートルの高原にあるそのショッピングモールの名称は“ダイヤモンド・マウンテン”という。何も遮るものがない大空が漆黒に染まると大粒のダイヤモンドを文字通り散りばめたように美しい星々が高原の上に広がって見える事から名付けられたそうだ。

「遠いところをご苦労様です。イベント責任者を務めております山際勇美と申しますです。よろしくです」
モールの中央にあるインフォメーションセンター兼管理事務所に行くと白い半袖のポロシャツに茶色いチノパン姿、足元は黒のトレッキングシューズを履いた男性がにこやかに出迎えてくれた。胸にダイヤモンドを模した様な形の名札をつけている。山の上の職場である為か動きやすそうな服装だ。山際さんは熊のように体格があり太い眉毛のつながった濃い顔をしていた。顔が真っ黒なのは山焼けのせいだろうニカッと笑った白い歯は照りつける日差しによく映えている。歳は見た所、二回りぐらい上そうだ。
「思ったよりお若いですなぁ、課長さん。すんごい男前で」
鞄からごそごそと名刺を探す私をよそに山際さんは私の隣の紙山さんに名刺を差し出した。何か勘違いをしているようなので慌てて弁明した。
「すみません、蒼井は事情がありまして後程来る予定です」
「あれ?君、蒼井課長じゃないの?」
「あのまぬけは忘れ物を」
「ちょっと紙山さん!」
紙山さんは慌てる私に構わずいつものグレースーツの胸ポケットから名刺を差し出す。山際さんはそれを受け取りながらぼそっと呟いた。
「紙山文具店?何で文房具屋がここに?」
「文房具屋が山にいちゃ悪いか」
「かっ、紙山さん」
山際さんがなにげなく言った言葉が癪に触ったようで紙山さんは渡したばかりの名刺を彼からすいっと取り上げてしまった。
「この名刺だって、紙だ。紙は文具の一つだ。紙がなければあんたは名刺を交換できない。つまり文具を軽ろんじる者に名刺という貴重な紙を与える必要は無……むぐっ!」
私は慌てて紙山さんの口を手で塞いで、山際さんに愛想笑いをしてみせた。
「ははっ、なんかこの人ちょっと車で悪酔いしたみたいです。ホテルで休ませますので、えっと星海ホテルはどちらでしたっけ?」
今夜泊まるホテルの宿泊チケットは事前に課長からもらってあった。
「あー、それ、ホテル星海ですね。あそこですよ」
山際さんが指示した方角を見上げると外の駐車場のある場所からまた少し坂を上がったところに茶色い建物が見えた。
「山の中にしてはそこそこ良さそうだな」
失礼な事を言いながら紙山さんは車に戻って行った。山際さんは私達のちぐはぐなやり取りを呆気に取られてみている。
「山際さん!荷物置いたらすぐに戻ってきますので、えっとミーティング!午後二時からでしたよね。必ず伺いますので、ではまたっ!」
早口で言うと慌てて紙山さんの後を追いかける。
「あっ、ねえ!君、誰―?」
いけない。名刺をまだ渡せてなかった。慌てて山際さんのところに戻ってその手に名刺をガシッと掴ませ、自分なりに思う最上級の営業スマイルをしてみる。
「筆野綴です!フレッシュなやる気に満ちた新人です」
光る白い歯がきっと眩しく見えているはず。
「それではまた後程!」
山際さんが若干引いているのがわかったけれど営業畑で育っていない私をどうか大目に見て欲しい。

ホテル星海へと向かう車中で課長に連絡を取ってみた。けれど何回かけても繋がらない。
「電波が届きにくいんだ」
ため息を吐いた私に紙山さんが同情めいた視線を投げてくる。
「お前も断れば良かったんだ」
「だってそんな忘れん坊だとは知らなかったもん」
「イケメンは七難隠すからな」
「うー」
「唸るな、犬か?」
私の言動にツッコミながらも紙山さんの目は確実にこの状況を愉しんでいるようでなんだか癪にさわる。
ホテルに着いた。ホテルの外観は大きなログハウスのようだった。中に入ると広々としたロビーは白とダークブラウンのモダンなインテリアで統一されていた。天井は吹き抜けになっていて目につく調度品はどれも木材で組み立てられている。山から切り出した天然のものを使っているのだろうか、太くて立派なものが多い。窓は大きく硝子がそこにあるのかと思うほどに曇りなく磨かれている。澄んだ窓の外に広がる広大な森は雲を下に従えていた。森に立てられた人造物の中にいるというよりも森の中に素足で佇んでいるような感覚になった。
紙山さんが腹ごしらえがしたいと言いだしたので、ホテルのレストランに入ることにした。紙山さんが頼んだのはランチバイキング(一番お高い松コース)。そしてなぜか私が支払うことになった。聞けば今回無理を言って同行してもらう代わりに紙山さんにかかる経費は全部蒼井課長のポケットマネーで払うと二人で決めたらしい。そこで紙山さんは余分な所持金は持ってこなかった。つまり当の本人がいないとなると一時的に払うのは私という訳だ。
「うー」
「唸るな、犬か」
……噛みついていいですか。

陽光溢れるホテル内のレストランでテーブルに向かい合って座りランチを食べる。バイキング形式で豪華な料理が並んでいたからつい欲張ってしまい和洋中ごっちゃの山盛りにお皿に盛る。それをパクパクと頬張ると紙山さんは珍獣でも見るような顔つきでこっちを見てきた。
「犬みたいにがっつくな」
「がっついてません」

ランチの後、参加業者向けに明日から始まるアウトドアイベント開催に関する最終ミーティングの始まる時間まで部屋で待機することにした。キャリーケースを整理しつつ出張用に支給されたスマホを見ると蒼井課長から二件のメールが届いている。ホテルの敷地内は電波状況が良いようだ。まずは今朝の遅刻に対する謝罪メール。もう一つは最寄り駅に着いたから今から直接ミーティング会場に向かうというメール。メールを読み終えてスマホをしまう。噂って言うのはあくまで噂なんだなぁと改めて思う。その人と実際に仕事をしてみないと見えない事がある。蒼井課長と一緒に働く機会ができて社内の人間をよく見ている人なんだとか、紙山さんの友人だったとか、意外とおっちょこちょいな側面があるのだと知った。入社して総務の仕事ばかりしてきたけれど、こうやって他の部の仕事をやらせてもらえるのは普段ならあまり関わりのない人の人となりを知るいい機会だなぁと思いながらソファの横のペットボトルのお茶を手に取ると空になっていた。腕時計を見ると午後一時半。景気付けに濃い珈琲を一杯飲んでその足でミーティングに向かおう。ホテルのロビーに備え付けられていた無料のドリンクコーナーがあったはずだ。ドア横の姿見でスーツの皺を伸ばして髪型とメイクがちゃんとしているかを確認した。きりっとした営業ウーマンって感じに見えているといいけれど。
部屋を出てカードキーをかざして扉をロックし、資料の入ったショルダーバッグを手にエレベーターを降りた。
一階に着いてすぐのエレベーターホールからホテルの庭が見えた。木で囲まれた巨大なボールプールで木漏れ日に金色に輪郭を染めた子供達が親達に見守られてはしゃいでいた。あの子達が大人になったら親と同じようにこうやって自然の中に子供達を連れて行って遊ばせてあげるのだろうか。
“何代先までも使えるアウトドアグッズ”。
今回のイベントのキャッチフレーズが思い出されて自然と笑みが浮かんだ。
「締まりのない顔をしているな」
呆れたような声にパッと振り向くと紙山さんが立っていた。手には珈琲カップを持っている。クールでかっこいい表情を浮かべてはいるが頭頂部にだらしなくくねっている寝癖を見つけてほそくえむ。
「そっちこそ締まりのないヘアスタイルですね。ヘアスプレー持っていますけど使います?」
「いらん」
紙山さんは大あくびをしながら、首を左右にポキポキと鳴らしながら去って行く。売店に買いに来たのだろうか、小脇に新聞が挟まっていた。
「アポは四時半からですよー。よろしくお願いしますね」
背中にかけられた言葉に紙山さんは振り向きもせずに手を挙げてエレベーターに乗って行ってしまった。今日は木曜日でイベントは明日からの一週間だ。ここへ登って来た道路とは反対側に下山した麓の町にあるあけぼの印刷との商談は今日の午後四時半から。紙山さんにとってはそれまではやる事がなく、プライベートな夏休みで来ています的な気分なのだろう。私もドリンクコーナーに行って珈琲を淹れると眼下に見えるイベント会場のショッピングモールを眺めた。これがもし、完全プライベートだったなら。紙山さんと私がもし……彼氏と彼女だったなら。
【文仁~外遊びに行きたい~。気持ち良さそうだよ、森!ねぇってば~お散歩しようよ~】
【うるせえな。俺はお前とこうしてる方がいいんだよ】
ベッドから降りようとする私を強引に引っ張って押し倒す紙山さん。されるがままデレる私。そのままいちゃつきあうアレやコレの妄想を繰り広げていたら突然、社用スマホが鳴った。蒼井課長からだ。慌てて緩みきった顔を戻し、きりっとした顔で電話に出る。
「はい、筆野です」
「やっと着いたよ。君どこにいるの?」
「ホテルです。今そっちに向かいますね」
甘い妄想は霧散し、私はホテルから外へと飛び出した。

その頃、部屋に戻って珈琲片手に優雅に新聞を読んでいた紙山さんのスマホに顔見知りの刑事・林則夫、通称・ノリさんから電話が入った。五十八歳のベテラン刑事である。彼は前に私達が関わった女子中学生拉致事件で犯人の居場所の通報をした紙山さんに一目置いているようだ。
「紙山、大変なことになった」
「大変なこと?」
「速見が殺された。覚えているか、この前の女子中学生拉致事件で共に動いていた俺の相棒の刑事だ。今朝、長野の高原の空きコテージで焼死しているのが見つかった。俺も県警から呼び出されて今、現場にいる」
「長野……どこです?」
眉を動かした紙山さんにノリさんのうわずった声が届く。
「遠久野高原村にあるキャンプ村のコテージだ。もし暇ならでいい。暇ならでいいから捜査を手伝ってくれないか。頼む、紙……」
ノリさんは急に言葉を詰まらせた。どうやら声を押し殺して泣いているようだ。
「現場の住所を教えてください」
紙山さんは粛々とメモを取ると部屋を飛び出した。四時半に私達と一緒にあけぼの印刷に行く約束をすっかり忘れてミニバンに乗り込むと事件現場へと向かってしまったのである。

    
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