ダイヤモンドの星と神 「その名に祈りを込めて、私は歩き出す」

理乃碧王

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雪解けのグラウンド

72.

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 楽しい夏休みはあっという間に過ぎ、二学期が始まった。
 夏休み期間中も、私は女子野球部や寿志さんの練習に参加していた。
 そのためか、肌もほんの少しだけだが焼けている。
 そして、勉強して、結愛やひまりとお昼ご飯を食べて、お喋りをする。
 いつもの学校での、いつもの日常が始まるのだ。

「雪村君」

 そして、今は社会の授業。
 丸眼鏡をかけた白髪の松下先生に声をかけられた。
 松下先生は今年で定年。
 一見物腰柔らかな印象だが厳しいことで知られている。
 私は叱られると思い、急いで直立不動で立ち上がった。

「は、はい!」
「……立たなくてよろしい」
「は、はい……」

 意味もなく立ち上がってしまったようだ。
 何かの本で読んだことがあるがこれが『パブロフの犬』だろうか。
 叱られると思った瞬間、条件反射的に体が動いてしまった自分が少し情けない。
 周りのクラスメイト達はくすくすと笑いを堪えている。
 私はそっと顔を赤らめながら、再び椅子に腰を下ろした。

「雪村君、君に質問だ」

 松下先生の低く落ち着いた声が、教室の静けさを切り裂いた。
 私は緊張に駆られながらも、なんとか視線を先生に向ける。

「は、はい……何でしょうか」
「1923年――日本で発生した大災害は何か答えてくれないかね」

 ……1923年? 大災害?
 耳にしたことがあるような気がする。
 だが、その言葉が舌の先に引っかかったまま、出てこない。
 焦りのあまり、答えが見つからず黙り込む私――。
 それを見た松下先生は少し眉をひそめた。

「どうだ?」
「えっと……あの……わ、わかりません」

 教室内がざわざわとざわつき始める。
 後ろの方からクスクスと笑う声も聞こえる。
 どうにか頭を回転させようとするが、緊張のせいで全く思い出せない。

「はいはい、先生!」

 その時、友人の結愛が手を挙げた。

「それでは金沢君、答えをどうぞ」

 先生が促すと、彼女は自信たっぷりに答える。

「関東大震災でしょ! 思いっきり黒板に書いてますもん!」

 また教室中に笑いが広がる。
 私は小さくなりながら椅子に深く沈み込んだ。
 よくよく見ると、黒板には関東大震災のことと起こった年号を書いていた。

「よろしい、金沢君」

 松下先生は答えを褒めたものの、視線を私に戻す。

「雪村君、最近の君は集中力が足りないね。どこか上の空というかな」
「すみません」

 ……当たっている。
 ここ最近は朝早くに目覚めることが多い。
 それは寿志さんの練習を手伝うため、そのため眠気が残ることが多い。

「諸君らの中には、雪村君を笑うものもいるが時々集中力が欠ける人がいるぞ」

 厳格な松下先生は、教室全体を見渡す。
 少しばかりの緊張感が流れる。
 私達生徒に松下先生は真剣な表情で語りかける。

「歴史の授業は役に立たないと軽視をしてはいけない」

 すると、結愛がふと口を開いた。

「でも先生、年号とか過去の出来事を覚えるのって、実際あんまり意味なくないですか? 今を生きる私達に何の関係があるんですか?」

 相変わらずどんな人にもお構いなしだ。
 クラスの一部が「確かに」と頷き、さらなるざわめきが広がる。
 松下先生は一瞬黙り込んだが、何故か穏やかな表情で口を開いた。

「なるほど、そう思う者が多いのかもしれない。では少し、皆さんに話をさせてもらおう」

 先生の言葉に教室内がしんと静まり返る。

「年号や過去の出来事を覚える意味――それは、私達が未来に同じ過ちを繰り返さないためにある」

 ゆっくりとした語調で、松下先生は話し始めた。
 板書した関東大震災の文字を指差す。

「例えば、この1923年の関東大震災。これは単なる『地震』ではない。多くの人々が犠牲となり、社会は大混乱に陥った。そして、その中で救済活動の遅れや差別的な対応といった、私達人間の未熟さが露わになったのです」

 先生の言葉に、教室中が吸い込まれるように聞き入る。

「では、これを学ぶことで何が得られるか。防災意識を高めることができる。そして、災害時に弱者が取り残されない社会を作るための教訓が得られる。つまり、過去を知ることは、未来をより良いものにするための『材料』になるのです」

 結愛が少し居心地悪そうに視線を逸らすが、松下先生はさらに言葉を続けた。

「年号や出来事は『記号』ではない。そこには生きた人々の苦しみ、喜び、努力が刻まれている。それらを学ぶことで、君達が今生きているこの『日常』の重みを理解できるようになる」

 先生は一瞬間を置き、私たち一人一人の顔を見渡す。

「雪村君、君も含めて未来を作るのは君達若者だ。そのためには過去の積み重ねを知らねばならない――それを越えていくのですよ」

 私はその言葉を噛みしめた。
 たかが年号、されど年号。
 そこに込められた意味を考えたことは、正直なかった。
 教室内には、松下先生の語りを飲み込んだような静けさが漂っていた。
 そして、私に過るのはあの言葉。

「ボールの声に耳を済ませな。俺はいつだってお前の傍にいる」

 ――何故かあの言葉だった。
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