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続編
2 気になる男性
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※マリアンヌ視点
その夜もまた、書類の山に囲まれていた。
王都中央行政局――文書管理室の奥。上級書記官室にともる灯りは、館内で唯一のものだった。
終業時刻を過ぎて久しく、外はすっかり夜の帳に包まれている。
誰もいない執務室に、魔光灯の淡い光が静かに降り注いでいる。
私の指先は黙々とペンを動かし、印章を押し、束ね、また新しい一枚へと移る。
いつもと変わらない――変わらないはずの日常。
両親を亡くしてから、私はひとりで生きてきた。
平民の出である私が、この上級書記官という立場に就けたのは、ひとえに実力だけを頼りに、ひたすら働いてきたからに他ならない。
「マリアンヌなら間違いない」と言われ続けることが、誇りでもあり、重荷でもあった。
ふと、紅茶に手を伸ばす。
すっかり冷めきっていたけれど、温め直す気力もなかった。
そのとき――
「……こんな時間まで?」
半開きの扉から、遠慮がちに覗いたのはひとりの男性だった。
光を含んだような金髪に深い碧の瞳。整った顔立ちに、品のある佇まい。
彼は、ユリウス・バートン男爵だった。
そして――国内でも最大級と名高いオックスリー商会の副会長でもある。
その商会の会長であるレティシア様は、一年前にノルディアン大公とご成婚なさり、今はあちらの国にお住まいだ。
そのため、現在はユリウス副会長が、会長に代わって多くの実務を任されていると聞いている。
そんな人が、こんな時間に――
驚きと戸惑いが胸をよぎったが、ともかく私は姿勢を正した。
「すみません、提出ぎりぎりで。これを」
彼は一枚の封筒を差し出す。
中には、流通記録と納税報告書。見れば見るほど、整った筆跡と丁寧な記載に、私の方が戸惑いを覚えた。
「……字が、とても綺麗ですね。助かります」
それだけしか返せなかったのは、彼の佇まいに少し気圧されてしまったからだ。
礼儀正しく、静かで、それでいてどこか洗練されている――そんな人だった。
ユリウス副会長が去ったあと、私はしばらく書類を見つめたまま動けなかった。
素敵な人だった。
けれど、私とはきっと、交わることのない世界の人だ。
男爵家の若き当主で、商会の副会長。
一方で私は、中央行政局のただの一書記官。
思わずふっと笑ってしまうほど、住む世界が違っている。
それでも、気づけば、さっきのやりとりを何度も思い返していた。理由は、自分でもよくわからない。
ため息をひとつついて、私はまたペンを手に取る。
もう会うこともない――上級書記官が来客対応することなど、通常はないのだから。
けれど──
三日後、また彼は現れた。
あのときと同じ、私しかいない夜の執務室に――そして……
•───⋅⋆⁺‧₊☽⛦☾₊‧⁺⋆⋅───•
※上級書記官は来客対応を基本はしません。来客対応は原則、受付や担当の中級書記官までです。
※上級書記官は、案件の取りまとめや、議事内容の確認・承認・精査など、内部処理の最終管理役みたいなイメージです。
その夜もまた、書類の山に囲まれていた。
王都中央行政局――文書管理室の奥。上級書記官室にともる灯りは、館内で唯一のものだった。
終業時刻を過ぎて久しく、外はすっかり夜の帳に包まれている。
誰もいない執務室に、魔光灯の淡い光が静かに降り注いでいる。
私の指先は黙々とペンを動かし、印章を押し、束ね、また新しい一枚へと移る。
いつもと変わらない――変わらないはずの日常。
両親を亡くしてから、私はひとりで生きてきた。
平民の出である私が、この上級書記官という立場に就けたのは、ひとえに実力だけを頼りに、ひたすら働いてきたからに他ならない。
「マリアンヌなら間違いない」と言われ続けることが、誇りでもあり、重荷でもあった。
ふと、紅茶に手を伸ばす。
すっかり冷めきっていたけれど、温め直す気力もなかった。
そのとき――
「……こんな時間まで?」
半開きの扉から、遠慮がちに覗いたのはひとりの男性だった。
光を含んだような金髪に深い碧の瞳。整った顔立ちに、品のある佇まい。
彼は、ユリウス・バートン男爵だった。
そして――国内でも最大級と名高いオックスリー商会の副会長でもある。
その商会の会長であるレティシア様は、一年前にノルディアン大公とご成婚なさり、今はあちらの国にお住まいだ。
そのため、現在はユリウス副会長が、会長に代わって多くの実務を任されていると聞いている。
そんな人が、こんな時間に――
驚きと戸惑いが胸をよぎったが、ともかく私は姿勢を正した。
「すみません、提出ぎりぎりで。これを」
彼は一枚の封筒を差し出す。
中には、流通記録と納税報告書。見れば見るほど、整った筆跡と丁寧な記載に、私の方が戸惑いを覚えた。
「……字が、とても綺麗ですね。助かります」
それだけしか返せなかったのは、彼の佇まいに少し気圧されてしまったからだ。
礼儀正しく、静かで、それでいてどこか洗練されている――そんな人だった。
ユリウス副会長が去ったあと、私はしばらく書類を見つめたまま動けなかった。
素敵な人だった。
けれど、私とはきっと、交わることのない世界の人だ。
男爵家の若き当主で、商会の副会長。
一方で私は、中央行政局のただの一書記官。
思わずふっと笑ってしまうほど、住む世界が違っている。
それでも、気づけば、さっきのやりとりを何度も思い返していた。理由は、自分でもよくわからない。
ため息をひとつついて、私はまたペンを手に取る。
もう会うこともない――上級書記官が来客対応することなど、通常はないのだから。
けれど──
三日後、また彼は現れた。
あのときと同じ、私しかいない夜の執務室に――そして……
•───⋅⋆⁺‧₊☽⛦☾₊‧⁺⋆⋅───•
※上級書記官は来客対応を基本はしません。来客対応は原則、受付や担当の中級書記官までです。
※上級書記官は、案件の取りまとめや、議事内容の確認・承認・精査など、内部処理の最終管理役みたいなイメージです。
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