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1巻

1-1

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   プロローグ


『さようなら。俺のことは探さないでほしい』

 世間ではまだ夏の暑さを引きずった初秋の明け方。悠生ゆうせいくんから届いた一通のメッセージは、寝ぼけていた私の思考を一気に覚醒させた。
 ――なにこれ? ……状況が呑み込めない。
『探さないで』なんて、まるでベタな置き手紙みたい。いや、厳密には置きメッセージと言うべきか。どちらにしても、たやすく彼には会えないような内容が書かれている。家がご近所の幼なじみで、彼氏で、婚約者なのに。
 起き抜けにバケツいっぱいの水を浴びせられたような心地で、スマホの画面にくぎ付けになっていると、新しいメッセージが表示される。

『幸せにしなければいけない人ができたんだ。本当に申し訳ない。日和には、俺よりももっと相応ふさわしい男がいる。その人と幸せになってほしい。どうか元気で』

 ――みたい、じゃなくてズバリ置き手紙だ。じゃなかった、置きメッセージだ。
 ……って、そんなのどっちでもいい!

「うそでしょ?」

 心の中でつぶやいたはずが、無意識に音になっていた。
 私はベッドからむくりと起き上がり、慌てて返信を打ち始める。

『冗談だよね? エイプリルフールはとっくに過ぎたよ』

 もう五ヶ月以上も前だ。仮に今日が四月一日だとしても、真面目が服を着ているみたいな悠生くんが、こんな強烈なジョークを飛ばしてくるはずがないのは理解している。なのに、かずにはいられなかった。
 祈るような気持ちで送信したものの、一向に既読マークがつかない。
 電話をかけてもいいだろうか。スマホの待ち受けに映る時刻は、午前六時三十二分。
 常識的にはアウトな時間だけれど、先に緊急性のある内容を送ってきたのは悠生くんのほうなのだから、電話しても許されるような気がする。私は我慢できずに彼のスマホに発信した。
 ――出ない。仕方がないので一度通話を切って、またかけ直す。
 ……それでも出ない。
 取り込み中なのかもしれない。着信履歴が残っているので、気が付いたらかけ直してくれるだろうか。
 というか、家はすぐそばなんだし、直接確かめに行くほうが早いのでは?
 そう思ってベッドから降りようとしたけれど――いくら昔から交流のある、気心の知れたご近所さんとはいえ、この時間にインターホンを鳴らすのは厚かましいだろうと思い直す。かといって、悠長にしているわけにもいかないのだけど……
 ――そうだ。それなら……
 ひらめいた私は、メッセージアプリを開いて、とある人物に電話をかけることにした。

「……もしもし」

 待つこと十秒。いかにも直前まで寝てました、と言いたげな、かすれた低音が応答する。

「こんな朝早くに本っ当にごめんっ、泰生たいせい

 目の前にいたら拝む勢いで謝った。だけど今、力になってくれそうなのは、悠生くんの弟であり、私にとって気の置けない友人である彼しか思い浮かばなかったのだ。

「……ごめんと思うなら、少しは時間選べよ」

 泰生はちょっと不機嫌そうに、ため息交じりに言った。彼が、朝が大の苦手であることは昔からよく知っている。でも。

「そうも言ってられなくて。悠生くん、家にいる?」
「兄貴?」

 切羽詰まった口調でたずねると、ほんの少しだけ考えるような間が空き、「いや」と答える。

「――昨日は帰ってこなかった。日和ひよりと一緒にいるんじゃないのか?」

 私と悠生くんがお付き合いをしているのは、もちろん周知の事実。いい大人がひと晩家を空けたところで、大事と思わないのは致し方ない。

「日和?」

 一縷いちるの望みをかけていたものの、あえなく打ち砕かれてしまい、私は言葉を失った。泰生が心配そうに私の名前を呼ぶ。

「……悠生くんからメッセージが来たの。『さようなら』って……『探さないで』って」
「え?」
「ねえ泰生。悠生くん、いなくなっちゃったのかも……」

 口に出すと現実になってしまう気がして、本当は音にしたくなかった。片足で立つような心もとなさを覚えていると、勢いよく起き上がったであろう衣擦きぬずれの音が電話越しに聞こえる。

「……待ってろ。支度してすぐそっち行くから」
「え、でも……」

 今日は確か――火曜日。平日だ。会社勤めの彼には出勤の準備があるだろう。私の言葉を遮って、泰生が強い口調で続ける。

「いいから。そんな泣きそうな声してるヤツ、放っておけるわけないだろ」
「泰生……」

 遠慮しつつも心強かった。ひとり暮らしの私は頼れる人がほかにいない。こんな精神状態で悠生くんからの連絡を待ち続けるのは不安で仕方なかった。

「――ごめん。ありがとう」

 私は心からのお礼を言うと、彼がいつやってきてもいいように、手早く自身の身支度を済ませる。
 ――やっぱり、泰生に連絡してみてよかった。
 泰生とは、付き合いが長いこともあって気が合う。口が悪いときもあるけれど、本質的には面倒見がよくて優しい。異性だけど私にとっていちばんの親友だ。泰生のおかげで、ほんの少しは平静を保っていられる。
 ……それにしても。悠生くんに一体なにがあったっていうの?
 さよならなんてうそだよね?
 だって私たち、周りにも公認の仲で、結婚の約束までしていたのに……!


 だけど……待てど暮らせど、悠生くんからは電話も、メッセージの返信もなかった。
 それどころか、その日を境に、彼は私の前から本当に姿を消してしまったのだった――



   1


 衝撃の朝から約一ヶ月後の夕刻――

「いらっしゃいませ~」

 ディナータイムが始まったばかりの『トラットリア・フォルトゥーナ』。
 ドアベルがチリンと鳴り、ブナの木の大きな扉が開いた。仕事着である白いシャツとギャルソンエプロンに身を包んだ私――瀬名せな日和は、そちらを振り返った。そして、扉の向こう側にいるであろうお客さまに声をかける。

「……あ、な~んだ。泰生かぁ」
「なんだとはなんだ」

 入ってきたのは見慣れたシルエットだった。思わず本音が漏れると、仕立てのよさそうなダークグレーのスーツにボルドーのネクタイを合わせたスタイリッシュな男性が、凛々りりしい眉根を寄せる。
 古橋ふるはし泰生。私のご近所さんかつ、同い年の幼なじみ。中学から大学まで一緒だったこともあり、なんでも話せる親友だ。

「だって、お客さまかと思ったから」

 まだオープン直後ゆえにゲストはゼロ。……だからこそ期待したのに。
 不満を表すように口をとがらせると、泰生は仕方がないとばかりに、大げさにため息を吐いてみせた。

「じゃあ今日は客でいい。席に案内してくれよ」
「え、本当っ? はーい、こちらへどうぞ~」
「ったく、ゲンキンなヤツ」

 声をワントーン高くして、泰生をカウンターの席に案内をする。呆れた様子のボヤきが聞こえたけれど、気にしない。
 ここ『トラットリア・フォルトゥーナ』は、『本場イタリアの料理を誰でも気軽に楽しめて、お客さまに心を尽くす』がモットー。オーナーシェフだった先代――父である瀬名勝寿かつとしの意思を継いで、今は娘の私がオーナーを務めている。私を除くと社員二名にアルバイトが一名の、こぢんまりとしたお店なので、私自身も積極的にホールに出て給仕をする日々だ。
 私が二十五歳の若さにして一国一城の主をしているのにはわけがある。もともとこのお店は、都心の一等地にあるリストランテでシェフをしていた父が、母と結婚したのを機に独立、開業した経緯がある。
 気心知れた仲間と、リストランテよりも親近感のあるお店作りに励んで十数年。父の片腕だった母が交通事故で帰らぬ人となった。私は当時高校生だった。
 母を心の支えにしていた父が病気を患ったのはその直後。仕事一筋で責任感の強い父は、自分が力尽きては従業員や娘の私を路頭に迷わせることになると、ギリギリまで投薬治療で様子を見て、厨房に立ち続けた。社員やお客さまのために、現場を離れたくなかったのだと思う。
 けれど、そんな父の情熱とは裏腹に、病気の進行は待ってはくれなかった。腹を決めて入院、手術を経たものの病状はよくならず、私が大学三年の秋に母のもとへ旅立ってしまった。
 尊敬する大好きな母と父の相次ぐ死。悲しみでどうにかなってしまいそうだったけれど、父が亡くなる間際に残してくれた言葉が、私をふるい立たせてくれた。

『日和……これからはお前が「フォルトゥーナ」を守ってくれ』

 ――そうだ。父と母が大切にしていたお店を、私が守らなきゃ!
 決意した私は就活を取りやめて、それまでアルバイト程度だった『フォルトゥーナ』での勤務時間を大幅に増やし、店の経営者になるべく勉強に勤しんだ。
 大学を卒業してからは、うちのシェフの佐木さきさんやソムリエの奥薗おくぞのさんにイタリアンのあれこれを叩き込んでもらい、早五年目。振り返れば、全力疾走の日々だった。

「――で、支配人。今日のアラカルトのおすすめは?」

 カウンターに座った泰生が、傍らにある黒板に書かれたメニューを一瞥いちべつしてたずねる。

「シェフ自らが釣り上げたイカを使った漁師風トマト煮込みはいかがですか?」

 支配人、だなんて形式ばった呼び方をされたので、普段よりも丁寧な物言いでたずね返してみる。彼はおかしそうに笑ってから「いいね」とうなずいた。

「――じゃ、それと、料理に合う赤ワインもよろしく」
「はーい。佐木さーん、漁師風トマト煮込みと、グラスワインの赤!」
「ベーネ!」

 カウンターの内側に回り込んでオーダーを入れると、厨房の奥から、料理長の佐木さんの威勢のいい返事が聞こえてきた。「ベーネ」とは、イタリア語で『了解』を意味する言葉だ。オーダーを通すとき、彼はいつもそんな風に返事をしてくれる。

「今日は一段と帰りが早いじゃない」

 今日のトマト煮込みには「ピノ・ノワールが合うでしょう」と、奥薗さんがチョイスしてくれた赤ワインがある。私はそれをワイングラスに注ぎ、彼の手前に差し出した。

「急ぎの案件がなかったからね。……これ、いただくよ」

 泰生がグラスを持ち上げて、まずは香りを楽しむ。それから軽くグラスを掲げた。

「どうぞ、召し上がれ。……そういうときこそ、友達とご飯に行ったりしたらいいのに」
「急に言ったって誰もつかまらないだろ」
「またまた。泰生だったら直前でも行きたいって子はいっぱいいるでしょ」

 相変わらず、ワイングラスの似合う端整な顔だ。私は茶化すようにして言った。
 泰生はただでさえルックスがいいので、昔から女の子によくモテる。はっきりとした直線的な眉に、存在感のある二重の目、横顔をずっと見つめていたくなる高い鼻梁びりょう。年齢を重ねるごとに美しさに磨きがかかっている。清潔感のあるマッシュショートのヘアは黒々としてつやがあり、スーツから覗く手足は長く、細身で引き締まったスタイルによく似合っている。
 それに――左目の下にある小さなほくろ。このわずか一ミリ程度の小さな点が、妙に色っぽくてより魅力的な印象を与えるのだから不思議だ。
 これだけのイケメンゆえに、中学、高校、大学と、バレンタインにはかなりの数のチョコレートをもらっていたはずだ。
 でも女子が彼に群がる理由はほかにもある。成績は常にトップクラス、スポーツ万能で学校連合の体育大会に引っ張りだこだったこともそのひとつだけれど、最たるものは、彼のお家柄。
 彼は飲食チェーン最大手のゼノ・ホールディングスの経営一族で、グループ会社であるゼノアグリの専務。将来的にはゼノアグリの責任者を担う立場を約束されている。つまり、未来の社長というわけだ。こんな好条件の素敵な男性を、周りの女子が放っておくはずもない。

「否定はしない」

 鼻にかける風ではなく、泰生がさらりと認める。この反応を見るに、数多あまたの女子が彼に興味を示し、接近してきているのだろう。さすがは、漫画やドラマの憧れのヒーローを地で行く男だ。

「気になる子とかいないの? っていうか泰生、ずっと彼女作らないよね。どうして?」

 泰生の取り巻きの中には、ずば抜けた美人さんや、天下の古橋家にも勝るとも劣らない家柄のスーパーお嬢さまだっていたはずだ。そういう子たちの中に、いいなと思える女性はいなかったのだろうか。
 そもそも、彼女ができたという話を聞いたことがない。きょうだいみたいな間柄の私には照れくさくて話さないだけかもしれないけれど、年齢も年齢だし、そろそろ浮いた話があってもおかしくはないのに。

「さあな」

 私が首を傾げても、彼はグラスの中身を涼しい顔であおるだけだ。

「教えてよ。ずっと狙ってる子がいるとか?」

 私の言葉に、泰生がぴくりと反応した気がした。グラスを静かにカウンターテーブルに置いたあと、正面にいる私の顔をじっと見据える。

「だったらどうする?」

 探るような、意味深な眼差し。それまでの気さくな雰囲気とは一転して、妙に切実なき方をする。私は内心で戸惑っていた。
 ――なに? そんなに真剣な顔で見つめて。
 普段は距離が近すぎるからついつい忘れてしまうけれど、やっぱり泰生ってカッコいいんだよね。
 ……そんな顔されると、否応いやおうなしにドキドキしてしまう……

「ど、どうするって……応援するに決まってるよ。私でなにか協力できるなら、したいと思うし」

 頭の中でそんなことを考えているとは知られないように、にっこり笑って見せた。幼なじみなのに、異性を意識していると悟られるのは気恥ずかしい。

「…………」

 彼はほんの少しの間黙り込むと、諦めた風に小さくため息を吐いた。

「……グラスワイン赤、もうひとつくれる?」
「え、誰か呼ぶの?」

「応援する」と言ったあとだったので、私にまだ見ぬ想い人を紹介するつもりなのだろうかと思ったのだけど、彼はおかしそうに噴き出した。

「違うよ。日和の分」
「私?」
「そう。まだ客いないんだし、少しくらい付き合えよ」

 やや乱暴に言って屈託なく笑う泰生は、いつも通りの彼だった。

「わ、わかった――ありがと」

 私はちょっと安心してうなずいた。頭上にある吊り下げ式のグラスホルダーからワイングラスをひとつ取って、泰生に出したのと同じワインを用意する。

「じゃ、改めて乾杯ってことで。いただきまーす」
「ん」

 赤ワインの入ったグラスをその場で軽く掲げると、泰生も同じ動作で応えてくれる。さっそく、ごちそうしてもらったワインを一口呑んだ。

「あのさ、話戻るけど……お店、頻繁に覗きに来なくて大丈夫だよ」

 鼻の奥に抜ける甘酸っぱい香りを感じながら、私が切り出す。

「私はこの通り元気だし、お店も回さなきゃいけないし。落ち込んでる暇なんてないから、平気だよ。私のこと、心配してくれてるんでしょ?」

 泰生は一ヶ月ほど前にある出来事があってから、仕事の帰りに頻繁にこの店に顔を出してくれるようになった。立場上、彼も忙しいのはわかっているので、その気遣いをうれしいと思うのと同時に、負担をかけているだろうと申し訳なく思っていた。
 私を見つめる彼の瞳が暗くかげる。

「……心配するなってほうが無理あるだろ。婚約者がいきなり蒸発したら、誰だって正気じゃいられないに決まってる」

 一ヶ月前――忘れもしない九月十九日の早朝。私の婚約者であり、泰生の兄である二歳年上の悠生くんが、一方的なメッセージを残して行方ゆくえ不明になった。
 最初はなにがなんだかわからなくて、ただただ混乱した。仕事は順調だったと聞くし、堅実な人だったので金銭面でのトラブルも考えづらい。いなくならなければならない理由なんて見当たらなかった。
 ご家族のほうでも警察に届け出をしたものの、自宅には私に届いたものと同じような置き手紙があり、事件性は低く自らの意思による失踪と結論付けられた。以来警察は動いていない。
 彼の居場所を突き止めることはおろか、足取りさえもまったくわかっておらず、関係する誰とも連絡は途絶えている。その段階になってようやく、私は悠生くんが強い意思をもって消息を絶ったのだと理解することができた。
 悠生くん――幼いころからずっと一緒で、母や父を亡くしたときも私を支えて励ましてくれた人。
 優しくて真面目。男性にしては繊細で、ちょっと不器用なところも含めて、私には魅力的に映っていたし、今でも好きだ。
 改めて、彼から最後に送られてきたメッセージを見る。そこにはやはり『幸せにしなければいけない人ができた』と書かれていた。
 付き合って五年。結婚まで約束していた私よりも幸せにすべき人がいる、ということに驚いたし、悲しかった。
 ……知らなかった。悠生くんに、私のほかに好きな人がいたなんて。彼は私との未来よりも、その人を選んだということだ。一途で義理堅い彼の性格を思うと、うそみたいな話だ。
 とはいえ、一概に彼を責めることもできなかった。二年前から「結婚しよう」とプロポーズし続けてくれた悠生くんを、自分の都合で待たせていたのは私だ。身を固めることに抵抗があったわけではないけれど、『フォルトゥーナ』の経営者としての下地ができるまでは、それ以外のことを考えたくなかった。
 悠生くんは私のわがままを聞き入れ、「日和のいいタイミングまで待つよ」と言ってくれた。その優しさに甘えすぎてしまったのかもしれない。
 この二年間のどこかで私が「そろそろ結婚したい」と訴えていれば、彼を引き止められたのだろうか。
 ……なんて、もうそのころにはとっくに彼の心は離れていたのかもしれないけど。

「――兄貴のヤツ、一体なに考えてんだよ……」

 泰生がさっきよりも深いため息を吐いてから、苛立った様子で後頭部をぐしゃぐしゃと掻いた。
 悠生くんがいなくなったことで、もっとも複雑な思いを抱えているのは、弟の泰生であることには間違いないだろう。
 ゼノ・ホールディングスの傘下にはふたつの会社がある。全国にファミリーレストランなどの飲食チェーンを展開するゼノフーズと、ゼノフーズの店舗で提供する野菜を栽培するゼノアグリ。年商や事業所の数を見ても、ホールディングスの収益により大きな影響を及ぼしているのはゼノフーズだ。
 現在ホールディングスの代表は泰生のお父さんである唯章ただあき氏。ゼノフーズとゼノアグリの代表には、唯章氏のふたりの弟さんが就いているけれど、早い段階での世代交代を考えているらしい。
 唯章氏としては、長男の悠生くんにゼノフーズ、次男の泰生にゼノアグリのかじを取ってもらおうという意向で、彼らをそれぞれの会社の専務にして、その準備を進めていた。しかし、悠生くんが突然姿を消したことで計画が狂ってしまったらしい。
 跡取りとしての責任や、親公認の婚約者となっていた私に対する責任を放り出した悠生くんに対し、唯章氏は「二度と家の敷居をまたがせない」と怒りをあらわにした上で、ゼノフーズを泰生に任せることに決めたという。泰生にとっては、いきなり重圧がのしかかってきた形だ。私には多くを語らないけれど、兄弟仲がよかったこともあり、きっと内心は穏やかでないはずだ。

「ほかに好きな人がいたなら、そう言ってくれればよかったのに。……そしたら、時間はかかったかもしれないけど、受け入れられたのにな」

 私の知っている悠生くんは、無責任でも自分勝手でもない。むしろそれとは対極にいるような人。だからこの決断の裏には並々ならぬ葛藤があったと思いたいけれど――残された私たちは、彼の最後のメッセージから彼の気持ちを推測することしかできない。
 冷静になった今、彼の失踪の理由が『好きな人を幸せにすること』だけなのだとしたら、そんなことをする必要はなかったのではないか、と思ったりもする。
 私だって、心変わりしてしまったのだと悠生くんから正直に伝えてもらえれば、人の気持ちを無理強いはできないのだし、どうにか彼を忘れようと努力しただろう。……でも。

「――悠生くんは真面目すぎるから、私にはっきり言えなかったのかな」

 私は独り言のように付け足した。
 悠生くんは自分が傷つくことより、相手を傷つけることのほうが怖いと思うタイプだ。五年も付き合って結婚まで約束した私に別れを告げたときのリアクションを想像して、苦しんでいたのだとしたら――胸が締め付けられるように痛くなる。

「本当に真面目で優しいヤツは、急に消えたりしないだろ」

 つぶやくように、泰生が悪態をつく。私はえて明るく笑った。

「かもしれないけど、悠生くんらしいな、とは思うよ」

 悠生くんと泰生は、兄弟だけど性格はあまり似ていない。泰生は自己主張がはっきりしていて、なにごとも白黒つけたがる節があるけれど、悠生くんはその逆。相手を傷つけないように、婉曲えんきょくで柔らかい物言いをする傾向がある。
 それぞれのよさがあるから、一概にどちらがいいとは言えないけれど、今回の件に限って言えば、思い詰めずに「好きな人ができた」とストレートに打ち明けてほしかったのが本音だ。

「……今ごろ、どこでなにしてるんだろうね」

 私はワイングラスを軽く回しながら、悠生くんのことを思った。
 ご近所だから、毎日のように――いかにお互い忙しくとも週に一度は顔を見かける環境だった。付き合い始めてからはなおさら。こんなに長い間、悠生くんに会えないのは初めてかもしれない。
 きっと、『幸せにしなきゃいけない人』と一緒にいるのだろうけれど……元気にしているのだろうか。泰生の話では、財布やカードのたぐいはすべて持って出ていったとのことだから、生活には困っていないと信じたい。

『日和の誕生日は必ず空けるから、期待しててね』

 悠生くんがいなくなるほんの二週間前。そのころの悠生くんは忙しそうで、週に一度、私と一緒に食事をする時間すら取れないようだった。なによりも仕事を優先したい気持ちはよくわかるので、私が『頑張ってね』とメッセージを送ると、悠生くんはそんな風に返信してくれた。
 十一月二日。悠生くんと過ごすはずだった誕生日が、もうすぐやってくる。
 大学生アルバイトの小淵こぶちくんに一日シフトに入ってもらって、私はお休みをもらうつもりだったけれど、その必要もなさそうだ。それに、今は働いていたほうが気が楽なので、予定を変えてもいいのかも。
 ひとりの時間があると、やっぱり悠生くんのことを考えてしまうし――

「お待たせしました~、漁師風トマト煮込みです!」

 ワイングラスの三分の一程度を満たす赤紫色の表面に、彼氏――いや、元カレの顔を映していると、向かい合う私と泰生の間に白い深皿が割って入った。トマトとガーリックの食欲をそそる香りが、湯気とともにぷんと漂う。

「うまそうですね、佐木さん」

 泰生が顔を上げ、その深皿を持ってきた人物に呼びかける。コックスーツに身を包んだその男性の年齢は五十代前半くらいで、肩までの黒髪をひとつに束ねており、体格がよくてコワモテ。そんな見た目に反し、繊細な味覚と色彩センスを持つ佐木さんは、『フォルトゥーナ』の料理長だ。
 うちの父がかつて在籍していた都心のリストランテで、後輩シェフとして働いていた佐木さん。父がこの店を開店すると聞き「ぜひ雇ってください」と頭を下げたのだという。
 父は「リストランテよりも待遇は悪くなるし、シェフとしてのステップアップも見込めないので残ったほうがいい」と説得したようだけど、佐木さんは折れなかった。佐木さんにとっては、シェフとしての待遇や名誉よりも、うちの父と一緒に仕事をするほうが重要だったのだとか。要は、父の人間性に惹かれてついてきてくれたのだ。

「さっき味見させてもらったけど、おいしかったよ!」

 釣り好きの佐木さんは、朝に車を走らせて海に行き、ときには船で沖まで出て目当ての魚介を釣っているようだ。釣りも料理の腕前もスペシャルな彼の特別メニューは、いつもハズレがない。

「泰生くんのオーダーってことで、バタートースト付けといたよ」
「うれしいな。ありがとうございます」

 深皿の周囲を囲うように、スライスしたバゲットで作ったバタートーストが添えられている。表面に塗ったバターがこんがりときつね色に彩られ、仕事中にもかかわらずお腹の虫が鳴ってしまいそうだ。
 幼なじみの泰生と悠生くんは幼いころからこの店に出入りしていたので、佐木さんとも親戚のおじさんと子どものような関係だ。彼らが訪れるたびにこんな風に世話を焼いてくれる。


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