3 / 17
1巻
1-3
しおりを挟む
「父親の弟に娘がひとりいるんだけど――つまり、俺の従妹な。役員連中の話では、その子にしようかって話が出てるらしい。でもなんか揉めてるよ。考え方が古いから、やっぱ男じゃなきゃって渋ってるみたいで」
「あぁ、なるほど……」
一族経営のゼノホールディングスにおいて、跡取りは長子の長男から順番にというのが暗黙の了解らしい。古橋家の長男である唯章氏には、悠生くんと泰生というふたりの息子がいて、本来ならそのふたりがフーズとアグリの次期社長の座に納まるはずだった。それが、悠生くんが離脱した今、泰生がフーズに、アグリには弟さんの長女が繰り上がったというわけか。女性である点を懸念されているみたいだけど。
「長子の長男だとか、性別だとか、そういう時代じゃないんだけどな」
泰生がため息とともに吐き出した言葉に深く同意する。私は大きくうなずいた。
よそのお家のことだからそれぞれの考え方があるとは思いつつ、私も、長子の長男だからと盲目的に世襲させるとか、女性だから男性に劣るとか、そういう価値観は今の時代に合っていないのではと考えたりする。
「泰生のときにはルールを変えちゃえば? 完全実力主義にするとか」
「それもいいな。考えておく」
正義感の強い泰生なら、会社をよりよくするためなら多少の苦労は厭わないだろう。昔から有言実行できる人なので、大企業の体制へのテコ入れなんて難しい案件でも実現しそうな気がする。御曹司なのに客観的な視点を持っているのが、彼のすごいところだ。
「――そうだ。俺、もし自分が経営に直接関わるようになったら、変えようと思ってるところがすでにひとつあるんだ」
「へぇ、それはなに?」
泰生の瞳がきらりと輝いた。自分の興味がそそられるものの話をするとき、彼はよくこんな目をする。
「うちの会社、とにかく回転率を重視してるんだ。店の性質上、価格帯が低いから、その分客を入れないと利益が上がらないのはわかってるんだけど」
「うん」
「たまに日和の店に行くとさ、すごく落ち着くし、また来たいって気持ちになる。料理や酒がおいしいのも理由のひとつなんだけど、いちばんはホスピタリティだなって」
泰生は思い出すように軽く瞼を閉じた。そして、ふっと小さく笑う。
「日和の店の人たちはみんなにこにこしてて、気持ちが華やぐんだ。それに客に対して自然に歓待してくれるのがすごい。自分の他愛ない話を覚えてくれているとうれしいし、ちょうどもう一品欲しいところで勧めてくれるとか、客のさりげない会話を聞いて記念日だってわかったら、ドルチェのプレートにメッセージを書くとか……素直にまた来ようって思えるよね」
「わかってくれてうれしい。……それ、お父さんがいちばん大切にしてたことだから」
私は心に羽が生えたみたいな快さを覚え、感激して言った。
父がわざわざリストランテを辞めてこの店を作った理由はそこにある。気取らないけど心は尽くす。「お店は料理を提供するだけじゃなくて、おもてなしをする場なんだよ」と、父は口癖のように話していたから。
うれしいけれど、正直、泰生がそんな風に言ってくれたのは意外だった。
というのも、以前、兄の悠生くんに父のポリシーであるおもてなしの話をしたとき、「素敵な心がけだとは思うけど、会話で客を引き留めてしまうと店の回転率が下がるから、俺ならそうはしない」とはっきり言われてしまったからだ。
悠生くんの意見は、経営者としては正しいのかもしれない。売り上げを第一に考えたらそうするべきなのもわかっている。でも、同じ経営者だからこそ、根っこにある大切なものをわかり合えないような気がして――父や私の思いを否定された気がして、寂しかった。
……てっきり泰生も悠生くんと同じ価値観を持っていると思っていたのに。
「もちろん、うちが持ってる店を全部そうしたいってわけじゃない。たとえばファストフードみたいに、敢えて回転率だけに特化するべき形態の店舗もあるし」
「そうだね。お店によってお客さまが望む形は違うし」
「うん。それを見極めて接客マニュアルも店舗ごとに組み直していくべきだと思ってる」
御曹司として幼いころから帝王学を叩き込まれているせいか、泰生には常々仕事に対する強い熱意があり、彼の放つ言葉には自らが改革していきたいという前向きな意思が宿っている。
……この人が作るゼノフーズのお店がどう変わっていくのか、すごく楽しみに思えてきた。
「泰生とこういう真面目な話するの、あんまりなかったから新鮮」
「俺も」
私たちはどちらからともなく微笑み合った。
子どものころからの付き合いだし、悠生くんと仕事についての考え方が嚙み合わないと自覚していたから、泰生ともこういう話をするのは避けていたかもしれない。でも。
「ね、泰生。迷惑じゃなかったらだけど……これからは仕事の相談とかしてもいい?」
お店の規模や形態は違うけれど、泰生なら父や私の信念を理解してくれそうな感じがする。もちろん佐木さんや奥薗さんも頼りにしているけれど、お店の外で忌憚ない意見を聞けるのは貴重だ。
「もちろんいいよ」
泰生は笑顔のまま、快くうなずいてくれた。
「ありがとうっ。じゃあさっそくだけど――」
これまで仕事の相談相手といえば、父の仕事を間近で見てきた佐木さんと奥薗さんしかいなかった。思いがけず新しい味方ができてはしゃいでしまった私は、趣向を凝らしたおいしい料理を頂きつつ、お店のメニューやその価格設定、お客さまがよろこんでくれそうなサービスなど、最近「このままでいいのかな?」と迷っていた内容について、さっそく彼に意見を求めてみた。
泰生はそのひとつひとつに対して真剣に考えを述べてくれた。彼のアドバイスがもっともだと思う事柄もあれば、それでも持論を貫きたいと思う内容もあったけれど、意見を交換することで新たなアイデアが閃いたりして、得るものがたくさんある時間だった。
「……日和も筋金入りの仕事人間だな」
聞きたい話が一段落したころには、もうデセールを残すのみとなっていた。しゃべりすぎて渇いた喉を、残り少ない赤ワインで潤しながら泰生が苦笑する。
「ごめん。お店のことになると、つい夢中になっちゃって」
きっと泰生は、こんな真面目な話をするためにここへ連れてきてくれたわけではなかっただろうに。突っ走って、訊きたいことを遠慮なく訊きすぎてしまったみたいだ。
私が反省して言うと、泰生は小さく首を横に振った。
「いや、日和らしいからいいよ。それに、日和にとって『フォルトゥーナ』はただの職場じゃないもんな」
「……うん」
脳裏に亡き両親の顔が浮かぶ。
ふたりが私に遺した大切な場所。だから私が守っていかなきゃいけないのだ。ほかの誰でもない、娘の私が。
そんな気持ちが根底にあるから、仕事が絡むと一生懸命になりすぎてしまうきらいがある。
「お待たせしました」
そのとき、スタッフがデセールのプレートを持ってやってきて、私と泰生の前にそっと置いてくれる。
「……わぁ」
白い正方形のお皿には、緑色のマカロンと紫色のアイスクリーム、淡いオレンジ色のジュレが入った小さなグラスがバランスよく配置されており、中央にはいちごのフレジェ。私のほうにだけ、手前にチョコソースで誕生日を祝うメッセージと、明かりの点ったかわいらしいキャンドルが一本添えられている。
「お誕生日おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
そうだった。話に没頭しすぎて、今日が誕生日であることを忘れてかけていた。お祝いの言葉をかけてくれるスタッフに頭を下げてから、改めてプレートを見つめる。
「――すごく素敵……見とれちゃう」
どれも見た目が美しくておいしそう。見ているだけで、口元が緩んでしまう。
「こういうサプライズ、いつもはする側だと思うけど、たまにはされる側になるのも悪くないだろ?」
「……うん。すごくうれしい」
簡単にデセールの説明をして、スタッフはその場を去っていった。ピスタチオのマカロン、紫芋のアイスクリーム、柿のジュレ。どれも秋の味覚だけど、ひとつだけそうではないものがある。
「いちごのケーキが好きなの、覚えててくれたんだ」
私が言うと、泰生がもちろんとばかりにうなずいた。
やっぱり、このフレジェは彼がチョイスしてくれたものだったのだ。私の好物と知っているから。
「昔、家族で食事しに行ったとき、俺の分まで食べてただろ。で、おじさんに怒られて」
「そうだったね」
家族ぐるみでお付き合いをしていた時期もあったから、私たちは一緒に食事に出かけたりもしていた。泰生のお皿にまで手を出した私を、父がこっぴどく叱ったときのことを思い出す。昔からショートケーキが大好物だったとはいえ、お行儀の悪いエピソードだ。今思い出しても恥ずかしい。
母が亡くなったころから父はお店のことをひとりで背負うようになったので忙しく、そういう機会が減っていったけれど、改めて、家族みたいに濃い付き合いをしていたんだな、私たちは。
――泰生が私をよろこばせたいと思ってくれたその気持ちが、すごくうれしい。
こんな風に思いがけなく優しくされると、目頭が熱くなって……やだ、柄にもなく泣きそう。
「……ごめんね、私のために。気を遣わせてごめんなさい」
「日和?」
お礼よりも先に、唇からこぼれたのは謝罪の言葉だった。私は顔を上げて、ほんの少しぼやける視界で泰生を見つめる。
「あのね、泰生……罪滅ぼしとか、思わなくていいんだよ」
『兄貴の罪滅ぼしってわけじゃないけど、日和さえよければ出かけよう』
二週間前に彼が私に言った言葉が、なんとなく頭にこびりついていたから、そう口にする。
「泰生が私のこと可哀想に思って気にかけてくれるのはありがたいし、うれしいけど……悠生くんがいなくなったのは泰生のせいじゃないよ。弟だからってその分フォローしなくちゃ、とか思わなくていいんだからね?」
兄の代わりに罪滅ぼしをする必要なんてないのだ。私は悠生くんの代わりに泰生を責めるつもりはないし、憎く思うこともないのに。無意識のうちに、泰生にそんなプレッシャーをかけていたのだとしたら申し訳ない。
「……別に、そういうつもりで今日誘ったわけじゃない」
私の言葉に、泰生は一瞬面食らったようだったけれど、すぐに表情を引き締めた。そして、緩く首を横に振って続ける。
「こないだ罪滅ぼしって言ったのは……その、そう言ったほうが、日和が気兼ねなく来てくれるかと思ったからなんだ。逆に罪悪感を持たせてたなら悪い」
「ううん」
泰生が謝る必要なんてない。彼にたくさん謝らなければいけないのは私のほうだ。
「――柄にもなく落ち込んだりして、泰生に迷惑かけてたのは自覚してるんだ。私のほうこそごめんなさい。そして、いつも私のことを気にしてくれてありがとう。でももう、そろそろ吹っ切れてきた」
突然だったからどうしたらいいかわからなくなって、だいぶ泰生に寄りかかってしまった。だけどそれももう終わりにしなきゃ。
私は努めて笑顔のまま続けた。
「悠生くんと過ごした時間は長かったから、完全に忘れるのはまだ難しいけど……でも、悠生くんは自分の意思で私たちから離れていったんだって実感が湧いてきた。それは泰生のおかげだよ。悠生くんがいなくなってからずっと、泰生が私を支えてくれてたんだよね。……本当に感謝してる」
正直に言うと、悠生くんのいない喪失感に打ちのめされそうになる瞬間が、まだ不意に訪れることがある。でも、その回数は確実に減っているし、これから先、さらに時間が経てばもっと減っていくはずだ。それは、泰生がさりげなく私の様子を窺い、声をかけてくれたからだと思っている。
彼には感謝してもし足りない。
「つくづく、持つべきものは親友だなって思ったよ」
長い間育んできた信頼関係があるから、彼も惜しみなく私に手を差し伸べてくれたのだろう。泰生のような、特別な友人と出会えてよかった。
「……親友、か」
「あっ、ごめん。図々しかったかも」
泰生の表情が曇ったので、慌てて訂正する。
――親友、なんて。泰生は面倒見がいいだけで、私と同じ気持ちでいてくれているかどうかはわからないのに。ひとりよがりだったかもしれない。
「……いや」
それでも、彼は焦った私の顔を見てぷっと噴き出したあと、小さく息を吐いた。
「――仕方ないな。ならこれからも、日和のいちばんの親友でいてやるよ」
「なにそれ、偉そう」
「うるさい」
「いてやる」って言い方は面白くない。……泰生らしいといえば、らしいのだけど。口を尖らせる私を笑い飛ばして、泰生が続ける。
「……いいか、親友には不安なことや心配ごとは遠慮せず打ち明けるんだからな。日和はなにごとも自分ひとりで解決しようとするけど、頼れる人やものがあるときは頼らないと自滅するぞ」
「わかった。……そうだよね」
少しぶっきらぼうだけど、私のためを思って言ってくれたのは伝わったから、素直に聞き入れることができる。
――悠生くんにもよく言われていたっけ。「ひとりで背負い込もうとするくせがあるけど、無理しなくていいし、隙があったほうがかわいいよ」って。
そんなつもりはないのだけど、父母が相次いでいなくなってしまってからは、とにかく自分がしっかりしないと、という気持ちが強くなりすぎているのかもしれない。
「これからは泰生にも相談できるし、困ったことがあったら頼りにさせて」
今日一日泰生と過ごして、改めて彼と一緒にいると心地いいと感じたし、信頼できる存在であると再確認できた。
彼がここまで言ってくれるのなら、もうしばらくはその厚意に甘えてもいいのかな。
「うん。それでいい」
彼はもう一度うなずくと、視線を自身のプレートに落とした。
「――ほら、早く食べよう。アイスが溶ける」
「うん」
アイスクリームが溶けかけている。せっかく彼が手配してくれたのだから、万全の状態できちんと味わいたかった。
おいしいスイーツを食べながら、私たちはもう少しなんでもない会話の応酬を楽しんだ。
二十六歳の誕生日は、思いがけず、心がじんわりと温かくなる思い出に満たされたのだった。
2
十二月の飲食店はどこも忘年会モード。いつもは少人数での予約の多い『フォルトゥーナ』も、その例に漏れず貸し切りなどの予約が入るようになった。
うちの店では、貸し切りの場合は特別な要望がない限り、こちらで用意したコース料理を提供することになっている。料理提供の種類と量、タイミングが決まっている分、アラカルトの注文がランダムに入るよりは厨房をスムーズに回しやすいのだけど、予約の人数によってはてんやわんやだ。
「次、カポナータとレバーパテ出して」
「はいっ!」
テキパキとした佐木さんの声に、ホールから答える。
次々と入るお酒のオーダーに対応しつつ、人数分の前菜をテーブルに運ぶ。
今日は十五人。地元の商工会議所の、親しいグループ内での忘年会だ。彼らは毎年この時期にうちを使ってくれるお得意さん。よく食べ、よく呑んでくれる気前のいい人たちなので、お店としても助かっている。
宴が始まってからは常にカウンターと客席を往復している状態だったけれど、やっとひと呼吸つくタイミングができた。
「あら、日和さん。なんだか顔色が悪いけど……?」
今夜は厨房で調理補助をしている奥薗さん。客席にパンを配りに出てきた彼女は、こっそりと壁に寄りかかる私の顔を覗き込んで訊ねた。
「大丈夫、元気あり余ってますっ」
咄嗟に壁から背を離してガッツポーズをしてみせるけれど、彼女はそんな私を訝しげに見つめる。
「さっき、グラス落としそうになってませんでした?」
「あはは……たまたま手が滑っちゃって」
――奥薗さんは鋭い。まさか、あの一瞬を見られていたなんて。
笑ってごまかすと、彼女はちょっと心配そうに眉尻を下げた。
「最近は貸し切りが多いですものね。お疲れ気味なのもわかるわ」
「いえ、気力はまったく問題ないんですよ。本当に」
そう、気力は問題ない――はずだ。お店に出ている間はお客さんとのやり取りも楽しいし、忙しい時期だからこそ普段にも増して仕事にやりがいを感じている。
でも……お店の閉め作業をして、二階の住居に帰ってひとりになった途端、電池が切れたみたいに動けなくなることが多くなった。いつもの私なら、軽く食事を取ってからシャワーを浴びて寝るのに、すべてが面倒に感じてしまい、リビングのソファにもたれたまま眠ったりして。
その割に眠りは浅く、ひと晩に何度も起きてしまって疲れが抜けない。けれど、不思議とランチタイムの開店準備のころにはなんとか動けるようになるから、繁忙期がもたらす一過性のものだろうと思っている。
「日和さんがそう思い込んでるのが心配なんです。食事ちゃんと取ってます?」
「……はい」
ワンテンポ遅れてうなずく。実際のところは取ったり取らなかったりだけど、正直に言うと怒られそうで、躊躇してしまった。
「うそつけないですね、日和さんは」
微妙に生じた間を不審に思わない奥薗さんではない。やれやれといった風に肩をすくめる。
「ブッチもシフトに貢献してくれてるし、休めるときは休んでもらって大丈夫ですからね。ね、ブッチ?」
彼女が声をかけたのは、私と一緒にお酒や前菜のお皿を運んでいた男の子。
ブッチ――小淵くんは、となり駅の私立大学に通っている大学三年生。たまに訪れる貸し切り営業の負担を軽くするためと、私の休みを確保するために今年の春から雇った、ホール専門のアルバイトだ。テスト期間は長期離脱せざるを得ないものの、人懐っこくてうちの常連さんたちからの受けもいいので、ディナータイムの大事な戦力になっている。
「はい。日和さん、オレめっちゃ働きますんで。こき使ってくださいっ」
小淵くんは奥薗さんに振られた直後、私に明るく笑いかけてくれる。弧を描く唇から白い歯が覗いた。
こなれたマッシュショートの茶髪と、左右の耳にひとつずつ開いたピアスは、いかにも学生らしい雰囲気。顔の造形がどことなく女の子っぽく思えるのは、ぱっちりした二重の丸い目と、緩いカーブを描くように整えられた眉のせいだろう。
「ありがとう。でも、本当に平気だから」
お店の従業員に心配をかけたくない私は、意識的になんでもない素振りを見せた。
ただでさえお店を支えてもらっているのに、私個人のことで迷惑をかけるわけにはいかない。
それに――父はかつて病気と闘っている間も、よほどのことがなければずっと厨房に立ち続けていた。手のひらいっぱいの量の服薬を続け、家に帰ればすぐベッドに直行してしまうような体調だったのに、お店では一切そんな様子を見せずに。
そんな父の姿を知っているからこそ、この程度でへこたれてはいられないのだ。
そのとき、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ~。申し訳ございません、本日は――あっ、泰生さん」
小淵くんがドアベルの音に被せて貸し切りである旨を説明しようとしたところで、訪れた人物の名前を呼ぶ。
「こんばんは。貸し切り?」
仕事帰りのスーツ姿。首元に温かそうな黒いマフラーを巻いた泰生が小淵くんに挨拶しながら訊ねると、私の横にいた奥薗さんも彼らのもとへ歩み寄っていく。
「そうなんですよ~、年末なので」
「泰生、どうしたの?」
私もその輪に入るべく、扉へと向かった。
「いや、ちょっと話があって。すぐ終わるんだけど」
泰生が扉を閉めながら、私に視線を向けて言う。
私は店内を見回した。小さな店なので、十五人ものゲストがいれば賑やかで、落ち着いて会話できそうなスペースはない。となると――
「外でもいいかな?」
「構わない」
「すみません、ホールお願いします」
泰生が快諾してくれたので、私は少しの間だけホールを小淵くんひとりに任せることにした。「任せてください!」と送り出してくれる彼を背に、さっき泰生が閉めたばかりの扉を再び開けて、泰生を店外に連れ出す。
店内は人や厨房の熱気のおかげで暑いくらいだったけれど、冬の夜にシャツと膝下丈のスカート、エプロンの軽装では、やっぱり冷える。
「ごめんね、寒いのに」
扉の前の門灯に照らされ、泰生と向かい合う。冷たい外気を拒むように、袖口で両手の指先を隠す所作をしながら、泰生に声をかけた。
「気にするな。店にとってはありがたいことだし。っていうか、日和のが寒いだろ――ほら」
首を横に振った彼は、すぐに私が寒がっていることに気付くと、自身の首に巻いていた黒いマフラーを、私の首にかけてくれる。彼の体温が移っているせいもあって、とても温かい。
「これしかなくて悪いけど」
「う、ううんっ。ありがと」
泰生の温もりを意識してしまって、妙にドキドキする。
こんな、普通なら彼女にしかしないようなことをサラッとやってのけるから、彼はモテるのだろうか。
マフラーからふわりと香るのは、泰生がいつもつけている香水。ユニセックスで爽やかないい香りを街中で感じたとき、「あ、泰生の匂いだ」と認識するくらい、私の中では彼と結びついている。
――と。泰生が真面目な表情で私の顔を覗き込んできた。頭ひとつ分の身長差のある彼が、額と額がつきそうなくらいに、瞳を近づけてくる。
「なっ……なにっ?」
香水の香りを感じたとき以上のドキドキに襲われる。……相手は、子どものころから知っている幼なじみだというのに。
「顔色が悪い。体調がよくないのか?」
「や、やだ、泰生まで。全然、そんなことないよ」
気恥ずかしさもあって、私は首を横に振り視線を逸らした。奥薗さんのみならず、泰生までも。私って、そんなにわかりやすいのだろうか。
「本当に……?」
付き合いの長い泰生は、私の返答に違和感を覚えているようだった。
「さすが泰生くん。よく見てるわね~」
「ひゃっ!」
思いがけず背後から声がしたので驚いて振り返ると、薄く開いた扉の向こうから、奥薗さんがこちらを覗いていた。彼女は自身の顔がはっきりと見える程度に扉を押し、意味深に微笑む。
「奥薗さん……」
私と、同じく扉を見つめる泰生の声がユニゾンした。
「日和さんのことが絡むと、とりわけよく気が付くのよね~」
笑みを湛えたままの奥薗さんが歌うように言うと、泰生が痛いところを突かれたように眉を顰めた。
「幼なじみだからですかね。でも、私はなにも問題ないんですけど……」
一緒に過ごした時間が長い分、細かい変化に気付いてくれる部分はあるのだと思う。でもちょっと表現がオーバーだ。
私が苦笑すると、奥薗さんがやれやれとため息を吐いてから、泰生を見つめる。
「――泰生くんからも言ってあげて。日和さんに、くれぐれも無理しないようにって。それじゃあ、お邪魔しました~」
言いたいことだけを言って、奥薗さんがそっと扉を閉めた。
「……」
直後、再び私を見つめる泰生から疑わしげな視線が注がれる。
「ほ、本当に平気だって。……それより、話って?」
この繁忙期を乗り切れば、今はうっすら感じている不調も改善して、いつもの私に戻れるはずだ。
私は強めの語気で押し切ったあと、早々と本題に入った。すると泰生も、そうだったとばかりに軽く目を瞠る。
「来週の木曜って、貸し切り入ってる?」
「え? ……ううん、入ってなかったと思うけど」
近々のスケジュールはなんとなく把握している。その日はこの時期には珍しく席の予約もない日なので、印象に残っていた。
「よかった。日和、高校のときフェンシング部だった桜井って覚えてる?」
「うん。ほとんど話したことはないけど……」
記憶を辿りながらうなずく。
桜井くんは泰生の部活の友達のひとりだ。泰生は当時から友人が多いほうだったけれど、その中でも特に仲がよかった人。私自身はクラスも違うし接点がなかったので、相手のほうは覚えていないだろう。
「実は、仲間内で桜井の婚約祝いをする予定だったんだけど、別の友達がセッティングしてくれた店が個室のダブルブッキングをしてたらしくて、キャンセル依頼の連絡が来たんだよ。スケジュールを変えようにも、みんなこの忙しい時期に時間を作ってくれたわけだし、空いてる店を探してて」
「それでうちを使いたいってこと?」
「頼めるか?」
「うん。大丈夫だよ」
私は快くうなずいた。
「あぁ、なるほど……」
一族経営のゼノホールディングスにおいて、跡取りは長子の長男から順番にというのが暗黙の了解らしい。古橋家の長男である唯章氏には、悠生くんと泰生というふたりの息子がいて、本来ならそのふたりがフーズとアグリの次期社長の座に納まるはずだった。それが、悠生くんが離脱した今、泰生がフーズに、アグリには弟さんの長女が繰り上がったというわけか。女性である点を懸念されているみたいだけど。
「長子の長男だとか、性別だとか、そういう時代じゃないんだけどな」
泰生がため息とともに吐き出した言葉に深く同意する。私は大きくうなずいた。
よそのお家のことだからそれぞれの考え方があるとは思いつつ、私も、長子の長男だからと盲目的に世襲させるとか、女性だから男性に劣るとか、そういう価値観は今の時代に合っていないのではと考えたりする。
「泰生のときにはルールを変えちゃえば? 完全実力主義にするとか」
「それもいいな。考えておく」
正義感の強い泰生なら、会社をよりよくするためなら多少の苦労は厭わないだろう。昔から有言実行できる人なので、大企業の体制へのテコ入れなんて難しい案件でも実現しそうな気がする。御曹司なのに客観的な視点を持っているのが、彼のすごいところだ。
「――そうだ。俺、もし自分が経営に直接関わるようになったら、変えようと思ってるところがすでにひとつあるんだ」
「へぇ、それはなに?」
泰生の瞳がきらりと輝いた。自分の興味がそそられるものの話をするとき、彼はよくこんな目をする。
「うちの会社、とにかく回転率を重視してるんだ。店の性質上、価格帯が低いから、その分客を入れないと利益が上がらないのはわかってるんだけど」
「うん」
「たまに日和の店に行くとさ、すごく落ち着くし、また来たいって気持ちになる。料理や酒がおいしいのも理由のひとつなんだけど、いちばんはホスピタリティだなって」
泰生は思い出すように軽く瞼を閉じた。そして、ふっと小さく笑う。
「日和の店の人たちはみんなにこにこしてて、気持ちが華やぐんだ。それに客に対して自然に歓待してくれるのがすごい。自分の他愛ない話を覚えてくれているとうれしいし、ちょうどもう一品欲しいところで勧めてくれるとか、客のさりげない会話を聞いて記念日だってわかったら、ドルチェのプレートにメッセージを書くとか……素直にまた来ようって思えるよね」
「わかってくれてうれしい。……それ、お父さんがいちばん大切にしてたことだから」
私は心に羽が生えたみたいな快さを覚え、感激して言った。
父がわざわざリストランテを辞めてこの店を作った理由はそこにある。気取らないけど心は尽くす。「お店は料理を提供するだけじゃなくて、おもてなしをする場なんだよ」と、父は口癖のように話していたから。
うれしいけれど、正直、泰生がそんな風に言ってくれたのは意外だった。
というのも、以前、兄の悠生くんに父のポリシーであるおもてなしの話をしたとき、「素敵な心がけだとは思うけど、会話で客を引き留めてしまうと店の回転率が下がるから、俺ならそうはしない」とはっきり言われてしまったからだ。
悠生くんの意見は、経営者としては正しいのかもしれない。売り上げを第一に考えたらそうするべきなのもわかっている。でも、同じ経営者だからこそ、根っこにある大切なものをわかり合えないような気がして――父や私の思いを否定された気がして、寂しかった。
……てっきり泰生も悠生くんと同じ価値観を持っていると思っていたのに。
「もちろん、うちが持ってる店を全部そうしたいってわけじゃない。たとえばファストフードみたいに、敢えて回転率だけに特化するべき形態の店舗もあるし」
「そうだね。お店によってお客さまが望む形は違うし」
「うん。それを見極めて接客マニュアルも店舗ごとに組み直していくべきだと思ってる」
御曹司として幼いころから帝王学を叩き込まれているせいか、泰生には常々仕事に対する強い熱意があり、彼の放つ言葉には自らが改革していきたいという前向きな意思が宿っている。
……この人が作るゼノフーズのお店がどう変わっていくのか、すごく楽しみに思えてきた。
「泰生とこういう真面目な話するの、あんまりなかったから新鮮」
「俺も」
私たちはどちらからともなく微笑み合った。
子どものころからの付き合いだし、悠生くんと仕事についての考え方が嚙み合わないと自覚していたから、泰生ともこういう話をするのは避けていたかもしれない。でも。
「ね、泰生。迷惑じゃなかったらだけど……これからは仕事の相談とかしてもいい?」
お店の規模や形態は違うけれど、泰生なら父や私の信念を理解してくれそうな感じがする。もちろん佐木さんや奥薗さんも頼りにしているけれど、お店の外で忌憚ない意見を聞けるのは貴重だ。
「もちろんいいよ」
泰生は笑顔のまま、快くうなずいてくれた。
「ありがとうっ。じゃあさっそくだけど――」
これまで仕事の相談相手といえば、父の仕事を間近で見てきた佐木さんと奥薗さんしかいなかった。思いがけず新しい味方ができてはしゃいでしまった私は、趣向を凝らしたおいしい料理を頂きつつ、お店のメニューやその価格設定、お客さまがよろこんでくれそうなサービスなど、最近「このままでいいのかな?」と迷っていた内容について、さっそく彼に意見を求めてみた。
泰生はそのひとつひとつに対して真剣に考えを述べてくれた。彼のアドバイスがもっともだと思う事柄もあれば、それでも持論を貫きたいと思う内容もあったけれど、意見を交換することで新たなアイデアが閃いたりして、得るものがたくさんある時間だった。
「……日和も筋金入りの仕事人間だな」
聞きたい話が一段落したころには、もうデセールを残すのみとなっていた。しゃべりすぎて渇いた喉を、残り少ない赤ワインで潤しながら泰生が苦笑する。
「ごめん。お店のことになると、つい夢中になっちゃって」
きっと泰生は、こんな真面目な話をするためにここへ連れてきてくれたわけではなかっただろうに。突っ走って、訊きたいことを遠慮なく訊きすぎてしまったみたいだ。
私が反省して言うと、泰生は小さく首を横に振った。
「いや、日和らしいからいいよ。それに、日和にとって『フォルトゥーナ』はただの職場じゃないもんな」
「……うん」
脳裏に亡き両親の顔が浮かぶ。
ふたりが私に遺した大切な場所。だから私が守っていかなきゃいけないのだ。ほかの誰でもない、娘の私が。
そんな気持ちが根底にあるから、仕事が絡むと一生懸命になりすぎてしまうきらいがある。
「お待たせしました」
そのとき、スタッフがデセールのプレートを持ってやってきて、私と泰生の前にそっと置いてくれる。
「……わぁ」
白い正方形のお皿には、緑色のマカロンと紫色のアイスクリーム、淡いオレンジ色のジュレが入った小さなグラスがバランスよく配置されており、中央にはいちごのフレジェ。私のほうにだけ、手前にチョコソースで誕生日を祝うメッセージと、明かりの点ったかわいらしいキャンドルが一本添えられている。
「お誕生日おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
そうだった。話に没頭しすぎて、今日が誕生日であることを忘れてかけていた。お祝いの言葉をかけてくれるスタッフに頭を下げてから、改めてプレートを見つめる。
「――すごく素敵……見とれちゃう」
どれも見た目が美しくておいしそう。見ているだけで、口元が緩んでしまう。
「こういうサプライズ、いつもはする側だと思うけど、たまにはされる側になるのも悪くないだろ?」
「……うん。すごくうれしい」
簡単にデセールの説明をして、スタッフはその場を去っていった。ピスタチオのマカロン、紫芋のアイスクリーム、柿のジュレ。どれも秋の味覚だけど、ひとつだけそうではないものがある。
「いちごのケーキが好きなの、覚えててくれたんだ」
私が言うと、泰生がもちろんとばかりにうなずいた。
やっぱり、このフレジェは彼がチョイスしてくれたものだったのだ。私の好物と知っているから。
「昔、家族で食事しに行ったとき、俺の分まで食べてただろ。で、おじさんに怒られて」
「そうだったね」
家族ぐるみでお付き合いをしていた時期もあったから、私たちは一緒に食事に出かけたりもしていた。泰生のお皿にまで手を出した私を、父がこっぴどく叱ったときのことを思い出す。昔からショートケーキが大好物だったとはいえ、お行儀の悪いエピソードだ。今思い出しても恥ずかしい。
母が亡くなったころから父はお店のことをひとりで背負うようになったので忙しく、そういう機会が減っていったけれど、改めて、家族みたいに濃い付き合いをしていたんだな、私たちは。
――泰生が私をよろこばせたいと思ってくれたその気持ちが、すごくうれしい。
こんな風に思いがけなく優しくされると、目頭が熱くなって……やだ、柄にもなく泣きそう。
「……ごめんね、私のために。気を遣わせてごめんなさい」
「日和?」
お礼よりも先に、唇からこぼれたのは謝罪の言葉だった。私は顔を上げて、ほんの少しぼやける視界で泰生を見つめる。
「あのね、泰生……罪滅ぼしとか、思わなくていいんだよ」
『兄貴の罪滅ぼしってわけじゃないけど、日和さえよければ出かけよう』
二週間前に彼が私に言った言葉が、なんとなく頭にこびりついていたから、そう口にする。
「泰生が私のこと可哀想に思って気にかけてくれるのはありがたいし、うれしいけど……悠生くんがいなくなったのは泰生のせいじゃないよ。弟だからってその分フォローしなくちゃ、とか思わなくていいんだからね?」
兄の代わりに罪滅ぼしをする必要なんてないのだ。私は悠生くんの代わりに泰生を責めるつもりはないし、憎く思うこともないのに。無意識のうちに、泰生にそんなプレッシャーをかけていたのだとしたら申し訳ない。
「……別に、そういうつもりで今日誘ったわけじゃない」
私の言葉に、泰生は一瞬面食らったようだったけれど、すぐに表情を引き締めた。そして、緩く首を横に振って続ける。
「こないだ罪滅ぼしって言ったのは……その、そう言ったほうが、日和が気兼ねなく来てくれるかと思ったからなんだ。逆に罪悪感を持たせてたなら悪い」
「ううん」
泰生が謝る必要なんてない。彼にたくさん謝らなければいけないのは私のほうだ。
「――柄にもなく落ち込んだりして、泰生に迷惑かけてたのは自覚してるんだ。私のほうこそごめんなさい。そして、いつも私のことを気にしてくれてありがとう。でももう、そろそろ吹っ切れてきた」
突然だったからどうしたらいいかわからなくなって、だいぶ泰生に寄りかかってしまった。だけどそれももう終わりにしなきゃ。
私は努めて笑顔のまま続けた。
「悠生くんと過ごした時間は長かったから、完全に忘れるのはまだ難しいけど……でも、悠生くんは自分の意思で私たちから離れていったんだって実感が湧いてきた。それは泰生のおかげだよ。悠生くんがいなくなってからずっと、泰生が私を支えてくれてたんだよね。……本当に感謝してる」
正直に言うと、悠生くんのいない喪失感に打ちのめされそうになる瞬間が、まだ不意に訪れることがある。でも、その回数は確実に減っているし、これから先、さらに時間が経てばもっと減っていくはずだ。それは、泰生がさりげなく私の様子を窺い、声をかけてくれたからだと思っている。
彼には感謝してもし足りない。
「つくづく、持つべきものは親友だなって思ったよ」
長い間育んできた信頼関係があるから、彼も惜しみなく私に手を差し伸べてくれたのだろう。泰生のような、特別な友人と出会えてよかった。
「……親友、か」
「あっ、ごめん。図々しかったかも」
泰生の表情が曇ったので、慌てて訂正する。
――親友、なんて。泰生は面倒見がいいだけで、私と同じ気持ちでいてくれているかどうかはわからないのに。ひとりよがりだったかもしれない。
「……いや」
それでも、彼は焦った私の顔を見てぷっと噴き出したあと、小さく息を吐いた。
「――仕方ないな。ならこれからも、日和のいちばんの親友でいてやるよ」
「なにそれ、偉そう」
「うるさい」
「いてやる」って言い方は面白くない。……泰生らしいといえば、らしいのだけど。口を尖らせる私を笑い飛ばして、泰生が続ける。
「……いいか、親友には不安なことや心配ごとは遠慮せず打ち明けるんだからな。日和はなにごとも自分ひとりで解決しようとするけど、頼れる人やものがあるときは頼らないと自滅するぞ」
「わかった。……そうだよね」
少しぶっきらぼうだけど、私のためを思って言ってくれたのは伝わったから、素直に聞き入れることができる。
――悠生くんにもよく言われていたっけ。「ひとりで背負い込もうとするくせがあるけど、無理しなくていいし、隙があったほうがかわいいよ」って。
そんなつもりはないのだけど、父母が相次いでいなくなってしまってからは、とにかく自分がしっかりしないと、という気持ちが強くなりすぎているのかもしれない。
「これからは泰生にも相談できるし、困ったことがあったら頼りにさせて」
今日一日泰生と過ごして、改めて彼と一緒にいると心地いいと感じたし、信頼できる存在であると再確認できた。
彼がここまで言ってくれるのなら、もうしばらくはその厚意に甘えてもいいのかな。
「うん。それでいい」
彼はもう一度うなずくと、視線を自身のプレートに落とした。
「――ほら、早く食べよう。アイスが溶ける」
「うん」
アイスクリームが溶けかけている。せっかく彼が手配してくれたのだから、万全の状態できちんと味わいたかった。
おいしいスイーツを食べながら、私たちはもう少しなんでもない会話の応酬を楽しんだ。
二十六歳の誕生日は、思いがけず、心がじんわりと温かくなる思い出に満たされたのだった。
2
十二月の飲食店はどこも忘年会モード。いつもは少人数での予約の多い『フォルトゥーナ』も、その例に漏れず貸し切りなどの予約が入るようになった。
うちの店では、貸し切りの場合は特別な要望がない限り、こちらで用意したコース料理を提供することになっている。料理提供の種類と量、タイミングが決まっている分、アラカルトの注文がランダムに入るよりは厨房をスムーズに回しやすいのだけど、予約の人数によってはてんやわんやだ。
「次、カポナータとレバーパテ出して」
「はいっ!」
テキパキとした佐木さんの声に、ホールから答える。
次々と入るお酒のオーダーに対応しつつ、人数分の前菜をテーブルに運ぶ。
今日は十五人。地元の商工会議所の、親しいグループ内での忘年会だ。彼らは毎年この時期にうちを使ってくれるお得意さん。よく食べ、よく呑んでくれる気前のいい人たちなので、お店としても助かっている。
宴が始まってからは常にカウンターと客席を往復している状態だったけれど、やっとひと呼吸つくタイミングができた。
「あら、日和さん。なんだか顔色が悪いけど……?」
今夜は厨房で調理補助をしている奥薗さん。客席にパンを配りに出てきた彼女は、こっそりと壁に寄りかかる私の顔を覗き込んで訊ねた。
「大丈夫、元気あり余ってますっ」
咄嗟に壁から背を離してガッツポーズをしてみせるけれど、彼女はそんな私を訝しげに見つめる。
「さっき、グラス落としそうになってませんでした?」
「あはは……たまたま手が滑っちゃって」
――奥薗さんは鋭い。まさか、あの一瞬を見られていたなんて。
笑ってごまかすと、彼女はちょっと心配そうに眉尻を下げた。
「最近は貸し切りが多いですものね。お疲れ気味なのもわかるわ」
「いえ、気力はまったく問題ないんですよ。本当に」
そう、気力は問題ない――はずだ。お店に出ている間はお客さんとのやり取りも楽しいし、忙しい時期だからこそ普段にも増して仕事にやりがいを感じている。
でも……お店の閉め作業をして、二階の住居に帰ってひとりになった途端、電池が切れたみたいに動けなくなることが多くなった。いつもの私なら、軽く食事を取ってからシャワーを浴びて寝るのに、すべてが面倒に感じてしまい、リビングのソファにもたれたまま眠ったりして。
その割に眠りは浅く、ひと晩に何度も起きてしまって疲れが抜けない。けれど、不思議とランチタイムの開店準備のころにはなんとか動けるようになるから、繁忙期がもたらす一過性のものだろうと思っている。
「日和さんがそう思い込んでるのが心配なんです。食事ちゃんと取ってます?」
「……はい」
ワンテンポ遅れてうなずく。実際のところは取ったり取らなかったりだけど、正直に言うと怒られそうで、躊躇してしまった。
「うそつけないですね、日和さんは」
微妙に生じた間を不審に思わない奥薗さんではない。やれやれといった風に肩をすくめる。
「ブッチもシフトに貢献してくれてるし、休めるときは休んでもらって大丈夫ですからね。ね、ブッチ?」
彼女が声をかけたのは、私と一緒にお酒や前菜のお皿を運んでいた男の子。
ブッチ――小淵くんは、となり駅の私立大学に通っている大学三年生。たまに訪れる貸し切り営業の負担を軽くするためと、私の休みを確保するために今年の春から雇った、ホール専門のアルバイトだ。テスト期間は長期離脱せざるを得ないものの、人懐っこくてうちの常連さんたちからの受けもいいので、ディナータイムの大事な戦力になっている。
「はい。日和さん、オレめっちゃ働きますんで。こき使ってくださいっ」
小淵くんは奥薗さんに振られた直後、私に明るく笑いかけてくれる。弧を描く唇から白い歯が覗いた。
こなれたマッシュショートの茶髪と、左右の耳にひとつずつ開いたピアスは、いかにも学生らしい雰囲気。顔の造形がどことなく女の子っぽく思えるのは、ぱっちりした二重の丸い目と、緩いカーブを描くように整えられた眉のせいだろう。
「ありがとう。でも、本当に平気だから」
お店の従業員に心配をかけたくない私は、意識的になんでもない素振りを見せた。
ただでさえお店を支えてもらっているのに、私個人のことで迷惑をかけるわけにはいかない。
それに――父はかつて病気と闘っている間も、よほどのことがなければずっと厨房に立ち続けていた。手のひらいっぱいの量の服薬を続け、家に帰ればすぐベッドに直行してしまうような体調だったのに、お店では一切そんな様子を見せずに。
そんな父の姿を知っているからこそ、この程度でへこたれてはいられないのだ。
そのとき、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ~。申し訳ございません、本日は――あっ、泰生さん」
小淵くんがドアベルの音に被せて貸し切りである旨を説明しようとしたところで、訪れた人物の名前を呼ぶ。
「こんばんは。貸し切り?」
仕事帰りのスーツ姿。首元に温かそうな黒いマフラーを巻いた泰生が小淵くんに挨拶しながら訊ねると、私の横にいた奥薗さんも彼らのもとへ歩み寄っていく。
「そうなんですよ~、年末なので」
「泰生、どうしたの?」
私もその輪に入るべく、扉へと向かった。
「いや、ちょっと話があって。すぐ終わるんだけど」
泰生が扉を閉めながら、私に視線を向けて言う。
私は店内を見回した。小さな店なので、十五人ものゲストがいれば賑やかで、落ち着いて会話できそうなスペースはない。となると――
「外でもいいかな?」
「構わない」
「すみません、ホールお願いします」
泰生が快諾してくれたので、私は少しの間だけホールを小淵くんひとりに任せることにした。「任せてください!」と送り出してくれる彼を背に、さっき泰生が閉めたばかりの扉を再び開けて、泰生を店外に連れ出す。
店内は人や厨房の熱気のおかげで暑いくらいだったけれど、冬の夜にシャツと膝下丈のスカート、エプロンの軽装では、やっぱり冷える。
「ごめんね、寒いのに」
扉の前の門灯に照らされ、泰生と向かい合う。冷たい外気を拒むように、袖口で両手の指先を隠す所作をしながら、泰生に声をかけた。
「気にするな。店にとってはありがたいことだし。っていうか、日和のが寒いだろ――ほら」
首を横に振った彼は、すぐに私が寒がっていることに気付くと、自身の首に巻いていた黒いマフラーを、私の首にかけてくれる。彼の体温が移っているせいもあって、とても温かい。
「これしかなくて悪いけど」
「う、ううんっ。ありがと」
泰生の温もりを意識してしまって、妙にドキドキする。
こんな、普通なら彼女にしかしないようなことをサラッとやってのけるから、彼はモテるのだろうか。
マフラーからふわりと香るのは、泰生がいつもつけている香水。ユニセックスで爽やかないい香りを街中で感じたとき、「あ、泰生の匂いだ」と認識するくらい、私の中では彼と結びついている。
――と。泰生が真面目な表情で私の顔を覗き込んできた。頭ひとつ分の身長差のある彼が、額と額がつきそうなくらいに、瞳を近づけてくる。
「なっ……なにっ?」
香水の香りを感じたとき以上のドキドキに襲われる。……相手は、子どものころから知っている幼なじみだというのに。
「顔色が悪い。体調がよくないのか?」
「や、やだ、泰生まで。全然、そんなことないよ」
気恥ずかしさもあって、私は首を横に振り視線を逸らした。奥薗さんのみならず、泰生までも。私って、そんなにわかりやすいのだろうか。
「本当に……?」
付き合いの長い泰生は、私の返答に違和感を覚えているようだった。
「さすが泰生くん。よく見てるわね~」
「ひゃっ!」
思いがけず背後から声がしたので驚いて振り返ると、薄く開いた扉の向こうから、奥薗さんがこちらを覗いていた。彼女は自身の顔がはっきりと見える程度に扉を押し、意味深に微笑む。
「奥薗さん……」
私と、同じく扉を見つめる泰生の声がユニゾンした。
「日和さんのことが絡むと、とりわけよく気が付くのよね~」
笑みを湛えたままの奥薗さんが歌うように言うと、泰生が痛いところを突かれたように眉を顰めた。
「幼なじみだからですかね。でも、私はなにも問題ないんですけど……」
一緒に過ごした時間が長い分、細かい変化に気付いてくれる部分はあるのだと思う。でもちょっと表現がオーバーだ。
私が苦笑すると、奥薗さんがやれやれとため息を吐いてから、泰生を見つめる。
「――泰生くんからも言ってあげて。日和さんに、くれぐれも無理しないようにって。それじゃあ、お邪魔しました~」
言いたいことだけを言って、奥薗さんがそっと扉を閉めた。
「……」
直後、再び私を見つめる泰生から疑わしげな視線が注がれる。
「ほ、本当に平気だって。……それより、話って?」
この繁忙期を乗り切れば、今はうっすら感じている不調も改善して、いつもの私に戻れるはずだ。
私は強めの語気で押し切ったあと、早々と本題に入った。すると泰生も、そうだったとばかりに軽く目を瞠る。
「来週の木曜って、貸し切り入ってる?」
「え? ……ううん、入ってなかったと思うけど」
近々のスケジュールはなんとなく把握している。その日はこの時期には珍しく席の予約もない日なので、印象に残っていた。
「よかった。日和、高校のときフェンシング部だった桜井って覚えてる?」
「うん。ほとんど話したことはないけど……」
記憶を辿りながらうなずく。
桜井くんは泰生の部活の友達のひとりだ。泰生は当時から友人が多いほうだったけれど、その中でも特に仲がよかった人。私自身はクラスも違うし接点がなかったので、相手のほうは覚えていないだろう。
「実は、仲間内で桜井の婚約祝いをする予定だったんだけど、別の友達がセッティングしてくれた店が個室のダブルブッキングをしてたらしくて、キャンセル依頼の連絡が来たんだよ。スケジュールを変えようにも、みんなこの忙しい時期に時間を作ってくれたわけだし、空いてる店を探してて」
「それでうちを使いたいってこと?」
「頼めるか?」
「うん。大丈夫だよ」
私は快くうなずいた。
0
あなたにおすすめの小説
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。