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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
「だからさー、そうじゃないんだよねー」
スピーカーを通して響いてきたのは、音響監督の呆れ声だった。
「すみません、もう一度演らせて下さい」
一番右端のマイクの前に立った彼は振り向き、分厚い防音ガラスの向こう側にいる音響監督に懇願する。
女性のみならず男性までもが思わず聴き入ってしまう、凛々しくも甘い声。
彼に声優としてのキャリアはまだないが、今期最も期待されているアニメのゲストキャラに抜擢されたのも納得できるほど、魅力的な声だ。
しかし、そんな彼の声に焦りが滲んでいる。
さっきからずっとこの調子だ。
何が悪かったのだろう――と、彼は小さく息を吐く。端整な顔立ちが焦燥感で曇る。彼の切れ長の涼しげな目が、開いたままの台本に落とされた。
「抜きで録ってるんだから、一発で決めて欲しいんだけどねえ」
音響監督がため息交じりにぼやく。
『抜き』というのは、その台詞だけを個別に収録すること。
基本、こういったアニメの収録では他の声優も一緒に通しで録音するのだが、何度もリテイクを受けたため、彼の台詞だけ『抜き』となったのだ。四回、いやもう五回目か。無我夢中だったので、彼はその回数をはっきりとは覚えていない。
いくら新人だとはいえ――いや、新人だからこそ現場を止めてしまうというのは、許されることではない。それは、彼自身も重々承知していた。
このシーン、彼の台詞はたった一言。
『助けてくれてありがとう!』
この一言のOKがなかなか出ない。台本はよく読んだし、前後の展開からみても台詞のニュアンスは数パターンしかないはずだ。なのに、どれで試しても違うと言われた。
その割に、細かい指示は出してこない。自分で考えろということなのだろうか?
……いや、きっと、そうじゃない。
彼は、スタジオに入る前、同行したマネージャーに聞かされた話を思い出した。
『ここの音響監督、舞台とか子役上がりの役者が嫌いだって話なんだよね。もしかしたらお前も難癖つけられてイビられるかもしれないから、気をつけろよ』
「まぁ、マイクを通しての演技は、テレビや舞台と勝手が違うから。いきなり上手くできると思われても困るんだけどねえ」
頭の中でマネージャーの言葉が再生された直後、音響監督がわかりやすい嫌味を言って、笑い声をもらした。
なるほど。これが声の世界の洗礼というやつか――と、彼は納得する。
つまり、何をやっても、どんな演技をしても気に食わないのだ。
この音響監督は、最初から彼の演技にケチをつけるつもりだった。たった一言の演技に何度もNGを出し、リテイクを要求する。
そうして、彼が精神的に追い詰められていく様を楽しむ気に違いない。
マイクに向き直り、シーンの頭で止まったままの大きなモニターを横目で見つつ、周囲の様子をうかがう。
他の演者は、各々スタジオの隅に配置された丸イスに腰掛けている。彼らの反応といえば、同情的な視線を向けているか、また始まったかと肩を竦めているかのどちらかだった。
彼は悔しさにギリ、と歯を食いしばった。こんな理不尽なリテイクでも、仕事は仕事。……納得のいくものを提供できない自分が悪いのだと必死に言い聞かせる。
「じゃあもう一回行くよ――はい、どうぞ」
音響監督の指示で、抜きの収録が再開される。
「――助けてくれてありがとう!」
これでどうだ。彼は調整室のほうを振り返る。
音響監督が大袈裟にため息を吐きながら、調整室側のマイクのスイッチを押すのが見えた。
……また録り直しか。いつになったらこの無限回廊から解放されるのだろう。
彼が再びマイクへ向き直ろうとした、そのとき。
「今のテイク、すごくよかったですね」
――と、スピーカーを通して知らない女性の声が聞こえてきた。
現場の人間ではない。今回の音響スタッフに女性はいなかったはずだ。だとしたら誰だ?
「あっ、出過ぎたことを言ってすみませんっ。ただ、以前のテイクよりも硬さが抜けて自然な感じになったなと思って」
調整室で若い小柄な女性が、ぺこぺこと頭を下げている。
それに応えるかのように、スタジオ内の声優陣もうんうんと大きく頷いた。
そうなってしまえば、音響監督もOKを出さないわけにはいかない。一度咳払いをしてから言う。
「今のテイク、頂きます。……じゃあ、次のシーンに行こうか」
やっと彼への執着をとき、収録を進めてくれた。
その後は大きなトラブルもなく、無事に収録は終わった。彼は挨拶のために調整室へ向かう。
音響監督に嫌味交じりの激励の言葉を掛けられたあと、彼は例の女性が自分のマネージャーと談笑していることに気付いた。
「おう、ちょっとこっち来いよ」
マネージャーに手招きされ、二人の間に入る。
「こちら、フローライトプロの松永さん」
マネージャーは女性をそう紹介した。
「はじめまして、松永です」
柔和な笑顔で頭を下げる女性は、彼と同じくらいの歳に見えた。
彼女は「あっ、名刺」と呟き、ぎこちない仕草で彼に名刺を渡す。
――フローライトプロダクション マネージャー 松永ひなた
彼はすぐに、受け取った名刺に書かれた内容を目で追った。
「声優としてはこれが初めての現場だったんですよね? 先ほど植田さんから伺いました」
植田というのは彼のマネージャーの名前だ。彼は頷いた。
「でもずっと芸能系のお仕事をしていたからかな、そうとは思えないほど、すごく堂々としていらっしゃいました」
「いえ」
絶賛する松永に、彼は首を横に振って否定した。実際、音響監督の精神的攻撃はこたえたからだ。彼女の発言がなければ、もっと酷い目に遭っていたかもしれない。
「声優は心も鍛えていかないといけませんからね。ま、ある意味今回はいい経験になりましたよ」
植田がそう言い、「なっ?」と彼の肩を叩く。
彼は素直に「はい」と頷いた。ああいうタイプの人間もいるのだと知っただけでも、確かにいい経験になった。
「さすが。サンブレストさんの教育方針は勉強になります」
松永は、彼や植田の事務所の名前を出すと、感心したように大きく頷いて続ける。
「――実はわたしも、今年マネージャーになったばかりの新人なんです。まだ現場に慣れなくて、さっきみたいに余計なことを言ったりもしちゃって……なかなか難しいですね」
恥ずかしいとばかりに、松永が肩を落とした。
けれどすぐに笑顔を取り戻し、彼に元気よく呼び掛ける。
「あの、職種は違いますけど、新人同士お互い頑張っていきましょう!」
「……はい」
「では松永さん、僕たちはこれで失礼します。一度、事務所に戻らないと」
彼は植田に連れられて、スタジオを出た。
そして、帰りの電車の中、もらった名刺を眺めながら彼女の名前を反芻する。
――松永ひなた、か。
彼はその名前を深く心に刻んだ。
1
月曜の朝は眠い。
松永ひなた。二十五歳、独身。
童顔で、仕事のときはほぼノーメイク。服装も、動きやすい長めのカットソーとカーゴパンツにスニーカーが定番スタイルという、年頃の女子としてはちょっと残念なのが、このわたしだ。
職業はマネージャー。フローライトプロダクションという芸能事務所で働いている。芸能事務所といっても、アーティスト部門も合わせて所属タレントが四十人に満たない小さな規模だ。
マネージャーは、わたしのほかにもう一人。二人しかいないの、と驚かれることもあるが、うちくらいの規模ならば、まあ妥当な人数なのではないだろうか。
だが、妥当とはいえ、毎週末休めるというわけではもちろんない。
所属タレントが出る舞台やイベントは土日に集中しているから、そのケアに当たった週は当然ながら休み返上。一週間働き詰めなんてザラで、代休を取れる日が酷く遠く感じる。
昨日もうちの新人女性声優四人が呼ばれたイベントのケアで、一日中付きっきりだった。しかもそのイベントというのが、マイクが内蔵されている着ぐるみを声優に着せ、歌って踊らせるという、何とも珍妙なもの。
暦の上では九月でも、着ぐるみのステージはとても気を使う。パフォーマンス中の着ぐるみの中の温度は、尋常じゃないほど高いからだ。
休憩時間ごとに彼女たちの首や背中に冷感シートを貼って、体調を崩さないよう一日中サポートに徹した。
「声優ってそんな仕事もやるの?」と思われそうだけれど、その通り。
アニメやゲームのイメージが強いが、現実には色んなジャンルの仕事をやらされる。
新人の間は特にそうだ。うちみたいな小さな事務所なら、なおさらそういう不思議な仕事が回ってきやすい。
彼女たちも、ウサギやタヌキの着ぐるみを着て踊るために声優を志したのではなかろうに……とは思うけれど、期待の大型新人でもない限り、声の仕事だけを選べないのが現状。これもステップアップのひとつとして、前向きに捉えてもらわなければ。
……いや、昨日の話はもういいとして、そんな週明けの朝。疲労困憊のわたしをイスから飛び上がらせるような知らせが、もたらされた。
「え、あの……も、もう一度仰って下さいます、か?」
「いや、私も突然のことで何だかよくわからないんだけどね」
同じマネージャーであり、わたしの六年先輩にあたる柏木さんが半信半疑といった風に続ける。
「あの桐生玲央が――今度、フローライトプロに移ってくるかもしれないんだって」
もう一度訊ねても、返ってくる答えは一緒だった。
「き、桐生玲央って……あの桐生玲央ですよね?」
「そう! あのサンブレスト所属だった声優、桐生玲央だよ」
「ええっ!?」
桐生玲央といえば、数々のアニメでヒーロー役を演じた実績がある、今、最も期待されている若手男性声優だ。
表現力豊かで、声優としての実力は申し分ない。それに加えて、凛として整った顔立ちをしているので、女性を中心に絶大な人気を誇っていた。
籍を置いていたプロダクションサンブレストも、声優部門を設けている芸能事務所としては、歴史のある大手だ。
一ヶ月ほど前、桐生さんがそのサンブレストを辞めたという噂が流れ、業界内に波紋を広げていたのだけど――弱小事務所のうちに移ってくるって……
「でも、それって本当ですか? もしかして聞き間違いとかじゃ……?」
「私もそう思って、社長に何度も確認したのよ。でも、本当みたい」
わたしよりも業界経験が豊富な柏木さんも同じ疑問を持ったらしい。四角い眼鏡のフレームを指で押さえながら首を傾げている。
「――で、まだ詳しいことはよくわからないんだけど、今日の午後に、桐生くん本人がその話をしにうちまで来るんだって」
「そ……そうなんですか」
「松永さん、午後はもともと事務所にいる予定だったよね?」
「はい、現場の予定は入ってません」
「じゃあ彼が来たら、同席よろしくね」
「わ、わかりました」
頷いて、腕時計で時間を見る。十一時過ぎか。
あと数時間もすれば、あの桐生玲央がこの事務所にやってくるのだという。しかも、移籍の話をしに。
「いやいや、まさか」と思わずにはいられない。何度も社長に確認したという柏木さんには申し訳ないけれど、やっぱり、何かの間違いなんじゃないだろうか。
ほんのちょっと前まで眠気と闘っていたというのに、完全に目が冴えてしまった。
わたしは疑う心を捨てきれないまま、約束のときを待った。
■□■
午後二時を過ぎたころ、噂の桐生玲央が事務所にやってきた。
人気声優の来訪に喜色を隠せない社長や浮き脚立つ柏木さんとともに、パーティションで区切られた応接スペースへ向かう。
「どうも、お待たせいたしました」
社長が声を掛けると、二組ある黒い長椅子の奥側に腰掛けていた男性が立ち上がった。白地のプリントTシャツの上に黒いジャケット。下はデニム。スラッとした立ち姿と、切れ長のクールな目が印象的だ。そのあまりのカッコよさに、ついじっと見入ってしまう。
「桐生玲央です。お時間を頂きましてありがとうございます」
男性はそう名乗って、まずは社長に深々と頭を下げた。
――やっぱり本物だ!
心の中で小さく叫ぶ。
作品で聴くよりも気取らない地声は、耳以上に心に響く。甘い音が印象的で心地いい。
「初めまして、フローライトプロダクションの社長、芦川祐史と申します」
社長が前に出て、桐生さんに名刺を差し出した。
社長の芦川さんは今年で五十歳。この業界の人にしては珍しく、おおらかで優しい雰囲気を纏った紳士だ。男性としては小柄で、長身の桐生さんと並ぶと頭一つ分も違って見える。
「は、初めまして。私がマネージャーの柏木圭子と――」
「松永ひなたです。よろしくお願いします」
柏木さん、そしてわたしの順番で、同じように名刺を渡していく。
今後、彼と深くかかわっていくのは、マネージャーであるわたしたち二人だ。
桐生さんは顔色一つ変えずにそれを受け取ったあと、何かに気がついた様子で「あ」ともらす。
「前の事務所を辞めてから、名刺がないんです」
その言葉に、わたしと柏木さんは思わず顔を見合わせてしまった。
前の事務所を辞めた――サンブレストを辞め、今はフリーの身だという噂は本当だったのだ。
「……あ、どうぞお掛け下さい」
社長が促すと桐生さんはもとの位置に、社長と柏木さんは彼の向かい側にそれぞれ腰を下ろした。桐生さんがガラスのテーブルの上に、今受け取った名刺を並べる。
わたしはというと、お茶の準備をするために、部屋の奥にあるウォーターサーバーへ移動した。脇にある棚からペーパーカップと紅茶のティーバッグを四人分取り出しながら、意識を長椅子のほうへ傾ける。
「えー、単刀直入に伺いますが、桐生さんは本気でうちへの移籍を考えていらっしゃるということで宜しいのでしょうか?」
まず社長が確認とばかりに訊ねた。何だかんだいって、社長も今の今まで本気にしていなかったという口調だ。
すると、桐生さんはあっさり「そうです」と答える。
「……あの、こんなことを申し上げるのも何なのですが、うちはサンブレストさんに比べて事務所の規模も小さいですし、取引先や所属タレントの数も圧倒的に少ないです。何らかの事情があって桐生さんがサンブレストさんをお辞めになられたとして、数多ある声優事務所の中でなぜうちを選んで下さったのか――その理由がわからず、正直に申し上げて困惑しております」
社長が、我が事務所の全員が思っているだろう疑問をストレートに投げかけた。
本当にその通りなのだ。彼がうちの事務所に移って来たとしても、今までのような華々しい仕事を提供できるわけではない。
東京の片隅にひっそりと存在するこのフローライトプロダクションは、声優やアーティストのマネージメントの他、各種音声の制作やそのキャスティングも行っている。けれど、まだ設立して十年と日が浅いせいか、所属声優たちの仕事もPCゲームの声やドラマCDといった音声媒体の作品が九割以上。一般の人が『声優』と聞いて真っ先に思い浮かべるような地上波アニメとのパイプはほとんどないのだ。
今までわたしが立ち会ったことのある地上波アニメはただ一つ。わたしがマネージャーになりたての三年前に放映されていた『ヘリオスの聖剣』だけだ。マネージャー歴四年にして一作品のみだなんて、その少なさがよくわかるだろう。
対するプロダクションサンブレストは都内の一等地に大きなオフィスを構える、声優界では老舗中の老舗。アニメ、外画――外国映画の吹き替えを指す言葉だ――、その他様々な映像作品の制作会社と繋がりを持ち、名だたる有名声優も籍を置く超有名事務所だ。その分、付属養成所から毎年入ってくる新人の数も業界一だけど、本当に実力がある人間しか残らない。声優にとっては、厳しい面もある。
けれど桐生さんはその競争に勝ち、こうしてしっかり自分の地位を作り上げてきたはず。
そんな彼がサンブレストを辞めてうちに移籍しても、メリットなんてないと思うのだけど……
「……フローライトさんを選んだ理由、ですか」
彼は長くて綺麗な指を組み、少し考えてから言った。
「僕は声優の仕事を始めてからずっと、サンブレストにお世話になってました。ですので、他の事務所のことは詳しく存じ上げないのが正直なところです。が、こちらは外でお会いする声優さん方が気持ちのいい人ばかりでした。ですから、事務所を変えて心機一転頑張っていくには、フローライトさんが相応しい場所だと思いました」
そこで一旦、会話が途切れる。わたしは紅茶の入ったペーパーカップをホルダーに取り付け、シュガースティックやミルクポーションとともにトレイに載せ、テーブルに持っていく。三人に配ったあと、自分の分を持って柏木さんの横に座った。
「なるほど。ただ、繰り返しになりますが、ご存知の通りうちはまだ歴史の浅い会社です。今まで桐生さんがご出演なさっていたような地上波のアニメや家庭用ゲームのキャスティングはもちろん、オーディションの情報すらもなかなか回って来ない状況です。……それでも、本当に宜しいんですか?」
「はい、承知してます」
更なる社長の問いに対しても、桐生さんは迷わずにそう返事をする。
「突然のご相談で驚かせてしまって恐縮ですが、とにかく事務所を離れた今、一刻も早く僕のマネージメントをしてくれる新しい場所が必要なんです。……こういう言い方をしては何ですが、こちらに所属させて頂ければ、今僕が呼ばれている現場と繋がりが持てると思います。それはフローライトさんにとって悪い話ではないはずです」
「そ、それはもちろん!」
柏木さんが、鼻息荒くフライング気味に言った。
「桐生さんがうちに入って下されば、大きな宣伝になりますし……うちの制作部も大助かりですよ。ねえ、社長?」
「ああ、そうだとも。今をときめく桐生さんがうちに――なんて、何だか夢を見ているみたいな話だなあ」
それなりに固い意思を持ってやってきたらしい桐生さんに、社長も柏木さんもミーハーな女子高生みたいにキャッキャと声を弾ませている。
「一両日中に正式な契約書をご用意致しますので、条件面など詳しいお話はそのときでも構いませんでしょうか?」
「はい。宜しくお願いします」
――嘘みたいだ。
書面での契約はまだだけど……あの人気声優の桐生玲央が、あっという間にうちの所属になってしまった。
棚からぼたもち、とばかりに手放しで喜ぶ社長と柏木さんを横目に、わたしは疑問を感じずにはいられない。何だか、妙だ。
すると、わたしが出した紅茶に、何も入れないまま口を付けた桐生さんが訊ねた。
「そういえば、フローライトさんにも自社スタジオがあるんですよね?」
七階建てのこのビルの一階と二階がフローライトのもので、二階はオフィス、一階は収録スタジオになっている。
「宜しければご覧になって行かれますか? 今でしたら、ちょうど収録もなく空いてますので」
「いいんですか?」
社長の提案に、桐生さんが嬉しそうに目を細める。
「ええ、どうぞどうぞ。――松永くん、スタジオに案内してもらってもいいかな?」
「は、はい。わかりました」
「これ、スタジオの鍵。私と柏木くんは書類を作らなきゃならないから」
社長から鍵を受け取って桐生さんに「宜しいですか?」と声を掛けると、彼は頷いて立ち上がった。
「どうぞ、ゆっくりご覧くださいね」
社長と柏木さんに見送られて、わたしと桐生さんは応接スペースを抜け、事務所の外扉を出た。
扉の向こうはすぐエレベーターが待ち構えている。わたしは逆三角形のボタンを押して、階数表示のランプを見上げた。
ランプは七のところで止まっている。このビルは古いせいか、エレベーターのスピードもとてもゆっくりだ。
わたしは、横に並んで待つ桐生さんの姿を横目で見ながら、やっぱり背が高いなあと思う。百八十センチはゆうにありそうだ。
百五十五センチに届かないわたしとしては、余計に差を感じてしまう。
それにしても、青天の霹靂とはこのことだ。わたしがマネージャーとして働き始めて四年目。一番驚いた出来事と言っても過言ではない。
アニメやゲームが好きな人なら、『CV(キャラクターボイス):桐生玲央』という表記を必ず一度は目にしたことがあるはずだ。しかも主人公ばかりで。もちろん、過去から現在までの彼の仕事すべてを知っているわけではない。けれど、少なくともわたしが見てきた作品では、そういう役柄が多かった。
ありふれた表現だけど、彼の声には華があるのだ。絶対的なヒーロー感とでもいうか。どんなキャラクターと同じ場面に出ていても、彼の台詞に意識を傾けてしまう……そんな魅力がある。
たとえるなら、世界を救うために旅をしている勇者とか、戦隊モノのレッドとか、そういう感じの――
「……あんたさあ」
考えごとをしていると、横にいた本人に話しかけられた。
「へっ、わたし……ですか?」
「あんた以外に誰がいるんだよ」
わたしの反応に、彼がくっくっとおかしそうに笑う。
それもそうか、とちょっと恥ずかしくなったところで、彼がわたしの顔をじっと覗きこむ。そして――
「……目の下にクマ、出来てる」
そう言いながら、わたしの右目の下まぶたを、浮かんでいるであろうクマのラインに沿って指先でなぞった。突然触れられ、おどろきのあまりその場で固まってしまう。
昨日、イベントで一日拘束された上、打ち上げがあったから……結局終電で帰ってきたので、あんまり眠れてないんだった。
もしかして心配してくれているのかな。なんて、有名声優の気遣いに感激していたのに――
「男遊びはほどほどにしたら?」
「なっ……!」
彼の口から放たれた言葉を聞いて我が耳を疑った。
彼が言わんとしていることを理解して、慌てて首を横に振る。
「ち、違いますっ、こ、これは、昨日イベントだったからっ」
「だろうね」
しどろもどろに否定すると、彼はあっさり頷いた。
「……?」
わたしが首を傾げると、桐生さんは形のいい眉を上げて肩を竦めた。
「だってあんた、色気ないもん」
「っ!!」
今度こそ、耳が壊れたと思った。けれど、驚きのあまり息を呑む自分の声はしっかりと聞こえてくる。
……な、何なの? この人、どうしてそんな失礼なことをっ……?
「あんた、見た感じオレと同じくらいの歳だろ。なら、歳に見合った化粧なり服装なりをしたほうがいいんじゃん? 仕事のためにもさ」
「…………!」
「あ、ほら。エレベーター来たけど?」
ようやく、上の階からエレベーターがやってきた。
「ど……どうぞ!」
「どーも」
こみ上げてくる怒りをぐっと堪えつつ、わたしはエレベーターの扉を押さえて桐生さんを促す。彼に続いて、わたしも乗り込んだ。
いくら彼が声優業界のスターだからって、初対面の女性に対してそういう言動はどうなんだろうか。神経を疑う。
応援ありがとうございます!
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