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1巻
1-2
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一階に着くと、わたしは無言のままスタジオの鍵を開ける。彼を招き入れ、明かりを点けた。
扉から入ってすぐの場所は、ウェイティングスペース。収録前後の声優さんが台本を確認したり、のんびりできるようにソファとテーブルのセットが置かれている。
自社スタジオとはいえ、いろいろな作品の収録が行われるから、外部の声優さんもよく訪れるのだ。
うちは比較的女性の声優さんが多いので、ソファは赤、テーブルは白というポップな色合いだ。脇にはウォーターサーバーやクライアントから頂いたお菓子などが置いてあり、自由に飲んだり、食べたりしてもらっている。
その向こう側が収録スタジオ。防音加工が施された分厚い扉の先には、パソコンやミキシングコンソール――複数の音をミックスして出力する機械だ――、スピーカーなどが置かれた調整室になっている。
更にその奥にある扉を開ければ収録ブースだ。四畳ほどの部屋の中央にはテーブルセットにヘッドホン、あとはカラオケにあるようなマイクよりも感度のいいコンデンサマイクがある。また、そのヘッドホンからリアルタイムに自分の声を確認する、『返し』の音量を調節するためのミキサーなどが置かれている。
「……サンブレストさんの収録スタジオに比べれば、見劣りすると思いますけど」
先ほどの怒りが冷めやらぬわたしは、精一杯の嫌味を言う。
『スタジオ』なんて大仰な言い方をしてしまうと、テレビで見るようなシステマティックなレコーディングスタジオを想像する人が多いと思うけれど、現実にはこんな風にビルやマンションの一室を利用したスタジオも珍しくはない。桐生さんがそういった狭い場所で仕事をしたことがあるかどうかは別として。
「まあ、サンブレストのスタジオはこれの三倍は広いからな」
彼に嫌味が通用すると思ったことが間違いだった。彼は調整室と収録ブースの中を一通り見回してから、ウェイティングスペースに戻ってくる。
「あの、桐生さん。ひとつ訊いてもいいですか?」
「何?」
「……うちに移ってくるって、本気なんですか?」
先ほどの彼の無礼な発言が引っ掛かっていた。ああいう言い方をしたのだから、わたしもある程度彼に切りこんでも許されるような気がして、ついつい訊ねてしまう。
「本気だけど、それが?」
彼は赤いソファの上にどっかりと腰を下ろすと、デニムを穿いた長い脚を組んでわたしを見上げた。
「社長や柏木さんは喜んでるみたいですけど、サンブレストの中でも特に売れっ子だったあなたがうちに来たところで、メリットなんてありませんよ?」
「もしかして怪しいとか思ってるわけ? 裏があるとか?」
そう言ったあとですぐに「ないない」と片手を振りながら、彼は苦笑いする。
「何か問題があっての移籍とか、そういうことはない。それは約束する」
「じゃあどうしてうちなんですか? というより、どうしてサンブレストを辞めてしまったんですか? あの事務所にいれば、桐生さんは前途洋々だったはずなのに」
他の大手に移るならまだしも、あえて磐石なサンブレストの看板を外して、うちに飛び込んで来る彼の気持ちがどうしても解せなかった。
彼は、感情の読めない笑みを浮かべて言う。
「それ、あんたに説明しないといけないこと?」
「いけないっていうか……わたしは、ただ――」
「別にいいじゃん。オレがフローライトプロに移籍すれば、オレもハッピー、フローライトプロもハッピーでウィンウィンだろ。変に勘繰る必要なんてないし、あんたもマネージャーなら素直に喜べば?」
桐生さんの言い分が間違っていないのはわかっている。
彼がこちらに移りたいと言っているのなら、歓迎するのがベストなんだろう。それは、うちの会社にとっても喜ばしいことなのだから。だけど。
「……あの、その言葉遣いはないんじゃないでしょうか」
「ん?」
「さ……さっきから失礼ですよ。わたしは『あんた』じゃなく、松永です。うちの子には、外の人間のみならず、事務所の中の人間に対してもきちんと敬意を払うように指導しています。サンブレストさんではどうだったかは存じ上げませんが、これからうちでお仕事を続けていくのであれば、そういう最低限のルールは守って頂きたいと思います」
口に出す直前まで迷ったけれど、とうとう言ってしまった。
相手が売れっ子声優なのは重々承知だし、わたしみたいなペーペーが盾突いていい相手じゃないのかもしれない。でも、うちの所属になる人なら話は別だ。
特別扱いはするべきじゃない――それが、わたしの仕事なんだから。
「へえ」
彼はわたしの反応を受けて、なぜかご満悦の様子だ。薄い唇が愉しげに緩い弧を描く。
「なかなか言うね。――で、話は終わり?」
ちょっと感心した風に言うと、桐生さんは全くこたえていない様子で立ち上がる。
ちゃんと伝わったのだろうか? 暖簾に腕押しの気分だ。
わたしは諦め気味に頷いた。
「……はい。終わりです」
……もういいや。考え方を変えよう。
声優のマネージメントはわたしと柏木さんの二人で行っているけれど、桐生さんの経歴を考えれば、わたしのような業界経験の浅い人間を仕事に同行させたりはしないだろう。今後の仕事への繋がりや他の声優の売り込みも考慮して、彼には柏木さんが専任でつくことになるに違いない。
なら、彼にとやかく言うのは柏木さんに任せて、わたしは黙っておこう。そうすれば、お互いに嫌な思いをしなくて済む。
「――そろそろ戻りましょうか。社長と柏木さんが待ってます」
自分の心の中にシャッターを下ろしてしまってからは、楽になった。わたしは桐生さんに声を掛けて、二階の応接スペースに戻った。
■□■
「スタジオはいかがでしたか?」
応接スペースに戻ると、社長は笑顔で桐生さんに声を掛けた。
「居心地のよさそうなところですね。長時間の収録でもリラックスして臨めそうです」
「それはよかった」
二人でスタジオについてしばらく語り合ったあと、社長は時計を確認して席を立った。
「そろそろ次の約束がありますので、私はこのあたりで失礼しますね」
「ありがとうございました」
桐生さんも立ち上がってそう言った。柏木さんやわたしも同様に席を立ち、互いに頭を下げる。
「あ、そうだ芦川さん」
応接スペースから出て外扉へと手を掛けた社長を、桐生さんが呼び止める。社長はドアハンドルを握った手を離して、こちらを振り向いた。
「何でしょう?」
「まだ契約の条件など、細かくお話ししていない段階で申し訳ないんですが、僕のほうから一つお願いしたいことがあるんです」
「おや、何でしょう?」
首を傾げる社長に向かって、桐生さんは不自然なくらい、いい笑顔でこう言った。
「――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです」
2
午後十一時。右手に通勤用のトートバッグ、左手にコンビニの袋をぶら下げて、わたしはマンションのエントランスを潜った。そして、ほどなくしてやって来たエレベーターに乗り込む。
『3』と書かれたボタンを押すとランプが点灯して、扉が閉まる。
そのときふと、昼間のことが頭を過り、わたしは盛大にため息を吐いた。
『――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです』
驚きのあまり言葉を忘れて口を開けるわたしに、桐生さんが声優雑誌のグラビアで見せるような無邪気な笑顔を向けた。その顔がまだ強く脳裏に焼き付いている。
……何でこんなことになっちゃったんだろう。頭が追いつかないよ。
三階の三〇三号室がわたしの部屋。築二十五年というそこそこ年季の入ったこの建物は、最寄駅から僅か二分という近さで選んだ物件だ。
北向きのため冬は寒いが、あまり日中家にいることもないので特に問題はない。それよりも駅近という要素を考えれば十分快適で、個人的には気に入っている。
扉を開けて玄関の明かりを点けると、朝、ゴミ置き場に持って行き忘れた可燃ゴミのポリ袋が鎮座していた。正確には、寝坊しかけたために運ぶ暇がなかったのだけど、意味的には大差ない。
明日は資源ゴミの日だ。仕方ない。ひとまずこのゴミ袋はベランダに運んでおこう。
室内に続く扉を身体で押し開けると、今度は照明を点けるため、扉と並ぶようにあるスイッチを肩で押す。照らし出されたのは、六畳ほどのスペースに、二畳半のキッチン。
わたしはポリ袋を抱えて、朝起きてそのままになっているベッドシーツや脱ぎっ放しの洋服の山の脇を通り過ぎた。途中で、ローテーブルに、トートバッグとコンビニ袋を置く。
もう秋だが、カーテンは夏全開の淡いオレンジ色をしたギンガムチェックだ。それを捲り、窓を開ける。外のひんやりした空気を感じつつ、洗濯物が干しっ放しのベランダにポリ袋を置き、また窓を閉めた。本当は洗濯物を取り込んだほうがいいんだろうけれど、そこまでの気力が残っていない。今日は――いや、いつもか。
ひと仕事終えたとばかりに息を吐くと、ようやく夕食の時間だ。ローテーブルに戻り、トートバッグをベージュのラグに下ろしてコンビニ袋の中を開ける。今日は、イライラしていたせいか味の濃いものが食べたいと思い、ミートソースドリアにした。
コンビニでもらったお手拭きで軽く両手を拭いてから、先割れスプーンのビニールを破り、プラスチックの容器を開けてドリアを口に運ぶ。
ローテーブルの正面に置かれたテレビの電源を点けると、ドラマが流れた。どうやら、ラブストーリーらしい。
けれど、内容なんてちっとも頭に入って来なかった。ドリアを必要以上に咀嚼しながら考えるのは、桐生玲央のあの言葉。
『――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです』
……何で、わたしを?
まるで意味がわからない。今日初めて会ったばかりだというのに、自分の担当にするだなんて。
社長も社長だ。「それで桐生さんのモチベーションが上がるなら」なんて言って、彼のスケジュール管理を全部わたしに任せるなんて。急に決められても困ってしまう。
極めつけは、彼がわたしに最後に放ったあの一言。
『ま、せいぜいオレの足を引っ張るなよ?』
――何よ、それ。経験不足なのは自分が一番よくわかってるけど、足手まといになると思うのなら、最初から指名なんてしなきゃいいのに!
ああ、頭が痛くなってきた。うちみたいな小さな事務所に桐生玲央が移籍するってだけでも大問題なのに、このわたしが彼の担当になるなんて。そんなの、フローライトプロに入社したときは想像もしていなかったよ。
そもそもわたしは、声優の世界にはとても疎い人間だった。
アニメもゲームも、興味がない。日本語吹き替えの映画を劇場やDVDで見たことがあるという程度。それらを陰で支える声優という仕事を意識したことなど、一度もなかったのだ。
そんなわたしがどうしてこの業界に入ったのかというと、理由は単純。大学四年の就職活動のとき、エントリーした企業に片っ端から『お祈りメール』――「採用は見送らせて頂きます。今後の活躍をお祈り申し上げます」というアレ――をもらい続け、最後に受けて採用されたのが、このフローライトプロだったから。
そのころ、うちはようやく芸能事務所兼制作プロダクションとして回り始めた時期。それにともない声優の数を急激に増やしていて、必然的にマネージャーも増やさなければ、という流れだったらしい。
どうにかこうにか念願の採用通知をもらったわたしだったけれど、喜んでばかりはいられなかった。声優という職業への認識が不十分だったので、それに関する知識も当然ながらゼロ。入社後は様々なアニメやゲーム、CDや携帯アプリなど、そのとき話題になっているものにひたすら目を通し、勉強する日々だった。
マネージャーというのは、四六時中声優にはりついているわけではない。オフィスでの業務に加え、クライアントへ売り込み営業に行くのも仕事の一つだ。出社時間は普通の会社よりも少しだけ遅いが、その代わりに飲み会などが入れば午前様なんて日も珍しくない。
そんな中で業界の知識を積み重ねていくのは本当に大変だった。そうやってがむしゃらに働いて四年目。そして――
『だってあんた、色気ないもん』
『あんた、見た感じオレと同じくらいの歳だろ。なら、歳に見合った化粧なり服装なりをしたほうがいいんじゃん? 仕事のためにもさ』
気がついたら、初対面の男性声優からあんな無礼な指摘を受けるくらい、余裕のない生活を送っていた。彼の言葉を思い出して、怒りが再燃する。
わたしはドリアを食べる手を止め、傍らに置いてあったお茶のペットボトルのキャップを捻り、一口含んで飲み込む。それから、ローテーブルの下に転がっていた折りたたみの鏡を拾い上げ、自分の顔を覗きこんだ。
確かに最近、仕事のときはほぼノーメイクだ。最初のころは社会人だからと気合を入れて、フルメイクを欠かさなかった。だけど、収録やイベントの付き添いで動き回るとすぐに崩れてしまうし、童顔で、化粧をしても劇的に大人っぽくなるわけではなかったから、「化粧なしでもアリか」と、楽なほうへと流れてしまった。
洋服だってそう。当初はスタジオや営業に回るクライアントに合わせて服の雰囲気を変えたりしていた。けれど、そのうちそんな時間もなくなってしまい、動きやすさ重視のスタイルとなっていた。
昼間、桐生さんにそうされたように、下まぶたにくっきりと浮かんだクマを人差し指の先でなぞる。
桐生さんが会社を訊ねてくる前に、インターネットでプロフィールを確認したから、彼の年齢は知っている。仰る通り、わたしは彼の一つ年下だ。
「……だからってあの言い方はないよね」
こっちだって、いっぱいいっぱいなんだもの。
鏡をローテーブルの下に戻して、今度は部屋の中を見回してみる。
惨憺たる有様は、まるで泥棒に入られたみたいだ。とても年頃の女性の部屋とは思えない。それこそ、桐生さんに見られでもしたら何と言われるやら。
わかっている。こんな生活のままでは絶対によくないって。
わかっているけど……でも、どうしようもないのだ。人間にはキャパシティというものがあって、一日の中で出来ることが限られている。
全てを上手くやろうなんて、そんなのどだい無理な話だ。何かを完璧にこなそうとしたら、何かが犠牲になる。
わたしにとって今最も成さなければならないことは自分に任された仕事であり、そのために切り捨てられるものはプライベートな時間しかない。
そう自分に言い聞かせながら、前を向いてテレビの画面を見遣った。主人公と思しき男女が、愛を囁き合っている。
――恋愛かあ。
学生時代は人並みに出会いがあり、素敵だと思う男の人と付き合ったこともあった。
社会人になったらコミュニティも広がるし、出会いのチャンスはさらに増えていくだろうと思っていたが、それは大間違いだった。いや、出会いが全くないわけではないけれど、それ以上に時間がない。たとえ誰かとお付き合いしても仕事に忙殺され、長くは続かなかった。
だから、たまの休みに会う友達から、恋人や結婚の話を聞かされると、自分とはまるで別世界の出来事のような……そう、こうしてテレビの画面を通して、物語を覗き見ているような気分になる。
『誰よりもお前を愛している。お前を幸せにできるのは世界中でたったひとり、俺だけだ』
先週、立ち会いで行った女性向け恋愛シミュレーションゲームの収録でも、似たり寄ったりなことを言っていたなあ。
愛の告白というのは、とにかく現実感がない。男性とあまり縁がないのに加え、仕事でそういう台詞を聞き慣れてしまっているからなのだろうか。
画面の中で歯の浮くような熱っぽい台詞を吐いている男性に、どこか白けた感情を抱いてしまった。わたしはテレビから意識を逸らして、再びドリアを食べ始める。
コンビニの味も違和感を覚えたのは最初だけ。今では、三食のうち二食はマンション最寄りのコンビニに頼っている。最後にキッチンに立ったのは、いつのことだろうか。すぐには思い出せない。
……考えれば考えるほど、憂鬱になってきた。わたしって、女性として終わってるよなあ。
普段は目を背けて考えないようにしていることを、わざわざ思い出させたのは桐生さんだ。本当、あの人、何なんだろう。
ムカムカした気分のまま食事を済ませると、さっそくシャワーを浴びようと立ち上がる。
明日、桐生さんが契約を結びにまた会社へやって来る。そのとき、今後の仕事の方針を含め様々な話し合いをすることになっているから、彼のプロフィールや出演情報に今一度目を通しておかなければならない。時間は効率よく使わなければ。
今日はすぐに休もうと思っていたのになあ、なんて思いつつ、それが叶わないのも慣れっこだ。わたしはタオルや着替えを取りにもう一度ベランダへと向かった。
■□■
翌日の午後四時。正式にフローライトプロとの契約を交わしに、桐生さんが事務所にやってきた。
社長に柏木さん、そしてわたしという昨日と同じメンバーで彼を迎えて、応接スペースに移動する。
配列も昨日と同じ。奥の長椅子に桐生さんが座り、その対面に社長、柏木さん、わたしの順だ。
契約書に記入と捺印をしてもらい、サンブレストさん側にも契約違反――たとえば、事務所を辞めてすぐには他の事務所に移ってはいけないとか、個人や事務所によってはそういう細かなルールが存在する――がないことを電話で確認を入れたのち、彼は晴れてうちの所属声優となった。
桐生玲央という名前は綺麗な音の響きからてっきり芸名なのだと思っていたけれど、どうやら本名らしい。契約書にサインした名前がそのまま同じだったので、スターというのは何から何まで洗練されているのだなあ、とこっそり思った。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
立ち上がり、改めて握手を交わす社長と桐生さん。その桐生さんが手を引っ込めると同時に、ちらりとわたしのほうを見る。
「――『松永さん』もよろしく」
わたしの名前の部分をやたら強調した言い方で、そう微笑む。
……昨日、わたしが注意したことを皮肉っているのだろうか。そりゃ、名前で呼んでくれるのはありがたいけど、いちいち癇に障る人だ。
「……よろしく、お願いします」
精一杯の笑みを浮かべたつもりだけれど、引きつってしまったかもしれない。
契約が終われば、本題である今後についての話し合いだ。
「これから一緒にお仕事をしていくにあたり、桐生さんのほうでこうしたいとか、何か希望があれば教えて頂きたいのですが」
社長が促すと、桐生さんはハッキリとした口調でこう述べた。
「まず、アーティスト活動からは身を引きたいと思っています」
意外な申し出に、社長も柏木さんも「えっ」という表情を浮かべた。御多分にもれず、わたしもだ。
声優・桐生玲央は、アーティストとしての活動も有名だ。自らが主演を務めるアニメやゲームの主題歌や挿入歌、キャラクターソングなど、本人名義でシングル五枚、アルバム二枚をリリースしていた。
ここ一年間ではライブ活動も盛んに行っていて、集客数も上々だったはず。なのに、どうして?
わたしたち三人が同じ気持ちで桐生さんを見る。すると、彼はわたしたちを順番に見つめ返しながら言った。
「僕は役者であって、歌手ではありません。今まではなるべく依頼された仕事は断らず、可能な限りやらせて頂くようにしていました。ですが、歌のプロではない僕がアーティストを名乗ることにはもともと抵抗がありました。ですから、今後はキャラクターソング以外の歌の仕事は、極力遠慮したい――というのが、素直な気持ちです」
わかりやすく言えば「歌はその道のプロが歌えばいい」ということか。
「うーん、何だかもったいない気がしますけどねえ」
寂しそうに呟いたのは柏木さんだ。
そうだった。彼女はもともと声優好きが高じてマネージャー業についた人だ。桐生さんのライブに行ったという話を聞いたこともある。わたしも、柏木さんに全面的に同意だ。
桐生玲央の華は声質に限ったことではない。その容姿だって大きな魅力だ。
スラリとした長身。直線的に伸びた眉。その下の一重で切れ長の挑むような目。少し面長で陰影のある顔立ちは、女性ファンの視線を釘付けにする。相当なイケメンだ。
声のイメージと実際の容姿とがなかなか噛み合わないこの世界では、期待を裏切ることのない貴重な存在だ。
他人の見た目を指摘するだけあって、自身も外見には気を遣っているらしい。トップスはダークグレーのVネックカットソーに、黒のテーラードジャケット。ボトムスはグレーと白のチェックチノで、やり過ぎない程度にオシャレに纏めている。
髪型も流行を押さえ、眉のラインで前髪を流し、サイドと襟足がタイトなショートヘアだ。色は清潔感のある黒。さっき彼の横を通ったら、整えた頭髪から香水なのかヘアワックスなのか、爽やかな香りがした。
楽な服を着て、伸びるままに放置してしまった髪をただ後ろで一つに纏めているだけのわたしとはわけが違う。
そういった外見も含めて彼の売りであるならば、それを利用すればいいのにとも思うのだけれど……
案外真面目な部分もあるんだなあ。
「まあ、桐生さんがどうしても気が進まないというのであれば、こちらとしても無理強いはいたしません。しかし、もし考えが変わることがあったら教えて下さいね」
「わかりました。ありがとうございます」
普通の事務所の社長であれば、ここでかなり粘るはずだ。
ところが、芦川社長はあくまで声優のモチベーションが一番という考え方なので、彼の言葉の通り、そういう無理を強いることはない。
「楽しいことならやったほうがいい、楽しくないことならやらなくていい」というのが彼の口癖だ。それがうちの事務所がなかなか育たない原因だったりもするのだけど、わたしはそういう考え方は嫌いじゃないし、そんな社長に付いていきたいという声優も多いから、悪くはないと思っている。
礼を言った桐生さんが、「それで」と次の話題を切り出した。
「僕がサンブレストを急に辞めたことで、繋がりのある制作会社やスタッフは少し警戒すると思うんです。現状、次のクールからのアニメの出演予定はゼロです。まあ、円満に別れた振りをして、裏でサンブレストが手を回しているのかもしれませんが」
次のクール……つまり、十月から始まるアニメのことだ。言うならば、彼は今『干されている』状態。大手の事務所にはそんな力があるのか――と、恐ろしく思う。
「こうなることは最初から覚悟した上での移籍だったので、それは構わないんです。本当に僕の演技に価値があるならば、少し時間が空いても必ず現場に呼んでもらえると信じてますから」
怯えるわたしに反して、桐生さんはとても落ち着いていた。他人事のようだとかそういうことではなく、今の自分の立場を客観的かつ冷静に見つめている。
そしてその冷静な口調のまま、彼は続けた。
扉から入ってすぐの場所は、ウェイティングスペース。収録前後の声優さんが台本を確認したり、のんびりできるようにソファとテーブルのセットが置かれている。
自社スタジオとはいえ、いろいろな作品の収録が行われるから、外部の声優さんもよく訪れるのだ。
うちは比較的女性の声優さんが多いので、ソファは赤、テーブルは白というポップな色合いだ。脇にはウォーターサーバーやクライアントから頂いたお菓子などが置いてあり、自由に飲んだり、食べたりしてもらっている。
その向こう側が収録スタジオ。防音加工が施された分厚い扉の先には、パソコンやミキシングコンソール――複数の音をミックスして出力する機械だ――、スピーカーなどが置かれた調整室になっている。
更にその奥にある扉を開ければ収録ブースだ。四畳ほどの部屋の中央にはテーブルセットにヘッドホン、あとはカラオケにあるようなマイクよりも感度のいいコンデンサマイクがある。また、そのヘッドホンからリアルタイムに自分の声を確認する、『返し』の音量を調節するためのミキサーなどが置かれている。
「……サンブレストさんの収録スタジオに比べれば、見劣りすると思いますけど」
先ほどの怒りが冷めやらぬわたしは、精一杯の嫌味を言う。
『スタジオ』なんて大仰な言い方をしてしまうと、テレビで見るようなシステマティックなレコーディングスタジオを想像する人が多いと思うけれど、現実にはこんな風にビルやマンションの一室を利用したスタジオも珍しくはない。桐生さんがそういった狭い場所で仕事をしたことがあるかどうかは別として。
「まあ、サンブレストのスタジオはこれの三倍は広いからな」
彼に嫌味が通用すると思ったことが間違いだった。彼は調整室と収録ブースの中を一通り見回してから、ウェイティングスペースに戻ってくる。
「あの、桐生さん。ひとつ訊いてもいいですか?」
「何?」
「……うちに移ってくるって、本気なんですか?」
先ほどの彼の無礼な発言が引っ掛かっていた。ああいう言い方をしたのだから、わたしもある程度彼に切りこんでも許されるような気がして、ついつい訊ねてしまう。
「本気だけど、それが?」
彼は赤いソファの上にどっかりと腰を下ろすと、デニムを穿いた長い脚を組んでわたしを見上げた。
「社長や柏木さんは喜んでるみたいですけど、サンブレストの中でも特に売れっ子だったあなたがうちに来たところで、メリットなんてありませんよ?」
「もしかして怪しいとか思ってるわけ? 裏があるとか?」
そう言ったあとですぐに「ないない」と片手を振りながら、彼は苦笑いする。
「何か問題があっての移籍とか、そういうことはない。それは約束する」
「じゃあどうしてうちなんですか? というより、どうしてサンブレストを辞めてしまったんですか? あの事務所にいれば、桐生さんは前途洋々だったはずなのに」
他の大手に移るならまだしも、あえて磐石なサンブレストの看板を外して、うちに飛び込んで来る彼の気持ちがどうしても解せなかった。
彼は、感情の読めない笑みを浮かべて言う。
「それ、あんたに説明しないといけないこと?」
「いけないっていうか……わたしは、ただ――」
「別にいいじゃん。オレがフローライトプロに移籍すれば、オレもハッピー、フローライトプロもハッピーでウィンウィンだろ。変に勘繰る必要なんてないし、あんたもマネージャーなら素直に喜べば?」
桐生さんの言い分が間違っていないのはわかっている。
彼がこちらに移りたいと言っているのなら、歓迎するのがベストなんだろう。それは、うちの会社にとっても喜ばしいことなのだから。だけど。
「……あの、その言葉遣いはないんじゃないでしょうか」
「ん?」
「さ……さっきから失礼ですよ。わたしは『あんた』じゃなく、松永です。うちの子には、外の人間のみならず、事務所の中の人間に対してもきちんと敬意を払うように指導しています。サンブレストさんではどうだったかは存じ上げませんが、これからうちでお仕事を続けていくのであれば、そういう最低限のルールは守って頂きたいと思います」
口に出す直前まで迷ったけれど、とうとう言ってしまった。
相手が売れっ子声優なのは重々承知だし、わたしみたいなペーペーが盾突いていい相手じゃないのかもしれない。でも、うちの所属になる人なら話は別だ。
特別扱いはするべきじゃない――それが、わたしの仕事なんだから。
「へえ」
彼はわたしの反応を受けて、なぜかご満悦の様子だ。薄い唇が愉しげに緩い弧を描く。
「なかなか言うね。――で、話は終わり?」
ちょっと感心した風に言うと、桐生さんは全くこたえていない様子で立ち上がる。
ちゃんと伝わったのだろうか? 暖簾に腕押しの気分だ。
わたしは諦め気味に頷いた。
「……はい。終わりです」
……もういいや。考え方を変えよう。
声優のマネージメントはわたしと柏木さんの二人で行っているけれど、桐生さんの経歴を考えれば、わたしのような業界経験の浅い人間を仕事に同行させたりはしないだろう。今後の仕事への繋がりや他の声優の売り込みも考慮して、彼には柏木さんが専任でつくことになるに違いない。
なら、彼にとやかく言うのは柏木さんに任せて、わたしは黙っておこう。そうすれば、お互いに嫌な思いをしなくて済む。
「――そろそろ戻りましょうか。社長と柏木さんが待ってます」
自分の心の中にシャッターを下ろしてしまってからは、楽になった。わたしは桐生さんに声を掛けて、二階の応接スペースに戻った。
■□■
「スタジオはいかがでしたか?」
応接スペースに戻ると、社長は笑顔で桐生さんに声を掛けた。
「居心地のよさそうなところですね。長時間の収録でもリラックスして臨めそうです」
「それはよかった」
二人でスタジオについてしばらく語り合ったあと、社長は時計を確認して席を立った。
「そろそろ次の約束がありますので、私はこのあたりで失礼しますね」
「ありがとうございました」
桐生さんも立ち上がってそう言った。柏木さんやわたしも同様に席を立ち、互いに頭を下げる。
「あ、そうだ芦川さん」
応接スペースから出て外扉へと手を掛けた社長を、桐生さんが呼び止める。社長はドアハンドルを握った手を離して、こちらを振り向いた。
「何でしょう?」
「まだ契約の条件など、細かくお話ししていない段階で申し訳ないんですが、僕のほうから一つお願いしたいことがあるんです」
「おや、何でしょう?」
首を傾げる社長に向かって、桐生さんは不自然なくらい、いい笑顔でこう言った。
「――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです」
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午後十一時。右手に通勤用のトートバッグ、左手にコンビニの袋をぶら下げて、わたしはマンションのエントランスを潜った。そして、ほどなくしてやって来たエレベーターに乗り込む。
『3』と書かれたボタンを押すとランプが点灯して、扉が閉まる。
そのときふと、昼間のことが頭を過り、わたしは盛大にため息を吐いた。
『――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです』
驚きのあまり言葉を忘れて口を開けるわたしに、桐生さんが声優雑誌のグラビアで見せるような無邪気な笑顔を向けた。その顔がまだ強く脳裏に焼き付いている。
……何でこんなことになっちゃったんだろう。頭が追いつかないよ。
三階の三〇三号室がわたしの部屋。築二十五年というそこそこ年季の入ったこの建物は、最寄駅から僅か二分という近さで選んだ物件だ。
北向きのため冬は寒いが、あまり日中家にいることもないので特に問題はない。それよりも駅近という要素を考えれば十分快適で、個人的には気に入っている。
扉を開けて玄関の明かりを点けると、朝、ゴミ置き場に持って行き忘れた可燃ゴミのポリ袋が鎮座していた。正確には、寝坊しかけたために運ぶ暇がなかったのだけど、意味的には大差ない。
明日は資源ゴミの日だ。仕方ない。ひとまずこのゴミ袋はベランダに運んでおこう。
室内に続く扉を身体で押し開けると、今度は照明を点けるため、扉と並ぶようにあるスイッチを肩で押す。照らし出されたのは、六畳ほどのスペースに、二畳半のキッチン。
わたしはポリ袋を抱えて、朝起きてそのままになっているベッドシーツや脱ぎっ放しの洋服の山の脇を通り過ぎた。途中で、ローテーブルに、トートバッグとコンビニ袋を置く。
もう秋だが、カーテンは夏全開の淡いオレンジ色をしたギンガムチェックだ。それを捲り、窓を開ける。外のひんやりした空気を感じつつ、洗濯物が干しっ放しのベランダにポリ袋を置き、また窓を閉めた。本当は洗濯物を取り込んだほうがいいんだろうけれど、そこまでの気力が残っていない。今日は――いや、いつもか。
ひと仕事終えたとばかりに息を吐くと、ようやく夕食の時間だ。ローテーブルに戻り、トートバッグをベージュのラグに下ろしてコンビニ袋の中を開ける。今日は、イライラしていたせいか味の濃いものが食べたいと思い、ミートソースドリアにした。
コンビニでもらったお手拭きで軽く両手を拭いてから、先割れスプーンのビニールを破り、プラスチックの容器を開けてドリアを口に運ぶ。
ローテーブルの正面に置かれたテレビの電源を点けると、ドラマが流れた。どうやら、ラブストーリーらしい。
けれど、内容なんてちっとも頭に入って来なかった。ドリアを必要以上に咀嚼しながら考えるのは、桐生玲央のあの言葉。
『――松永さんを、僕の担当マネージャーにしてもらいたいんです』
……何で、わたしを?
まるで意味がわからない。今日初めて会ったばかりだというのに、自分の担当にするだなんて。
社長も社長だ。「それで桐生さんのモチベーションが上がるなら」なんて言って、彼のスケジュール管理を全部わたしに任せるなんて。急に決められても困ってしまう。
極めつけは、彼がわたしに最後に放ったあの一言。
『ま、せいぜいオレの足を引っ張るなよ?』
――何よ、それ。経験不足なのは自分が一番よくわかってるけど、足手まといになると思うのなら、最初から指名なんてしなきゃいいのに!
ああ、頭が痛くなってきた。うちみたいな小さな事務所に桐生玲央が移籍するってだけでも大問題なのに、このわたしが彼の担当になるなんて。そんなの、フローライトプロに入社したときは想像もしていなかったよ。
そもそもわたしは、声優の世界にはとても疎い人間だった。
アニメもゲームも、興味がない。日本語吹き替えの映画を劇場やDVDで見たことがあるという程度。それらを陰で支える声優という仕事を意識したことなど、一度もなかったのだ。
そんなわたしがどうしてこの業界に入ったのかというと、理由は単純。大学四年の就職活動のとき、エントリーした企業に片っ端から『お祈りメール』――「採用は見送らせて頂きます。今後の活躍をお祈り申し上げます」というアレ――をもらい続け、最後に受けて採用されたのが、このフローライトプロだったから。
そのころ、うちはようやく芸能事務所兼制作プロダクションとして回り始めた時期。それにともない声優の数を急激に増やしていて、必然的にマネージャーも増やさなければ、という流れだったらしい。
どうにかこうにか念願の採用通知をもらったわたしだったけれど、喜んでばかりはいられなかった。声優という職業への認識が不十分だったので、それに関する知識も当然ながらゼロ。入社後は様々なアニメやゲーム、CDや携帯アプリなど、そのとき話題になっているものにひたすら目を通し、勉強する日々だった。
マネージャーというのは、四六時中声優にはりついているわけではない。オフィスでの業務に加え、クライアントへ売り込み営業に行くのも仕事の一つだ。出社時間は普通の会社よりも少しだけ遅いが、その代わりに飲み会などが入れば午前様なんて日も珍しくない。
そんな中で業界の知識を積み重ねていくのは本当に大変だった。そうやってがむしゃらに働いて四年目。そして――
『だってあんた、色気ないもん』
『あんた、見た感じオレと同じくらいの歳だろ。なら、歳に見合った化粧なり服装なりをしたほうがいいんじゃん? 仕事のためにもさ』
気がついたら、初対面の男性声優からあんな無礼な指摘を受けるくらい、余裕のない生活を送っていた。彼の言葉を思い出して、怒りが再燃する。
わたしはドリアを食べる手を止め、傍らに置いてあったお茶のペットボトルのキャップを捻り、一口含んで飲み込む。それから、ローテーブルの下に転がっていた折りたたみの鏡を拾い上げ、自分の顔を覗きこんだ。
確かに最近、仕事のときはほぼノーメイクだ。最初のころは社会人だからと気合を入れて、フルメイクを欠かさなかった。だけど、収録やイベントの付き添いで動き回るとすぐに崩れてしまうし、童顔で、化粧をしても劇的に大人っぽくなるわけではなかったから、「化粧なしでもアリか」と、楽なほうへと流れてしまった。
洋服だってそう。当初はスタジオや営業に回るクライアントに合わせて服の雰囲気を変えたりしていた。けれど、そのうちそんな時間もなくなってしまい、動きやすさ重視のスタイルとなっていた。
昼間、桐生さんにそうされたように、下まぶたにくっきりと浮かんだクマを人差し指の先でなぞる。
桐生さんが会社を訊ねてくる前に、インターネットでプロフィールを確認したから、彼の年齢は知っている。仰る通り、わたしは彼の一つ年下だ。
「……だからってあの言い方はないよね」
こっちだって、いっぱいいっぱいなんだもの。
鏡をローテーブルの下に戻して、今度は部屋の中を見回してみる。
惨憺たる有様は、まるで泥棒に入られたみたいだ。とても年頃の女性の部屋とは思えない。それこそ、桐生さんに見られでもしたら何と言われるやら。
わかっている。こんな生活のままでは絶対によくないって。
わかっているけど……でも、どうしようもないのだ。人間にはキャパシティというものがあって、一日の中で出来ることが限られている。
全てを上手くやろうなんて、そんなのどだい無理な話だ。何かを完璧にこなそうとしたら、何かが犠牲になる。
わたしにとって今最も成さなければならないことは自分に任された仕事であり、そのために切り捨てられるものはプライベートな時間しかない。
そう自分に言い聞かせながら、前を向いてテレビの画面を見遣った。主人公と思しき男女が、愛を囁き合っている。
――恋愛かあ。
学生時代は人並みに出会いがあり、素敵だと思う男の人と付き合ったこともあった。
社会人になったらコミュニティも広がるし、出会いのチャンスはさらに増えていくだろうと思っていたが、それは大間違いだった。いや、出会いが全くないわけではないけれど、それ以上に時間がない。たとえ誰かとお付き合いしても仕事に忙殺され、長くは続かなかった。
だから、たまの休みに会う友達から、恋人や結婚の話を聞かされると、自分とはまるで別世界の出来事のような……そう、こうしてテレビの画面を通して、物語を覗き見ているような気分になる。
『誰よりもお前を愛している。お前を幸せにできるのは世界中でたったひとり、俺だけだ』
先週、立ち会いで行った女性向け恋愛シミュレーションゲームの収録でも、似たり寄ったりなことを言っていたなあ。
愛の告白というのは、とにかく現実感がない。男性とあまり縁がないのに加え、仕事でそういう台詞を聞き慣れてしまっているからなのだろうか。
画面の中で歯の浮くような熱っぽい台詞を吐いている男性に、どこか白けた感情を抱いてしまった。わたしはテレビから意識を逸らして、再びドリアを食べ始める。
コンビニの味も違和感を覚えたのは最初だけ。今では、三食のうち二食はマンション最寄りのコンビニに頼っている。最後にキッチンに立ったのは、いつのことだろうか。すぐには思い出せない。
……考えれば考えるほど、憂鬱になってきた。わたしって、女性として終わってるよなあ。
普段は目を背けて考えないようにしていることを、わざわざ思い出させたのは桐生さんだ。本当、あの人、何なんだろう。
ムカムカした気分のまま食事を済ませると、さっそくシャワーを浴びようと立ち上がる。
明日、桐生さんが契約を結びにまた会社へやって来る。そのとき、今後の仕事の方針を含め様々な話し合いをすることになっているから、彼のプロフィールや出演情報に今一度目を通しておかなければならない。時間は効率よく使わなければ。
今日はすぐに休もうと思っていたのになあ、なんて思いつつ、それが叶わないのも慣れっこだ。わたしはタオルや着替えを取りにもう一度ベランダへと向かった。
■□■
翌日の午後四時。正式にフローライトプロとの契約を交わしに、桐生さんが事務所にやってきた。
社長に柏木さん、そしてわたしという昨日と同じメンバーで彼を迎えて、応接スペースに移動する。
配列も昨日と同じ。奥の長椅子に桐生さんが座り、その対面に社長、柏木さん、わたしの順だ。
契約書に記入と捺印をしてもらい、サンブレストさん側にも契約違反――たとえば、事務所を辞めてすぐには他の事務所に移ってはいけないとか、個人や事務所によってはそういう細かなルールが存在する――がないことを電話で確認を入れたのち、彼は晴れてうちの所属声優となった。
桐生玲央という名前は綺麗な音の響きからてっきり芸名なのだと思っていたけれど、どうやら本名らしい。契約書にサインした名前がそのまま同じだったので、スターというのは何から何まで洗練されているのだなあ、とこっそり思った。
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
立ち上がり、改めて握手を交わす社長と桐生さん。その桐生さんが手を引っ込めると同時に、ちらりとわたしのほうを見る。
「――『松永さん』もよろしく」
わたしの名前の部分をやたら強調した言い方で、そう微笑む。
……昨日、わたしが注意したことを皮肉っているのだろうか。そりゃ、名前で呼んでくれるのはありがたいけど、いちいち癇に障る人だ。
「……よろしく、お願いします」
精一杯の笑みを浮かべたつもりだけれど、引きつってしまったかもしれない。
契約が終われば、本題である今後についての話し合いだ。
「これから一緒にお仕事をしていくにあたり、桐生さんのほうでこうしたいとか、何か希望があれば教えて頂きたいのですが」
社長が促すと、桐生さんはハッキリとした口調でこう述べた。
「まず、アーティスト活動からは身を引きたいと思っています」
意外な申し出に、社長も柏木さんも「えっ」という表情を浮かべた。御多分にもれず、わたしもだ。
声優・桐生玲央は、アーティストとしての活動も有名だ。自らが主演を務めるアニメやゲームの主題歌や挿入歌、キャラクターソングなど、本人名義でシングル五枚、アルバム二枚をリリースしていた。
ここ一年間ではライブ活動も盛んに行っていて、集客数も上々だったはず。なのに、どうして?
わたしたち三人が同じ気持ちで桐生さんを見る。すると、彼はわたしたちを順番に見つめ返しながら言った。
「僕は役者であって、歌手ではありません。今まではなるべく依頼された仕事は断らず、可能な限りやらせて頂くようにしていました。ですが、歌のプロではない僕がアーティストを名乗ることにはもともと抵抗がありました。ですから、今後はキャラクターソング以外の歌の仕事は、極力遠慮したい――というのが、素直な気持ちです」
わかりやすく言えば「歌はその道のプロが歌えばいい」ということか。
「うーん、何だかもったいない気がしますけどねえ」
寂しそうに呟いたのは柏木さんだ。
そうだった。彼女はもともと声優好きが高じてマネージャー業についた人だ。桐生さんのライブに行ったという話を聞いたこともある。わたしも、柏木さんに全面的に同意だ。
桐生玲央の華は声質に限ったことではない。その容姿だって大きな魅力だ。
スラリとした長身。直線的に伸びた眉。その下の一重で切れ長の挑むような目。少し面長で陰影のある顔立ちは、女性ファンの視線を釘付けにする。相当なイケメンだ。
声のイメージと実際の容姿とがなかなか噛み合わないこの世界では、期待を裏切ることのない貴重な存在だ。
他人の見た目を指摘するだけあって、自身も外見には気を遣っているらしい。トップスはダークグレーのVネックカットソーに、黒のテーラードジャケット。ボトムスはグレーと白のチェックチノで、やり過ぎない程度にオシャレに纏めている。
髪型も流行を押さえ、眉のラインで前髪を流し、サイドと襟足がタイトなショートヘアだ。色は清潔感のある黒。さっき彼の横を通ったら、整えた頭髪から香水なのかヘアワックスなのか、爽やかな香りがした。
楽な服を着て、伸びるままに放置してしまった髪をただ後ろで一つに纏めているだけのわたしとはわけが違う。
そういった外見も含めて彼の売りであるならば、それを利用すればいいのにとも思うのだけれど……
案外真面目な部分もあるんだなあ。
「まあ、桐生さんがどうしても気が進まないというのであれば、こちらとしても無理強いはいたしません。しかし、もし考えが変わることがあったら教えて下さいね」
「わかりました。ありがとうございます」
普通の事務所の社長であれば、ここでかなり粘るはずだ。
ところが、芦川社長はあくまで声優のモチベーションが一番という考え方なので、彼の言葉の通り、そういう無理を強いることはない。
「楽しいことならやったほうがいい、楽しくないことならやらなくていい」というのが彼の口癖だ。それがうちの事務所がなかなか育たない原因だったりもするのだけど、わたしはそういう考え方は嫌いじゃないし、そんな社長に付いていきたいという声優も多いから、悪くはないと思っている。
礼を言った桐生さんが、「それで」と次の話題を切り出した。
「僕がサンブレストを急に辞めたことで、繋がりのある制作会社やスタッフは少し警戒すると思うんです。現状、次のクールからのアニメの出演予定はゼロです。まあ、円満に別れた振りをして、裏でサンブレストが手を回しているのかもしれませんが」
次のクール……つまり、十月から始まるアニメのことだ。言うならば、彼は今『干されている』状態。大手の事務所にはそんな力があるのか――と、恐ろしく思う。
「こうなることは最初から覚悟した上での移籍だったので、それは構わないんです。本当に僕の演技に価値があるならば、少し時間が空いても必ず現場に呼んでもらえると信じてますから」
怯えるわたしに反して、桐生さんはとても落ち着いていた。他人事のようだとかそういうことではなく、今の自分の立場を客観的かつ冷静に見つめている。
そしてその冷静な口調のまま、彼は続けた。
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