誘惑*ボイス

ichigo/小日向江麻

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1巻

1-3

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「それに僕はもともと劇団出身ですし、アニメという媒体にはこだわっていません。たまたまチャンスがあったのがアニメーションだったというだけで、演技さえできれば、場所はどこだっていい。サンブレスト時代に経験したことのないジャンルも、どんどん挑戦していきたいと思ってます」

 インターネットで調べたプロフィールによると、彼は児童劇団出身の子役だったらしい。片手で数えられるくらいの歳から舞台を中心に活躍していたが、進路に迷っていた二十二歳のとき、所属していた劇団の演出家の勧めにより声優に転向したようだ。

「とはいえ、桐生さんの今までの活躍はアニメが基盤だったわけですよね。アニメの出演本数は人気のバロメーター的なところがありますし、そこは可能な限り繋げておいたほうがいいような気もするのですが……」

 柏木さんが口を挟むと、桐生さんは腕を組みながら「うーん」と小さくうなる。

「僕、アニメの仕事に固執する必要性は感じてないんですよね。ワンクール分、決まった日、決まった時間の拘束が入るじゃないですか。そういうのが新しいチャレンジのかせになるようなら、減らしてもらっても問題ないというか」

 おやおや、と頭に疑問符を浮かべたのはわたしだけじゃないはずだ。
 声優養成所の門戸を叩く九割以上の志望者が、アニメという媒体での活躍を夢見ているというのに――この人も不思議なことを言う。
 競争の激しいこの世界で勝ち残り、一定の地位を築き上げた彼が次にすべきことは、その地盤を安定させることだ。イコール、その場所で踏ん張り続けることが目標なのだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい。
 声優さんといえど役者さん、イコール芸能人なので、よく言えば天真爛漫てんしんらんまん、悪く言えば我儘わがままで気分屋な人が多いというのはうすうす感じていた。彼の場合もそうなんだろうか。
 遊びつくしたおもちゃに興味を示さなくなる子供のように、もうアニメは飽きたから、違う仕事――みたいな。
 だとしたら前言を撤回しなければ。案外真面目だなんて、早とちりだったのかも。
 何を考えているんだかよくわからない。こんな人のマネージメントをすることに、少し気が重くなった。
 彼はそれから、当面のスケジュールが空いていること。演技が出来ない時間を作るのが何よりも嫌だから、声優業であるならNGなしでどんな仕事でも受けることを告げ、わたしたちはそれを了承した。
 桐生さんくらいのポジションなら、『こういう仕事しか受けない』と壁を作ってしまうことも簡単なのだけれど、彼も今の自分が仕事を選べる立場でないことは理解しているらしい。わたしたちとしてもそのほうが仕事を振りやすいから、大変助かる。

「こちらのほうで営業が掛けられそうなところには、資料を送って反応を見てみます。次の仕事が決まり次第、松永くんからご連絡いたしますので、しばらくお待ちください」
「はい」

 芦川社長の言葉を終わりの合図として、わたしたち四人は長椅子から立ち上がった。そのとき。

「おっ疲れさまでーっす」

 歌でも口ずさむかのようなテノールとともに、事務所の扉が開いた。

「あれー? 誰もいなーい。野口のぐちさーん? 柏木さーん? 松永さーん?」

 野口さんというのは制作部の社員さんだ。桐生さんとの話し合いを始める前はデスクにいたはずだけれど、もしかしたら遅いランチに向かったのかもしれない。

「はーい」

 わたしは柏木さんに目配せをしてから応接スペースを抜けて、声の主のもとへと向かった。顔を見なくても、この軽薄な口調で誰なのかは想像がつく。
 わざとらしく額の上に手のひらを当て、誰かを探すようなジェスチャーをしていたのは近衛このえ雅臣まさおみ。フローライトプロのアーティスト部門に籍を置く歌い手だ。

「ごめんね、今お客さまがいらしてて――どうしたの?」

 いや、正確に言えばもうお客さまではないのだけど、いちいち説明するのも面倒だ。説明を適当に切り上げ、用件を訊ねる。

「あ、松永さん! お疲れさまでーっす」

 近衛くんはわたしの顔を見た途端、そう言って笑みを浮かべた。そして、アッシュグレーに染めた、くせ毛風の柔らかそうなパーマヘアを手ででつけながら言う。

「んーと、七月にオープニング楽曲を歌ったゲームの製品が届いたって連絡を柏木さんからもらったんでー、取りに来たんですけど……」
「ゲーム? 何てタイトルです?」

 指先でいじっていた毛先をピンと弾きながら、彼が小さくうなる。

「……えーと、何だったかな……『虹の――』……いや、違うな。『虹は――』……ううん、その、虹が光ってどーたらこーたらみたいな」
「……はぁ」

 呆れてため息がもれる。
 自分がかかわった作品名くらい覚えておいてほしい。というか、レコーディングしたなら覚えているはずでしょうと突っ込みたくなる。けれど、常にとぼけているみたいな近衛くんに言っても無駄だと思って、口をつぐんだ。

「ちょっと待っててくださいね」

 おそらくアレだろうという製品が思い当たった。わたしは、オフィス奥にある野口さんのデスクを見に行く。そして、書類や収録台本などの脇に無造作に積んであるゲームの山を調べた。
 ……あった、これだ。
 わたしはあるPCゲームのパッケージを選んで手に取り、再び彼の前に戻った。

「これじゃない?」
「そーそ、コレ! 『七色の虹が輝くとき』!」

 近衛くんはわたしが差し出したゲームを見て、「思い出した」とでも言うように小さく叫んだ。淡いブルーのパッケージには、学生服らしきコスチュームに身を包んだ二次元の男の子たちが七人並んでいる。
 これは、主人公の女の子と、ここに描かれているいずれかの男の子との恋愛物語を楽しむ、女性向け恋愛シミュレーションゲーム――俗に言う乙女ゲームというやつだ。男性キャラはもちろん女性キャラもフルボイス仕様。確か専門誌での紹介によると、現代ファンタジーの学園モノだったはず。
 気前がいいメーカーさんだと、こうしてキャストや歌い手ひとりひとりに完成品を送ってくれたりする。
 自分がたずさわった作品の完成品を見るのはやはり嬉しいのだろう、近衛くんはご機嫌な様子で、いそいそと自分のバッグにしまっていた。

「どう? これ、売れそう?」

 ブランドモチーフのプリントが賑やかなヴィヴィアンのボストンバッグのジッパーを閉めながら、近衛くんが少し声を潜めた。

「どうですかね。でも結構大きいメーカーさんだし、そこそこ売れるんじゃないかと思いますが」
「だといいなー。ほら、何千本売れると第二弾が出るとかってあるじゃん。そしたら、また使ってもらえるかなーってさ」
「じゃあ、そうなるようにブログとかツイッターで宣伝よろしくお願いしますね、近衛くん」
「わかってるってー」

 任せておけとでも言うように、彼が自分の胸を叩いた。

「……近衛?」

 わたしが近衛くんとそんなやりとりをしていると、応接スペースのほうから怪訝けげんそうな声が聞こえてきた。桐生さんだ。

「あれ、その声……」

 近衛くんも何かに気がついた様子で、応接スペースのパーティションの中をそっと覗く。そして、そこに桐生さんの姿を見つけると、彼はぴょんと中に足を踏み出して歓声を上げた。わたしもそちらへと移動する。 

「えっ、玲央じゃん! すげー久しぶりー!」
「珍しい苗字だと思ったらやっぱりお前か」

 桐生さんもやや驚いた様子で立ち上がり、それからワンテンポ遅れて小さく微笑む。

「近衛、何してるんだ?」
「僕さあ、今ここで歌の仕事してるんだよねー。そう言う玲央はどうしたの、収録?」

 どうやら二人は知り合いのようだ。
 桐生さんは「いや」と首を横に振って答える。

「てことは、またお前と一緒なのか」
「え?」

 きょとんとする近衛くん。

「――桐生さんは、先ほど正式にフローライトプロ所属になったんだよ」
「あっ、社長と柏木さんっ、お疲れさまです――って、えええー!?」

 手前に居た二人の存在にいまさら気がついたらしい。
 近衛くんはわざとらしいほどに明るい声で挨拶をしてから、社長の言葉に身体をのけらせて驚く。

「何それ、マジ? だって玲央、天下のサンブレストで頑張ってたんじゃ……」
「ひと月前まではな」
「えー、そうなの? 超びっくりしたわー……なら噂は本当だったんだな」
「噂?」

 桐生さんが怪訝けげんそうに訊ねる。

「いや、玲央がサンブレストを辞めたかもって話を、ウチの声優から聞いたことがあったんだよ」
「あの、桐生さんと近衛くんはどういう知り合いなんですか?」

 意外な二人の接点が気になって訊ねてみる。すると、彼らは顔を見合わせた。

「ああ、僕と玲央は昔、同じ児童劇団にいたんですよー。僕はミュージカル中心で玲央は現代劇が多かったから、あんまり仕事はかぶらなかったんですけど、仲はよくて――なあ?」

 答えたのは近衛くんだ。同意を求めるように桐生さんに訊ねる。

「悪くはなかった」
「素直じゃねーなあ。よく稽古場けいこばから一緒に帰った仲じゃーん?」
「それはお前がオレのあとをしつこくくっ付いてきてたからだろ」
「一緒に帰ったことには変わりないだろーが」

 口をとがらせる近衛くんの顔を見て、おかしそうに笑う桐生さん。口ではそんなことを言いながら、やはり親しかったようだ。
 そういえば近衛くんも子役出身だったんだっけ。近衛くんの担当は柏木さんなので、わたしは彼の経歴に関してはあまり詳しくない。

「いやー、まさかまた玲央と同じ拠点で仕事することになるとはね。期待してるぜ」
「何をだよ」
「仕事に決まってるだろー。アニメにゲームに引っ張りだこのお前がいれば、うちの事務所もうるおうってわけだよ。お前きっかけの案件で何か歌わせてもらえることもあるかもしれないし」

 近衛くんも、色んな意味で桐生さんの移籍を歓迎しているようだった。近衛くんが組んだ両手を後頭部に回して、天井を仰ぐ。

「でもサンブレストがよく売れっ子のお前を手放したよなー。何かやったの?」
「そんなんじゃない」
「えー、気になるなあ。絶対何かあったんだろー」

 まるで小学生の女子が友達に好きな人を訊ねるみたいな口調の近衛くんを、「さあな」とかわす桐生さん。何かあったとも何もなかったとも取れる表情をしていた。

「――ま、いいや。込み入った話なら帰り道でいくらでも聞くぜ? 僕、今日は製品を受け取りに来ただけだから、暇なんだ」
「オレは暇だなんて一言も言ってないだろ」
「そう言わずにー。久々の再会なんだからさ、どっかその辺で茶ーでもしてこうぜ。お前の用事も終わりだろ?」
「…………」

 桐生さんはわたしや柏木さん、そして社長に視線で訊ねた。社長は垂れ目の瞳を細め、頷きながら二人に言う。

「私たちの話はもう済みましたから、どうぞ行ってらっしゃい」
「よしっ。社長からの許可も出たし、行こうぜ。――それじゃ、お疲れさまでしたー!」
「おい、近衛っ……」

 近衛くんはガッツポーズをすると、悪戯いたずらっ子みたいに駆け足で事務所を出て行った。

「――全く、オレを置いて行ってどうするんだよ、アイツは。……お疲れさまでした。今日はこれで失礼します」

 残された桐生さんはやれやれと困ったような口調でぼやいた。そして、扉の向こうにいるだろう近衛くんの様子を気にしながら、長椅子の横に置いていたバッグを拾い上げて、頭を下げる。
 社長と柏木さんが「お疲れさまです」と言うのにならって、わたしも同じ挨拶を返しながら、内心で少しホッとしていた。
 昨日のエレベーター前での発言により、桐生さんってもっと傍若無人ぼうじゃくぶじんな性格なのかと思っていた。でも、こうして近衛くんに翻弄されているところを見ると、案外親しみやすい部分も持ち合わせているのかも、と。
 ビジネスパートナーとして、これから彼とどうやって良好な関係を構築していけばいいか、悩ましかったけれど、あんまり考えすぎないほうがいいのかな。
 なんて思った直後。去り際の桐生さんが、気を抜いていたわたしの耳元でこうささやいた。

「――次に現場で会うときは、化粧と服、な? よろしく」
「……っ!」

「じゃ」と手を上げて出ていく彼は、悪戯っぽく笑っていた。
 ううう。やっぱりこの人、苦手かも……
 晴れたと思った矢先に、また不安という名の霧がもやもやと立ち込める。

「あら松永さん、もう桐生くんと打ち解けたの?」
「相性がいいようで、よかったですねえ」

 わたしと彼のやりとり――というか、彼が一方的に言い逃げしていっただけなんだけど――の、どこをどう解釈したらそういう判断になるのか。社長と柏木さんは微笑ましいとばかりに、うんうんと頷いている。

「……そ、そうだといいんですけど」

 わたしは乾いた笑い声をもらすことしかできなかった。



    3


 突然大手を辞めたワケあり声優とはいえ、それでも桐生玲央を使いたいというクライアントはすぐに見つかった。
 彼と所属契約を交わしてから一週間も経たないうちに、わたしは桐生さんのフローライトプロでの初めての収録に同行することとなった。
 時間は午後五時から。場所は、都内近郊にあるブルーリーフスタジオ。関係者の間では通称「青スタ」と呼ばれていて、歌のレコーディングからラジオ収録まで様々な用途で使われるスタジオだ。
 最寄りの地下鉄駅から青スタまでは、十分もかからない。
 うちでは所属声優たちに、収録時間の十五分前までにはスタジオに入ってもらうようにしている。なので、桐生さんとは四時半に駅の改札で待ち合わせをすることにした。
 わたしは他の声優の収録現場から直接駅に向かったので、約束の時間の十分前に到着してしまった。
 わかりやすいように、案内版の前で彼の到着を待とうか――と、改札を出たところで、

「おい、こっち」

 と、右側に並ぶ券売機のあたりから、ぶっきらぼうに声を掛けられる。目を向けると、マスクをした桐生さんがいた。
 声優はその名の通り声が命。乾燥する季節の外出時、彼らは常にマスクをしている。

「あ、桐生さん。もう着いてたんですね」

 なぜかと問われると特に理由はないけれど、なんとなく彼は定刻ギリギリにやってきそうな気がしていた。かなり時間に余裕を持って現れた彼に感心し、そう明るく声を掛ける。

「着いてたんですね、じゃないだろ」
「……?」

 券売機を背に腕を組む桐生さんの眉間に、しわが寄っている。
 何だろう。あまり機嫌が宜しくないようだ。今の発言に、彼の神経を苛立たせるようなワードが含まれていたのだろうか。

「――あのさ、オレが言ったこと、全然理解してないだろ?」
「な、何がですか?」
「説明しなきゃわかんない?」

 わからない――と答えたいけれど、そうはいかない雰囲気だ。首を傾げる桐生さんの、苛立ちと呆れが半々ずつくらいの表情を見つめて、必死に正解を探す。

「化粧。服。……次はちゃんとして来いって言っただろ?」
「――あっ」

 そうだった。
 指摘されていきどおっていたのはつい最近だったはずなのに。
 慌ただしい日常の波に流され、あっという間に記憶の彼方かなただった。

「あっ、あの、ここのところ他の子の収録の同行や飲み会が続いて、それで……」
「言い訳はいい」

 小さく息を吐いたあと、彼は首を横に振って続ける。

「別にあんたがどう思われようと構わないよ。オレはさ、あんたがキッチリしてないことでオレが損するかもしれないってことを気にしてるの」
「べ、別に桐生さんは――」
「関係ないと思う? でも、クライアントやスタジオの人間って結構そういうところまで見てるもんだよ。あんただって逆の立場で考えたらわかると思うけど、末長く仕事を任せるとしたら、社会人としての礼節をわきまえてる人間のほうがいいだろ? そういうこと」
「…………」

「そんなことを言われても」と言い返したくなるけれど、こらえる。
 わたしが担当している声優は彼だけではない。収録の同行が増えれば、その分残業してオフィスでの業務をこなさなければならなくなる。今週は本当に忙しくて、申し訳ないけれどそこまで手が回らなかったのが実情だ。
 けれど、桐生さんにそれを言っても伝わらないだろう。彼は声優で、わたしはスタッフ。立場が違えば、考え方や優先順位も違う。

「つ、次からは……気をつけます」

 自分自身も、決してこれでよしとは思っていない。
 ――だからだろうか。いつもの機能性重視だけどシンプルすぎるスタイルが急に恥ずかしくなってきた。
 素直に謝ると、彼はあっさり納得したのか、「ん」とだけ言って、出口の階段へ歩き始めた。


    ■□■


 しょぱなでいきなり桐生さんに注意を受け、この先はどうなることかと思ったけれど、そこはやはりプロ。

「おはようございます。今日は宜しくお願いします!」

 収録の二十分以上前に現場である青スタに到着し、外扉をくぐると、彼はそれまでわたしに見せることのなかったにこやかな笑顔で、エンジニアさんに挨拶をする。

「おー、玲央。久しぶりだな」
「ご無沙汰してます、和久井わくいさん。また呼んでもらえて嬉しいです」
「いやいや。急だったし、逆にごめんな」

 青スタの責任者であり、今回のディレクター兼エンジニアの和久井さんは、大柄で、口元やあご無精ぶしょうひげを蓄えた、一見強面こわもて風の男性。音響制作の仕事にたずさわる前は、ジャズバンドのドラマーをやっていたらしい。
 この青スタでは主にPCゲームやドラマCDの収録が多い。
 わたしがマネージャーとして働き始めたばかりのときは、音楽畑の人がアニメや映像といった案件を扱うのは不思議な気がしていた。けれど、他のスタジオにも顔を出すにつれ、ミュージシャンからエンジニアに転向するパターンはそんなに珍しくないことに気づく。
 というのも、ミュージシャンは耳がいいのだ。同じ場所で聞いているわたしが気づかないくらいの、些細ささいなリップノイズや鼻の鳴りにすぐ反応し、リテイク指示を出している。だから、声を扱う仕事にとても向いているのだ。
 親しげな雰囲気から察するに、どうやら桐生さんは過去に和久井さんと仕事をしたことがあるらしい。
 彼はウェイティングスペースのソファにバッグを置くと、その中から台本とミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
 スタジオと名のつくところのほとんどにウォーターサーバーが設置されているけれど、彼は水を持ち歩いているらしい。
 声優によっては、このメーカーの水だと上手く口が回るとか、逆に回らないとかがあるみたいだ。おそらく軟水とか硬水とか、そういうのが関係しているんだと思う。

「――しかし、玲央がこういう案件を引き受けてくれるとは思わなかったからさ。こっちとしてもすごくありがたいよ」

 和久井さんが心底助かったという風に顔をほころばせる。
 実際、依頼から収録までがこんなに近いのはまれだ。それだけ急ぎの内容だったのだろう。
 そして「こういう案件」とは、今回の台本を指している。
 これから収録するのは、女性向けの作品。
 おおまかな筋書きはこうだ。
 さる王国の姫君は、隣国の王子と婚約を結んでいる。けれど、それは国のための政略結婚というやつで、実は姫君には他に想い人がいた。
 その想い人を演じるのが桐生さん。彼女に仕える騎士ナイト役だ。騎士もまた同様に、姫君のことを愛おしく思っていた。けれど、一国の姫と騎士では身分が違うため、お互い気持ちを打ち明けることができない。
 翌日には、姫君は生まれ育った祖国を離れてとついでしまう。姫君を諦めきれない騎士は、その夜、姫君のしとねを訪れ、その純潔を奪う――という物語。
 端的に言ってしまえば、台詞せりふの八割が濡れ場だ。聴き手が『姫君』の立場となり、耳だけで、そういうドラマチックかつエロチックなシーンを体感するのだ。商品化された際、十八歳未満は当然購入できない。

「こういう仕事、やったことないだろ?」

 和久井さんが訊ねる。アニメの世界で活躍している人は、こういった仕事を敬遠することが多い。けれど、先日事務所で台本を受け取り一読した桐生さんは、好奇心に目を輝かせていた。

「初めてですけど、まあ見てて下さいよ。ちゃんと期待にはお応えするんで」
「お、言ったな。じゃ、早速お手並み拝見といくか。準備しな」

 自信ありげに桐生さんが答えると、和久井さんはガハハと笑って、収録ブースへと続く扉を指差した。
 青スタはウェイティングスペースの中に調整室がある。ミキサーが置いてあるデスクと収録ブースの間は透明の防音ガラスで隔てられていて、ウェイティングスペースから収録ブースの中を見られるようになっているのだ。

「はい」

 桐生さんは返事をすると、台本やミネラルウォーターを持って、小窓がついている分厚い扉を開ける。そして、防音ガラスの中にあるテーブルセットに座ると、台本の最終チェックに入った。
 弾む二人の会話に区切りがついたのを見計らい、今度はわたしが和久井さんに挨拶をする。

「本日はどうぞ宜しくお願いします」
「おー、松永ちゃん。ごめんねー、何だか慌ただしくて」

 収録に備え、彼もミキサーの前の椅子に腰掛けながら言う。

「いえ。ご連絡してからすぐにお仕事が頂けて、桐生本人も喜んでました」
「しかしフローライトさんにとってはラッキーだったね、玲央を引き抜くなんてさ。どんな手使ったの?」
「ひ、引き抜いたりなんてしてませんよー。うちにそんな力ないですっ」

 しかも天下のサンブレストから――そんなことしたらひどいしっぺ返しに遭いそうだ。わたしはぶんぶんと両手を振った。

「うちとしても、何が何だかわからない状態でして……」
「へえ、そうなの」
「でも、桐生さんが何かを求めてうちに来てくれたなら、それに応えて全力でサポートして行こうって、他のスタッフとも話しているところです」

 彼の声は多くの人に認められ、愛されている。今フローライトうちが彼のために出来ることは、サンブレスト時代とまではいかなくても、なるべく多く、彼が演じられる機会を与えることだ。それは、社長や柏木さんと誓ったことでもある。

「なるほどね。……まあ、こういう感じの仕事でよければうちから回せるからさ。クライアントも喜ぶしね」
「ありがとうございます。今後とも宜しくお願いします」

 わたしは改めて和久井さんに頭を下げた。

「じゃ、まあぼちぼち始めますかね。玲央、準備はいいか?」
「はい、いつでも大丈夫です。……今日は、クライアントさんはいらっしゃらないんですか?」

 トークバックボタンを押して和久井さんが桐生さんに呼びかけると、スピーカーから彼の声が返ってきた。
 収録ブースは当然ながら余計な音が入らないようになっているから、ディレクションなどで意思の疎通をするときには、その都度つどこうしてこのボタンを押し、連絡用の出力をオンにする必要がある。

「地方のクライアントだから、立ち会いなしだ。キャストがお前だって伝えたら驚いてたぜ。『桐生さんなら間違いないでしょうから、彼にお任せします』だと。『キャストが桐生さんだって知ってたら、立ち会いに行ってたのに』とも言ってた。お前、相変わらず人気だな」
「それはそれでプレッシャーかも」
「どこがだよ。まっ、リラックスしてやってくれよ」

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